サイハテ


「じゃあカムパネルラ、あの流れ星をさがしに行ってもどこにもないの。」
 夜露に濡れた草原にすわりこんだがいましがた流れたばかりの星の行く先を追って差した指に、そばに立って夜の空を見上げていたカムパネルラは虫の声の合間をぬって彼女へと静かに言いました。
「そうだ。ほとんど燃え尽きてしまって、どこにもなくなってしまうんだよ。」
「どこにも。」
「どこにも。ああ、でもきっと、うんとおおきな星だったら燃え尽きていないのがきっと見つかるよ。」
「うんとおおきな。でもそれじゃあ、危ないわ。お家に落っこちたら大変ね。」
「うん。そうだねえ。」
「でも流れた星をひろいに行きたいの。ねえカムパネルラ燃え残った星はやけどするぐらいに熱いの。」
「さあ、わからないねえ、でもとてもきれいだろうねえ。」
 大きくまんまるな月に照らされて、露の玉を付けた草の葉がきらきらと光って見えました。少しばかりの遠くのほうに目を凝らすと草の中にはぴかぴかと青びかりを出す小さい虫もいて、がじいっとそれを見ているのでカムパネルラが蛍だと教えました。捕まえてこようかと言ったカムパネルラには彼を見上げて静かに首を振りました。
 カムパネルラとが見上げていた夜の空にまたひとつ星が流れ、少しだけ声を小さくしたが言います。
「流れ星、ほしいわ。」
 ちらりとみたカムパネルラはの瞳の深い色の中に瞬くたくさんの星を見ました。
「僕がさがして持ってきてあげるよ。」
「カムパネルラが一人でさがしてくるの。」
 は夜の空を見上げるのを止めてカムパネルラを見ました。の瞳の中に広がる天の川にはカムパネルラも星と共に泳いでいました。
「ああきっと見つけるよ。そしてにあげるよ。」
「でもそれってきっとうんと大変なことよ。ずいぶんと時間がかかって、その間はカムパネルラに会えないのでしょう。」
「もしかしたらうんと時間がかかるかもしれないねえ。でもできるだけ早く帰ってくるよ。ひとつじゃないよ。きっとの手から零れおちるぐらいにたくさんだ。」
「ううん、だったらわたしもいっしょに行きたい。一人でさがしにいっちゃいやよ。手をつないで、一緒に星をさがしに行きましょう。」
 の少し間を空けた隣に座り込んだカムパネルラは夜露に服が少しだけぬれて、身じろいでの横へと寄りました。は掌の下に草を敷いたカムパネルラの手の上へと自分の手を重ね、また一つ流れた星の行方を追っています。
「きれいねえ。」
「うん。とてもきれいだ。」
 夜風に冷えた彼女の手に星の行方を思いながらカムパネルラはそれを彼女へと渡すことを思うのでした。

 それは銀河のお祭りの前夜でした。頬を赤くしたは涙が浮いた目で今にもそれをこぼしそうにしながらカムパネルラに言うのです。
「ごめんね。明日のケンタウル祭の夜は家にいなくちゃいけないって、寝てなきゃいけないって。」
 カムパネルラはいつもよりあたたかいの両の手を自身の両の手で包んでうんうんと頷き聞きます。
「一緒に、行くって、約束したのに。ごめんね。それに、私も行きたかったわ。」
 ぽろぽろと零れ出したの涙を指先で拭っては大丈夫だとカムパネルラは首を振り、彼女の髪を梳きました。
「全部、全部お話ししてね。」
「ああ、ちゃんと全部聞かせるよ。」
「本当に、本当よ。烏瓜流しのことも、青いマグネシヤの花火のことも、そうだから烏瓜を取りに行くところから話してね。」
 合間にしゃくりを挟みながらののひとつひとつのお願いに、カムパネルラはひとつひとつ頷きと言葉を返しながら勿論だと笑って見せました。熱の為に赤いの頬はもう苹果のような色付きでした。

 それはケンタウル祭の夜、の見た夢でした。
 青いマグネシヤの花火の火花やひのきの枝のあかり、いちいの葉の玉の姿が瞼の裏に浮かんでは泡のように弾けて消えていきました。ぱちぱちと火の燃える音やまるで水のように通りや店の中を流れる空気の澄み切った音が聞こえました。
 そしてはどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言うのも聞きました。布団の中でまどろみそして眠っていたは自分の体がまるで空気よりも軽くなって宙へと浮かぶのを感じました。熱に浮かされた頭も汗に濡れてどんよりと重い体も全てが嘘のように感じました。は鳥のようにも蝶のようにも宙を飛んでいたのです。そうして自分の目が自分のものでないような不思議に、それは先生が見せてくれた望遠鏡のように感じましたし、やはり自身の目のようにも感じました。そしては確かにその列車を見たのです。
 夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室。その窓から外を見ているのはジョバンニでしたし、も彼を知っていたのでその名前を呼びました。でもジョバンニにはそれが聞こえていないのか、車室の中を振り返って他を見ていました。
