あなたの香りの中で
時計に視線を向けると三時三十分前を指し示している。午後二時半、僕は千尋――かつての思い人を模したマネキンに向かい合ってマンデリンを飲んでいる。
カップを持つ手と反対の手に持ったポストカードへと視線を落とし、美しい海の写真と共に書かれている数行の挨拶を見る。裏と表を交互に見て、そこに人の姿が無いことに少々気を落としながらも数行の手書きの文字に僕は口元を緩ませた。表に綴られている送り相手の名は浜崎千尋だ。
僕は一年とほんの数ヶ月前の出来事を思い返した。この大小の水槽に囲まれている部屋に千尋と彼女の娘、木乃美ちゃんがいてそしていつかの日のように千尋とテーブルに向き合って熱いコーヒーを飲んだ、その記憶を。
夢は叶わないから夢。何かの本でそう読んだ。けれどその日、僕の夢は叶い、夢だったそれは確かに夢ではなくなった。
千尋と木乃美ちゃんと僕、三人での生活を僅かに願いながらも、父の病の為に実家に帰るべきだった千尋に僕はさよならをした。元より、それが枝分かれの部分だったのだ。行き当たりばったりの犯行、今後のことをどうすると戸惑いながら閉口する千尋に僕は全てを背負うつもりで切り出した。僅かに困惑しながらも二、三断りの言葉を言った千尋も最後には唇を引き結び頷きと共に木乃美ちゃんを連れて僕の自宅を出て行った。
もし次があるならと願いながらも、その時の僕はそれが最後だと思っていたし事実、あれから二人と直接顔を合わせたことはない。だけど、関わりが一切無くなったわけではない。数通の手紙と、今手元にあるポストカード。これが僕と千尋とを未だに繋いでいる。
切り取られた海の青に視線だけを向けながら、僕はその日のことを思い返した。浜崎健太郎――千尋の夫だった男を階段の上から突き落としたこと。その男の首にスタンガンを押し付けたこと。そしてベルトで首を絞め、遂に殺してしまったこと。白いシーツに包まれたそれを浜崎家の庭に掘った穴に埋めたこと。忘れてはいない。記憶違いも、ないはずだ。それでも僕は小首を傾げながら困惑する他無かった。
僕は基本的にテレビを見なければ新聞も読まない。だからそれを知ったのは千尋からの二通目の手紙からだった。マスメディアが伝えた事実は実際のものとは食い違っている。千尋の夫――離婚していない状態で死んだ場合は元夫と表現するのかもしれない――が死んだのは海外の地ということになっている。いや、正しくは死んだとは伝えられていない。浜崎健太郎という人間は国外にて行方不明。僕がその男を殺してから数ヶ月経った後の世間での事実だ。
浜崎健太郎の死体は今もあの庭に埋まっているのだろうか。埋まって、いるはずだ。僕は千尋が出て行ってから一度だけ浜崎家の庭を外から覗いたがそれまでで、掘り返して確認したことはない。マスメディアが記したように、現地でその姿が何度か確認されていたのだとしたら、僕があの時殺したのは誰で埋めた死体はいったい誰だったのだろうか。おかしな疑問だ。勿論、その人物が浜崎健太郎であることは間違いないのだから、国外で見かけられたその人物こそが不可思議な存在なのだ。
――おかしな話だ、僕はカップの中のマンデリンを飲み干した。
コーヒーカップなどを片付けた後、時計を見ると殆ど午後三時だった。それを見た僕はマネキンに会釈をしてから少し足早に二階、一階へと降りていく。湘南古代魚センターの開店時間は午後三時、店を開けるためといえばそうともいえる。
千尋達がいなくなって直ぐの僕は酷く憂鬱で生きることに怠惰的だった。かつて夢だったものが消えた後に残るのは無気力で、生きる目的を見失った僕に店の臨時休業も頻度を増していた。三階の窓から望遠レンズを付けた一眼レフで北側にある浜崎家を覗いても、そこに千尋はいないのだ。グッピーは実家に連れ帰ることにしたために千尋がその餌を買いにくることも勿論無くて、彼女と向き合って熱いコーヒーを飲むことも、三度目は無い。暖色をした感情は僕の深く深くでいなくなってしまったように眠っていた。
僕は死んだように一年間を生きた。だが今から約半年前、生きる意味を再度見出だしたのだ。そして僕はそれだけを思って今、レジカウンターの内側に座っている。
時刻は午後九時、閉店まで後一時間。ハーフムーンという種類のベタの雄を買った客の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、どうやら今日はこのまま閉店時間を向かえそうだという予感に僕は僅かに肩を落とした。淡水とエアーを詰めたビニール袋の中で宙に留まるように在るベタに客の姿が自動ドアの向こうに消えるまでの間視線を置いて、後にそれを時計へと向ける。
熱帯魚店であるために無音とまではいかないが静かな店内に今はもう客は一人もいない。――閉店まで後五十分――閉店まで後四十分――と、時刻にばかり視線をやり、そして誰も迎え入れてこない自動ドアに意識をやっている。――閉店まで後十分、やはり今日は来ないようだ。
肩を落としながら座り込む腰を深くした僕を不意打つように、客を迎えた自動ドアが静かに開く。そしてそこに彼女の姿を見た僕は僅かに尻を浮かせ、待ち望んでいたというのに動揺するかのように身を固くした。
「あっ……いらっしゃいませ……」
――、今は一方的に知っている彼女の名。僕の中で爆発する歓喜。初恋というものではない三度目のそれにも未だ慣れることのない僕は、彼女の申し訳なさそうな控え目な笑みに自分からは何も言うことができないままに視線を外せないでいる。
「すいません、閉店間際に……」
「いえ……いえ……大丈夫です……ええっと……今日は……」
「あの、ベタの餌を買いに来ました」
「あっ……はい……こちらに……」
胸を高鳴らせながらレジカウンターの内側から出た僕を彼女は視線で追い、そして商品を案内するために歩み始めた僕の背をその足でさらに追ってくる。それが、僕の胸をより高鳴らせる。擦れ違う際に盗み見た、薄手の羽織り物の下に着ている仕事の制服。そうだ、勿論今日は彼女の出勤日だったと、それを盗み見た。
早まる胸の鼓動。足早になってしまいそうなそれを抑えて、不自然にならないように僕は歩みを遅くする。確かに自分の後ろを着いて来ている彼女の存在が胸を熱くするが、商品を陳列している棚が遠ざかるだなんてことは勿論無く、あっという間に目的の棚へと辿り着いてしまう。
「……あの……こちら……ですよね?」
以前彼女が買った物と同じ商品を手に取り見せると彼女は頷きと共に小さく笑んで「はい、それを下さい」と鞄から出した財布を両手で持ちながら僕へと見せるようにして言った。可愛らしいその姿に喉が詰まる思いで、それでもなんとか料金を告げながら僕はレジカウンターへと足を向けた。また、彼女は僕の後を着いて来る。
「あの……ありがとうございました」
「ありがとうございます」
つり銭を渡しながらの会釈してのそれに彼女もまた小さく会釈しながら僕に言葉を返してくれた。「遅くに、すいませんでした」と続けた彼女に僕は俯きがちで首を振りながら「いえ……いえ……」と単純な言葉を繰り返すことしかできない。
商品を入れた小さなビニール袋をその細く白い指先に引っ掛けるようにして持った彼女のもう一度の会釈に僕も頭を下げる。そしてその後ろ姿を見送る。自動ドアの向こう側、見えなくなるまで見送る。彼女の姿が消える。そして短く息を吐く。
――僕は彼女に、恋をしている。
始まりは雨だった。通り雨、天気雨、狐の嫁入り。その日降った雨は快晴の空に唐突なもので、それでも勢いの強いそれが店内にも音を響かせていた。自動ドアの向こう側、道を行き交う数人の足早な歩みをなんとなく僕は見ていた。
自動ドアの区切られた範囲を右へ、左へ、そして湘南古代魚センターの軒先へと駆け込むようにして小走りで姿を見せた女性――それが、その人だ。勿論、その時は彼女の名前なんて知らなかったし、俯くようにしていたため顔だってその瞬間には見えなかった。その姿が鮮明に見えたのはその数秒後、雨に濡れた衣服で身じろいだ彼女にセンサーが反応したのか開く自動ドア。それに僅かに驚いたのか肩を跳ねさせた彼女。そして振り返り、申し訳なさそうな顔で店内を覗き込んだ彼女。その時僕の手の内のカップでマンデリンが跳ねた。と、思う。
全ての始まり――。そう。つまり、そういうことだった。
僕はずいぶんと迷った。迷った末に僕は店内に客がいるというのに自宅としている三階への階段を駆け上がり、そしてタオルを手に一階へと舞い戻った。弾む息を整えるには十分な時間また迷い、それでも引ける腰で店先へと歩み出ていた。
待ち惚けするように雨を降らせる空を見ていた彼女は開いた自動ドアに店内を振り返るようにし、そしてその前に近くに立っている僕を視線で見上げていた。振り返ることで揺れた彼女の髪先から香ったにおい。真っ直ぐに視線を合わせることなんてできない僕は、雨に濡れたその髪先へと目を逸らすようにしておずおずと申し出た。
