ゴーストラプソディ
私がマルコ・ボットという人物を一個人として意識したのはつい最近のことだ。長いようで短かった訓練兵としての三年間が終わった後の後、唐突もない出来事の前に意識せざるを得なくなったともいえる。
訓練兵団時はまったくもって意識してなかったのかと問われれば、私は肯定の意味で頷く。決して彼の存在感が薄いだとかではなかった、それは本当だ。マルコという人物は人柄も良く、同期の訓練兵の間でも信頼に熱く評判も良かったし、無理に粗を探し出そうとしなければ悪目立ちするような所は無かった。
ただ、私とは接点が無かっただけなのだ。とはいっても同期であるし、訓練時に顔を合わせることもあればそれ以外の自由時間や当直の番を共にしたことも組み合わせの巡り合わせでまったくなかったというわけでもない。そういう意味での接点は確かにあった。それでも、特に彼を一個人として意識したことはなかったとはっきりといえる。
しかし、いってみれば彼が特別そうだったというわけでもない。私が意識していなかったのは、という話だ。訓練兵を主席で卒業したミカサ・アッカーマンや口を開けば巨人、駆逐、のエレン・イェーガー、その他同期に聞けば名の挙がるであろう人物その他諸々。彼ら或いは彼女ら、知らない人でもないのだが、先のマルコ同様に接点が無かった。意識したことがなかった。
意識、意識と私が使うその言葉が本来の意味を持たずに別の意味を隠しているかのように思われそうだ。少なくとも、私自身は一般的に使われているであろう意味で使っているつもりだ。
軽く瞑っていた瞼を押し上げて開けた視界。窓枠の向こうには何があるだろうか。そこには地面が在り木が在り空が在り、細かく言っていけばもっと口にすることになるだろう何かが在る。その地面を、木を、空を、意識するだろうか。草植物に覆われた地面だとか細く痩せた枝の木々だとか壁以上に高くある空だとか、そうした意識はするだろうが、そういうことではないのだ。その存在を、一つ一つの存在を、考え言及し根元まで知ろうとするだろうか。労力を費やそうとするだろうか。上手く、上手く言えない。兎に角私は、地面を、木を、空を、薄く曇った硝子越しに見ているだけなのだ。
漠然と、漠然と私は生きてきた。流されるように生きてきた。世論に流されて訓練兵になり、憲兵団になれればいいなと思いながらも死ぬ気といえるほどには訓練に身を入れてこなかった。サボったり手を抜くなんてことはしなかったが、なれればいいなに値するやりようだったと今も思う。
当たり前のように私の成績では上位十名に名を入れることは出来なかった。そうか、しょうがない。駐屯兵団を志願するとするか。脳裏に浮かぶことなどこの位だ。私の世界はどうも硝子越しだ。
壁に穴が開いた。至近距離ではないが確かに私の視界の中には超大型巨人がいた。悪夢だ。実際は目の覚める思いで、いっぱいいっぱいに見開いた目の乾燥にだって微塵も気をやることはできなかった。
もしかすると、あの時硝子に亀裂が入ったのかもしれない。それは抽象的に、心象的に、精神的に……?
事実は自分でも、よく、判らない。
ただ切実にそこにあった事実は憲兵団に志願することができないままに駐屯兵団に志願するつもりだった私が何故か調査兵団所属を望む群の中に残ったという事実だった。横目に見たのは初日から憲兵団志願を口にしていたジャン・キルシュタインで、彼の親友であったマルコ・ボットを含む亡骸を燃やす炎の色とえげつない臭気がその夜の彼の決意の言葉と共に私の記憶として脳裏に掠めた。
自己嫌悪を覚えないでもない。流されるように漠然と生きてきた私だが、死にたがりの自殺志願者ではないのだから、生存率の面で群を抜いて悪い調査兵団へと所属するなど悪い冗談なのだ。その、はずなのだ。
時間の流れというものは留まることを知らず人生を急かすばかりだ。後悔する時間も自己嫌悪を覚える時間も無いとはいわないが最小限にしろと、とっとと切り上げろと言ってくる。窓硝子越しの景色、窓枠の隅の方に視線をやってから私は溜息を吐いた。調査兵団所属初日朝、暇に持て余す時間は無いのだ。困惑も衝撃も尾を引くが時間が無い。朝食を取れないとその後が辛い。まずはそう、着替えることから。
「服、着替えるから出てってよ」
――マルコ・ボット。振り返りながら言ったら僅かに透けた雀斑の頬が朱に染まった。窓硝子には亀裂が走っていた。死んだはずのマルコ・ボットは私の目の前にいる。
「――それで、どうやら私にしか見えてもいないし声も聞こえてないらしいマルコ・ボット、貴方は何なの。幽霊それとも気が狂った私の精神が作り出した虚像? 後者だったらそれこそ自分じゃ判別つかないだろうから無駄な質問になるだろうけど」
辺りは時間帯に沿う様に薄暗いが今夜は月が出ているために外を出歩いても不便無い。夕食を終えての自由時間、宿舎を離れ、ぶらりと人気の無い場所まで出歩いてから口を開いた私は同じように着いて来ていた彼マルコへと振り向いて視線を向けた。その私の視線の先で彼の方は地面に向けていたらしい視線を上げて、唇を少し間抜けにぽかんと開けていた。
ある程度待ってもその唇が音を発することがなかったので見たままに「間抜けな唇」と言えば、詰まるような音を発した後にやっと言葉を紡ぎ始めた。
「っだって、……今の今まで何を言っても無視を通してきたじゃないか、お前」
