冷たく静かな夜の幕がナイトレイブンカレッジに覆い被さっていた、裏地に刺繍されたような些細な星々やひとつだけのまあるい月がぽつんとそこに。
まるで世界には彼以外存在しないような錯覚を伴った耳に痛いほどの静寂、けれども齟齬などありえないとばかりにオルトの集音マイクは正しく音響を捉えていた。生徒のひとりも見当たらないイグニハイド寮の廊下、しかし五十メートルもいかないほどのところ、その寮室内々では早い時間からの眠りに就いている者や或いは作業に勤しんでいる者たちの立てる微かな音がする。やはり、世界にオルトしか存在していないというのは錯覚でしかないらしい。
夜の静けさを掻きまわすこともなく宙を僅か上下に揺れながら揺蕩うオルトは、何処かへと向かっているらしかった。
天井に設置されたライトの蒼光りというのは、オルトの白い、或いはヒトには白いだけに見えるそのボディの塗装のところを青っ白く浮かび上がらせる。その光景を見たものが霊的なものを想像するか或いは波うちぎわでひしめく夜光虫を想像するかを話すことはないだろう、何せ世界にはオルトしかいないわけではなくとも、彼が眼球部を向けている先にも後にしていく廊下にも誰もいないのだから。
曲がり角を右へ、そうして左へ、左へ、右へ。段差に足部の裏を接触させることもなく階数を下へ、或いは上に、そうして下に、下に。
目的の場所へと向かうその入り組んだルートというのはまるで、ひき寄せたものを帰す気など無いといった印象を受ける。記憶力なんてヒトの頼りないものではなく、データとして保存しておけるオルトにはまったく、関係のないものではあったが。
ぎぎぎと、少しばかり呻き声のような金切り声のような音が小さく鳴った。それは調子の悪い扉の開閉音でしかないのだが、静かな夜にはどうにも響くようなものだった。感度のよいオルトの集音機関には余計に。彼の眉はその音に寄せられることも上げられることもなかったが。
その空間はイグニハイド寮の廊下を思えばずいぶんと明るいものに思えた。幾つもある大小さまざまな鏡へと些細に差し込んだ月光が乱反射しては結果として僅かに眩いほどに照らしだしているのだ。
眩しいと目を細める反射をオルトの眼球部はすることはなかったが、ピント調整などの為に微かなきゅるりという音を伴って眼球内部の回路を信号が駆けたらしい。それは傍目にはオルトの眼の中に碧色の小さな球体が駆けたようにも見える、ロマンチストが仰るなら、流れ星のようにというところだ。
それが目的であったように、オルトはその空間の中で一番に大きい鏡の前へと近寄っていた。
シリコンにも似た素材の手の内側を鏡面にあてると、オルトにはその物体の温度が測れる。別に、計測などしなかったが。
当たり前の話、オルトが右手を差しだした鏡面には同じようにオルトの姿が映り、鏡の中のオルトとて境界線を知るように右手を差しだしている。
右手と右手が触れあい、左胸では蒼い炎が揺らめいて左胸では蒼い炎が揺らめいている。
鏡面から離した右手をゆらりと揺らす、鏡の中のオルトとて右手をゆらりと揺らす。
こちらのオルトが左手を振る、あちらのオルトも左手を振る。
鏡映反転、ヒトには左右が反対にみえるが、正しく鏡像は同じをかえす。不変的なコードを打ち込んだとして、それのレスポンスもまた不変であるように。
左右反転、しかしヒトは上下反転をみない。
ヒトが感じる錯覚をオルトは捉えないと仮定して、ではヒトが感じぬ錯覚をオルトが捉えるとしたならば。
反転、反転、上下反転、天を地に、地を天に。
天に召したら鏡像は地におちるのか。或いは地におちたなら鏡像は天に召すのか。
若しくは、どちらが求められているのか。
カツリと鳴った、反重力装置の出力が僅かに狂ったそれで。それはヒトが踏鞴を踏むものに似ている。
ぎぎぎと鳴った、やはり扉の開閉は調子が悪い。
「オルト、こんなところにいたの……簡易点検してスリープモードに入る時間だよ」
今夜の空に在る月にも似た眼の兄、イデアがオルトへと眼差しを向けていた。
やってきたよりも不安定に上下に宙に揺れながら、オルトはイデアへと寄った。鏡面に映る背中は遠ざかる彼の為に小さくなっていく。
「さ、もどろ」
イデアに繋がれた手をオルトはじっと眼球部に映した後、鏡へと振り返る、右手を振りながら、それはさようならを告げるように。鏡の中のオルトもまた手を振っていた、揺らめく炎の手前で振られたそれは、灯火を強めようとするようにもかき消そうとするようにもみえるようだった。