「……あの……良かったら……これ……」
僕の申し出に彼女は驚いていた。そして申し訳なさそうに「通り雨でしょうし、少しだけ雨宿りさせてもらえたら、それで……」と、断りの言葉を言った。
ずいぶんと、積極的だったと今でも思う。普段の僕だったらその言葉にもう何も言えずに項垂れるようにして突っ立ったままの後、店内に引っ込んでいたことだろう。それでもその時の僕は「でも……雨が止んでも……あなたは濡れたままだから……あの……」と言ってタオルを押し付けることに成功したのだ。そうしてから項垂れるようにして突っ立った後、数秒の沈黙の前に逃げるようにして店内へと戻った。
レジカウンターの内側に座り、何でもないように雑誌を広げてみせて視線も落とした振りをした。実際は外の方をちらちらと気にかけていた。
通り雨だったそれは直ぐに止んだ。そうして少しの後に開いた自動ドアに、店内には控えめにヒールの音が響いた。緊張に固まる僕は不自然な動きで見てもいなかった雑誌から視線を上げた。
申し訳なさそうに垂れた眉と、少し水分が拭われて額にかかっている前髪。
「すいません、ありがとうございました」
おずおずと差し出されたタオルを受け取ればそれは僅かに吸った水分で湿っていた。それを一度ぎゅっと握った僕は躓くような申し出でを再び口にしていた。
「あの……もしよかったら……」
彼女の目が僕を見ていた。きゅっ、と喉が絞まったような感覚を覚えた。逸らした視線の先に僕がつい先程まで飲んでいた少しばかり底にマンデリンを残したカップを見て、僕は彼女へと視線を戻し口を開く。
「あの……コーヒー……飲みませんか?」
「……コーヒー?」
「マンデリン……なんですけど……嫌いですか?」
「いえ、あの……コーヒーには詳しくなくて……」
僕はしまったと視線を泳がせた。もしかしたらその時の僕の目には涙が浮かんでいたかもしれない。それでも小さく息を吸って吐いた後に鼓膜へと流れ込んできた彼女の返事に僕は喜びを覚えたのだ。
「その、……いただいても大丈夫ですか?」
「あっ……はい……大丈夫です……あの……ミルクと砂糖はどうします?」
「できたら砂糖を少し……」
僕はその日、レジカウンターを挟んではいたが向き合って彼女とコーヒーを飲んだ。砂糖を入れていないはずのマンデリンが少し甘いような錯覚。目を伏せてカップの中を見ては飲んでいた。両の手でカップを包み込むようにしてマンデリンを飲む彼女は店内を見回すように視線と体を動かしていて、僕はそれをちらちらと盗み見ていた。
カップ一杯のコーヒーが繋ぐ時間など些細なもので、あっという間の時間に僕は胸を痛めた。
「あの、……ごちそうさまでした」
恥ずかしそうに言う彼女へと小さな声で「いえ……」と曖昧な返事を返した僕に、会釈と返す踵。ゆっくりと店内を見回す視線と歩みが一度迷うように止まり、そして再びの歩みに彼女は店を出て行った。その姿を僕は、見えなくなった後も暫く見守っていた。
彼女の手から返って来たカップが手の内にあるのに僕は気付き、彼女の唇が触れていたであろうその縁へと視線を落とし、親指の腹で撫でるようにしてその部分に触れた。頬が、頭の芯が熱くなり、詰まった呼吸のままに息を呑めずに唾を飲み込んだ。
その時の僕は彼女とはそれっきり、だと思っていた。だが嬉しいことに彼女はその後何度かの再訪を繰り返し、今でもその足を運んでくれている。
二度目の訪れは初めてのそれから約二週間後のことだった。午後四時、開店から一時間後の店内で僕はその日も同じ様にレジカウンターの内側に座り雑誌に視線を落としていた。マンデリンを一口飲んだカップへと指を引っ掛けて、それを目もやらずに傍らに置いた殆ど直後だった。
「すいません、ベタを飼いたいと思ってるんですが、……飼育セットは売ってますか?」
気を抜いていた僕の指から離れたカップが僅かな距離で着地面とぶつかる音がした。僕の膝の上では雑誌が跳ねたが、そんなことに気をやる余裕もない。慌てて向けた視線の先ではあの日と同じように申し訳なさそうな笑みを浮かべた彼女がレジカウンター内側の僕を見ていたからだ。
「あっ……すいません……いらっしゃいませ」
「その、熱帯魚を飼うのは初めてで、一通り欲しいです」
僕は慌てて膝上の雑誌をそこら辺へと除けて、商品を案内するためにカウンターの外側へと出た。彼女は直ぐに僕の後を着いて来ていて、歩み出す足に違和感を覚えながらも僕はしゃんと背筋を伸ばすように努めた。
彼女は僕が商品を案内する言葉の一つ一つに頷いてみせて聞いていた。水槽や餌や細かな器具の後に個体そのものへと案内した。赤や青、白や黒。色も種類も豊富なそれに彼女は目を丸くするようにした後それを輝かせていたのを今も覚えている。
一番に彼女の気を引いたのはクラウンテールという種類の雄。色は群青に近い、深い青の美しいベタだった。きっとそれは彼女の一目惚れだった。少しの間そのベタの姿に見惚れていた彼女の横顔に僕は見惚れていた。
「この子を、お願いします」
そして彼女の細く白い指先が水槽に触れ、その先で泳いでいるその群青のベタを指名した。彼女の目を輝かせる、その群青のベタになりたいと、僕は思った。
僕の活動範囲は三階の自室と一階の熱帯魚店、近所のコンビニエンスストア、そして以前は八十メートル北側にある浜崎家に限定されていた。その家に千尋がいなくなってから――いや、人がいなくなってからはそこへは訪れていない。死体を埋めたはずの庭へと、足を踏み入れていない。
それは彼女に初めてあってからの数ヵ月後、限られた活動範囲の一つ、コンビニエンスストアに行った帰りだった。単三電池だけが入ったビニール袋を下げた僕は遠くに彼女の姿を見つけて暫し時間が止まった思いだった。勿論声など僕にかけられるはずもなく、それでも我に返った僕は目で追うだけではなく、足は確かに彼女の背を追ったのだ。
付かず離れずの距離を保ったままに僕は良く知った通りを歩く。そしてその後に驚いた、彼女の家はかつて頻繁に訪れていた浜崎家から僅か一軒あけてすぐ隣にあったのだから。
一戸建て、とても大きいというわけではないが小さいというわけでもないその家の庭へと足を踏み入れた彼女を見守った。庭には手入れされているであろう草花が豊かに生い茂っている。彼女が鞄から出した鍵には花を模したストラップが付いていて、それが太陽光を受けてきらきらと光りながら揺れていた。
――彼女は一人で住んでいるのだろうか?
彼女の姿が家の中へと消えてから数分後、僕はその疑問を解消すべく郵便受けの宛名を窺い見た。そこに記されている名前は一人だけ。僕は彼女の一人暮らしを知り、そして間抜けなことかもしれないが、その時初めて彼女の名前を知ったのだ。、さん。僕が恋する彼女の、名。
幸いなことに彼女の家の窓は僕の自宅三階から望遠レンズを付けた一眼レフで覗き見るに可能な位置だった。それは新たな日常の始まりだった。
かつて浜崎家を覗き見ていたように、僕は一日に何十回も北を向いた窓辺に座り、三脚に固定した古いニコンの一眼レフを通して彼女の家を盗み見る。……シーツや洗濯物を干している……ソファに座り込みまどろむ……ベタに話しかけながら餌をやる……楽しそうに電話先の相手と会話する……庭の草花の手入れをする……玄関に鍵を掛けて仕事へと出掛ける……何度かレースのカーテンの向こうに殆ど下着姿のを見ることができたし、一度だけ上半身に何も纏っていないの姿を見ることができた。息を呑みながらも押したニコンのシャッターに、好感度フィルムに焼き付いたその姿。
店へと来訪してくれるの姿、レンズ越しに覗き見た先のの姿、フィルムに焼き付いたの姿――が好きなのか? そうきかれたら、僕は「はい」と答えたい。そうして彼女を自分のものにしたいか? ときかれても僕は「はい」と答えるだろう、酷く自信無く顔を俯きにしたままで。誰かを幸せにする方法など何一つ分からない僕が、それでも彼女を幸せにできたらもう何もいらないと、死んでさえいいと、思い願う。
彼女と出会ってから約半年、僕は彼女を恋慕い、――そして今に至る。
どうやらベタの水槽に入れる水草を買いに来たらしい彼女は何種類かを纏めて入れてある大きめの水槽へと視線を置いている。水流に揺れる水草に少しだけ顔を近付けるようにして前へと屈められている上半身に、意識されていないだろう衣服の下の此方へと僅かに突き出されている臀部。彼女以外に客のいない店内で、僕はレジカウンターの内側から気付かれないように彼女へと視線を送っている。
前回の仕事帰りにベタの餌を買いに来た時とは違う薄手の羽織り物に休日の私服。淡い色のスカートは腰から臀部のラインへと沿い、後に太股の付け根の少し下の辺りでふわりとした生地でラインを隠している。淡い色と生地の向こうに僅かに透けて見える彼女のストッキング越しの脚。スカートの裾より下のストッキング越しの脚の部分からエナメルのパンプスの方へと視線を下げていった時に客が一人入ってきて、僕は慌てて膝上の雑誌へと視線を落とした。
