ナイトレイブンカレッジの領地はとても広いもので、そこの端っこではありますがせせらぎを聴かせる川が確かに在りました。何故そのようなものをお教えするかと言いますと、薄ぼんやりとした寝ぼけまなこのイデア・シュラウド、彼がその川岸の端っこで少しばかり右や左に体をふらつかせながら立っている為でもあります。
その隈に縁取られた目が見ているのが確かにその川であるのかはたまた彼のお家の、うんと大きく広いお屋敷のちょいとばかり行った先にある、特別な河を遠く遠くに見ていたのかは定かではありません。ただ確かなことは、ちょうどイデアの真上、しらしらと光る星の子のお守りをするかのように夜の空にぽっかりと浮かんだお月様の存在や、それによく似ている彼のまなこの中、彼の目線の先にふよふよと浮かびぺかぺかと光る、星の子の親戚にも思えるものが在ることです。ぴかぴか青びかりするのは蛍のようで、その小さな虫たちはお月様のクレーター、イデアの瞳孔に映り込んでは、何処かへと旅立っていくようでした。
イデアが徐にその背の高い体を屈め、冷たい水の中に指先を潜り込ませたのはその水底に何かを見つけたからでした。彼の細い指先、指の腹同士に摘まれて、それはちゃぷりと夜の空気へと掬い上げられます。少しだけ、水の世界に心残りがあるように、ぽた、ぽたりと水の珠が滴り落ちては川に帰っていくようです。
お月様の眼差しにかざしたそれはすぅすぅと石よりも軽く、月の光を受けては青白く夜に浮かび上がっていました。そうして綺麗で冷たいその小さきものは、少しだけ尖りをイデアの肉にちくりと食い込ませ、偏に彼の眼差しを受けています。
深い呼吸をイデアに促したようでした、けれども彼の喉はと言いますと少しばかりひくついて、上手いことそれをすることができません。川の中に飛び込んで泳いでなんかいないのに、水が入り込んでなんかいないのに、鼻の奥もどことなくツンとするようです。
それで、イデアは川岸のそこに座り込んだようでした。小石がころころと転がるそこは座り心地がよいとは言えません。けれどそんなこと構いやしない、いえ、気にも留めないといった風に彼は両の脚を自身へと引き寄せます。膝小僧にこつりと額を当て、閉ざした瞼にふるると睫毛は細かく震えました。それでやはり、握り込んだ拳のその内側はちくりとしました。
川の底の小石たちが、流れる水にもてあそばれるように転げていますから、せせらぎの合間に聴こえる小石の笑い声のようなそれもイデアの鼓膜を震えさせているようなものです。せせらぎ、小石の笑い声、草の中の虫たちの鳴き声、月と星の輝きの音。夜は静かで、それでいて静寂の中で生まれる耳鳴りにも似た細波です。
潮騒でしょうか、何処からかふしぎな音がイデアの耳元をくすぐります。それが声色で、銀河ステーション、銀河ステーションと云っていることにイデアが気づいた時、閉じた瞼の向こう側がぱっと明るくなって、まるで月も星も落っこちてきたんじゃないか、それとも自身とよく似た蒼い焔がすぐそこで燃えているのではないかと思わせました。ですから、彼は少しうたたねのそれをしただろうかと思わず何度も目を擦ってしまったのです。
イデアの目元をちくりと刺したのは、一枚の切符です。そうして彼が座っているのは夜の軽便鉄道の、小さな電燈の並んだ車室で、驚いたように手を下ろした彼の指の腹が触れたのは天鵞絨のさわりを知らせる腰掛けです。
列車は、ごとごとごとごと、走りつづけていたのでした。
おかしなことですけれど、すぐ目の前の席に、胸元にフリルをたずさえた上等なシルクの上着を着た、背の低い小さな子供が、車窓から顔先を出すようにして外を見ているのにいまさらのことように気づきました。襟足のあたりでぱちりと燃える火の子を見送ることなく送り出したその子供に、イデアはどうにもたまらなくなります。どうしてだが、ひどく心臓が痛むのです。それはイデアが握り締め、シワをつけてしまった切符でしょうか。そのように握り潰されてしまうかのように、痛むのです。そうしてもしかしたら、その心臓は自身のものではなくもしかしたら。
