星巡りの唄


「先生、お体の具合はいかがですか。」
 草原で摘んだ白い小さな花を数本握りこんだ手でそう言った六つばかりの少年に、髪を耳へかけるようにしながら布団から起き上がったは言います。
「良くなりました。もうずいぶんと。」
 布団の上に花を置いた手をそのままに突いて、少年は先生へと問い掛けます。
「今夜のケンタウル祭はくるのでしょう。」
「ええ、行きますよ。ファゼーロさんも行くのでしょう。」
「はい。」
 先生の言葉に少年はもう元気良く答えます。はそれに頬をゆるませて花を受け取りました。

 その夜はケンタウル祭です。烏瓜を流す生徒たちを見守りながらは河岸の石へと腰掛けました。夜の空には仰げば数え切れないほどの星が輝いています。ひとつ流れた星が烏瓜が流された川の水面にも同じ様に流れていきました。
「皆さん気をつけて。」
「はい先生。」
 少しだけ肌寒い風に撫でられては髪を押さえます。そうした彼女は浅瀬の水の中に何かきらりと白光るものを見つけました。そこへと歩み、冷たい水にそうっと指先をつけて拾い上げてみますと、ほんの小さな白いものがその指で摘まめました。それは石よりすうすうと軽く、かざしてみれば青白く月の光を受けて浮かび上がります。綺麗で冷たいそれを指先に、は河岸に座り込んでいました。

 子供達の声はどこか遠くに感じます。烏瓜のあかりはぼんやりと薄眩しく、はいつしかまどろんでいました。ゆらゆらと漕ぎ出された舟は烏瓜のように流れていつしか天の川を流れます。星を渡り、銀河の河を流れ、いつしか彼女はその列車へと辿り着いていました。
 彼女は河岸ではなく確かに車室の腰掛けに座っていました。そうして車室の外から優しげな声色の持ち主がせいの高い影を覗かせながら聞きます。
「お嬢さん、ご一緒してもよろしいでしょうか。」
「ええ。どうぞ。」
 その顔を見ないうちに招いていたは彼が彼女の前に腰掛けてから漸くその顔を見ました。その青年はやはり声色どおりの優しげな顔をしていました。
 は瞬きを繰り返してあの青白く月の光を受けて浮かび上がった小さなものが自身の指先にないのに気付きました。どこに置いてきたのだろうと車窓を向いた彼女に景色はゆっくりと後ろへと流れて行きます。

 列車はごとごと皆を乗せて銀河を進みます。
「どこまで行かれるのですか。」
 は車窓から見える景色から青年へと視線を向けました。そうして自分は何処まで行くのだろうかと考えます。彼女は頭を振りました。
「分かりません。きっと遠く、ずいぶんと遠くでしょう。」
「なるほど。途中まで僕がご一緒しても大丈夫ですか。」
「嬉しいわ。こんなにも立派な腰掛けでも一人じゃ寂しいもの。」
 はその指先に腰掛けの感触を撫でながら笑みました。
「あありんどうの花が見えますよ。」
 青年の声には外を見ます。そこにはりんどうの花が前からやってきては後ろへと去って行きます。
「綺麗ねえ。」
「ええ。綺麗ですねえ。」
「私はあのりんどうの花を見るのはもう二回目です。それでもやはり綺麗だわ。」
 青年は僅かに驚いていました。
「摘んで持って来たいですがもうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまった。」
 彼は後ろに流れたりんどうの花を見守り、そうしてを見ました。彼女は微笑みを浮かべていました。

「ハルレヤ、ハルレヤ。」
 車室の中の旅人たちが祈ります。は僅かな胸の痛みを覚えながら眼を瞑り、そうしてつつましく指を組み合わせた祈りを島の平らないただきに立つ十字架へとささげました。青年もまた同じようにして祈っています。