僕はあの薄手の羽織り物の下、私服のさらに下、素肌と呼べるもの――それを知っている。瞬間、下腹部が、キュンと心地よく疼いた。たぶん、それは優越感なのだろう。
「あの、すいません」
「……ああ……はい……なんでしょう?」
彼女がレジ前まで歩いてきていたのは分かっていた。それでも僕は彼女が声をかけてくるまでまったく気付かなかった、或いは声をかけられたことで雑誌から意識を浮上させたという体で顔を上げて彼女を見た。
「水草を頂けますか? あの、あちらの……」
あちらと言いながら歩き出した彼女の後を、僕は追う。目的の場所へはほんの少しだけの距離だというのに彼女は時折、着いて来ているだろうか? という具合に僕を振り返る。彼女が前を向いている時にその後ろ姿をじっと見ている僕は慌てて視線を違和感の無い場所へと向ける。
彼女が指し示した水草を持ち帰られるように準備しながら僕は、彼女の後ろを歩いた時に香った香りにも思いを馳せていた。男に媚を売るような強いものではないが若い学生が付けているようなものでもない、僕の鼻先を撫でるような香水の香り。多分、香水の香りだろう、銘柄までは分からないが彼女が香水らしき瓶を手に取り自身に付けていたのを僕はレンズ越しに見て知っている。
「あの……千二百九十円になります」
「はい。ええっと……すいません、一万円でお願いします」
その瞬間僕は心の中であっ、と声を上げた。彼女が鞄から財布を取り出す際にストラップの付いた鍵が飛び出すのを見たからだ。そしてそれが音も無くレジ間際の商品に引っ掛かったのも、僕は見た。
「えっと……おつりです……」
札の方から手渡す僕は胸の高鳴りと共に何も見ていないと目線を手元へと落としていた。どうやら鍵が飛び出たことに一寸も気付いていないらしい彼女は僕の僅かに震えている手から小銭を受け取り、それを財布へと仕舞い鞄へと戻した。彼女の会釈に促されるように慌てて会釈を返して、落としていた視線を上げる際に鍵を盗み見る。踵を返した彼女の揺れる髪先と、薄手の羽織り物越しの背中と、忘れられた鍵を見る。
自動ドアの向こう、彼女が自宅とは反対方向へ歩み出したのを見送った僕はレジカウンターの外側へと出た。何処かへ寄ってから帰宅するのか或いはこれから向かう先が大本でこちらが寄り道だったのか、姿の消えたその方向へと視線を向けていた。
そして数分後、僕はストッラップの付いた鍵を片手に店のシャッターを下ろし鍵を掛けていた。急遽早めた閉店は勿論、コピーの鍵を作るためだった。
水曜日――僕が二ヶ月間で得た彼女の情報で確かなものの一つは週休二日制らしい彼女の二日間の休みの内、その曜日だけは必ず決まって休みだということだ。そして水曜日の休みには彼女は朝から家を開けて夕方過ぎまで帰って来ない。
今日という日も朝から出かける彼女の姿をレンズ越しに見守った僕は急いで準備を済ませる。幸いなことに、水曜日は店の方も定休日だ。しかし、もしそうでなければ臨時休業にしていただけだろう。
僕は飾り気の無い鍵を手に取りそれへとまじまじと視線を向ける。あの日舞い降りた機会に慌てて作ったコピーの鍵、の持つ鍵がオリジナルで、そちらは翌日にやって来た彼女へと手渡しで返した。コピーを作った後で再度シャッターを上げた店に当日彼女が来なかったということは、予備の物も持ち歩いていたのだろうと予想できる。それでも翌日やってきた彼女の慌てようと手の内に返って来た鍵に見せた安堵の表情に僕は少しばかり胸を痛めた。
けれど、僕の胸の痛みようとは裏腹に鍵は作りたての煌きを僕に見せ付ける。息苦しいほどの心臓の高鳴り。――今日、僕はこの鍵を使おうと決めていた。
彼女の家の庭には初めて訪れた時と同じ様に手入れされた草花が豊かに生い茂っていた。ただそれが閑静な住宅街の一角のために、彼女の家の玄関扉へと続く道とその場所を人目を忍ぶものにしているような印象を受ける。
辺りに人がいないことを十分に注意して足を踏み入れた庭で胸いっぱいに吸い込んだ空気は澄んでいて、いつもどこからか潮の香りがするこの街でもそれを束の間忘れたようだった。そして目を向けた先の白い花達に鼻先を近づけて嗅いでみたら甘い香りがした。詳しい種類は分からないが多分、ジャスミンだろう。
いつまでも庭を散策するわけにもいかず、勿論それが最大の目的でもないのだから、僕は高鳴る心臓のままに歩みをその先へと向けた。――今なら、まだ戻れる。ただ庭先の草花に惹かれて足を踏み入れてしまっただけだと言い訳できる。今なら、コピーの鍵をこの鍵穴へと差し込んでいない今なら……。
カチャリ、と鍵穴へと差し込んで回した鍵の先で上がった開錠の音が辺りに響いてしまうほどの大きい音に聞こえたのは僕の緊張のためだろう。誰かに聞かれてはいないだろうか、見られてはいないだろうか、僕は振り返るようにして人目を探り、そしてドアノブを回して扉を開けていた。するりと入り込ませた体。胸いっぱいに彼女の家のにおいを吸い込み、そして靴を脱いで持参していたビニール袋に仕舞った。
――僕はもう、後戻りをできはしない。
レンズを通して覗き見ていた彼女の家の中を歩き、そして覗き見ることができなかった場所も隅々まで自身がいたという痕跡を残さないように注意しながらも見回った。
一人で座るには余り有ると僅かに眉を顰めて覗き見ていたソファは目前に見るとやはり大きい、が覗き込んだその下に潜り込むに十分なスペースがあることは喜ばしい。背筋を戻した僕を見るように、ソファのその先へと置かれていた水槽の中から群青のベタが顔を向けていた。つい先日彼女が買った水草がその水中に揺れている。水槽に歩み寄り、覗き込んで数秒を過ごした僕は上げた視線でリビングから出る扉を見る。寝室の場所も、勿論僕は知っている。
寝室へと足を踏み入れた僕はソファと同じ様に、その下のスペースを覗き込んだ。十分だ。そして戻した姿勢でベッド周りを見回しながらポケットの中の物を指の腹で撫でた。
――それはいつか使ったものより僅かばかり性能の良い盗聴器。小型のそれをあわよくば何処かに忍ばせられないかとポケットに入れてきたのだ。だが、どうにも満足な場所がない。仕方ない、と同じ様に持ってきていたテープをポケットから出した僕は再度ベッド下を覗き見、そして潜り込んだ。ベッド裏、テープで貼り付けたそこから落ちないことを確認してから僕は「もしもし……こちらは三井直人です……感度はどうですか?」と、の家の中で初めて声を出した。機能事態は以前使ったそれと同じで、音声を感知して今、僕の自室にあるテープデッキが録音を始めているはずだ。僅かばかりの性能の向上はバッテリー機能にある。一週間は持つらしい。
盗聴器を仕掛けた僕は彼女が身を横たえているであろうシーツへと視線を数秒やり、そしてそこへと自身の体を横たえてみた。彼女の香りが僅かにして、錯覚である彼女の熱を感じた。まるで彼女に抱き締められているかのような夢心地を覚え、あまりこうしていると自身の体臭が移ってしまうかもしれないと体を起こした。
当ても無く寝室を歩き回り、僕は飾られている香水の前でその足を止めた。幾つかある香水はどれもシンプルで飾り気のないガラス瓶に入っている。その内の一つ、『白昼夢』と記されているものを手に取り、そっと鼻先に近付けてみた。良い香りだ。だけど彼女から香るそれはこの香りじゃないと首を振る。そして他のものを手にとっては鼻先に近付けることを繰り返した僕は、幾つめかの香水に首を縦に振った。これだ、確かにこれが彼女の香りだ。その香水名には彼女の名前が一部として使われていた。これは、オーダー香水というものだろうか。これでは探して同じものを買うことはできないと残念な思いで、もしかするとその香水名から彼女が購入したものかもしれないと、とにかくその香りを胸に深く吸い込んで記憶の引き出しへと大事に仕舞った。彼女の寝室でその香りを肺いっぱいに吸い込んだことで僕は少し頭をぼぅっとさせた。
そして、彼女が帰って来るであろう夕方より数時間前まで彼女のことを知る行為を続けた。
自分の分とは違うカップへと僕は砂糖を加えた。マンデリンの中へと直ぐに溶けてしまったそれをコーヒースプーンでさらにくるくると掻き混ぜる。震えそうになる指、その腹をなだらかな側面へと滑らせて心臓を落ち着けようとする。ちらりと盗み見るように向けた視線の先には、がいる。初めのあの日のように、僕は彼女と向き合ってコーヒーを飲むことができる。それが僕の心臓を息苦しいほどに高鳴らせる。
今日は特に買う物を決めての訪れではない彼女はゆっくりと時間をかけて店内の水槽を覗き回るらしい。今日という日が彼女の休みだと前日から分かっていた僕は、開店までの午後三時を心待ちにし、そしてレジカウンターの内側で酷く落ち着かないままで座っていた。盗聴器から流れてきた彼女の声で、三階の自宅にいる時から彼女が下の階である店に訪れることは分かっていた。だけれど、本当にくるだろうかという不安と期待が入り混じった心中が外へと溢れ出てしまうのだ。