イデアの喉がヒュッとなきそうになった時、車窓から顔を引っ込めて、腰掛けにしゃんとその少年は座り直しました。イデアとよく似た蒼い焔をゆらゆらと燃やしながら、その頬にはやわい笑みを浮かべています。
「どうしたの、兄さん。切符がしわくちゃになっちゃうよ。」
少し首を傾けるようにしてそう尋ねたのはオルト・シュラウドでした。弟の、もちろん弟のオルトだと、イデアは何故かふしぎな気持ちでその笑みを見返します。そうして弟を困らせないようにした彼の頬の形は、少しだけ不格好でした。
「なんでもない、なんでもないよ。ただ、兄ちゃん、少しだけ疲れたみたいだ。」
「そうなんだ、ごめんね。僕が遠出したいって言ったばっかりに、疲れちゃったんでしょう。」
オルトの困らせた眉と、沈んだ肩に、イデアとしても困ったようにその眼差しを泳がせました。だいじょうぶ、だいじょうぶだからと言ってみますけれど、オルトの顔色は少し青ざめているようでどこか苦しそうでもあります。ですから、何か忘れているような気持ちはしてもその唇から零すことはありませんでした。
「オルト、お前が見たいって言ってたものを、見せてあげたかったのは確かだから。」
「うん、ありがとう。嘆きの島からは遠いけれど、カシオペアの、夜の空に飛んでる鳥の星の光を見仰ぎたかったんだ。綺麗だったなあ。」
その光景が今もまなこの中に在るように、オルトの頬は喜びましたし顔色も少しよくなったように思いました。そうして、そうだ、カシオペアから帰りの列車、それにがたごと揺られていたんだったとイデアに思い出させます。
「好きだな、僕。」
「そんなに。」
「だって、燐の火のような蒼い綺麗な光で、静かに燃えているでしょう。それってなんだか。」
オルトの言葉をうんうんと頷いてイデアは聞いています。見守るような兄のその表情を見ながら、その星の輝きはまるでと言いそうになったオルトはと言いますと、ハッとしたように口を噤みました。両手を腿に挟んで隠し、恥ずかしそうに顔を少しばかり俯かせます。わずかにその体はもじもじと揺れていました。
「あっ、見て。りんどうの花が咲いてる。」
それは照れ隠しのものでした。それを分かっていながら、イデアは口の端をちょっこりつりあげるようにして言うのです。
「とってきてやろうか。」
「えっ、だめだよ。だってあんなにも後ろへ行っちゃったから。」
慌てたオルトのその声を追うように、りんどうの花はやってきてはいなくなり、やってきてはいなくなるようでした。
やはり、列車はごとごとごとごと、走ります。
「ねえ、兄さんは僕をゆるしてくれる。」
いきなりそう尋ねたオルトに、イデアは睫毛の先で星が今弾けた、そんなばかりに瞬きを繰り返します。星の子の目眩しでオルトにすぐに言葉を返せませんでしたから、オルトは少しだけ泣き出しそうな、けれどもそれを一生懸命にこらえているような表情で続けます。
「僕ね、兄さんが本当のさいわいに至るためなら、なんだってする。けど、本当のさいわいがなんなのか、ちょっとだけ分からないや。でも、誰だってほんとにいいことをしたら、一番のさいわいなんだよ。だから、ううん、なんでもないよ。さっきの仕返し。」
オルトの頬はにこりと、けれども何かを決心しているようにも見えました。
イデアの唇が隙間をこしらえて、オルトに何か言おうとした時でしょうか、列車の中はイデアに目を擦らせたあの時よりもうんとずっと眩しく、白く明るくなりました。その厳かにも思える輝きにイデアは肩を跳ね上がらせましたし、オルトもまた少しばかり驚いたというように肩を丸めます。二人して、よく似た眼差しを瞼で隠し、それでも閉じた世界でもその眩さを感じていました。
