今夜も今夜とて夜更かしに励むイグニハイド寮生は少なくない、寮長であるイデア・シュラウド、その人でさえ今時分その口にチョコバーを咥えながらネトゲ周回に励んでいるのだから。
 イグニハイド寮の一年生であるその青年もまた夜更かしに夜更かしを重ねる為にエネルギー摂取として自販機にチョコバーを買いに出ていた。
 青い光ながらも爛々と廊下を照らし灯すのは消灯の時間まで、彼の頼りとするところは手元の洋燈だけであった。その中でガスなど燃えていないが、電気信号でガス式を模したように時折に揺れて見せる洋燈だけが、月の光が差し込む窓もない廊下での彼の頼りだ。
 明かりさえあれば、日中であればなんら思うこともない廊下だけれど、一度こうして静まりかえり心許ない明かりだけで独り歩めば心細くもなる。なにせ、イグニハイド寮ということもあって。
 肩を落とすようにして、洋燈を掲げていた手も僅かに落とす。そうして彼はもう一度掲げた。
「ひぇッ?!」
 彼の肩は跳ねる、あちら側から見たならきっと、彼の持っていた光自体が跳ねていたことだろうけれど。
 そう、あちら側。心細さを抱いていた彼が驚いたのは、誰もいないと思っていた廊下で自身以外の存在に気づいたからだ。
 洋燈の明かりも届かない、遠く、廊下の奥、闇ばかりでその闇さえ此方に侵食してきそうなそこで、ぎらりと光る、二つの。
 洋燈は床へとぶつかった、転がる光、言葉にも成らない声を唇から溢しながら尻餅をつく、闇の中にゆらりと光の流線を描く、その――。
「あれ、誰かいるの? こんばんはー」
 おそろしき怪物の鳴き声を想像していた青年の肩を空かしたのは、その少年の声色であった。どこまでも無邪気で、よく響く。その音を纏いながら二つの光が僅かに上下に浮遊しながら近づいて来る。腰は抜けたままに、彼はその正体が鮮明になっていくのを、ただただ開けていたような眼差しと口元で、知った。
「オルト、さん……」
「うん、僕はオルト・シュラウド。君は――『人物データを呼び出します、データ照合開始します』……」
 お互いに口にしたように、青年が尻を廊下に擦り付けたままに身仰いだのはオルト・シュラウド、寮長の弟である彼であった。入学して間もないものの、寮長である人物のその弟のことを青年は少なからず知っていた。むしろ、イグニハイド寮生なら知らないほうが無理もない。或いは、ナイトレイブンカレッジの生徒であれば。
 兎も角、心細い深夜に遭遇した想像した怪物の正体がオルトであった為に彼は心底安堵した。そうして、落ち着いたなら次に浮かび上がって来るのはいろいろな疑問であった。
「この時間はおやすみでは、それに、眼が、いつもと違う……それも、寮長作ですか?」
「! 気づいてくれた? そうなんだ、かっこいいでしょ! さすが僕の兄さんっ! このボディの眼球部はね、猫を題材にしてるんだ。アーキタイプ・ギアとは違ってね、網膜部の後ろにタペタムっていう反射板を設置しているんだよ。これで少しの光だって倍にして、こんな暗いところでもよく見える! から、今夜はお試しに夜の散歩してるんだ」
 どんなに真っ暗でもへっちゃらさ! そう言いながら楽しげに宙を左右して見せるオルトを追うように、光の線が描かれる。
 少しだけ暗闇に慣れた青年の眼差しの先でオルトの眼というのはまさしく猫のそれで、まんまるとした金色の月の中に同じくまんまるで黒い天体が横たわっているようだった。立ち上がらずとも手繰り寄せた洋燈、そうして明かりをかざす。すると黒い天体は削がれたかのように急速に細まり、もうそれは金色の月のクレーターであると言わんばかり。つまりそう、まさしく猫のそれであった。
「……さすが寮長、」
 彼も彼とてイグニハイド寮生、その造りに感嘆とした。
「でしょ? 僕の兄さんはすごいんだ!」
 けれどそれ以上に、(なんてびびるものを備えさせたんだ!)というやつ当たりのそれが彼の心中を占めていたが、他のボディと異なる部分を説明しながら兄を褒め称えるオルトにそんな彼の様子は伝わっていないようであった。
「じゃぁまたね、兄さんの夜更かしもそろそろとめないといけないから」
「ぁっ、はい」
 薄ぼんやりを掻くように手を振ったオルトに、さようならのそれに、彼はただ反射で手を振り返した。そんな様子にニコリと笑んだオルトの眼、タペタムに反射する光がなくなるそのシーンというのはアリスの前から姿を消すチェシャ猫のそれにも似ていた。未だ腰を抜かす青年は、そんなこと知りやしないが。
 ――蛇足であるが、オルトとさようならをした青年が立ち上がれるようになるまでにあと一時間はかかる。腰を抜かしたその姿、それはさながらイカを与えられた猫だ、なあんて。