午後三時を十分程過ぎた頃、確かに店を訪れた彼女のその姿に僕は息が詰まるほどの喜びを爆発させた。勿論、表面上に出ないようには努めたが。そうして店内をゆっくりと見回る彼女の姿を目に焼き付けるように僕は見ていた。これもまた勿論のことだが、店内にいる他の客には気付かれないように努めた。店内にいた客はカップルらしい男女の二人組みだけだったので、そう気にかけることもなかったが。
彼女以外の客が店内にいなくなった、それを見回した視線で僕は確認した。僕はその事実とまだ熱いマンデリンという二つの事柄に交互に視線をやり、迷いに迷う。それでも、彼女とまた向き合ってコーヒーが飲めるという誘惑にその迷いが勝つことはなかった。
レジカウンターの内側から外側へと出た僕は迷い迷いの足取りで彼女の背へと向かう。
「……あの……すいません……あの……」
僕の小さな呼びかけに彼女は熱帯魚を見ていた視線をゆっくりと振り向かせた体で僕へと向けてきた。彼女とぶつかった視線に僕は喉を詰まらせる。なんだろう? というようにほんの僅かに彼女の首が傾けられるのを僕は見た。
「あの……もしよかったら……あの……コーヒー飲みませんか?」
目を泳がせる以上に彼女から顔を背けた僕に、僕の顔を彼女がじっと見ているのを感じる。熱い。頬が、頭の芯が。
そして僕は彼女が笑うような空気を感じた。
「砂糖はありますか?」
「あっ……ええっと……はい……砂糖もあります」
「では、いただいても大丈夫ですか?」
「あっ……はい……大丈夫です」
は僕を見て微笑んだ。僕は、酷くぎこちなく頬を緩ませた。
あの日と同じように両の手でカップを包み込むようにしてマンデリンを飲む彼女は、あの日とは違って僕へと顔を向けながら会話するように僕へと口を開いていた。僕は、緊張のため余計に回らない舌で必死に言葉を返すようにして彼女と同じ様にマンデリンをなめるようにして飲んでいた。
「あの、――」
不意に、彼女の言葉が途切れた。僕は何か不味いことで言ってしまったか、見せてしまったかとうろたえる。彼女の視線が僕を逸れて右へ左へと泳いで、戻って来た。
「あの、オーナー……さん? 店長さん? は――」
彼女は僕を呼ぶに使う名称に言葉を途切れさせたのだ! それに胸を熱くした僕は思わず「あっ……あの……三井……直人です……」だなんて最悪なことに彼女の言葉を遮って吐いてしまった。
僕が言い終わると同時に呆気に取られたような表情の彼女と僕との間に数秒の沈黙が訪れた。とても、とても長く感じて体全体にどっしりと重い沈黙。
遅過ぎるにしても言い訳を言わなければと口を開いた僕は確かな中身の無いそれしか零すことができない。
「いえ……いえ……あの……僕は――」
「三井さん、……ですね?」
今度は僕の言葉を遮って彼女が言った。向けた視線の先、僅かに悪戯な笑みを浮かべている彼女に僕は羞恥のために目を泳がせた。これ以上にないと顔に熱が集まる。だから、彼女が告げる自己紹介にも彼女の方に目を向けることができないまま、顔を背けたままで必死に頷くことしかできなかった。
僕はあなたの名前を既に知っています。どういう風に綴るのかも、知っています。心の中では何度も、何度も、あなたの名前を呼んでいます。
「常連になれるほどには何も買ってないですけど、良かったら今後ともよろしくお願いします」
彼女が頭を下げてまでそう言うものだから、僕はそれ以上に腰を折り頭を下げた。聞き取れるかどうかの声での返事も付けて。
誰かに名前を呼んでもらうのはいいことだ。そして彼女の唇が僕の固有名詞を紡いだという事実はそれ以上に、とても、とても、喜ばしいことだった。
水曜日は彼女が出かけて直ぐに彼女の家に向かいその後の帰宅までその場で過ごして帰ってくるか、彼女の帰宅のほんの少し前ぐらいに準備してから向かい彼女が翌日仕事に出てしまうまでの一晩をソファ下及びベッド下で過ごすかだ。
水曜日以外の週の内の休みは定まっていないが、判別することができる。それは翌日が休日の場合、彼女は決まってその夜に夜更かしをするからだ。翌日が休みの場合、彼女は日にちを跨いでの読書に励む。そうだ、彼女は一切本を読まない僕とは違い、よく本を読むらしい。彼女の寝室にある本棚には大小様々な書籍が並んでいた。一冊のハードカーバーである本の背を指先で撫でたのを覚えている。翌日が仕事の日でも本は読むが、早々に切りを付けて眠ってしまうのを僕は知っている。
僕は彼女の細くて白い指がページを捲くっているであろうその紙の乾いた音に耳を傾けながら、ベッド上、僕自身から少しばかり上に離れた所にある彼女の姿を目を開けたままか或いは閉じたままに想像しては胸を高鳴らせていた。
やはり一週間に一度のバッテリーの交換が盗聴器には必要だ。それでもその労力はまったく僕の苦にならない。僕は頻繁に彼女の家に訪れているからバッテリーの交換はそのついでに行えるし、それに得られるものが大きい。自宅の自分のベッドの上でアンプを通した彼女の声を聞くのは僕に喜びという感情を教えてくれる。
帰宅した彼女が一番に声を発するのはあの群青のベタに向けてだ。彼女の「ただいま、キンギョサン」という可愛らしい声がアンプを通して僕の鼓膜をくすぐる。『キンギョサン』とは多分、文字で書くとするなら金魚さんと記すのだろう。群青のベタに名付けられた、彼女に名付けれたその名にさえ羨ましいと思わずにはいられない。嫉妬、それと同時に彼女に呼んでもらえた僕自身の固有名詞のあの瞬間を脳裏に再生しては幸せの感触をいつまでも慈しんだ。何度も何度も、その感触を取り出しては慈しんだ。
彼女は頻繁に『カオルチャン』という人物と連絡を取り合っているのを僕は知っている。ベッドのスプリングを軋ませながら楽しげに会話する彼女の声をアンプを通して聞く、その会話のどこかに彼女をもっとより深く知れることがあるかもしれないと、僕は耳を澄ませる。また、ベッドサイドにあったメモ書きで水曜日の出かけ先がその子と待ち合わせていることが多いということも僕には分かった。明日、薫ちゃんとカフェに行く。彼女の走り書きを見た僕はその薫ちゃんという人物を勝手に想像に浮かべてみてはその隣或いは対面にいるであろう彼女の姿を思い浮かべる。
例えばどこかお洒落なカフェのテラス席、僕の向かいで彼女が汗を掻いたグラスに指を添えながらストローを銜えて上目遣いに僕に視線を送っている、それを想像してみる。そんな幸福の絵が、決して訪れない未来が、目に涙を浮かべるほどに眩しい。
午後二時、僕はまどろむような陽の光を受けながら宅のソファに腰を沈めている。
「こんにちは、金魚さん」
朝、リビングに足を踏み入れた僕はいの一番に群青のベタにそうやって声をかけてみた。彼女が呼んだように呼んでみて、もしかしたら『さん』までが名前で敬称を付けるなら『金魚さんさん』が正しいのかもしれないと、僕はもう一度その名前を呼びながら浮かぶ笑みを抑え切れなかった。
昨日彼女がそうしていたようにソファの肘掛部分に顎を乗せたうつ伏せで指先にフローリングのつるつるとした感じを覚えていた僕は、不意に家の外に彼女の声を聞いた。
まさか今日は水曜日だと僕は跳ね起きた。今朝だっていつもの水曜日通りに朝から出かけたというのに、いつもと違って夕方より大幅に早く帰って来たのだ。僕は僅かに焦った心臓のままに素早くソファの下へと体を滑り込ませた。大丈夫、こんなことは以前だってあったのだ、大丈夫だろう。そう心の中で繰り返して一瞬焦った心臓を落ち着かせた。
僕がソファの下で気を落ち着かせた後、暫くして彼女の一声を聞いた。ベタに挨拶するそれだ。そして、僕はまた心臓を焦らせた。
――一人じゃ、ない。僕は音も立てずに息を呑む。
彼女の声とスリッパを履いた足が廊下を歩くパタパタという音、それに遅れて彼女に着いて来ているであろう同じ足音に声。彼女が『薫ちゃん』に話しかけている。返事を返す低い声は到底女の人のものとは程遠く、僕は体をソファの下に横たえているというのに、胃の中に大きな氷の塊がすとーんと垂直に落ちてきたように感じた。
「、もしかして風邪をひいてる?」
「ううん、風邪じゃない」
「花粉症?」
「花粉症でも風邪でもないし、分かってる」
「分かってるって、……つまりそれはどういう意味?」
「分かってるって、つまりそれはそのまま意味」
「……そうか、つまりそういうことか。そうか……でも、いいのか?」
「うん、いいの」
僕は二人の会話をソファの下でじっと聞いていた。胸焼けのような感覚を覚えながら繰り返した瞬きにすっと涙が流れてフローリングに零れた気がした。それでも僕はそれを服の袖で拭えもしなければ声を上げて咽び泣くなんてこともできなかった。