おそるおそると僅かに片目の瞼を持ち上げたイデアは、オルトが目を瞑りながらもその両の手を組み胸元に寄せて祈りにも似た姿をみせているのを知りました。列車の中に輝きを注ぐものを横目で確認しようかと、自身も弟に倣ってみようかと少しばかりは思いましたけれど、それらにイデアの胃のあたりは何故だかむかむかとしたものですから、そのような考えは拭い去ってしまい、やはり瞼は下ろされました。その閉ざされる景色の少しだけ、オルトの頬が熟した苹果のあかしのように美しく輝いているのを見たようでした。
列車は変わらず走り続けていますから、厳かに輝くものもいずれ後にしたようです。
二人は今ベッドから起き上がったというように目元を擦り、ぱちぱちと瞬きました。オルトの目元から星の子が落ちたように思えて、一回、いいえ二回分多くイデアは目元を擦ります。
「兄さん、もうすぐ白鳥の停車場だよ。」
「ああ、十一時きっかりに到着だよね。」
オルトの頬は好奇心を隠せないとばかりです、ちらちらと車窓の外の去り行く景色を盗み見ていました。シグナルの緑の燈がオルトのまなこの中に少しだけ泳ぎます。
「もしかして、オルト。」
汽車はゆるやかに白鳥の停車場に停まるようでした。
「僕たちも降りてみよっか。」
「うん、降りよう。」
イデアの問いかけにオルトの返事は早いものでしたから、それは微笑ましく、イデアの心臓のあたりをぽかぽかとさせました。それはひのきの枝のあかりが側にあるようでもあります。
二人はどちらが早く改札口を抜けられるか競うかのように、腰掛けから跳ね上がるかのようでした。少し前へ出たオルトの背中や、脚、足下を見て、イデアは少しばかり躓きそうになります。ですから、先に改札口を抜けたのはオルトでした。誰も居ないそこに、オルトの嬉しそうな笑い声が響きます。その声にちょっこり驚くように、明るい紫がかった電燈がぱちりと灯りを弾けさせたようでした。
イデアとオルトは、水晶細工のようにも見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場にでました。そこは今よりもうんと昔に遊んだ広場にどことなく似ています。そこから幅の広い道が、青光りの中へ通っていました。その道を二人は進んで行きます、どちらからともなく繋いでいた手、肩を並べたそれで、二人の影もおんなじように在ることでした。
河原に辿り着いた二人は、互いの足下に眼差しを落としました。少しだけ靴を擦るようにしますと、しゃりりとした涼やかな音が耳の輪郭をくすぐるようです。二人でその場にしゃがみ、その綺麗な砂をひとつまみ。掌にひろげ、指できしきと。
「兄さん、この砂、みんな水晶だ。それに中で小さな火が燃えてる。」
「そうだね。」
そのうちで燃ゆる火をどこまでも深く見ようとオルトはうんと眼差しを寄せます、イデアは河原の礫は他にも黄玉や銅玉やら、もっとうんと沢山の鉱物であるのを見渡していました。ですから、オルトの手がパッと離れ、今にも河に飛び込まんばかりに駆けだしたのにはなかなか驚かされたのです。
「おるとっ。」
「なに、どうしたの兄さん。」
もちろんオルトは勢いのままに河に飛び込むだなんてしませんでしたから、焦った兄の声に振り返り、はてどうしたことだろうかと首を傾げます。
イデアの眼差しはオルトの足下、ほんの、もうほんの少し踏みだせば水にひたるといったそこを見ました。
「ぬれ、ちゃうから。」
「だいじょうぶだよ。それになにも、じゃぶじゃぶ水を掻き分けてすすむだなんて、しないもの。でも手をひたしてみるのは、ゆるしてほしいな。」