 彼の視線を追ったはあっと声を出します。そこにはカムパネルラもいたからです。にはカムパネルラが唇を開いたのも見ていられましたし、その声も聞こえていました。それでもカムパネルラもジョバンニもには気付かずにいるので彼女は寂しく思いました。
 そして彼女の体はまた空気より軽くなってふわりと羽根のように浮き上がりました。ごとごと走る列車についたまま辺りを見渡せたには線路のへりになった短い芝草の中に咲くりんどうの花も見つけられましたし、その香りさえ胸いっぱいに吸い込むことができました。きっとその花を摘もうと思えばその指先に摘めたことでしょう。
 ぱちりとした瞬きの次にははカムパネルラとジョバンニがいる車室にいました。隣にカムパネルラを見ながら腰掛けに座っていました。何か決心しているように見える彼のその顔と唇を見ていました。
 ぱっと白く明るくなった車室にはひゃっと目をつむりました。そして恐る恐る目を開いた彼女は立派な眼もさめるような、白い十字架を見ました。そのしずかに永久にたっているさまは神々しくも思いましたし、同時にの胸を苦しいばかりに締め付けました。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」
 その声は前からもうしろからもしました。車室の中の旅人たちみなの祈りにはやはり胸が痛いとぎゅっと目を瞑ってその辺りの服を指に握り込みました。そこではの心臓がどきんっどきんっと鳴っています。
 次にが目を開くと同じ車室にいたはずのカムパネルラとジョバンニが見当たりませんでした。どうしたことだろうと驚き踏み出した彼女は車窓から河原が見えるのに気付きました。そこにはカムパネルラもいました。側にはジョバンニもいます。
 カムパネルラが車室から見てもきれいに見えるその砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせているのをはその音まで聞こえて見ていました。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
 カムパネルラのその言葉にの目は凸レンズのようにその砂を見ていましたし、その水晶の中で静かにそれでいて確かに燃えている小さな火を見ていました。流れ星は辿り着く前に燃え尽きてしまうと言ったカムパネルラの言葉を思い出しながら、その火の燃える様を目いっぱいに見ていました。
 次にふと意識した時の目には視界いっぱいに燃えていたはずの火ではなくがらんとした桔梗いろの空が広がっていました。いつの間にかそれを見上げ仰いでいたはそれに気付いてさっと身構えて自身の両の腕で頭を守るようにして屈みました。その瞬間にぎゃあぎゃあと叫びながら空いっぱいの鷺が目掛けて舞い降りてきました。その数は彼女の指では到底数え切れないものです。
 ぎゅうぎゅうと瞼を閉じて、いつまでも鷺の嘴の硬さも爪の鋭さも無く、羽ばたきの音も無いことにようやっと気付いたが目を開けるとそこは列車の中でした。いいえ、彼女の目は車室の中を見ていましたがはそこにはいませんでした。目を擦ることはできるのに、指先さえ見えません。彼女はそこにはいませんでした。
 甘い苹果の匂。カムパネルラが不思議そうに辺りを見回すのにもまた見回しました。視界は動くのに、わたしはどこにいるのだろうとは思いました。そして彼女が不思議に思って瞬きを繰り返す内にカムパネルラにジョバンニ、その二人以外にも人が増えていました。
 六つばかりの男の子に、せいの高い青年、そして十二ばかりの女の子。女の子がカムパネルラの隣に座って両手を組み合わせているのを見てはなんだか寂しく悲しく、そうして泣きたいと思いました。カムパネルラを見ていても彼はを見てはくれませんでした。
「ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 そう言った青年の唇に目をやったの瞬きに、彼女の視界は星の間を縫うようにして流れたようでした。星と共に流れるように、追い抜くように、おいていかれるように、彼女は銀河を駆けて行きます。と隣り合わせに駆ける星がまるで火花のように弾けます。あっちで、こっちで、弾けた星はさらさらと砂糖菓子のようにとけていきます。そしての目の前で星が弾けました。
 きらめきも瞬きも本当はほんの数秒のうちで、そうして列車の屋根を足の裏に感じた時、は両腕を上げて手の平を見せるようにしながら銀河の宙を仰いでいました。そうしてはわたり鳥を見ました。どこへ行くのだろうか、わたしも連れて行って欲しいとなぜか一人置いて行かれる寂しさの思いで流れた涙が天の川にぽちゃんと落ちました。