窓の外は暗い、の作った夕食を食べて談笑していた薫が席を立ち、ソファの側に立ったのを僕はスリッパを履いたその足先を見ながら確認した。
「、ジャスミンを少し持っていってもいいかい?」
「どうぞ、薫ちゃんの育ててるものとは比にもならないけど」
「否定はできないけど、此処のもいい匂いだ。控え目で、淑やかで、優しい香り。だから――」
「だから、ジャスミンは辺りが暗くなってから摘むように。でしょ? 分かってるよ」
彼女の笑うような声色が僕の胸を締め付けて辛い。窓の外に広がる暗がりにもし薫という直ぐそこにいる男がこのまま帰らなければどうしよう、そうなったらその先にあるものはなんだろう、その時僕はどんなに胸を痛め、何をしてしまうだろうかと、痛む頭で考えた。
暫く後に言葉通り庭先からジャスミンを取ってきた薫に、その花の香りがソファの下まで僅かに流れてきていた。いつか嗅いだその甘い香りがやはり胸に痛かった。
「、そろそろ帰るよ」
多分ジャスミンを抱いたままに談笑を続けていた薫が切り出した言葉に僕はえっ、と身を固くしていた。最悪の展開ばかり考えていた僕は拍子抜けする思いを覚えたのだ。勿論、そうなって欲しかったなど一片もなかったのだが。
「そう? じゃあ、気を付けて帰ってね。それと、……彼女さんにもよろしくね」
「……あぁ」
そして歩き出すスリッパの音に、玄関先まで見送るであろう彼女の声にスリッパの音が着いて行く。
僕は呑んでいたままの息を静かに吐き出した。何度か繰り返した深呼吸に、瞬き。胸が軽くなった思いだ。勘違いであってほしくない、薫という人物は彼女の恋人ではないようだから。僕は涙の乾いた跡を手で擦り、そして涙の浮いているであろう目を瞼の下に閉ざした。
ベタの為の冷却ファンを買いに来ているの上半身の衣服は季節の前に薄く、そして丈が短い。指と同じ様に白い肌、手首もびっくりするほど細くて肩の方に視線を流していく途中の二の腕の辺りで頬に集まる熱に目を逸らしてしまう。ブラウスの胸元には上から下へとフリルが付いているがその生地が僅かに薄い。そのために僕の見間違いじゃなかったらブラウスの向こうにブラジャーの色や形が透けて見えた。それに胸を高鳴らせながらもこの後に誰の目にも触れずに彼女がすぐさま家に帰ってくれればいいと願う。パンツの丈は上とは反対に長い。裾に向かうほどに広くなるそれも生地は薄そうだが透けてはいないために彼女の脚のラインは確認できない。踵の高いパンプスを履いているために今日の彼女との距離がより近いようで煩いばかりの僕の心臓の音に気付かれやしないかと手に汗を握ってしまう。
弾む会話とは言い難いがそれでも、彼女と会話というものを楽しめる今を僕は生きている。それがとても喜ばしい。
やはり会話の主は熱帯魚のことになってしまうが、それでも彼女は僕の話を真剣に聞いて相槌を打ってくれるし笑みを見せてくれる。彼女の唇もまた僕に話を聞かせてくれるし、僕が耳を傾けていることに彼女がその目を向けてくれる。
彼女が紡ぐ言葉を必死に聞いている僕はそれでも彼女の素肌の眩しさやブラウスの向こうに透けているそれに目を泳がせてしまう。だからそれはもしかしたら必然だったのかもしれない。彼女の鞄から覗いている文庫に、そのタイトルを僕は盗み見た。『熱帯魚の夜』というタイトルで、著者の名前も確認した僕は彼女の話を聞きながらもそれらを記憶の片隅にひっそりと置いた。
活動範囲が広がった。僕は書店で彼女が読み終わったか読んでいる或いは読み始めるであろうその本を探して買って来ていた。自室のベッドの上に座り込んだ僕は書店で確かめたがもう一度とじっくりとその表紙を見た。水底から水面を仰いだアングルのもので、揺らぐ水面の向こう側には日光は透けていない。多分、その向こう側にあるのは薄暗い曇り空だと思う。
つやっとしたものではなくどこか肌にしっとりとした表紙の素材に指先を数回滑らせて、僕は読み始めるために捲くった。
これはどうやら恋愛物のようだ。主人公の女性側よりの三人称で書かれており、忍んだ恋が淡々とした描写で綴られていた。今まで殆ど本を読んでこなかった僕だが、それでもこれは苦痛無く読み進められそうなものだった。それを時間の許す限り――あまり睡眠時間の要らない僕だから盗聴器から流れてくる音声に耳を澄ませながらの本当に休憩無しの長い間――読み耽った。
ただ、話の残量が半分程になったところから怪しくなってきた雲行きに僕のページを捲る指先も痺れたように鈍間になっていた。明るい色をしていた忍ぶ恋が薄暗くなり始め、主人公が歩むその恋の道が世間一般的とは言えない部類のものになってきたのだ。
主人公が思い人の住む家の外から彼がいるであろう部屋の灯りが消えるのを見守っている、そんな意味合いの文を読みながら首を捻っていた僕だが、その先十数ページを読み進めた後には本の背を支えているのとは反対の片手で自身の顔を手の平で覆っていた。主人公が思い人の家へと足を踏み入れた――それは世間で言うところの不法侵入――という意味合いの文を読み終わってから、僕は栞を挟まぬままに本を閉じた。静かに息を吐き出した、それは深く深くに。
深呼吸数秒の後に、僕はだいたいの位置を見開いてから捲った指先で途中となった場所を見つけ、読書を再開した。
中断から数分後の僕の目下に広がる活字、行為。淡々と綴られる事柄、ベッド下の主人公の目と鼻の先――実際はもう少し上の方だが――で行われている思い人の自慰行為。その声を聞きながら体を火照らせる主人公が自身の皮膚上へと這わせるよう伸ばした指先の行方、僕は一度本から視線を上げて現実の天井を見上げた。それから、活字へと視線を戻した。
僕の夜が更けて、そして明けていった。
金曜日、僕は店のシャッターを早々と下ろし湘南古代魚センターを閉めた。今日のは仕事に出ているから、まだ帰らない。彼女の翌日が休みであれ仕事であれ、今日は彼女のベッド下で一晩を明かせるつもりだった。
念のためにレンズ越しに彼女の家の中を覗き見、誰もいないことを確認した僕は手早く準備を済ませ、そして後には慣れた動作で彼女の家の中にいた。彼女の寝室に、いた。
ベッドサイドには文庫が置いてあり、今は僕も知った『熱帯魚の夜』の表紙が表に見えるようにあった。それは栞を挟まれており、僕は本を慎重に手に取りそしてより慎重に栞が挟まっている箇所を見開いた。それは僕が一度栞も挟まずに閉じてしまったところだった。だとすれば、続きを読み始めた彼女は直ぐにあの場面も読むのだろう。僕は、栞をそのままに静かに本を閉じて確かに元の場所へと戻した。僕はリビングに向かう。ソファの下で彼女の帰宅を迎えるつもりだ。
彼女の帰宅、夕食、安らぎの時間に、シャワーを浴びているであろう音。僕はソファの下でそれらを見て或いは聞いてから彼女の寝室へと向かい、そしてベッド下へと潜り込んだ。
暫くして開く寝室の扉の音。ベッド近くに歩み寄るのお風呂上りのにおいに、揺れるパジャマの裾。少し身動ぎ鼻を寄せればもっと深く香りを吸い込められそうだった。
僕はベッドの軋む音を聞いた。主の電灯は消され、ベッドライトの薄暗い灯りがぼぅとした影を寝室に作っている。紙を捲くる乾いたような音、彼女が読書を始めたのだと僕は知っている。僕が既に読み終えたものを彼女が読んでいる、そしてその活字を伏せた睫毛と目で見る彼女を想像した。
そういえば、彼女は本のタイトルである『熱帯魚の夜』に熱帯魚店である僕の店を思い描いたのだろうか、そこにいる僕を思い浮かべることは?……ほんの少しの希望だが、彼女が僕のことを少しでも思い浮かべ考える時間があるのだとすれば、僕は嬉しい。きっとそれだけで救われる心の一部があるのだから。
そう時間が経たない内に、彼女が本を閉じる音を僕は聞いた。彼女がベッドサイドへと本を置いたらしい音に、そうか明日は仕事なのかと思った僕はベッド上へと見えぬまでも視線を向け、耳を傾け、彼女の寝息とその寝顔を思った。
――そして澄ませた僕の鼓膜へと流れこんだそれは僕の心臓を鷲掴みにするかのような衝撃、驚きを与えた。
「あっ……ああっ……」
初め、それが何なのか僕には分からなかった。いや、心のどこかではそうだと分かっていたのかもしれない。それでも、彼女がまさかそんなことをするだなんて思わなかった。彼女だって聖人でもなければ勿論心の無いマネキンではないのだから、そう――情欲に身を焦がす夜だって、あるだろう。
抑えた声で控え目に始められたそれは僕の目と鼻の先で行われている確かな事実だ。空間で言えば彼女が喘いで出した空気を吸うことができる場所にいるし、尖らせた神経に集中させた聴覚で捉えた彼女の濡れた声は視界を閉ざせば直ぐ隣に感じられそうだ。目は変に冴えて閉じることができないが。