事実、今朝方衝撃の対面を果たして一言向けて放った以後言葉を投げ掛けてもいない。相手からのそれはあったが、私が一言も返していなかったのでそれは会話と呼べるものではなかった。
しかし、それもしょうがないのだ。特別な理由が無い限り、新兵が一人一人個室を使えるわけがない。例に漏れず、私も同性の同期と相部屋で、その彼女がいる前でどうやら私にしかその姿も見えていなければ声も聞こえていないらしい存在と会話などできるはずがない。先の襲撃があったのだ、精神がやられた者がいないとも言い切れない。気が狂った者と勘違いされる可能性もあれば事実自分がその可能性もある、と。
「壁や空気に話しかける新兵は浮くと思う。……それで、どうなの」
口を紡ぎ不安に目を泳がせるその姿へ黙ったままに私は視線を置いた。
今尚血が巡っているかどうか怪しいが、血色の悪くなったその唇が震えて横に結ばれているのをしばし見ていた。やがて上唇と下唇の間にできた隙間から零れるように出た小さな声がそれを告げる。
「僕は、……確かに死んだ」
私は、彼の亡骸を見ていない。だがそれを見たらしいジャンの話は聞いた。故に、事実だ。喉に引き付くような声で迷い迷いに連なる音は推測の前者を述べる。
「訳が、分からない。死んだのは、……分かるんだ。だから多分、……僕の今の状態を言い表すなら幽霊、……なんだと思う」
薄っすらと月光の透けるその身体を一瞥してから、本人がそういうのだから実際は後者だったとしても前者の幽霊であるとして事実を呑み込もう。そう小さく頷いてみせた後で溜息を吐いた。
「何で私だけに見えるのかな、霊感とか無いつもりだけど。もしかして恨まれるようなことしたことあった? 接点は無かったつもりだけど」
「っ恨んでなんか!……と、いうより接点は無かったって……僕達、同じ訓練兵団同期だよね」
「それだけ、だよね」
面喰らったようなマルコの表情。音も無く形作った唇の「それだけ、……」から視線を外した私は隙間を開けた彼の唇とは対照的に引き結んだ唇でそう離れていない彼との距離を詰めた。
私の靴の裏で音を立てる砂利にハッと意識を目の前へと戻したらしいマルコへとぐいっと詰め寄れば、その分だというように逸らされた彼の背に僅かに余裕を取り戻した二人の距離。それを埋めるように、マルコの胸元へと勢いよく突き出した私の手の平。反射的に後方へと後退り避けた彼のその足元から砂利の音はしなかった。
「……何でそう構えてるわけ」
「いや、……避けると思うよ、普通は。行き成り過ぎて」
「じゃあ次は避けないで」
二度目のそれは前以ての忠告で避けられることがなかった。ただし、突き出した私の手の平が対象に触れることもなかった。感覚でいえば、雲を掴むようだというのだろうか。握って開いてを繰り返した手の内には何も残らない。
「幽霊に触れるのは初めて。これを触れたと認識していいのなら、の話だけど」
「……なんだか複雑だけど、の満足そうな顔を見られるのは貴重なことだろうね」
自身の胸元に突き刺された私の腕を見下ろしながら雀斑を指先で掻く、その顔に浮かぶ苦笑。マルコは私より背が高い。その為に見上げることになる視線でそれを見てから、私は自身の腕を彼の身体から引き抜いた。少しだけ自身の腕を見てから、あぁそうだとばかりに思い出す。
「帰らないと。入浴の時間、無くなっちゃう」
私の呟きにばつの悪い表情を浮かべて、言い辛そうにするマルコ。実は既に察しが付いているために前の言葉は僅かな嗜虐心を満たす為のものでもある。事実、入浴の時間が無くなってしまう場合はあるわけだから。
「その、……あまり離れられないんだ」
意を決したように、されど申し訳なさそうに小さい声で。発せられたその声が言った内容は察した通りのもので、会話はしなかったけれどそんなことを日中呟いていた彼の声を聞き流していた記憶を曖昧に思い浮かべる。
「大変だね、優等生は」
肩を叩いてやるにも彼の体は擦り抜けてしまう。
何を特に考えるでもなく視線を湯気の立つ水面へと向けていたら前髪の毛先から滴った水滴が小さくぽちゃんと落ちた。その波紋が一つ二つと広がるのを見守っていたが、三つ目は見届ける前にやってきた波に飲み込まれて消える。伏し目になっていた視線を前方へと向ければ同室の彼女が「疲れたー」と、両腕を伸ばしながらざぶざぶと湯を掻き分けるようにして豪快に私の目の前へとやってきて、同じ様に豪快に座り込んだ。跳ねた湯の飛沫が私の顔にかかり反射的に目を瞑る。
「疲れてないねー、は」
開けた視界では私の顔を覗き込むようにしている彼女の顔が大半を占めていて、湯中で僅かに後退しながら彼女の言葉を考えた。
「そうかな、でも多分、憑かれてるよ」
全然そうは見えないと笑う彼女に言葉のニュアンスはどうも通じていない。説明する気もないし、話題の方向性は女子お得意の色恋沙汰へと進むようだった。
「夕飯後の自由時間、どこ行ってたの? えっ、まさかって彼氏いた? いやいや、の外見的要素とかで言うといてもおかしくもなんともないけど、そういう浮いた話とか聞いたことないし!」
私が唇を開く前に次から次へと提供される話題にはなかなかに着いて行き難い。
少しだけ空いた間に「いない」という言葉と小さく振った頭にそれでも彼女はあれやこれやと推理の言葉を述べては妄想の世界を広げていく。またその話題に耳聡い女子達は私も私もと会話の人数は増えていく。私は、その場を静かに離れた。