オルトが眼差しを向けた河の、その流れる水というのは水素よりももっと透きとおっていました。オルトのそれは、水はどれくらい冷たいのか、どのように指の合間を抜けるのか、もしかしたら舌の上でどのような味をひろげるのかさえ知ることをとめられないといったばかりの、好奇心を抱いた眼差しです。
「飲むのは、駄目だよ。」
「はぁい。」
オルトのことを分かっているイデアは少しばかり呆れながら歩み寄り、言いました。
許しを与えはしましたが、オルトが水に手をひたす時、イデアの心臓は忙しくどうにも管を流れる血というのはかけっこでもするように早く、息切れのようなものを彼に覚えさせるようでした。もしかしたらそれは焦燥にも似ていたでしょうか。
水素よりも透きとおった水はそこに存在しているか少しばかり疑わしいことでしょうが、それでも確かにそこに流れていることはオルトの手首の水のひたったところが少し水銀いろに浮いたように見えたことや、その手首にぶつかってできた波が束の間美しい燐光をあげてちらちらと燃えるように見えましたので、確かにそこに在ることをイデアに教えました。
「えいっ。」
兄を少し眼差しに、年相応な悪戯っぽい笑みを浮かべた弟の声音。
何もイデアにかかるようにしたわけじゃありませんでしたけれど、オルトが水にひたした両手を掬いあげる形にし、それでも、もっと勢いのままに水面を抜けて宙に弾けさせたのには、さすがにイデアも驚きました。
イデアとオルトの眼差しの先には、大小さまざまな水の珠がそれはもう美しく宙に弾けます。それらは水の鏡になり、河岸の水晶や黄玉、銅玉の鉱物をきらきらと映しだしたり、光を反射したり、それで二人の姿も小さく映しだしていたのです。
その光景は数秒のもので、水の珠は河に帰ってしまいましたけれど、眼差しの先にはまだそれらが在るといったように、イデアとオルトはそこばかり見ていました。そうして、先に身動いだのはイデアでしょうか。オルトに眼差しを寄せ、手は彼の燃ゆる蒼い焔に指先を滑り込ませて、乱すようにも撫でるようにもするのです。
「わっ、わっ、兄さんやめてよ。首も揺れちゃってる。」
少しだけ逃れるようにしたオルトは何も、兄の指先が火傷する心配を抱いているわけではありません。なんせ、その優しく燃える蒼い焔は誰かを傷つけることはないのですから。決して。
「悪戯っ子だな、兄ちゃんを驚かせて。」
「ふふ、びっくりしたんだ。」
悪戯が成功した子供の笑みで、オルトは揺らされることを受け入れました。
どちらが先でしょうか、川上に眼差しを向けたようでした。白い岩の影や、そこに小さな、人影が見てとれます。時折になにかがピカッと光ったりもしています。
「オルト、列車に戻ろっか。」
「うん、分かったよ兄さん。」
列車の出発には幾分早いものでしたけれど、イデアはオルトの手を取り、来た道を戻るようでした。手を引いて足早に、先を行きますけれど自身の背高のっぽの姿にオルトの姿を隠してしまいたいと思っていました。なんとなく、ぴかりと駆ける光は嫌だったのです。そうして二人だけ、オルトと二人っきりの方がずいぶんと心が落ち着くものですから、誰かに会いたくもなかったのかもしれません。
列車の車室へと戻った二人は、少しだけ沈黙を抱いていました。
そうして揺り籠のようにやわく揺れはじめ、列車はやはりごとごとごとごと走り始めます。
時折、相席したそうに車室を覗き込む影にイデアは気付いておりましたけど、そんなもの知らない、最初から在りはしないとばかりにぷいと鼻先を逸らしていました。
オルトの他に誰もいらないといったばかりですけれど、列車に乗っている以上は車掌さんに会わずにはいられません。赤い帽子の、イデアよりも背の高い車掌が静かに二人に眼差しを向けていました。イデアはそれを、座っているところから見上げます。もしイデアが十八にもなりましたら、追いつけるかもしれないといった背の高さでした。