身を捩ったことによるシーツの衣擦れの音と耐え切れないとばかりに漏れ零される淫らな声が僕の目頭を熱くさせる。僕は涙を浮かべた目で見えぬベッド上を見ていた。僕の腕や足は勿論ロープや紐なんかで拘束されてはいない。だから、ベッド下から飛び出て彼女に馬乗りになれる状況にそれを実行しないのは僕にそんなことをする意気地なんてひとっつもないことや彼女に非難されたくないという気持ちとなけなしの理性からだ。
僕は彼女の艶めいた声を鼓膜へと通しながら両の手を重ねるようにして自身の口を覆った。そうしなければ喘ぐような僕の呼吸が彼女に聞こえてしまうのではないかと思ったからだ。すぅっと流れた感覚は多分、僕の涙が皮膚を伝って髪間へと流れたからだろう。僕の意思無しに流れた涙なのに熱を持った肌にさえそれがさらに熱く感じた。
思考は少し、朦朧としてきている。彼女が自慰に耽っているその姿を一目でもいいから見たい、扇情的に脚を大きく開いているのかそれとも閉じた脚に手を挟み込むようにしているのか、僕には想像することしかできない。
気付くと、僕の股間では男性器が石のように固くなっていた。それでも、両の手は自身の口を覆うので手一杯だ。澄ませた僕の耳には粘着質な水音が僅かに聞こえた。
ずいぶんと長いようにも感じたし、あっという間の短い出来事であったかのようにも感じた。彼女の淫らな声も本当のことで、僕の頭痛を覚えるほどの胸の高鳴りも確かな事実だ。
最後に彼女は、悲鳴にも似た甲高い声を上げた。それは口元へと運んでいた指先の合間を縫って聞こえたものかもしれないし、横に向けた顔のままシーツの上を転がり滑るように聞こえてきたものなのかもしれない。確かに言えることは彼女が快楽の絶頂に達したということだった。
肩で息をするような彼女の声を、僕は涙の浮かんだ目のままに聞いている。整わないまでもはっ、はっ、と短い息を続けて吐いた彼女のベッドを下りたための軋み。僕はスリッパを履かずに床にぺったりと着かれた彼女の足を見た。ゆっくりと、或いはふらふらと彼女は寝室を出て行く。
彼女が寝室を出て行くのを見守った僕は遅れてその後を着いて行った。
くぐもった豪雨のような音はシャワーの音だ。僕は斜め上に向けた視線で彼女のシャワーシーンを想像し、暫しの後に寝室に戻った。
捲くられたままになっている薄い掛け布団に僕は目をやる。恐る恐るといった様子で指先を伸ばし、シーツへと触れた。そこには彼女の温もりが今も残っている。生地を確かめるように指先を何度か滑らせ、そして心臓を高鳴らせながらその場所へと顔を寄せ、鼻先を寄せる。彼女の香りがした。数分もない前の名残を探すように、さらに鼻先をシーツへと埋めるようにして深く香りを吸い込んだ。――今では男性器が痛みを覚えるほどに強く硬直している。思わず指の後が残るほどにシーツを握り締めていて、僕は慌てて放したそれを手の平で直すように何度も伸ばした。必死に手を動かしながら、頭では彼女の乱れた姿ばかりを想像していた。
今夜は予定を変更しよう、自宅へと帰ろう。
僕は瞬きでたちこめる香りのような誘惑を押さえ込み、これを最後にとばかりに深く香りを吸い込んだ。
そして足早に、勿論それでも慎重に、寝室を出てリビングにある窓から出た。歪な歩みで僕は自宅へと急いだのだ。
――しっとりと濡れた肌からは普段の彼女の香りがより一層の甘さを伴って香る。背骨に沿うような窪みを鼻先でなぞるようにしてその香りを追った僕はその腰の上辺りを舌先でぺろりと舐めてみた。ほんの少し塩辛い、けれどそれは香り通り甘く、飲めるがすすんでは飲まないアルコールをめいっぱい飲んだように意識が朦朧とした。
身を捩って僕の顔を見ようとする彼女の腰と肩口を押してそれを制した。背後から覆い被さるようにしたのは彼女の僕を非難しているであろうその表情を見たくなかったからだ。
彼女の肌に僕の肌をぴったりとくっ付けるようにして重ねた体で僕は彼女の項を舐め上げた。僅かに痙攣するような震えと指先が白くなるほどにシーツを握り締めた彼女は抑え切れない喘ぎ声を零し、その声を聞いた僕は堪らないとばかりに彼女の頭を髪の毛と共に掻き抱いた。
今やはち切れんばかりに勃起した男性器が彼女の尻の肉を突き込むようにしてその瞬間を待ち望んでいた。
「、さん……さん……」
僕の喘ぐような呼びかけは許しを請うそれだが彼女は嫌々をするように首を振った。そのことに僕は悲しくなり、それでも行為を止めるだなんて選択肢を浮かばせることもなかった。
そして、その時がやってきた。
女性器に少し乱暴に押し付けた男性器はきつい肉の壁をゆっくりと押し開きながら、奥へ奥へと進んで行った。彼女の悲鳴のような呻き声を聞きながら僕自身も呻く声を彼女の肌へと零す。満たされた思いと比喩でもなんでもない確かなあたたかさに自然と零れてしまうのだ。
シーツを握り締める彼女の指先へとどこか虚ろ気な視線を置いたまま腰を引き、そして突き出す。僕の胸の下で彼女の背が反り、そしてシーツへと埋まるように力無くその体は伏せられる。もう一度腰を引き、そして突き出す。彼女の反応を確かめながら、もう一度、もう一度と、もう一度を繰り返す。
初めはゆっくりだった律動がいつしか乱暴に彼女の体を揺り動かすものになっていた。僕の性器は彼女の中でこれ以上ないほどに膨れ上がり苦し気に何度も痙攣していたし、彼女の声もまた限界を迎えようとするそれだった。
僕は最後にの名前を呻き、彼女の体を抱き締めたままに中へと精液を注ぎ込んだ。彼女は女性器で僕を締め付けながら僕の名を呼んだ。そんな、気がした……。
仰ぎ見た薄暗がりの中へと視線を固定して何度か瞬きを繰り返した。ゆっくりと見回すと水槽の明かりに照らし出された僕の部屋の全体が浮かび上がる。暫くよく知ったその部屋を見回してから戻した視線で天井を仰ぎ、僕は右腕で目の上を覆った。
――そう、全ては夢だった。愚かな僕の生み出した空想上のことだった。下着の中の不快感だけが現実のものだった。
その日、彼女は店に来なかった。
元よりあまり睡眠時間を要しない僕だがいつも以上に冴えない思考と鏡に映りこむ顔色の悪い男を見る限り、あまり良質な眠りを得ていないなと言う他に無い。現に向き合って彼女を見ることのできなかった内の一昨日昨日今日を振り返りながらベッドに横になっていても、頻繁に寝てもいないのに寝返りをうつしかできない。いつもなら一時間ばかりウトウトすることもあるのに、それもない。
手持ち無沙汰にベッドから立ち上がり北側の窓へと寄りそこから三脚に固定した古いニコンの一眼レフを用いて彼女の家を覗き見るが見えるものなんて頼り無いベッドライトの明かりに浮かぶカーテンだけだ。僕はいつもより重い溜息を窓際へと落とした。そしてただただ寝返りをうつために再度ベッドに横になった。
今日という日は月曜日である。憂鬱な一日を始める人が多数いるらしい曜日の朝がきた。大小様々な水槽の明かりでぼんやり明るい部屋で、閉め切っていなかったカーテンの僅かな隙間から薄眩い朝日を見つめる。ぼんやりとすること数分、僕はハッとしてベッドから弾き上がり、脳裏に思い描いたものへと迫り寄っていた。
震える指先で操作したそれに耳を澄ませる。ヴォリュームを操作していなかったために極小さな音で流れる彼女の声。それに僕は胸をぎゅっと握りこまれたかのような息苦しさを覚えた。
巻き戻し、巻き戻し、驚愕と誘惑の始まりである音声の始まりへとその行動を繰り返す。やはりあの夜の音声はしっかりと拾われて録音されていた。巻き戻すとほんのあっという間の記録に僕は既に頬を紅潮させている。
そしてあの夜が再生される。
『あっ……ああっ……』
抑えられた控えめな声、それが始まり。僕は少しヴォリュームを上げた彼女の声を縋りつくようにして聞いていた。
『……あっ……あっ……』
短く小さな弾き上がるような嬌声に僕は自身の目をしっかりと閉じて彼女の痴態を脳裏に思い浮かべる。彼女は淑やかにシーツに体を横にして、まるで母親の胎内にいるように体を丸めているのだろうか。そしてその右手を自身の太股に挟むようにしているのだろうか。その指先が一定のリズムで彼女の敏感な部位を掻くようにして弾いているのだろうか。鼻に籠もったような声はもう片方の左手で自身の胸を弄っているのかもしれない。
『ああっ……あっ!』
少し音量の上がった嬌声、左手の指先は摘まむようにしていた乳首にぎゅっと力を込めたからかもしれない。
彼女の連続した淫らな声は止むことを知らない。
シーツの衣擦れの音がする。そうだ、多分彼女はここで体制を変えている。その後の嬌声は枕へと零れ染み込んでいるようだから。
『うぅん、……』
鼻先を埋めた彼女のくぐもった声はあまりにもいじらしい。
『あっ、いやっ……』
彼女の皮膚に浮いた汗を思う、しっとりと濡れた肌の手の平に吸い付くような感触を、僕は朦朧とする頭で想像する。
『……あぁ……』
諦めにも似た零れる声。彼女も頭の芯を熱くさせているのだろうか。その指先は弾き上げるだけに止まらず彼女自身の中に潜り込んでいるのだろうか。やわく熱く締め付けるだろう中へと。