女子達の声を側に、脱衣所の外、廊下の扉の前で項垂れているであろうその姿を思い浮かべる。誰のといえば、マルコ・ボット、その人だ。あまり離れられないと言ったのは彼で、心中穏やかではなかっただろう。距離と入浴場の広さの関係が良好でよかったとはいえるが、その扉の前でスタンバイしているような状況も彼には許し難いらしい。優等生。心の中で呟いておく。
壁外調査が予定されている。それも、決行まで残り三週間を切っている。心中の私はこめかみに汗を一筋流したままに眉を顰めている。このふざけた世界、死ぬ気で生きてきた奴にさえ残酷だというのに、足掻くことも忘れてただぼんやり生きてきた奴がどう生きていけるというのか。
今更もがいても、私の目の前にあるのは暗闇だ。少しばかり前方へと伸ばした右腕の先、指先さえ、闇に埋もれ見えないじゃないか。
踏み出した足の裏からは音がしない。若しくは、此処には音が存在しない。そして私の眼球は何も映さない。それでも、歩みを止めない自分を何となく笑った。下ろしたままだった左腕の先、指先はどうやら立体機動装置に触れている。
不意に、伸ばしたままだった右腕の先、指先に触れた温もりが在った。砂利の、音がした。引き攣く私の喉。唇が音を零す前に、世界は、光の前に薄暗くなりそして明瞭さを急激に取り戻していった。
閉じた瞼の裏にも朝の日差しが眩しく、一度閉じ込むようにした瞼の後に開いた目で睡眠との区切りを付けた。寝起き特有のぼんやりとした視界と思考でも数秒の内に自分を見下げるそれに私は再度、或いは朝一番の初めとして眉を寄せ、そして虫でも払うように手を動かした。それに対して既に起きていたらしい同室の彼女が「何してんのー?」だなんて朝っぱらだというのに快晴の空のような元気な声を上げた。
「……蝿がいた」
優等生という被り物をした蝿が。興味が有ったのか無かったのか、「そうかー、ハエかー!」だなんて続けて笑った彼女が衣服に手を掛けたのを横目で見たのか、飛び上がるように慌てて目を瞑り廊下の方に掛けていったのはお察しの通りマルコで、どうやら観察されていたらしい自分の顔、額に手を付いて頭を振った。夢見が悪い。
「頭が痛いの? 大丈夫?」
「大丈夫。立体機動装置を使うのに支障無いよ」
「そーいうことじゃないような、そうなような? とにかく、具合悪いなら申し出た方がいいよ、多分。うん、危ないし」
「……壁外調査まで三週間を切ったね」
「あ、うん、そうだね?」
「休んでなんかいられないよ。多分、そっちの方が危ないし」
「うーん?」
「まぁ、私の話だから置いといて。顔洗いに行こう。……あと、寝癖ついてるよ、派手に」
奇妙な悲鳴を上げた彼女より先に廊下へと出れば、通路の壁へと背を預けるようにしていたマルコがどこか待ち惚けをしているような顔で宙へと視線を漂わせていた。向けられた視線に向けた私の視線で打つかった目線。「は」「え」と音も無く形作った私の唇に変わった彼の表情は所謂ばつが悪いというやつなのだろう。
速く速く、より速く遠くへ、宙を切り最善の道筋で駆逐を。噴かしたガスの音がより耳につく。
上げた速度により風が敵になる。予想生存確率は上がらないというのに胸中の苛立ち不安はぐんぐんとその位を上げていく。このままじゃいけない、このままでは巨人の餌になるだけだ。いいや、巨人は人類を食物として食うわけではないから、所詮玩具になってしまうだけだ。
太い枝の上へと着地した私の吐き出した息を追うように皮膚の上を流れた汗が余計に焦りを募らせた。
壁外調査へ向けた長距離索敵陣形の講義、それに伴った訓練。その合間を縫うように今行われている立体起動そのものの訓練。一番に私に焦燥感を与えたのは勿論後者で、人類最強と名高いリヴァイ兵長の技術を脳裏に浮かべては汗をかいた手中に剣の柄を握り込んだ。
後悔先に立たず。されど人はいつも後悔する。私は、流された私自身を悔いる。
「――オ、オイ!」
直ぐ傍らで上がった声が鼓膜に流れ込んだ気もした。それでも、力を込めた脚に足裏は枝の表皮から離れている。向けた視線の先へアンカーを。噴かしたガスで前へ、もっと前へ。
焦りは常に危険をもたらすものだ。
見開いた私の目は確かに刺さったアンカーを見た。されど確かに見た、その潜り込みが浅いのを。遅らせて放ったもう片方のアンカーはその先の奥の木へと刺さる為に既に向かっている。
噛み締めた奥歯のギリッという音を、目を見開いたままに自身の鼓膜で捉えた気もした。「!」という荒らげた声で呼ばれる自身の名も。
その瞬間を、人はスローモーションで観るらしい。
「ッ!!」
されど再度の声に私は全てを現実下の秒数で見た。
落ちるアンカーの先を見届けているわけにはいかない、もう片方が目標へとしっかり深く刺さっているじゃないか。確かに、そこへ向かうには直線状にある木との衝突があるが。
ガスを噴かし身体の重心を傾ける。数秒。息を呑んだままの数秒。
掠ったのは、確かに調査兵団の団服だ。
そして零れ落ちてしまったアンカーを巻き取ったワイヤーを瞬時に次の点へと放ち、飛び上がって着地した先を足裏に確実に感じて、酸素は飲み込めずに唾を飲み込んだ。心臓は細かな鼓動を繰り返しているし、どっと噴き出した汗で剣の柄を離したくなる。
枝の上から振り返り見下ろした遠い地面はもしかしたら私の最期になったかもしれなかった地面だ。はっ、と吐いた二酸化炭素の後に漸く酸素を吸い込めた。
