オルト・シュラウドがその衝撃に防御動作も反撃動作も取らなかったのはそれが悪意を以って降りかかってきたものではなかったからであった。
 集音機関にコツンと響いたのは小さな小瓶のもので、それはオルトのボディの装甲を損傷させることはなかったが自身は耐えうることができなかったようでオルトの肩部に弾けて割れてしまう。そうして割れたそれからこぼされる液体は、一秒も待たぬ間に続けてオルトのボディへと降り注いだ液体と同じらしい。
 まさしく、それらはオルト・シュラウドへと降りかかってきた。
「驚いた! なんだろう?」
 真紅の薔薇を煮つめてとろりとさせたようなそれが、オルトの白い塗装を滴って遮るようだ。
 指先に拭い、指の腹同士で伸ばしてみたり眼差しにサーチするオルトは十秒もかからずにそれが『マニキュア』であることを知った。僅かな粘度を徐々により粘りの強いものへと変化させていくそれはオルトには馴染みがないもので、天体が横たわったような彼の眼差しの中では好奇心も泳ぎ始めている。
 それだから、何故マニキュアが落ちてきたのかそちらに焦点を向けるのは遅れたようであった。上から降ってきたそれにようやく気付かされたようなものだ。もちろん、今度ばかりはそれは声で、オルトのボディをぶつものではなかった。
 階層の高いそこからオルトへ向けて謝罪を聞かせるのはポムフィオーレ寮生だ。距離がある為にオルトへと降り辿り着いたころには小さい音量にはなっていたが、集音機関の感度を一時的にあげた彼にしてみたらそんなものはなんの問題にもならない。
「だいじょーぶ!」
 手を振りながらそう言うオルトの肩部で乾いたマニキュアの煮つめられたような色に陽光がぶつかってはきらきらと輝く。
 オルトの元気な声色が寮生に届いたのとほとんど同じだったろうか、予鈴が鳴り響いたのは。それにサッと青くなった寮生の顔色と、もう一度謝りながらも廊下を駆けて行くようであった。
「曲がり角数メートル前でヴィル・シェーンハイトさんと遭遇するみたいだけど、廊下を走って怒られないかな?」
 うーんと少し悩ましげな声をこぼしたオルト、その足下を駆けたのは寮生ではなくルチウス。
「あっ! 何処へ行くんだろう? 僕も着いて行こう!」
 その場を後にするオルトの予測が的中するのはもちろんのことだ。
 ルチウスと学園領地内を探検したり、生徒も教職員も不在の図書館を覗き込んでみたり。今日はイデア・シュラウド、兄である彼と同じ授業を受けてみたりすることはなかったがオルトの一日はあっという間に時間を経たせていく。
 何時間経とうと煮つめた薔薇色にはならないけれど、空は黄昏、橙色の世界にオルトの黒檀色の影が伸びていく。誰もいない中庭で、反重力装置でふよふよと。
 橙色の世界に伸びる黒檀色の影がひとつ増えたのと、オルトがその存在に気づいたのは同時だ。
「兄さん! 授業お疲れさま、心配してた飛行術の授業はどうだった?」
 くるりと振り帰ったオルトは暮れゆく夕暮れを背中に微笑んだ。その口部はギアに覆われているものだけれど、確かに兄に向けて笑みを浮かべていた。
 そのオルトの表情とは反対のものを浮かべたのはイデアだった、兄のバイタルの乱れにとたんにオルトは眉を困らせながら反重力装置の出力を上げてその側に寄った。
「兄さんどうしたの、バイタルがすごく乱れて」
「っなんで、血が……! オルト! 怪我っ! どこっ!」
「わっ!」
 イデアはオルトの両肩部を勢いに掴んだ、その表情は今にも泣き出しそうな人間のものであった。
「兄さん、兄さん、僕どこも問題ないよ。出血なんてするわけないじゃない」
「だってお前っ! 血が、……じゃ、ない…? 血じゃない……? これは……?」
 乾いたマニキュアは流れる血のように指先にべったりと付きはなしない、また乾いた血のようにぽろぽろと残滓めいて剥がれ落ちたりもしない。
 困惑の感情を浮かべてボディを眼差しにする兄に、オルトは片隅に寄せていたデータを取りだすように説明をした。
「あのね、これはマニキュアだよ」
「まにきゅあ」
「うん、マニキュア」
 解放される肩部、橙色の世界の黒檀色の影がふらついた。オルトの影は上下に、イデアの影は左右に。
「心配、した」
「うん、ごめんなさい驚かせちゃって……」
「いや、杞憂でよかったよ。……ほんとうに」
 夕暮れの色や煮つめられた薔薇色、オルトの影の黒檀色、それがイデアの金色の眼のなかで複雑に混ざりあっているようでもあった。その色合いを、オルトは見仰いでいた。
「あー、……戻ってボディ洗浄しよう。そんな色、オルトのボディの完璧な塗装を損なうよ」
「うん、兄さんがそう言うなら早く綺麗にしなくっちゃ!」
 オルトの手を取ったイデアは足早に寮室に戻るらしかった。
 乾いたマニキュアの色はオルトの指先にも。それは兄の手の中に覆い隠された、らしかった。