少しばかり睨みつけるような兄の眼差しをよそに、オルトは小さな鼠いろの切符を差し出します。それを横目にしたイデアは、あの切符は何処へやっただろうかと少しばかり慌てました。尻のポケットにでも入っているだろうかと伸ばしかけた手、その拳に、あっ、と気づきます。しわくちゃな切符を彼は握り締めていましたから。
しわくちゃにしてしまったもんですから、イデアは少しだけやけっぱちなこころもちで車掌へと切符を突きだします。
車掌がしわくちゃな切符のしわを叮嚀に伸ばし見ている間、イデアはオルトを見ていました。オルトの目というのは、だからしわくちゃになっちゃうって言ったじゃないと笑っていました。
車室にはまた、イデアとオルトの二人しかいなくなりました。
列車はずいぶんと長い間走っていますから、もしかしたら空腹を覚えたのかもしれないとイデアに感じさせます。匂の錯覚に、イデアは鼻をひくひくとさせました。けれどもその甘い薫りは決してイデアの勘違いではありません。だってほら、徐に腿の上に置いたイデアの手、天を仰ぐようにしたその手の平の上には、黄金と紅で美しくいろどられた果実が乗っていたのですから。
「苹果だ。」
ぽつりと呟きます、どちらだったでしょうか。
互いの鼻先をくすぐる薫りのとおりにそれは苹果です、そのつるりともすべりともした表皮にイデアの眼差しは惹かれましたし、なんなら顔先や唇も寄せられました。けれども、慌てたようにオルトが立ち上がったもんですから、驚いたイデアの手から苹果はこぼれ落ち、彼の腿の上にやわくぶつかりました。
「あ、ああ、ごめん。オルトも食べたかったよね。」
イデアは、もう一度苹果を手に取りオルトに差しだしました。オルトはと言いますと、席から立ち上がり、少しばかりイデアの方に曲げた背と伸ばした腕の姿のままで、迷っていたようでした。その指先のかすかな揺れ、軌道、もしかしたらそれこそがオルトの抱くやさしさです。
「うん、そうなんだ。とっても食べたかったから、びっくりさせちゃったみたい。」
オルトは、イデアの手から苹果を受け取りました。弟の手の平に乗ると自身が持っていた時よりも小さく見えるその果実に兄は眼差しを向けていました。或いは、腰掛けに座り直し、苹果に寄せられるオルトの唇を。
しゃくりと音が小さく響きました。車室の中にはその瑞々しく甘い爽やかな薫りが広がります。トパーズいろのつゆが、オルトの指先を濡らしていました。そんな光景を、イデアは眼差しにしていました。神聖さを伴ったものに思えながら、それでいて、腹のあたりがちくりとします。
そんなにも自身は苹果が食べたかったのだろうかと、考えました。何故だか、オルトがしゃくりしゃくりとやる度に、ほの暗い気持ちになっていくのです。苹果を、或いはそればかりではなかったのですけれど、列車にゆられながら今、オルトに食べさせたくはありませんでした。
そんなイデアの思いとは裏腹に、トパーズいろのつゆは列車の床に弾けます。そこに水溜りなど作らず、すぅと消えてしまったかのようですけれど。
何処までも、何処までも、列車は夜を駆けて行きます。
夜をぼんやりとまなこに浮かべながらのオルトの呟きです。
「ただいちばんのさいわいに至るために、いろいろのかなしみもみんな、おぼしめしなんだ。」
それが応じを求めているものなのか、独言たものなのか、イデアはいっそ迷い子のような心持ちでした。唇は引き結び、どうしてこのようにも心臓が切なく、かなしいのか、胸元の装いを爪先に掻くようでもありました。
弟の燃ゆる焔は蒼くともどこまでもやさしいけれど、自身のそれは本当に静かで冷たい。けれどもいっそ、そのように心を持たなければいけない。沈めるように、鎮めるように、そう、僕は、兄で、いずれは。