「もうじき白鳥の停車場ですが降りてみますか。」
「白鳥の停車場ですか。」
「ええ。降りませんか。」
 少し考えてからは首を縦に頷かせました。
「降りてみます。時間は大丈夫なのでしょうか。」
「二十分停車ですから大丈夫です。」
 そうして汽車はだんだんゆるやかになって、白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。は青年の差し出した手を見て、彼の促すような優しい笑みに自身の手を重ねました。
 水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた小さな広場から白い道を通り、そうして河原に着きました。その流れる水の美しさにがほぅと漏らした息に青年は満足そうです。
 そうしてから彼は河岸に靴と靴下を脱いでじゃぶじゃぶと河の中へと入っていきました。波が美しく燐光をあげています。少しばかり河岸から離れたところで彼は振り返ってへと言います。
「あなたもどうですか。」
 燐光を放つ河に足をつける青年をは見ています。
「行きたいわ。でも、服が濡れてしまうわ。」
「きれいなお召し物ですからね。」
 そう言うとじゃぶじゃぶと河を掻き分けて歩いた彼はの目の前へと戻ってきます。そうして彼女をその腕に抱き抱えるようにしてからまた河へと戻ってしまいました。は慌てて青年の腕にしがみ付きます。
「ずいぶんと力持ちですこと。」
「いいえ。あなたがずいぶんと軽い。まるで白鳥の羽根のようだ。」
 そう言って腕の中のを跳ね上げるようにして抱き抱え直した彼に彼女は形ばかりの抗議の声を上げました。青年が河底を見て言います。
「ほら。見てください。水底の砂を。水晶の中で火が燃えているでしょう。」
「まあ綺麗。」
 はいつか見たその光景をもう一度と見ていました。
 それから彼は片足で水面を蹴り上げるようにしましたから、水の玉が大小さまざまに宙へと弾けましたし、それがきらきらと大変美しくは唇を開けて見ていました。
「あなた服が濡れてるわ。」
「不思議とこの水に濡れても直ぐに乾いてしまいますから、大丈夫です。泳ぎやしませんけどね。」
 少しだけ悪戯な笑みを浮かべて彼はじゃぶじゃぶと河岸へと戻りそうしてからを地面へと下ろしました。彼の手が離れるのをは見ていました。
「戻りましょうか。」
 そして二人は列車へと戻りました。エトワルが見た彼は確かにもう服を濡らしてはいませんでした。

 列車はごとごとやはり二人を乗せて進みます。
「今日は鳥捕りの人はいないようです。」
「鳥捕りですか。」
「ええ。鶴や雁。さぎも白鳥も捕ってしまう人です。鳥はまるで菓子なのです。」
「菓子なのですか。」
「ええ。」
「切符を拝見いたします。」
 がその声に目を向けると、赤い帽子をかぶったせいの高い車掌がまっすぐにそこに立っていました。は青年が切符を差し出すのを見ながら自分は切符をどこにやっただろうかと思いました。
さん、切符ならそこに持っているじゃないですか。」
 青年が指差したのはの握りこんだ手の中で、不思議に思いながらもそっと手を開いた彼女のその手の上には確かに切符がありました。しわもない新しい切符です。それをは車掌に渡しました。車掌がそれをじいっと見ている間には彼を見ます。
「私は切符をいつから持っていたのでしょう。」
「ずっと持っていましたよ。」
 おかしな人だというように笑う青年には自身の頬が赤くなるのを感じました。車掌から返って来た切符もあっという間に仕舞い込み俯いていました。
 恥ずかしいので車掌が行ってしまったあとも俯いていたはなんだか甘い匂がするとようやっと顔を上げて車室を見回しました。苹果の匂がしたのです。
 青年の膝の上で天井を向いている両の手の中にそれはありました。それは確かに赤く色付いた苹果でした。
「食べられますか。」
「あまり、食欲がないのです。最近は。」
「この苹果は特別瑞々しく甘いですから、きっと食べられますよ。」
 青年がそっとへと苹果を差し出します。は両の手でそれを受け取って赤いその皮をまじまじと見下ろしました。甘い香りが彼女の鼻先を撫でましたから、彼女は誘われるようにそれへと唇を寄せていました。彼女の歯がしゃくりと苹果を齧ります。車室にはその瑞々しく甘い爽やかな薫りが広がりました。そしての頬にはその笑みも広がります。
「どうです。美味しいでしょう。」
「本当に、美味しいわ。」
「そうでしょう。そうでしょう。良かった。」
「あなたは食べないのですか。」
「僕はうんと食べていますから。あなたが食べてください。」
 青年の目はどこまでも優しいものでした。