「!」
三度目となるその声。あまり離れられないと言っていたのは本当のようで、何も無い宙に現れるだなんてさすがに人外離れした出現を見せたマルコ。
「何、私はなんともなかったけど」
そう言って、浮いてはいないんだな、とマルコの足元へと視線を向けていたら突き出すようにして勢いよく出された腕。それに驚いた私は少ない足場の上で後退りをしてしまう。
マルコの手は私の肩に触れることなく透けて潜り込んでしまったようで、それに歯痒い表情を浮かべた彼がそれでもとばかりに向けた視線の真剣さにもう少し後退りしたくなった。
「危ないじゃないか! お前もし一つ誤っていたら大怪我か或いは命だって無かったかもしれないんだぞ! っそれに、なんともないって、そんな一言で済ませられないだろ? 確かに掠っていたじゃないか! 怪我は、本当にないんだな?」
その勢いに私は再度目を見開くことになる。そしてぱちぱちと瞬きを繰り返した後に確かに怪我はしていないと小さく呟きながら首を振って見せた。マルコの長く、深い溜息。
「そう、それなら、いいんだ……。……いや、よくない。よくない! 焦るのも、焦るのも分かるんだ。それでも……もっと、自分を大事にしてくれよ……! 時間は幾らでも有る、だなんて言えない。……時間が有限であることは分かり切っているからね、僕も。……だからこそ焦っては駄目だ。は、自身で思っている以上に立体機動の才を持ってるよ。確かに、訓練兵時は熱心になっていたとは言い難い感じだったけどさ……。だけど、調査兵団に入ってからはそれこそ死ぬ気で取り組んでる。……だから!……だから、……生き急がないでくれ……」
項垂れたマルコの強く引き結ばれた唇と眉根にできた溝に確かに私は声を失くしている。
沈黙は数分だった気もするが数秒のあっという間だったという気もする。兎に角、私は彼から逸らした視線の先で茂った木々の青青しさを見ながら細めた目で言うしかないのだ。
「……説教、ありがとう」
そうして、心臓のむず痒さを知らん振りしながら私はアンカーを指すべき対象へと視線を向けて、それを放した。飛び出した先の重力と巻き取りを開始したワイヤー、それにガスを噴かす音。空気抵抗の前になびいた前髪では真横に引き結んだままにできない唇を隠せない。
長距離索敵陣形に関する講義と講義の合間の小休止、自身が綴った紙の上の文字に視線を落としながらその上にかかる透けた指先を考える。私にしか聞こえていないマルコの陣形に対する考察と感嘆と同調を求める声に突いている頬杖が滑りましたの体で頷いてみせた。壁や空気に話しかける新兵は浮くと思うと私が言ったにも関わらず、彼の話しかけは相変わらず。それでも一切の無視を通すのではなくて、微塵に近いぐらいの協調性を私が見せてみることがここ数日は多くなったと思う。
「それで、この部分なんだけど――」
「そういえば、お前も調査兵団に入ったんだよな、」
マルコの声を遮るように声をかけてきた人物へと頬杖を突いたままに横目の視線をやるとそこにいたのはジャン・キルシュタイン。自身の名前が呼ばれたにも関わらず誰かと間違えているのではないかと視線をジャンと反対方向へ向けてみてもそこには口を噤んだマルコがいるだけで、やはりかと戻した視線で返事をした。
「そうだけど、二週間も経ったのに今更意外そうな顔されても困る」
私の左側のスペースへと座ったジャンの方へと体の向きも変える。マルコの息を呑んだ音も、視線も、ジャンには分からないのだろうなと思う。
「しかし、意外だろうよ」
「あー、……お互い様じゃないの」
「……まぁ、確かにな」
お互いに口を噤んだままに数秒。ジャンの指が木面を叩く音が鼓膜に流れ込む。講義室には他の新兵もいて、会話だってしているというのに、どうも物静かに感じてしまう。
「……ジャン・キルシュタインの口から私の名前が出てくるとおかしな気がする」
短い間の沈黙を拭うように上唇と下唇の隙間から零した言葉にジャンが見せた苦い笑い。
「どういう意味だよ」
「そのまんまだけど。ミカサ以外の名前をちゃんと認識してるんだな、と」
「しっ、してるに決まってんだろ……! 逆にお前が誰かの名前を口にするのが変な気がするぐらいだ」
「ミカサとかジャンとかマルコ、とか……認識はしてる」
意識はしてなかったけど、と胸中で呟いた後にジャンの目の僅かな潤みを見て、自身の内臓が重くなったような息苦しさを覚えた。
「そうか、……そりゃあ救われるだろうよ」
「……ジャン、泣きそうならハンカチ貸そうか? ミカサのじゃなくて悪いけど」
「いらねえよ!」
形ばかりに差し出したハンカチは手に取られることもなく、やって来た講師に講義の再開をみる。ジャンはこのまま隣の席で講義を受けるらしい。前を向いた私の肩越しにジャンを見るマルコを知らん振りして結んだ自身の唇はどこか乾いているような気もした。
「それで、私は何か話を聞くべきなの。いつまでもそんな顔で隣にいられたら今夜の夢見に関わる気がする」
初日もこんな風に人目の無い場所をぶらぶらとしてマルコに話しかけたのを思い出した。今夜は、少し雲が出ている。時折月にかかる雲に辺りが暗くなり姿が僅かに隠れるのと、吹かれた雲に月光で照らされる複雑な表情を浮かべるマルコを暫し見ていた。
これは不謹慎なのだろうか。僅かに透けているその体が月明かりの下でどこか幻想的で綺麗だな、なんて思ってしまってそれが癪でもあり、唇を引き結んで私はマルコから顔を背けた。