沈黙は長く続きました。イデアにはその静寂がいっそ耳鳴りを伴って煩いばかりでしたけれど、オルトがどう感じていたかはちっとも分かりやしません。
次に二人の間に声色が響いたのは、車窓から覗くその先、川の向こう岸が俄かに赤くなった時でした。それは、野原に燃える大きくまっ赤な火です。
ルビーよりも赤く透き通り、リチウムよりもうつくしく酔いしれるようにその火は燃えています。生まれる煙は黒く、高くに昇り、桔梗色の冷たくもみえる天を焦がそうとしていました。
「あれは、何の火。あんなにも赤く光るだなんて、何を燃やせば。」
喉はひくついていましたので、途切れ途切れにイデアは呟きました。
「兄さん、あれは蠍の火だよ。」
少し素っ気ないような声色でオルトは言いました。
「蠍の、ああ、蠍の火か。やけて死んだ。」
そうどこか朧げに返しながら、イデアはどきりとも、びくりともしました。彼もまたその蠍の火の話を知っていましたから。
昔のバルドラの野原に一匹の蠍がいて、小さな虫やなんかを殺して食べていたのですけれど、ある日いたちに見つかって、食べられそうになるものです。蠍は必死に逃げましたけれど、とうとういたちに押さえられそうになります。その時、蠍の前にはいきなり井戸が。蠍は、その中に真っ逆さま。おちてしまった蠍は、もうどうしてもあがられないで、溺れはじめてしまいます。そうして、蠍はこうして祈ります。
嗚呼、わたしはこれまで幾つもの生命をとったか分からない、そしてそのわたしが今度いたちに奪われそうになった時はあんなにも必死に逃げた。それでも、とうとうこんなになってしまった。嗚呼、何にもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを黙っていたちにやらなかったのだろう。そうしたら、いたちだって一日生き延びただろうに。
どうか神さま、わたしのこころをごらんください。
虚しく命を捨てず、どうか次は。さいわいの為にわたしのからだをおつかい下さい。
その祷りに、蠍は、蠍は火となったのです。よるのやみを照らす、真っ赤に燃える火です。いつまでも、燃え続ける。
「あの、蠍は、いたちは。」
イデアの唇からぽろり零れて、それは車室の床にころりと転げましたでしょうか。怯えているようにも思えるイデアと、けわしさを浮かべているようにも思えるオルト。オルトは、その転げたものを拾うことはしませんでした。
蠍の火を後ろに、後ろに、景色は流れていきます。
二人の心持ちを喜ばせようとしたものでしょうか、さまざまな楽の音や草花の匂が車室へと潜り込んできたようでした。それは近くでお祭りでもあるようです。
「ああそうだ、ケンタウル祭。ケンタウル祭があるんだよ。」
すっかりけわしさを拭ったオルトがイデアを見ながら声を上げます。
「ケンタウル祭。」
「うん。見て、あんなにも大きなもみの木。その中にほんとにたっくさんの豆電燈。蛍が千も集まったみたい。」
「本当だ。寄ろうか。」
「ううん、もう、寄り道は、だめだから。」
オルトは困ったように首を振ります、火の子が追いかけようとして、おいていかれるようにして宙に弾け、掠れて消えました。
まるでイデアはといいますと、そのおいていかれた火の子が自身のようにもあるいは掠れて消えた火の子がオルトにも思えたものですから、いっそこの夜に迷ってしまったようなこころもちです。
「ねえオルト、何処までも、何処までもいっしょにいこう。」
オルトは少しだけ、微笑みます。唇は声音をきかせませんでしたけれど。
「兄ちゃんだって、本当のさいわいが、分からない。それは、いったい。」
「うん。」
「だから、オルト、いっしょだ。どこまでも、どこまでも。」
