恋う


 彼女から香る僅かに甘いにおいにこの場に合わせた潮の香り。海の見える喫茶店のテラス席で太陽に照らされて眩しそうに少し細められたその目の中にはきらきらと海が煌いている。海の上から吹いてきたであろう風が彼女の頬を撫でた。海を眺める彼女のその横顔を僕は眺めている。
 頬杖まで突いた自然体で緩やかな時間の流れを楽しむ彼女を見つめたままに、僕は無糖のコーヒーを飲んだ。彼女の手元のアイスティーのグラスは水滴の汗をかいている。世界規模でどうとはいわないがそれでも、世界はとても平和だと感じた。
「海が綺麗だね」
「そうだね。とても綺麗だ」
 呟くように共感を求めた彼女のその言葉に返事を返してから、僕もが見る方へと視線を向けてから頷きもう一度綺麗だと言った。鼓膜を震わせる潮騒も、肺に塩辛い潮の香りも、きらきらと眩しくも美しいその海は、あの時には見られなかったものだ。たぶん昔、果てしも無く途方も無いほど遠い過去、いつかの時を生きた壁の中では見ることのできなかった海。それを知りつつ見る僕と、知らずにそれでもそうとして見る彼女。やはり僕にとって世界はとても平和だ。
、僕さ、お前に前世の話をしたことがあったじゃないか」
 彼女の顔が僕を正面から見て、その瞳の美しさを一層に僕は知る。
 僕はこの生の中で一度だけ彼女に自分の前世というものを話したことがある。壁や巨人に訓練兵や憲兵団。自分の死んだ記憶があるその前世の話を簡潔に話したことがある。深く話せなかったのは過去、それも今の生には関係の無いほどの過去だというのにそれでもそれが現実に胸に穴が空いてしまうのでないかというほどに心臓を痛めつけるからだ。
「そのとき僕は言わなかったけど、その、僕はを知っていたんだ」
「わたしを?」
「うん。名前も容姿も性格も今のお前と同じで、そうじゃなかったとしても僕は自信を持ってその時出会ったであると言える。あぁ、年齢としては今のお前よりは幼かったけどさ」
「……そっか、わたしはマルコとずっと昔にも会ったことがあったんだね」
 どこか恥ずかしそうに笑む彼女のその表情を見ていると、なんだか僕自身も気恥ずかしいような気がして雀斑が浮いているであろう頬を指先で掻いた。
「うん、会ったことがあった。と、いうかその、僕はのことが好きだった。いや好きで、というかなんというか……」
 いくつかあるからどの言葉を選べば良いか少し迷う唇に彼女は小首を傾げるようにして僕に聞く。
「わたしとマルコは恋人同士だったの? 今みたいに」
「そう、かな」
 告げることができずに片思いであったときのことを思い出して少し苦い笑いが浮かびそうになる。
「そのわたしはマルコのどこが好きになったのかな? 今のわたしと同じなのかもしれないね。例えば雀斑の浮いたほっぺにキスしたくなったのかもしれないよ」
 テーブルに上半身を乗り出すようにしたに僕は、彼女の悪戯心を熱で赤くなりそうな頬で嗜めた。
「とにかく、僕はを好きなんだ」
「うん、知ってる。わたしもマルコのこと好きだよ」
 いつかの日も同じ言葉のやりとりをしたと胸が手の平の中にやわく握りこまれたように感じた。それは締め付けられたようでもあり、手の中の温度を分かち合ったように温かくもあり、彼女を嗜めたばかりだというのに自分から彼女のその唇に自身のものを押し当てたいと思うばかりで。
「ふとした瞬間だったり、ちょっとした事件――とはいっても大事ではないんだよ、そんな時だったり、気付いたら寄り添っていたり、僕はに恋したんだ」
 から僕を好きだと言ってくれたいつかの日を思った。そして僕はいつかの日のその時を思って悲しくなった。僕の話を聞く彼女の瞳の中の僕は泣きそうでもあった。
「僕は、お前の死を見たことがあるんだ」
 僕の唇は少し震えていた。それを抑え込むようにして引き結んで、僕は睫毛を俯かせるようにして視線をテーブルへと下げた。
 少しだけ、僕とには沈黙の時間があった。
「マルコはその時もわたしの側にいてくれたんだね」
「……うん、いたよ。僕はずっとお前の手を握ってた」
「そう……」
 こんなにも空気は塩辛い。僕がテーブルの上へと預けていた手へと彼女は自身の手を伸ばしてきて触れた。彼女の指先の温もりから手の平全体の温もりに、少しだけ冷えていた僕の肌が温められる。まるで子供をあやすように弾み叩かれたそれは大丈夫だという彼女のそれだ。
「だったら、わたしの最期はそう悲痛なものじゃなかったよ。今ここにいるわたしがマルコのことを大好きなように、その時マルコの側にいたわたしもあなたのことが大好きだったはずだから」
 視線を上げると僕の好きな笑みをいっぱいに広げたがいる。少しだけ泣きそうだ。多分目には涙が浮かんでいるだろう、僕はそれをどうにか平常へと戻そうと深く呼吸を繰り返した。
 僕は何度もあの時代を繰り返した。何度もとの別れを繰り返した。繰り返す自分自身の死よりそれが何より苦しいものだった。彼女に恋するから苦しいのだと思った生もあったし、それでも彼女を思い続けた生だった。
 そうだ、僕は何がどうなろうとが好きだ。愛しているのだ。
 僕に大丈夫だと促した彼女の手を反対の手で覆いその薬指を撫でた。そうしてから、戻した片手をそのまま自身のポケットへと差し込んだ。励ます彼女の手の熱を感じながら、僕は指輪の入った小箱を指の腹で撫でた。