「……足枷になってるんじゃないかと思うんだ」
その呟きのような声に再び顔をマルコへと向ければそこには複雑な表情のままにより眉根の溝を深くした彼がいる。
「僕の言葉がジャンの意思を左右してしまったなんて言わないけどさ……。僕の死で押し付けになってしまった、って。僕は、……あの時死んではいけなかった」
雲に月が隠れる。薄暗さに目を慣らすようにゆっくりと繰り返した瞬きの前に流れる無言の時間。
少し吹いた肌寒い風が自身の前髪を揺らし、私はぽつりと吐息を零すように言った。
「……私はジャン・キルシュタインじゃない」
薄暗さの中でもぶつかった視線でマルコがそれはそうだろう、といった不思議そうな顔を向けてくるのが分かる。それでも私は変わらずゆっくりとした瞬きを繰り返しながら言葉を脳裏で咀嚼してからつらつらと零した。
「――から、ジャンの本当の所は分からない。その、残した言葉っての知らないし。だから、これは私が勝手に言うことだけど、……ジャンは自身が選んだ選択を後悔してないと、思う」
マルコの瞬きもまた私の言葉を噛み砕くようにゆっくりと繰り返される。
「憲兵団一筋だったジャンが調査兵団に入るほど、きっとマルコの言葉は大きいものだったんだろうな、と思う。けど、それって押し付けでもなんでもなくて、背中を押したってことなんじゃない?」
昼間見たジャンと、訓練兵だった三年間のジャンを記憶に思い出し、そしてその隣にいたマルコも記憶に浮かべた。意識なんてしてなくたって記憶にはあって、それにその姿を思い出した私の口辺は自然と笑みを作っている。まだ月が隠れていて多少は良かった、それでも視線と顔は地面へと向けてしまったが。
「ジャンが、あのジャン・キルシュタインがマルコに対して恨み辛みを吐き出してるって? ないでしょ。うん、だから……後悔なんて、してない。……っていうか今日も見たでしょ、あの馬面を。あれがマルコが足枷になってますーって顔?……ジャンの弱さも強さも、マルコは知ってるんじゃないの」
また少し吹いた風に雲が流れたのに笑みを取り繕うようにして唇を引き結んだ。けれど付け加えるために再度緩く言葉を紡ぐ。
「あと、死んでいけなかったのは同意する。あの時もなにも、長生きするべきだから。人類はさ」
言い終わったままに地面から顔を上げてマルコを見てみればどこぞの馬面を思い出させるように彼もまた涙に目を濡らして、さらには人の顔をじっくりと見てくるから私は視線を泳がせた後に再度地面へと戻すことになる。
「……まあ、私はジャン・キルシュタインでもないし、マルコでもないからよく知らないから、勝手に言ったことだから。……だから、……こっち、見ないでよ」
そう言っても未だにこちらへと視線を向けているのが雰囲気で分かる。止めてくれとばかりに足先を宿舎へと向け、帰るとばかりに歩き出すと私に遅れてマルコも歩き出したのが分かった。砂利の音なんて聞こえてこないのに。
「、僕にはハンカチを貸してくれないのかい?」
「!……誰のが良いか分かんない。ジャンのでも拝借してくればいいわけ」
「のが良いよ」
ぐっ、と押し黙った私にマルコが笑う。そのくすくす笑う声が夜風に撫でられた耳に共に擽ったくて、足を速めたけれど彼の方が私より歩幅が広くてどうにもならないままに夜が更けていった。
「地に足が着いてる」
「え……?」
ぽつりと呟いた私の言葉に反応してみせたマルコが振り向く。その視線は確かに周りに私以外の人物がいないことを確認してから私が向けていたものと打つかった。私は交わった視線を外してそのまま下へ、地面へと向けてから指先も同じ様にそちらへと差して、同じ言葉を呟くように吐いた。
「地に足が着いてる」
「……あぁ、そのままの意味の。そりゃあ、着いてるよ」
「幽霊なのに? 浮いたり、できるんじゃないの」
地面へと向けていた視線を上へ。指先も宙を指してみればマルコの顔には苦笑いが浮いている。
「……なんだかわくわくしてるね。でも、期待には添えないや。この通り、地に足が着いてるからね」
「いいや、できる。マルコは頭が固いんじゃないの。もっと柔軟にいこうよ、幽霊なんだから宙も飛べます浮けますって。固定概念よくない」
「……」
今度の指先はマルコ自身へと。それ飛んでみろとばかりに指先を数回跳ね上げてみてはマルコの苦笑いが深まるのを見守る。少しばかり待って我慢ならないと声を上げたのは私で、私の呟き一つにしょうがないと頭を振ったマルコに口辺が持ち上がるのを感じた。
「ほら飛んで。…………あ」
そうして上唇と下唇との間に隙間を開けて小さな驚きの音を漏らしたけれど、それ以上に当人の口から出される驚きの声の方が辺りに響くようだった。それも私以外には聞こえないものではあるが。
「えっ!? 本当に浮けた! でも……まさか人間がそんな――って、うわ!?」
多分それはマルコが疑ってかかったその瞬間。宙に確かに浮いてみせた彼は忘れていた重力を今し方思い出したとばかりに体制を崩してみせた。宙を掻く手に何も掴めずそのまま音を立てずに地面に尻餅をついたその様。
「……頭固ーい」
――そんなやりとりがあったな、だなんて思い出しているのは落ち着いているからではなく、緊張を多少なりとも和らげようという精神の逃げなのだろうか。指先で跨った馬の鬣を梳きながらも自身の呼吸が平時より浅く短いものを他人事のように思いながら、視線の先、壁を見つめる。
