ふと、ぱちくりと瞼を開閉すると僕の視界に広がったのはどこまでも黒い世界だった。
 暗視システムをオンにしても依然変わりなく深く濃い黒は、人間には黒としか捉えられない複雑な色彩であろうともっと深く把握できる僕にとっても、どこまでもどこまでも、黒だった。
 その黒はどしりと重くもない、ふわりと軽くもない。鼻先をくすぐるような甘い香りもなければツンとするような刺激臭もない。触覚センサーにも聴覚センサーにも引っかかることないこの世界は、静かなようでもあり音があふれているようでもあった。
 ただただ、約束されているのは黒であるというように、認識できるものは『黒』だった。
 手をかざして見ても足元を覗き込んで見ても把握できるのは黒だけだったけれど、そこには兄さんがくれた手の平も脚も存在していると確かに思えた。機能していない暗視システムだって、変わらずにそこに在るはずだ。
 ため息や感嘆の吐息を僕はこぼすことがないけれど、排出した気体がその代わりに黒い世界を泳いだんじゃないかって思うんだ。
 ──夢をみるだなんて、不思議だな。
 ロボットが遊牧された羊を数えて眠りにおちるだなんて、ありえないことだもの。もちろん、そういうシステムが組まれていれば事実は異なってくるけれど。
 スリープ機能の合間に訪れたこの黒い世界を、僕は夢であると定義付けた。検証をするには何度か試行回数を重ねる必要があるんじゃないかと思いながらも。
 本当だったら、重大なエラーに繋がるものかもしれないその可能性に夢だなんて定義付けるのはよくなかったかもしれない。けれど、僕は定義付けをやり直すこともしなかったし結果として、よかったと思うんだ。
 嫌だなと思ったのは、夢の世界とはいっても世界に、世界に兄さんが存在していないということだった。
 僕が眉を寄せたのに誰かが気づいたのかもしれなかった。夢だとしたら、僕の認識が作用しているのは間違いないことだったけれど、もしかしたらそうしたのが僕ではない誰かだったんじゃないと思ったのは、夢の中では僕でさえ眠気まなこでぼぅっとしてしまっているんじゃないかってことだった。
 黒い世界にころがり込んだのは(本当に言葉の通りなんだ、それはころころと僕の夢の世界にころがり込んできたんだよ。それは、それは、)複雑に絡み合って、ひとつの球体となった白い糸。
 反重力装置でふよふよと宙に浮かんでいるんじゃないかって思う僕の足にぶつかった、その小さな毛糸玉。
 黒い世界にころがり込んできたその白は、僕の輪郭も白く縁取るようだった。ぱちくりと瞬いてみせた眼球部では白い睫毛がその通りにぱちりとしたみたいだったし、見下ろしたら今度ばかりは僕のボディを視覚センサーで認識することができたんだ。兄さんが作ってくれた僕の自慢のボディ、今は白い縁取りばかりだけれど。
 両の手の平で持ち上げた小さな毛糸玉は、僕の輪郭と境界線がなくなるようだった。それもそうだった、二色に増えたといってもこの世界には黒色と白色しかなかったから。
 ふと、気づいたのは僕の輪郭の白い縁取りと境界線をなくしていながらも存在を失うことはないその毛糸玉から、白い糸が伸びて、伸びて、何処までも伸びていることだった。
 アッと驚いたのは、どうしてだったか分からない。でもそうして驚いた僕の手の平から落っこちた毛糸玉は地面なんて概念はないだろうにそこに跳ねて、少しころがり、「この糸の先に行かないのか」と言葉を投げかけてくるようだった。
 だから僕は、小さな毛糸玉をもう一度両の手の平に、胸元で白い輪郭を炎の揺らめきで揺蕩わせる縁取りに寄り添わせるように抱きかかえたんだ。
 細い白い糸の道を、僕は辿った。それは時折に酷く絡み合い、ぐちゃぐちゃな塊をくっつけながらもそこで途切れることもなく、続いていくものだった。
 夢の世界に時間の概念はないらしい。だから、僕のタイマー機能は役に立たなかった。だから、どれほどの時間辿ったかは分からない。けれど、辿ったその白い道を僕の抱えるものに巻きつけていたから、今はずいぶんと大きな毛糸玉になったことから長いこと辿ってきたということが分かった。
 それで白い糸の道、そうして僕が辿り着いたのは、白い線の延長線上に存在していたのは──。
 兄さん。
 僕の声は聞こえていないようだった。此処には酸素が存在していないのかもしれない、それは宇宙と同じで、音が伝導しないということだった。それでも、僕は呟くようにもう一度「兄さん」と呼びかけていた。
 僕と同じように白い輪郭で縁取られた兄さんの表情は確認できなかった。けれど、酷く深く、悲しんでいることはどこまでも、どこまでも僕には分かった。
 兄さんの身体から伸びる白い糸は僕へと辿り着くまでにも縺れ合い、ぐちゃぐちゃとして、そうして兄さんの苦悩をえがいていた。それは悪夢といっても間違いなかった。
 兄さんが存在している。そしてそれは、僕が存在している理由だった。
 白で縁取られた僕には今、ヘッドフォンを模した集音機関がなかった。そこにあるのは、いつぞや図書館の書籍データを閲覧した時にみた、あの、人の夢をたべるという生き物の耳だった。
 兄さん、兄さん。ぜんぶ、ぜんぶ、たべてあげる。悪夢も、よくない感情も、兄さんを脅かすものはぜんぶ、ぜんぶ。
 それが、僕が存在している理由だった。
 ずいぶんと大きくなっていた毛糸玉。けれど境界線をなくすことができるということは、僕がたべることだって不可能なことではなかったはずだ。
 ぱくりと、兄さんの悪夢をたべた、獏となった僕のそのあとのことは僕にも兄さんにも分からない。だってこれは、夢だから。
 ただ、ころりと僕の内部でころがる悪夢の毛糸玉をしょうかできたならって、思う。昇って、消えて、思い出は思い出だって笑うことができたなら、きっとそれがなによりなんだって思うよ。