おやすみ、よいゆめを


 それは舌の上に甘いようなやわらかな空気で、疾うに脈打つことを止めていたはずだった心臓のその再び刻み始めた鼓動と、深く肺に吸い込んだ空気に覚えた目眩が瞬きを繰り返させた。
 嗚呼、やはり空気が舌上にやわく甘い。
 短い瞬きの間に暗闇は色を得て、そして確かに色のある景色が広がっている事実。闇も目眩も拭い去ったマルコの視界に広がるそれは鮮明であるがぼやけて虚ろ気だ。両極にあるそれに一度二度、瞼を閉ざしてその場所を指先で擦ってみる。擦ってみるも変わらぬ景色は蛍が飛んでいるような淡い光がちらつき、それに混じるように薄桃色の花弁がひらひらと舞って落ちていく。
 花弁の行く先を見ているとマルコは自身が水面の上に立っていることに気付いた。小さな動作の驚きで、足裏を水面から浮かせて見ればそこにできた波紋から、ひとつふたつと新たに生まれた波紋が花弁を乗せて何処へやら。ゆらゆらゆらりと旅を始めた。
 そうだ、旅に出ねばならぬ。
 しかし、何処へ迎えというのだろうか。すん、と鳴らした鼻の先を掠めた花弁がまた一つ水面に落ちて、沈んで、その姿を消した。薄眩い景色はずっとずっと遠くまで続いてるようで、それでも見える先で終わっているようで、仰いだ天の高さも測り知れぬ。はらはらと花弁が何処からかやってきて、蛍のような光が彼の雀斑の浮いた頬を掠めて消える。
 マルコを誘うような光が一つ、彼の周りをくるくるりと舞い飛んだ。徐に差し出した手の平の上に乗ったそれは重さはなく、ほんの少し温かい。捕まえようと思ったではないが、人差し指から順に折り畳むようにしていった彼に光は再び浮かび上がった。ゆっくりと握り締めた手の中にまだ温もりが残っているようで、それでも開けば何もない。光は弾むように水面を跳んで、それに着いて行くようにマルコは足を踏み出した。
 景色は何れも変わらない。

 どれくらい歩んだのだろうか。それは長い間だろうか、短い間だろうか。どちらにせよ、それを計る物差しを作るのは無粋で無駄だ。人によりけり、感性の違い。

 薄眩さに視界を狭めて幾度めか、ふとした視界には確かに彼以外の誰かがいた。
「おはよう」
 少女の声色がマルコの鼓膜をくすぐる。追っていた光が跳ねた先で彼女の手の内に乗って、またその宙に飛ぶ。光の眩さにゆっくりとした瞬きを二度してから、彼は言葉を紡ぐ。彼自身も知らぬ内に笑んでいた頬のまま。
「うん、おはよう」
「覚えてないくせに、何をそんなに」
 覚えが無くとも紡いだその言葉に間違いは感じなくて、そうしたマルコの笑みの先で彼女もまた笑んでいた。
 舌の上と肺の中にある空気の甘さにつきん、とマルコの胸が痛んだ。

 それは大きな蓮の花だ、舞う花弁より色の濃い桃色の。そこに二人腰掛けて、ひとつふたつとどちらともなく話し出せば見下げた水面にその姿が鏡面を覗き込んだように映っている。そこを横切る波紋に揺れる花弁が旅を旅をと急かすばかりでそれでいてぶらぶらと揺れる彼女、の足先が話の続きを早く早くと囃し立てる。
 舌先で濡らした唇が甘い。笑んで、時に嬉しそうに時に悲しそうに、マルコの話へと耳を傾ける彼女の表情と花弁を思わせる色彩の唇に、少しだけ話し口を休めた彼が濡らした唇はやはり甘い。きっと、彼女の唇もどこか甘いのだろう。手の平の下の蓮の花の表面はすべすべとしている。
「うん、やっぱり、甘いね」
 それは季節を待ち望んだ花のように、さぁっと薄紅色に色付いたの頬。それでも彼女の唇の方がより紅いとばかりな二度目の触れ合いもまた水面に映っては花弁が二人の周りでくるくるりと回ってみせる。

 薄眩いそこに流れる水は、時の代わりなのかもしれぬ。枯れることなど素知らぬ顔で咲き誇る蓮の花。その逢瀬の下に流れていく花弁は旅へ出る。行き先知らずに旅に出る。
 やはり、旅に出ねばならぬ。
 蓮の花に腰かけて、脚をぶらりぶらりと揺らしてみてはしらんぷり。

「やっぱり、駄目かな?」
「駄目だよ」
 呟くように問うてみたマルコの声には囁くように返事した。
「会えないのかな?」
「会えないよ」
 囁くように問うてみたマルコの声には呟くように返事した。
 何処かへ流れていく花弁を見下ろしていたマルコの向けた視線と、淡く光る蛍のようなそれを見上げていたの向けた視線が、互いに向き直した所為でこつんとぶつかった。
「それでも、行くしかないのかな?」
「それでも進まなければいけないよ、マルコは」
 ゆるりとした瞬きをひとつ、ふたつ。彼女の大きな瞳から零れた涙はぽちゃん、と水面に吸い込まれた。できた波紋に花弁も揺れる。
「ずっと、ずっと一緒にいたいね。いれたら、いいね。ずっとずっと思ってるけれど、ずっとずっと思うことしかできないね」
 ずぅっと手を繋いでいようか、抱き締めていようか。
 蓮の花弁をうんと集めてふたりぼっちに囲ってしまおうか。
 水面の下に一緒に沈んで拒絶してしまおうか。
 何も、何も知らぬ振りして目と耳を塞いでいようか。
 ずっとずっと、思っているけれど、ずっとずっと思うことしかできないと。
「怖くなった?」
「いいや、愛されてるなと思ったんだ」
「そう」
「愛してるよ」
「そうっ」
 素っ気無い声色でも上ずった言葉尻。笑ったマルコの頬にそれ仕返しだと己の唇を押し付けたに二人して頬を紅くしたその姿ばかりが水面に映る。

「私はずっとずっと待ってるよ」

 そして、旅に出ねばならぬ。

「おやすみ、
「おやすみ、マルコ」 
 おやすみと言った、それはさよならを言うように。
「さよなら、
「さよなら、マルコ」
 さよならと言った、それはおやすみと言うように。

 波紋に揺られる花弁はゆらゆらゆらりと船旅、穏やかな水の流れに鼓膜もゆれる。それは大きな蓮の花の花びらで、それは水の流れる先へと辿り着くための舟で、それは見上げた先の薄眩さの所為にした涙に濡れた頬で。生まれいずる、その場所へと向かう旅の途中に出会う彼女に、そこでしか出会えない彼女に向けた、涙が。
 濡れた視界の宙にも、変わらぬ薄桃色の花弁がひらひらと舞っては落ちてくる。そうして閉じた瞼。舌の上と肺の中にある空気の甘さにつきん、と胸が痛んだ。

 それは大きな蓮の花だ、舞う花弁より色の濃い桃色の。そこに一人腰掛けて。そして生まれる世界が君に幸せでありますように、よいゆめを。語ってくれるその日まで。