「」
「……あぁ、うん、大丈夫」
マルコの声に返した返事も今じゃ誰も気にしてはいないだろう。馬に或いは自分に言い聞かせているものだと思われるだろうし、私個人に気を裂いてる場合じゃないはずだ、周りも。なにせもう、壁外調査が始まるのだから。
「第57回壁外調査を開始する! 前進せよ!!」
地に響く馬の足音と自身の心臓の鼓動が耳裏に響いて手綱を持つ手に力が籠もる。
撫ぜる風による髪の靡き、前方を睨むようにして進む。旧市街地を抜けるまでの援護班による支援、彼等が言うように隊列を死守することが今成すべきことだ。怯むことは後の後、無事に帰って来てからすることだ。
そして睨んだ前方へと馬は駆けて行く。
「長距離索敵陣形!! 展開!!」
陣形の展開の先、新兵の役目の一つである予備の馬との並走、その任を手綱と共に受け取っているのはユミルだ。そして索敵班から撃ち上げられた赤の信煙弾を見逃すことなく捉え、同じように赤い煙弾を撃ち上げる、伝達も新兵の役目の一つ。これは私に与えられた任だ。
暫く後に上がる緑の煙弾。進路変更の為の団長からのそれを同じように進路方向に向けて撃ち上げる。
巨人との接近、戦闘を避けるのを目的としたこの陣形に講義の小休止中にマルコと交わした会話を思い出しながら震える指先を煙弾を撃ち放った銃身に擦り付けた。
「巨人だ!!」
地形や障害物により発見が遅れる、その場合が今だ。
「新兵っ信煙弾、赤!」
「はい!!」
廃屋の影から跳び出てきた巨人の体を避けた班長による指示に声を荒げて返事をした。赤い煙弾を撃ち上げながらも巨人の突撃を巧みに避け誘導する班長へと視線を釘付けにしているのは私だけではない。他の新兵も口内へと押し込めた悲鳴で顔を強張らせている。飛ぶ叱咤。
「陣形を崩すな!」
廃屋をさらに跡形も無く壊し尽くすように顔から跳び込んだ巨人。それを見守ることもなく配置へと戻った班長に私は視線を前方へと戻した。巨人は、追って来ない。燃料切れだ。
黒い煙弾を確認した。それは奇行種を知らせる煙弾。緊急事態を知らせる信煙弾も確認した。そして、緑の信煙弾。その後にも幾つかの煙弾を確認してからだ。その口頭伝達を聞いたのは。
「右翼索敵壊滅的打撃!! 右翼索敵一部機能せず!! 以上の伝達を左に回して下さい!!」
伝達の任の者がそれに配置を外れ駆けて行くのを横目で見ていた。噛み締めた奥歯が痛い。
「回り込む、続け!」
目的地から東に外れたままの陣形が辿り着いたのは巨大樹の森で、近付く事に見上げるほどに高い樹木に視線をやる余裕も無く班長に続く。
森を回り込むようにして馬を走らせたその先で与えられた指示に私を含む新兵は困惑を隠せず中にはそれを口にしている者もいた。
「待機、……ですか?」
「そうだ、立体機動で樹に登れ。その先でブレード構えて待機だ」
足場となる枝の上に着地してから耳にしたマルコの「これも作戦、なのか……?」という呟きには首を縦にも横にも振ることができない。
命じられるままの待機に、見下ろした先に集まりだした巨人も随分と多くなった。樹の皮を削るようにして登ってき始めたその姿に冷や汗が流れる。滑るように落ちて地面へと落下するその姿を見ても一つも安心できない。
「いつまで待機なんだ。クリスタはいないってのに」
直ぐ側の樹で待機するユミルが視線を向けてきながら私へと言う。その問いに答えることなどできるはずもなく、私はただ首を振った。
「この奥で鳴ってる爆発音、それと関係あるんじゃないだろうか?」
「爆発音……」
マルコの呟きに私も視線を森の置くに向けて呟いていた。樹の足元から巨人の落下音を聞き、森の奥からは謎の爆発音を聞く。いったい、作戦とは。
「それだ、爆発音。さっきから後ろがうるせぇな。なぁ? ベルトルさん、クリスタがどの辺に行ったか知らない?」
「ごめん……知らない」
ユミルが側の樹に立つベルトルトへもクリスタの事を尋ねるのを耳に流しながら私は樹に背を預け空を仰いだ。溜息。
「、少し移動しよう」
マルコの声に彼が目を向けている下方へと同じように目を向ける。木登りが上達し始めた巨人に憎憎しい視線と舌打ちを一つ打ってから、私は隣のもう幾分高い位置にある枝へとアンカーを放った。
それから幾分もせずに森の奥から聞こえてきた劈く、まるで断末魔の叫びに私は耳を塞いだ。周りのユミルやベルトルト、他の者も同じ様に耳を塞いでいる。そしてそれが聞こえてきた森の奥へと視線を向けて、直ぐに元となる逆方向へとそれを勢い良く戻した。
「なっ、んで!?」
驚愕。樹の足元に群がっていた巨人共が、樹の上の人間にはもう興味は無いとばかりに森の中に走り出したのだ。それも、一体残らず。
「っ全員立体機動に移れ!!」
森の奥に通すなと叫ぶその声に皆が立体機動に移る。一目散に駆けて行く巨人の項を目掛けてアンカーを放ちガスを噴かす。構え、振るうそれで、項を削ぐ。
ただ只管に奥を目指すだけの巨人の項を削ぐのは容易い。それでも、数と勢いの前に逃したやつが奥へ奥へと進んで行く。
何体目かの項を削ぎ、残りを奥へと許してしまってから幾分、上がった煙弾。
「……撤退」
誰かが呟き、側にいた班長が「総員撤退!」と叫ぶ声が樹の間に響いた。私もまた噛み締めるように撤退と口内で呟いていた。
こうして第57回壁外調査は終了した。得たものはあったのだろうか。それに対して失ったものは?