縋るような声色を共にして、イデアはやわく瞬きをしていましたけれどその合間に、まるでかくれんぼうをするように、オルトの姿はなくなってしまいました。今の今まで座っていた席にもオルトの姿はなく、そこもうがらんどうが広がっているばかりなのです。
イデアはもう飛びつかんばかりに、その天鵞絨を掻きやぶらんばかりにオルトが座っていたはずのそこに縋りつきます。彼の慟哭だけが、車室に満ちていました。弟の声音が寄り添うこともありません。兄の涙は腰掛けに滲みます、彼は唐突に気付いたようなのです。オルトは、弟は――。
イデアは目を開きました。そろそろと夜を追いやる朝の色が彼を濡らし、学園の端っこで流れるその川の岸で寝てしまっていたことを遅れて気づかせました。
心臓はおかしく熱り、頬は冷たい涙が濡らしています。
イデアは跳ね起き、少しだけ川岸に転がる小石で滑ったようでした。その場から駆けだします、彼はイグニハイド寮の自身の部屋、そうしてオルトがねむるそこに急いで帰るようでした。
スリープ・モードのオルトは予約されたプログラムのそれで自動的に起動しますけれど、イデアはもう、オルトを、弟の姿を今すぐに眼差しにせずにはいられないといったものなのです。
寮に戻るための鏡を通り抜ける時も額にぶつからんばかりでした、もし生徒や教職員にイデアのその様子を目撃されていましたら、イデアの姿をした別の誰かが駆けて行ったと思わせるものだったでしょう。
オルトは、ねむっているかのようでした。いいえ、天の川ともあの水素よりも透きとおった河の水でもない、彼のための液体の、揺り籠の中で、ただただ静かにねむっています。大小の泡は時折こぽりと小さな音を立てながらオルトの足元から、彼のボディを逆さに辿り、そうして天へ消えていきます。口部のギアに引っかかってから昇っていったのなら、いっそ、やすらかな彼の寝息にも思えたかもしれません。
そのようなオルトの姿を、酷く痛ましく打つ心臓と、揺れる眼差しで、イデアは、ただそれだけにしていました。
オルトは、眼差しを伏せていましたけれど、確かにそこにありました。
乱れていた呼吸に、全力で駆けた脚。それらはオルトが眠るその方舟のようなそれに、イデアの手の平を押しつけさせます。彼はその場に座り込むようでも、崩れ落ちるようでもありました。もう片手はそれを割りやしませんけど、拳をよわくぶつけさせもしました。
ちくりと、します。
本当は瞼をきつく閉じて、深い息を吐きだしたかったのかもしれません。けれども握ったそこから、ちくりと肉を刺してくる尖りが彼の目を開けさせましたし、それがなんであるのか確かめさせずにはおりませんでした。
イデアのといた手の平の上には、ころりと小さなネジが転げます。それはオルトのねむるそこのバックライトの灯りを受けて、青白く浮かび上がっていました。
その小さなものがまた肉に食い込もうと、イデアは拳を握り込みます。
イデアはオルトへと眼差しを向けながら、少しばかり早いですけれど手動でオルトをねむりからすくい上げるようでした。小さく、音が響きます。それは弟の肩をやわく揺り動かすものにも似ていたでしょうか。
「オルトに、おはようって、いわないと。」
それに、それにと、イデアは唇から言葉を零し、ところどころは胸中で呟きます。
「今日は、オルト、お前が――で、――で、僕は、お前に、いろいろをいわなくちゃ、いけない。」
そうして、どのようにあろうとこれだけは確かだというように、紡ぎました。
「うまれてきてくれて、ありがとう、オルト。」
その祷りにも似た響きをいまは誰もきいてやいませんでしたが、それでも、小さな泡はオルトの口元へと引っかかり、お空を目指すようにのぼります。なんだかそれは、オルトが笑っているようでもありました。
星の子の、笑み声をきいたようでも、ありました。