『あっ! あっ! ああっ!』
必死に耳を澄ませてもヴォリュームを調整してもそこを掻き混ぜるような粘着質な水音は聞こえてこなかった。それが少し残念だ。ただ僕の聴覚をいっぱいに占領した彼女の声はそれを吹き飛ばすような幸福感だった。
『あっ、ダメっ!……あっ! あああああっ!』
一際甲高く我慢できないといった声に、あの夜と同様に彼女が快楽の絶頂に達したことを僕は知る。肩で息をするような声も同様に涙の浮かんだ目のまま聞いて、短い連続の息を聞いた僕は停止のボタンを押した。
震える指先、それで巻き戻す僕はもう一度の再生を決めている。ペニスはすでに石の様に硬くなって脈打ちを繰り返している。
再生を押す前から、想像上では彼女が潤んだ目で僕を不安げに見上げている。その目の中の僕はよく見えないから、現実のものよりは幾分頼りがいのある男に見えているのかもしれない。想像上の僕が赤く色付いた彼女の頬へと自身の唇を押し付けるようにしてから再生ボタンを強く押し込んだ。
『あっ……ああっ……』
彼女の唇から漏れるその声が僕の指先で触れたためであるように、想像する。彼女の期待に濡れた目を覗き込みながら、僕は片方の手をその肌の上へと滑らせるのだ。臍の上からその窪みを通りその先を下へ、下へ、もどかしげに太股を擦り合わせる彼女のその肌と肌に割り込むように手を滑らせ忍ばせる、想像。そして錯覚。下腹部にきゅんと走るときめきのような感覚。
『……あっ……あっ……』
僕の指先はゆっくりと、それでも執拗に彼女のクリトリスを撫で上げる。その度に短く小さな弾き上がるような嬌声が彼女から上がる。熱はじんわりと高まりをみせ、決して冷めない。
想像上の僕は目の前の彼女のことで忙しく、現実下の僕はそれを思い描くことに忙しい。片手をスピーカーに縋るようにしながらもう片手で自身のペニスを扱くことに、僕は忙しい。
僕の手がまるでパン生地をこねるかのように彼女の胸を揉みしだく、彼女は鼻に籠もったような声を零す。手の平の下の感触に鼻先を寄せると彼女の甘いにおいがした。鼻先が彼女の乳首につんと触れた。
『ああっ……あっ!』
触れていた彼女の乳首を唇で食み、力を込めずに噛んだ瞬間の、少し甲高い声。シーツの衣擦れの音、彼女の腰が引けるのを僕はその腰を捕まえることで押し留めた。不安げな視線を僕へと向けてくる彼女に精一杯の笑みを向けた。
僕は彼女の背中も嫌いじゃない。背中が僕の目下になるようにくるりとうつ伏せになった彼女は鼻先を枕に埋めるようにした。僕の執拗な指先による喘ぎを枕へと染み込ませる。
今や破裂するのではないかと思えるほどぱんぱんに膨れ上がった男性器。僕は両の手の指先を使って彼女の膣内を見ようとするようにそこを掻き開いた。
『うぅん、……』
いじらしい彼女の声と共に濡れたそこが僕を誘惑してやまない。片手で自分のペニスを握りそれで彼女の膨張したクリトリスに何度か擦り上げるようにして触れた。
『あっ、いやっ……』
心地好い感覚ともどかしさ、痛いほどに張り詰めたそこに走る快感。もう我慢ならないと僕は彼女の背中に獣のように覆い被さった。片手はシーツを握り締める指先に絡めるようにし、もう片手でペニスの先端、亀頭を膣の入り口へとぴったりとくっつける。粘膜同士の触れ合いに僕は溜息のような息を彼女へと零す。
『……あぁ……』
ズッ、ズズと、少しずつ肉を掻き分けて女性器へと埋もれていく男性器に彼女は溜息のような喘ぎを零した。やわく熱い締め付けが先の方から根元の方に向けて範囲を広げていく。強引に押し広げる僕に彼女は熱に浮かされたような声を出す。
そして彼女は僕のものを全て飲み込んだ。幸福感は僕の髪先から爪先まで全身を駆け抜ける。僕はそれを追うようにゆっくりと腰を引き、同じ様にゆっくりと前方に突き出した。電流のようにそれは僕の全身を走る。目が眩む思いでもう一度腰を引いて、今度は先ほどより力を込めて突き出した。快感がちりちりと僕の思考を燃やしている。
だからいつしか僕は、強引に彼女を揺り動かすように絶え間なく腰を打ち付け続けていた。
『あっ! あっ! ああっ!』
嫌々をするように首を振っている彼女が零す短い連続した喘ぎ。制止の声にも聞こえるそれがさらに僕を昂らせる。僕の性器は痙攣しながらも彼女の膣を激しく行き来した。
『あっ、ダメっ!……あっ! あああああっ!』
快楽の絶頂に達した彼女はその膣で僕のペニスを一際強く締め付けた。ぶるりと一層大きく身を震わせた僕はもう駄目だと吐精の感覚に身を任せる。
想像上では彼女の中に射精していたというのに、僕は低く呻いて自身の手の中に精液を吐き出していた。
午後五時半、客の注文したどじょう三十匹を網で掬っていた僕は不意に視界に彼女の姿を見つけて驚きもう少しで網を水槽へと落とすところだった。瞬きを繰り返しながら彼女の姿を凝視していたらそれに気付かれてしまったのか彼女は振り返って僕に笑みを見せた。それに控えめな手を振るだなんて行動も取ってくれた! 不器用な僕はそれに歪な笑みを浮かべることしかできないが、彼女はそれが分かっているかのようにより笑んでくれた、ような気がした。
「ええっと……お釣りです」
ベタ用品を買った彼女に渡すお釣り。その小銭を返す時に僕の手と彼女の手が僅かに触れ合った。確かに、彼女の熱が僕に掠めた。指が触れることは今までも何度かはあったが、あの夜に自慰をしていたであろうその手とその自慰を思って僕自身も自慰に耽っていた手が、その手同士が触れ合ったことに僕は動揺した。カッと頭の芯が熱くなり、小銭を渡した後の指先がピクリと跳ね上がった。
彼女の会釈、僕の会釈、その際に鞄の中に見た本はあの『熱帯魚の夜』と同じ作者の本のようだ。『shiho ikie 域画志保』また書店に行かなければならない。タイトルを脳裏に焼き付けながら僕は思った。
もしかしたら、夢を見ているのかもしれない。いつかのように僕は自宅のベッドの上で薄暗い天井を見上げて目を覚ますのかもしれないし、彼女の持っている香水の一つであるその名前のように白昼夢を見ているのかもしれない。
疑ってみても、目下僕に訪れている事実は現実のものでしかない。熱も香りも感触も全て、そう、過ちだって全て本当のことなのだ。
小さな寝息はその唇を見ながら耳へと通すことができるし、その寝顔は想像上のものではなく確かに僕の見下ろした先にある彼女のものだ。僕のものと指を絡め合っている僅かに平常より温かな手は僕からではなく彼女から触れてきたものだ! 確かに、まるで恋人同士のように指先を絡めるそれに繋ぎ直したのは僕だが。
僕は彼女と指先を絡めてその寝顔を見ているという状況を噛み締めながら、今日という日を振り返った。
朝、仕事へ向かう彼女をレンズ越しに見送った僕はその時彼女がマスクを付けているのを見た。頬、鼻先と顔の大半を隠した彼女に僕はそういえば前夜に彼女が具合が悪そうに咳をして唸っているのをアンプを通して聞いたことを思い出した。
何かできることは何も無い。それでも何かできることはないだろうかと思案してしまうのが人間で、こんな僕でもそんな考えと行動を以て、店を臨時休業にして来ていた。勿論、の家へと。
彼女の家のリビングを目的も無く右へ左へふらふらと歩んだ僕はソファに腰を静めて、それでも直ぐに腰を上げた。窓際に近付いてみたり、廊下を歩いてみたり、当て所ない。
幾分後のリビングで、ベタの金魚さんが餌を欲しいとアピールするかのように尾を漂わせながら泳いでいるのに気付いた僕は、餌の位置も勿論把握しているので慣れた手付きで欲されるままに餌をやった。水面に浮いたそれをパクつくその姿に頬を緩ませた僕の姿が水槽へと映っている。
――そして、リビングの入り口に立って僕の方をぼうっと見ているの姿もまた、映り込んでいた。
「直人、さん……」
マスクを通していない、それでも鼻声の掠れたそれで僕に当てられた固有名詞を呼ぶ彼女に、うろたえた僕はどうすることもできない。土下座でも何でもして謝罪の言葉だけを吐き続ける気でもいたし、窓の鍵を外し庭へと出てそのまま逃げる気もあったようだし、彼女の目を逸らさずに見て全てを告白しようとも思った。
だが実に僕が取った行動は単純で、何もしなかった。いや何もできなかったというのが正しい。一言も言葉を発せぬままにその場に突っ立っていただけなのだ、視線を彼女に向けることもできず泳がせ続けるままに。
だから、展開を動かしたのは彼女の方だ。何を言うでもなく踵を返した彼女。僕はそのまま彼女が玄関から外へと出て行きそして警察もしくは知人、近所の人へと助けを求めるのだと思っていた。けれど、違った。彼女の足は玄関には向かわずに、寝室へと向かったのだ。戸惑った、けれど僕は彼女が玄関とは反対に向かっていると分かった瞬間には足を踏み出してその背を追っていた。
