冷たい風がオルトの髪をひゅぅひゅぅと靡かせていた。燃える蒼い炎は掻き消えたりしないが、繋いだ手が離れるように時折に火の粉が風に攫われるようにして彼を後にしていく。
 反重力装置でぷかぷかと宙に揺蕩うではなく、腰掛け、頬杖を突いて足先をぷらぷらとさせるオルトは遠い遠い何処かへ眼差しを向けるように、それでも何かを見ているでもなく静かに瞬きをした。
 向かい風となるそれがオルトのボディを押して来るようだったが、もしバランスを崩そうと、彼なら遠く離れた地面にぶつかることもない。そう、オルトは今、少しばかりとは言い難く地面を遠くにしていた。
 ナイトレイブンカレッジの敷地内、賢者の島の端っこの、本当に切り立った崖の先っぽにオルトは腰掛けていた。眼差しを落とせば目眩を起こしそうなその高さ、けれどもずいぶんともっと地面を遠くにした高度を学習しているオルトが目眩にも似た動作を起こすはずもない。
 普通の人なら見ることも難しい景色を眼球部に映しながら、オルトは溜息にも似た排気動作をした。そのままに、視線を落とす。オルトの眼球部には賢者の島のその断崖絶壁が映し出される。そうすることに意味合いはないけれど、継承された記憶、映像データ、それを彼は透かして重ね合わせてみたりなんかしていた。参照と展開されたファイル名は嘆きの島、であった。
 視線の角度をまたと前方に戻したオルトの髪を、やはり冷たい風がひゅぅひゅぅと靡かせる。そうしてやはり意味合いはないけれど、望遠モードに切り替えたって、さすがに嘆きの島のシルエットさえ捉えられなかった。
 かつりと、ぷらぷら揺らされたオルトの踵にあたる箇所が断崖絶壁にぶちあたる。少しだけ欠けた崖で断崖絶壁はより絶壁へとなるようだ、まるで三日月の端っこのように。見る角度は少しばかりおかしいけれど。
 あまりにも高い位置からの落下物は凶器に成り得る、容易く生物の生命を奪う。隕石で死亡する確率は落雷より高いらしい、これもまた意味合いはない蛇の足の話でしかないのだが。
 オルトの踵にあたる箇所が削った崖の一部が遥か遠くの地面に辿り着いた、それがぶちあたることもない安全な位置には、オルトの兄であるイデアが辿り着いていた。
 オルトから自動的に送られてくる映像データをリアルタイムで確認することはそうそうにないが、たまたま目にしていたイデアはオルトが徐に賢者の島の端っこの、切り立った崖の先っぽになんて腰掛けていたのを放っておくことなんかできなかった。
 イデアは見上げて、目を細める。徹夜明けにお日様が眩しいというわけでもない、今日は曇りで泥水を吸い上げた脱脂綿のような分厚い雲が空にはびこっている。
 ナイトレイブンカレッジの敷地内、賢者の島の端っこの、切り立った崖の先っぽ、そのような場所にいては高身長に分類されるイデアとて、ずいぶんと見上げたってオルトの表情はとてもじゃないが分からなかった。
「……オルト」
 少しだけ迷った後に、呟いたような呼びかけだった。
 オルトのいるところはひゅぅひゅぅと風がやかましいが、彼が兄からの呼びかけに気づかないはずもなく、ぱちくりと瞬いた眼球部はすぐに対象を確認する。
「兄さん!」
 オルトの声はイデアには届かなかったが、十秒もかからずに兄の元へ降りて行った弟にしてみれば些細でしかない。
「あの……、オルト……」
「どうしたの、兄さん。もしかして、予定外のメンテナンスかな?」
「い、いや、そうじゃない」
 イデアの泳ぐ目を、オルトは覗き込もうとする。今は一致することなかった視線だが、イデアは幾分か前に見た映像データ、もといオルトの視線をその眼差しの先に思い浮かべていた。
「オルト、物を食べる、機能、欲しい?」
「えっ」
 イデアはオルトから自動的に送られていたその映像データを思い浮かべ、オルトは兄がそのようなことを聞いてくるに至った情報を瞬時にサーチした。
 そうして、兄と弟、兄弟の眼差しには同じものが浮かんでいる。
 映像データに匂いなどの嗅覚にまつわる情報は付属しない、けれど人参やじゃがいもや玉ねぎなんかが泳ぎ何かの肉がちらりと覗くその料理は出身地としては馴染みが薄くともそのスパイス豊富な香りを記憶に蘇らせるようなものだ。
「カレー、食べたかった、んじゃないの」
 変に言葉を途切れさせながらイデアは言った。
 やはりオルトは、ぱちくりと瞬きをしたようだ。
「ううん、いい。僕、別にカレーが食べたかったわけじゃないんだ」
「へ?」
 まるで予期せぬ落下物が見上げたところからやってきているのを発見したような声をイデアは零した。
「僕ね、お星さまが欲しかったんだ」
「え、星?……隕石、惑星、……まって、オルト、それってつまり……どういうこと?」
 惑星だったら、ちょっと厳しいんだけど……いや、得るの定義によりますけど。命名権だとか売り出されてるし、所持することは可能……隕石なら、もっとクリアー難易度は下がるな。など、そんなことを困惑の声の後にぶつぶつと兄は漏らす、そんな様子をオルトは片手を自身の口元へと当てがいながら笑った。
「兄さん、Fe-Ni合金で構成されたものやそれにケイ酸塩鉱物が加わったもの、つまり隕石が欲しいんじゃないんだ僕」
「惑星フラグ」
「ううん、僕が欲しかったお星さまの成分はセルロース、ヘミセルロース、リグニン、植物繊維細胞壁が原料で、つまり、紙でできてるんだよ」
 あのね、今日の食堂のカレー、折り紙のお星さまが付いてたんだよ。オルトの続けて言う言葉にイデアのなんとも言い難い声が漏れる。
「おり、がみ」
「うん、折り紙のお星さま。欲しかったけど……、カレーは僕のエネルギーにはならないし摂取しないものを頼んでそれだけ捨てちゃうのはダメでしょう?」
 小さな安っぽい、そんなものが付加価値になるのかいや何故そのようなものを合わせるカレーに? と、思い返せば確かに映像データの一部にその紙でできた星の姿は映り込んでいた、とイデアの脳裏を泳いでいった。
「……お腹空いてるかも、イベント周回で昨夜も朝もなにも食べてなかったわぁ」
 ぽりりと、自身の頬を人差し指の先っぽで掻いてイデアは言った。何でもないことを発したように装って。
「えっ、もうお昼もずいぶんと過ぎてるよ! 兄さんもしかしてお昼だって食べてないんでしょ! もうっ! 栄養摂取を欠かさないでって言ってるのに!」
「じゃ、今から、食堂行ってこよっかな」
 オルトが言うから、カレー食べたくなったし。そんな小さな呟きも勿論、オルトには把握できるものだった。
 そうして暫くの後、オルトが両手で翳し見るその先に折り紙の星がぺかぺかと光っているのは間違いないことであった。