 そうして彼女の涙が落ちたかと思った天の川とは違う天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがり激しい音をさせました。
 大きな水の玉が弾けて落ちた、そう思った時にはは車室の腰掛けに確かに座っていました。はそこにいましたし、カムパネルラも彼女の隣にいました。はカムパネルラの眼にきれいな涙が浮かんでいるのを見ていました。また彼の瞳の中に銀河を見ました。そこには天の川もちゃんとあります。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
「僕わからない。」
 ジョバンニの言葉にが彼を振り向くとカムパネルラはぼんやりとしてジョバンニに返していました。は幸を見つけたいと思いました。彼女自身のものでない幸を。カムパネルラのいちばんの幸を。できたならカムパネルラと二人で手をつないでさがしにいきたいと願いました。
「おっかさんはぼくをゆるしてくださると思う。けれどはきっとぼくをゆるさない。泣いているだろうな。」
 は自身の名を紡いで言うカムパネルラを見ていました。彼の肩越しには車窓から銀河の宙が遠く遠くまで覗いています。そうしてカムパネルラは銀河を見て続けました。その眼差しはどこまでも寂しげでした。
「流れ落ちていない星そのものを届けたら、は笑ってくれるだろうか。一緒にさがそうって約束したのにな。」
 カムパネルラを悲しませるならそんな約束いらない、流れ星だって、両手いっぱいに零れる星だっていらないとは思いました。カムパネルラが隣にいてくれたらそれでいいとそう言いました。
 それでもカムパネルにもジョバンニにもはいないものですから、銀河だけが彼女を見て無数に星をきらめかせました。星をうんとたくさん流しおとしました。美しいその輝きも今やを悲しくさせるものです。
 そうして、は車室からカムパネルラがいなくなるのを見守り、ジョバンニがいなくなるのも見守りました。腰掛けの上で一人で膝を抱えていました。カムパネルラの名を呟いたの膝の上を彼女の涙が流れていきました。
 涙は彼女の肌をすべっていつしか河の流れになっていました。の足は銀河を流れる水につかっていました。膝を抱えていたはその水の中にしゃんと二本の足で立っています。水は少し水銀いろで、彼女のあしにぶつかったところは束の間うつくしい燐光をあげては後ろへと流れていきました。水に手をひたし、その底の砂を一つ掬ってみたはカムパネルラがやっていたように指できしきしさせながら水晶の中の火の燃える様を見ていました。だんだんと視界に広くなっていく火の色にぱちぱちと燃える音が近付いては遠退いていきました。近く近く、遠く遠く。近く近く、遠く遠く。

 眼をひらいたはまだ下がりきっていない熱の浮いた頭で起き上がりました。肌にはりついた服が心地悪く、そうしてその頬の熱さのために窓を見ました。外は夜の景色で涼しげに見えました。
 窓辺に寄ってが見上げた空には星がありました。いっぱいにありました。そこに一つ流れた星が、彼女に一回の瞬きを起こさせました。なんだか胸が苦しくて頬より熱い涙がの肌をすべっていきました。
 流れ星のおちた方向を見ていたはその先にジョバンニの姿を見ました。ジョバンニは乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって駆けていました。
 は彼女には重い窓枠を持ち上げて夜風を招きました。そうして掠れた声を上げます。
「ジョバンニ、ケンタウル祭に行ってたの。」
 の声はジョバンニに聞こえたようで、彼は足を止めて彼女の方を見ました。
「ねえカムパネルラはケンタウル祭を楽しんだかしら。」
 の問いかけにジョバンニはひどく不安げな顔をしました。その腕の中の乳の瓶をぎゅっと包み込んだ姿をは見ました。彼の後ろの空を流れおちる星を見ました。
 そうしては夢の中のカムパネルラの涙を思い出して唐突に気付いてしまったのです。彼は遠く遠くに行ってしまったと。見上げた夜の空にある星より遠く遠く、少しも見えないそんな遠くへといってしまったと。なんだかおかしく熱い胸と頬に流れる涙ではカムパネルが約束をやぶるはずなどないと頭を振りました。
「ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしなら、こんなのってないわ。カムパネルラがいなければ、なんにひとつもないもの。だから、だからこんなのってないわ。」
 銀河のはずれにいるであろうカムパネルラを思ってはわっと泣き出しました。彼女の泣く声は銀河の祭りの夜にひびいていました。けれどもその声を聞きつけてカムパネルラがやってくることはありませんでした。