壁内、遺体を運ぶ荷馬と並走しながら押し黙る私は横目に布に覆われたその躯を見た。
「」
「……何」
「それでも、は生きてるよ」
どうも空気が薄くて堪らない。立体機動で体を酷使したせいか胸も痛いし、ひりついた喉ではまともな返事ができない。目はなんだか潤んでくるし、震える指先は冷たい。誰かさんのものは透けてしまうから温もりを奪うだなんて、できない。
「……あぁ、うん、大丈夫」
嘘を吐いた私はほんの少しだけ泣いてしまった。
急いて走ればまた時間の概念も着いてくる。
壁外調査からの帰還後、指示されるままの非武装待機。巨人の襲来。事実上のウォールマリアの決壊。見つからない破壊されたはずの壁の穴。宵の闇、篭城。
――事が足早に駆けている。
休めという指示の暫く後、閉ざした瞼の後にも睡魔がやってくるわけもなく、寧ろ群の中を少し外れた方がと私は蝋燭の明かりを供に静かにその場を離れた。抑えても僅かに響く自身の足音に、聞こえてはこない足音。やはり、此処を離れた先の方が身体を休められそうだ。
瞼を閉ざして座り込んでいる皆から離れた所で、私は横に引き結んでいた唇を少し緩めて溜息とはまた違った息を軽く吹いた。窓硝子の無いそこから見える外の景色は灯りとなる月明かりもないために何も見えない。
窓枠と言っていいものか、外と内との境界となるそこに蝋燭立てを預け外を見つめていると微笑むような声色でマルコが私の背中へ言う。彼の声は私の他には聞こえないというのに眠っている皆の中では唇を開かなかった。
「、眠れないのかい?」
「眠れない。誰かさんは相変わらず人の寝顔を観察するし」
見えない月を覗き見るように見上げているとマルコも静かに隣に立ち私と同じ様に月を見上げた。
蝋燭の揺れる灯りに浮かび上がる雀斑にちらりと横目をやる。同じようにこちらへと向けられていた視線とぶつかり、また同じように見えぬ月を見る。
「いつかの日もは見ていたよね、見えない月を」
「いつかの日?」
「うん、夕食後の自由時間にこうやって窓硝子に手の平くっ付けて、見上げてたのを覚えてる。少し唇に隙間を開けて、ずっと見上げてた」
「……何か考え事してたんでしょ」
「うん、してた。その時僕はに声をかけたんだけど、こっちを向いたは僕を見たけど見てなかったからね」
「……ふーん」
「」
「……何、マルコ」
「いや、……今は僕を見てくれてるなって」
見えぬ月を見上げるのを止め、俯くようにして視線を下げた私はちらちら揺れる蝋燭の影に意識を向けるように努めた。月明かりの無い夜の静けさに耳がなんだかくすぐったいような気もする。
月は雲に隠れていつまでも姿を現さない。星一つない宵の空の深さを見上げては、いつの間にかできていた上唇と下唇との間の隙間を慌てて引き結んだ唇に隠した。瞬きの後に忍んだ星を捜そうとしてはぼんやりと唇に隙間を作っている。
「好きだ」
ぽつりと呟くようなそれは宵の静けさの前には容易く私の鼓膜に入り込み、しかしその言葉の意味を易く理解することはできなかった。
思わずマルコの方へと向けた顔。揺れる蝋燭の灯りと影。見開いてしまった目、繰り返す瞬きで落ち着きを取り戻そうとするも追い討つようにマルコはぽつりぽつりと言う。
「前から好きだったんだ。を。ずっと、ずっと前、死ぬよりも前から」
蝋燭の灯りに影と城の闇。ゆらゆらと揺れる陽炎のようなそれのどこかに視線を泳がせるようにして考えても、私の唇が紡ぐ言葉はそう差異は無かった。
「……何で、今、そんなこと言うの」
「がより儚く見えたから、……かな?……ごめん、変なこと言い出して。でも、……確かに好きなんだのこと」
視線を逸らすなんてことはせず、ずっと私に目を合わせたままに言うマルコ。灯りの無い所へ後退り姿を隠してしまいたいような心持ちだとか、頼り無い蝋燭の炎に照らされて熱を持った頬だとか、瞬きに抑え込む事ができないそれはもう一度私に言葉を紡がせる。
「何で、今……」
「……ごめん。気持ち悪いだろ、死んだ後も残っちゃうような執着心みせて」
少しだけ外した視線と雀斑を掻いた指先。
マルコは私の言葉を勘違いして捉えているようだった。顔色を窺うには蝋燭の明かりではきっと心許無いし、唇はマルコの告白を聞き始めたその時から小刻みに震えているから、だろうか。
困ったような笑みを浮かべて、されどマルコは視線を私へと戻しては言う。
「僕にできることはきっと、謝ることだけだ。もう顔も見たくないって言われてもあまり離れられないからさ、……ごめん」
「……違う」
一度結んだ唇を開いて、今度は私が言う。
「私もマルコのこと好きだよ。……好き、だよ」
外した視線で浅い深呼吸をした。戻した視線の先に顔を強張らせたマルコがいた。