寝室への扉は開けたままになっていた。それが招くようだったからと言い訳付けて、僕はそっと顔を出すようにして覗き込んだ。そこでは仕事着のままにベッドに潜り込んだ彼女が身じろいでいる。暫くして掛け布団から差し出された彼女の白い腕は床へと何かを落とし、そうして直ぐに引っ込んだ。僕は視線を床へと向け、そこに落とされた彼女の淡い色合いのブラジャーにただただ衝撃を受けている。
煩悩を振り払うように頭を振る僕を彼女の目が見ていた。それに気付いた時に僕は、弾かれるようにして額を擦り付けるような土下座をして許しを乞うていた。
小さな声だったと思う、僕が「ごめんなさい……許してください……ごめんなさい……」と時間にして三分ほど繰り返した頃、彼女の咳き込む音が僕の耳に入った。その咳き込みは長く、僕は迷い迷いに顔を彼女へと向けて視線も上げてしまった。そしてお節介にも「あの……薬は飲みましたか……?」だなんて言ってしまった。その後三回続けられた後に途切れた咳。そしてやってきた沈黙、僕は向けていた顔と視線を戻し床に額を擦り付ける行為を再開した。
「薬……と、ミネラルウォーター……帰りに買って、飲みました……ので、あとは寝るだけ、です」
至って普通の会話を、僕は彼女とした。僕は戸惑いと驚きに上半身を起こして彼女を凝視する。彼女のまどろむような目は多分風邪のせいで潤んでいる。そして僕と合わせた視線の後に彼女は瞼を閉じた。多分、彼女曰くの睡眠を取るために。
戸惑う僕は姿勢を崩さず数分そのままに彼女を見守った。その間迷い、考え、深呼吸を繰り返し、そして最後には立ち上がって、ベッドへと近付いたのだ。
確かに閉じているその瞼を見下ろす。近付き過ぎて僕の脚にはベッドが触れている。軋む、ベッドに突いた手の為に。
彼女の閉ざされていた瞼が開き、僕を見上げる。反射的に体を引こうとした僕の腕、正しくは上着を彼女の手が掴んでいる。その手の力強さと掴まれたという事実に僕は驚きと共に息を呑んだ。瞬間の出来事で、掴まれていた服は直ぐに解放され、その代わりというように僕は手を取られた。また、彼女は瞼を閉ざした。――そうして話は冒頭に戻る。
彼女は息苦しいのか唇を結び切らずに僅かに隙間を開けて少し荒れた呼吸を繰り返している。その酷く油断している唇に触れたがっている僕自身の唇の欲望を必死に押さえていた。
頭蓋の内側から汗が滲み出てくるような緊張感と高揚感。息の詰めるような愛しさ。呼吸するごとに肺に舌の上に甘く感じる空気の錯覚。幸せの感触を今、僕は確かに得ている。それを大事に、とても大事に記憶へと焼き付ける。人の一生なんて地球のそれに比べればあっという間だ、僕たちはすぐにいなくなる。だから僕の記憶なんてそれこそ瞬間にもならない間のことだ。けれどもその一瞬にも満たない記憶が、彼女から与えられた幸せなものであるならば、僕はそれだけを抱いて死にたい。
数時間を見守った僕はいつまでもこうしていたいと思いながらもこれ以上は理性が持たないと名残惜しく彼女の指先との絡みを解いていった。僕の手の平に乗った彼女の儚い手を暫し見つめて、シーツの上へと預ける。その肌に唇を寄せたいという欲求に数分迷い、深呼吸と共に区切りを付けて彼女の手を布団の中へと戻した。
彼女の寝顔を見つめた後、彼女が目を覚まさないように極めて慎重に寝室を出た。廊下を静かに歩み、リビングへと入りそこのソファ付近でしゃがみ込んで腕を差し込む。ビニール袋に包まれた靴を手にし、立ち上がり直した背でリビングの窓へと視線を向けて僕は止まる。そして外した視線でリビング入り口の扉を見て、足先をそちらへと向けて歩き出す。まだ明るいので光が差し込む玄関で僕は立ち尽す。見下ろした先に彼女のパンプスを見て、横に出して置いた僕の靴を見る。溜息のような息を零して、僕は靴を履いた。玄関扉を開けた。眩しい日光に、嗚呼全て現実だったのだと当たり前のことを思って僕は瞬きをした。
あの夢のような出来事から一週間が過ぎた。その間に彼女が店に訪れることはなかった。
風邪は治ったのだと思う、あの日の翌日は仕事を休んだのかそれとも元より休日だったのか、彼女が家にいたのを僕はレンズ越しに確認している。そしてさらに次の日はいつもと変わらない様子で仕事に向かうその姿を僕は見た。僕は、レンズ越しにしか彼女を見ることができていない。
インターホンの音がどこか遠くで鳴っている。否、それはそう遠くで鳴っているものではない。僕の目と鼻の先、の家の中で鳴っている。そしてそれは僕の指先がそのボタンを押し込んだためのものだった。僕は、彼女の家の玄関前にいる。
勿論彼女が留守にしていないということを確認してやってきているので、家の中に鳴り響いたその音に遅れて彼女の声が聞こえてきた。僕は身を硬くしている。そして近付いてくる彼女の声が玄関の扉一枚越しになり、僕はどこか逃げ出したい気持ちのままに彼女の姿が視界に映るのを必死の思いで待っている。
「すいませんお待たせしました」
「あっ……あの……あの……」
心の準備をしていたはずなのに僕の口は不明慮な言葉しか吐き出さない。僕より背の低い彼女が上目で見てくるのを僕は見下ろしていて、彼女の瞳の中の男は酷く不恰好だ。
「あっ、三井さんこんにちは。……どうぞ?」
固まる僕を彼女はまるでただの客人のように、いやもしかすると親しい友人のように優しい笑みと共に家の中に招いたのだ! 混乱する僕をその場に残すことなくスリッパまで用意した彼女は僕が動き出すのを少し先に立ち振り返ったままに待っている。
僕は彼女の目が促すままに足を踏み出した……。
「紅茶は大丈夫ですか?」
「あっ……はい……大丈夫です……」
リビングへと招かれた僕はソファの上にただ置かれたように座った。視線を泳がせて居心地の悪い尻を落ち着けることない僕を彼女は多分笑みを浮かべたままに見ていた気がする。彼女は紅茶の用意をするらしく僕に背中を見せた。僕は泳がせる視線をその背中へと向けて、信じられないと呼吸を繰り返している。視界の片隅ではベタの金魚さんが僕を見ていた。
ソファ前のローテーブルに置かれた紅茶のセット。赤褐色の水面を顔を伏せるようにして見下ろす僕に彼女は笑んで促す。
「砂糖もミルクもお好きなぐらいどうぞ。あっ、お茶請けに駅前で人気のクッキーがありましたから出しますね」
言い終わるなり歩き出すスリッパの音に僕はそろりと顔を上げて、そしてやはり視線を下げて湯気の立つ紅茶を見る。摘まむように持ち手を指先で持ち、揺れる紅茶の水面に視線を向けたままに自身の口元へと運んだ。紅茶の香りが鼻先を撫でるようにした後、口に含んだそれに口内へと広がる。飲み下したそれに自分の喉の鳴る小さな音を聞いた。喉を通って胃を熱くしたそれに僕はとても泣きたくなったし、実際目にはきっと涙が浮かんでいるだろう。クッキーの乗った小皿を持って再び帰ってきた彼女の声が慌てていたから。
「あっ! 大丈夫ですか? 火傷しましたか?」
「あの……あの……柏木……さん……僕はあなたのことが好きです……ごめんなさい……好きなんです……」
滑り込んだ指先にカップを引っ下げたままに、僕は泣くように懺悔した。紅茶の水面が揺れているのや彼女のスリッパを履いた足の爪先をどこか見ている。傍らにまで歩み寄った彼女が僕の指先からカップを取ってそれをそっとソーサーへと戻した。カチャン、と小さな音が響いた。
僕には彼女の表情を窺うことができない。それでも数秒の後に聞こえてきた彼女の控え目な笑い声に僕はえっと驚きと共に顔を彼女へと向けた。そこではその声のように彼女が笑んでいた。
「泣かないで下さい、……直人さん。それに、謝られることなんてないです。ないですから、大丈夫です」
彼女を見つめるままに僕の目から零れた涙は未だに彼女の気持ちが分からずに僕の衣服へと染み込んでいった。
彼女が僕の隣へと座りそして僕の手を取った。彼女の両の手で包まれるようにされた僕の手。泣く子供をあやすように彼女の指先が僕の皮膚を撫でていた。
「直人さん、あなたのことを教えてください。一つ一つ、私の目を見ながら、あなたの声で」
「あの……」
「私も、一つ一つ自分の口からあなたに教えますから。まずは、……そう、私には兄が一人います。兄は薫、柏木薫といいます」
「兄……柏木……薫さん……」
「ええ。……その内に、直接会ってもらってもいいですか?」
どうして? とは聞けなかったが僕の表情はそのままにどうしてと問うていたようだ。僕の無言の質問に彼女は答えてくれたから。
「恋人を家族に紹介したいんです。当たり前でしょう? だから、その前に直人さんのことをいっぱい知りたいです。もっと、もっと知りたいんです」
きっと僕は今のこの瞬間のために、今日まで命を繋いできたのだ。瞬きに涙がまた流れて落ちた。静かに頷きを二度繰り返した僕は涙を手の甲で強く拭った。
「さん……僕は――」
精一杯の笑みで彼女のために唇を開いた、僕のことを知ってもらうために。恐れることは何も無い、彼女の指先がそう僕を促してくれた。