「見てください。わたり鳥がかけて行きます。」
「まあ。あんなにたくさん。あすこに人がいます。」
「ああして信号しているんです。いまこそわたれわたり鳥。」
「どこへ行くのでしょうか。」
「かささぎですか。」
「いいえ私のことです。もしかしたらあなたのことです。」
 そうして唇を閉ざしたに青年はさびしそうに星めぐりの口笛を吹きました。その音色にの胸はきゅうきゅうと締め付けられます。

 車室の中は静かでした。窓の外では天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがりどぉと激しい音がしましたし、大きな鮭や鱒がきらっきらっと空中に放り出されては円い輪を描いてまた水に落ちました。水晶でこさえたような二つのお宮をうしろに蠍の火をうしろに。ずっと静かでした。

「もう星巡りもお終いですね。」
 青年が静かに言いました。その言葉には顔を上げて彼の顔をじいっと見ます。
「それはさよならという意味ですか。」
「いいえ。さよならではありません。またねという意味です。」
「一緒には行けないのですか。」
「あなたの星巡りは終わりました。あなたは幸をさがしにまた生きていくのです。」
「私は、死んだのではないのですか。」
「いいえ。いいえ。あなたは死んではいません。」
「いろいろのかなしみをまた繰り返すというのですか。」
「それでも、いちばんのさいわいに至るために。」
「今でも私のいちばんのさいわいにはあなたがいなければなんにひとつもありません。カムパネルラさん。」
 青年は優しげな微笑みを浮かべてその目には綺麗な涙を浮かべていました。その涙を見た時は幼きあの日の夜のようにわっと泣き出してしまいました。彼女の顔を覆う両手は幼きあの日に戻り、一番大切なものをなくしたあの夜の小さな体に戻った彼女の泣き声が銀河に静かに響きます。
「ぼく分からない。いまになってはのいちばんの幸のためにぼくになにができるか。」
 青年はあの夜のカムパネルラの姿での前へと膝を突きます。そうして彼女の頭を抱くようにして優しい声色で言います。
がもっと生きて幸をみつけられた時、もう一度ぼくはを迎えに来るよ。そうして今度こそ一緒に流れた星をさがしにいくんだ。約束を守りにくるよ。」
 ああそのときでした。青白くも眩しく優しい光に車内が包まれたのは。あの祈りの声も聞こえてきます。窓の外、見えない天の川の水の向こうに美しい十字架がそこにはあります。神々しい白いきものの人が列を組んで十字架前の天の川のなぎさにひざまづいている皆に手をのばしてこっちへくるのを二人は見ました。
「サウザンクロス。」
 カムパネルラが言います。
「サウザンクロス。」
 も同じように言います。
 そろりと顔を上げたを近い距離で覗き込むカムパネルラはいつかの夜のように彼女の瞳の深い色の中に瞬くたくさんの星を見ました。の瞳にはやはりカムパネルラも星と共に泳いでいました。
「その時は全部、全部お話ししてね。もう約束をやぶらないでね。」
「ああ約束だ。その時はも全部ぼくに教えておくれ。」
「ええ。ええ。ああ星がきれいねえ。とても。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「カムパネルラは星を見てはいないわ。」
「僕はを好きなんだ。だからだよ。」
「ああ。カムパネルラ。」
 の涙がカムパネルラの手の平に零れおちてそれはいつしか星になりました。星はあつまりながれ天の川はそこにあります。

 ケンタウル祭の夜に天の川は確かにそこにあります。
「先生。先生。こんなところで寝ては体を悪くします。」
 生徒の小さな声には涙に濡れた睫毛を震えさせながら目を覚ましました。見上げた夜の空には子供たちと無数の星があります。いま星がひとつ流れました。
「ああ先生どこか痛いの。」
「いいえ。いいえ。どこも痛くありません。」
 それでも涙を流すを子供たちは心配げな顔で覗きみます。涙はまるで河のように次から次へと流れ、声無き泣き声をはあげていました。その声を聞きつけてカムパネルラがやってくることはありませんでした。それでも、約束したその時にカムパネルラがやってきて手を繋いでくれることを思っては瞼を閉ざしました。手の平に握りこんだそれを約束に、はいつしか星を探す旅にでるのです。