「……確かに、好きになったのは、意識し始めたのは、……マルコが死んで私の前に現れてからだけど、でも、今、マルコのことが好き。好き、だから、……余計にどうすればいいか分からない。……だって、……なんで、今、なの」
「」
感情に揺れるマルコの声色が私の名前を呼んだ。閉じ込めるような瞬きの前に私の目からは涙が零れそうだなんてどこか思って、震えてしまう声で私は続けた。
「今じゃ……マルコに触れることすら、できない」
少し踏み出して伸ばした指先、彼の衣服にさえ触れることなく擦り抜けてしまう。ぎゅっと握りこんだ指先がじんと冷たいような気がして、無性に泣きたくなった。
「」
静かなマルコの声。彼は手の平を私に見せるようにした。
「ねえ、手を出して。こうやって」
促すような微笑みに、私はマルコの言葉通りに重ねるようにして自身の手を差し出した。少しだけ溶け合ってしまうように重なっては僅かに離れるそれは、まるで本当に触れ合っているようだ。不確かで確かなそれを小さく笑う彼と私の手の平に、見た。
「の手はちっちゃいね。指は細いし、女の子の手だ」
「……マルコの手は大きいね」
「の手に比べればそりゃあね。……それに、の手は温かいよ」
「温かい……」
「うん、温かい。……キスしていいかい?」
手の平を重ねたようにそれは不確かで確かなもので、蝋燭の揺れめきも、宵の静けさも、曖昧に緩やかに溶けていく。
――事が足早に駆けている。
巨人の襲撃、ユミルの事、生還、アニやライナー、ベルトルトの事。瞬きの間の事のように、足早に駆けて行く。
それでも、触れ合ったその時間は確かにゆっくりと流れていた。
この世界は残酷だ。生ける者にも死せる者にも厳しいこの世界は、残酷だ。それでも、世界は狂おしいまでに美しい。
朝露に濡れる若葉や、宵に眠る街の喧騒。やわらかな春の盛りに夏の煌き、物悲しさを含めた秋の色付きに冬の命の確かな息吹。光は弾み闇は静やかに。まどろむ生も焼き付くような生も、言うに言われぬ死も語り聞かせる死も。世界の優しい無関心の前に実に美しく入り乱れている。
私が生きている今、私が死んでいく今。そこにマルコがいるということで確かにそう感じる。
「――だから、これは絶望なんかじゃない」
限られた選択肢の末、どれもが最期を指すというのに目の前が絶望の闇に落ちていくことはなかった。一人、世界に独りだというように、誰の目にも心にも触れることなく沈んでいくわけじゃない。重ねた手に、マルコがいるという事実が最期の前でもこんなにも幸福を孕んでいる。
「まだ、……まだは、死なない」
険しい表情で私の顔を覗き見るマルコとは対照的に、私はどこまでもやわらかな笑みを浮かべて重ねた手を見ていた。ずいぶんと長い間、彼とこうして手を重ねてきたと思う。幾らあっても足りなくはあったけれどと吐き出した息もどこか軽くて、マルコの名を呟いては噛み締めた。
「マルコ、大好きよ」
不釣合いなほどの甘さを乗せて囁いたそれが、耳の裏に痛いほどの静寂と冷たさを払って景色に溶けていく。薄眩いけれど、確かに広がる景色の中に私はマルコと在る。
「、愛してる」
「そう、ね……私も愛してる」
眩しいなあ、と瞼を閉じても広がる世界に、静かな世界に、囁くようなマルコの声が確かに響く。
「……お疲れ様、」
いつまでも優しくて温かいマルコに目を閉じたままでも唇は弧を描いてしまう。まるで世界に二人きり、ぽつりぽつりと零す彼に私以外の誰が頷いてやるというのだと私は笑む。
「愛してる」
最期の声がどれになるかは私にも分からない。
「ずっと、ずっと、愛してるよ」
まどろんでいるような幸せをずっとずっと感じていた。
「ジャンは、マルコの言った通り指揮官に向いてたね。それに良い夫であり父であるみたい」
きらきら光る水の珠は幼い少年少女が川に浸からせた足を蹴り上げたせい。
せせらぎの傍らにある樹にマルコと二人、背を預けて見守る先の元気なその姿はなんだか微笑ましくて頬が緩む。マルコへと顔を向けてみれば彼もまた頬を緩ませてそれを見ていた。
油断しているその横顔に、少しばかり背伸びした口付けを贈る。驚いたような声と慌てて呼ばれる私の名、いつまで経っても慣れないし薄れぬ幸せ。仕返しのように抱き寄せられ奪われる唇が、誰にも見られていないという事実の前でも私の頬を熱くする。
「、ずっと愛してるよ」
「うん、嘘じゃないのを知ってる。私もずっと愛してるから」
「それじゃあ、もう一度お前にキスしてもいいかい?」
まどろむような幸せは、目を閉ざそうと残酷で美しい世界でずっとずっと続いていく。優しい無関心の狭間で重ねた熱、マルコと共にずっとずっと続いていく。