「――『予約されたシステムを作動させます、スリープモード解除。正常に起動しました、これよりアーキタイプ・ギアを施行します』」
プシュゥと、管から少しだけ漏れた空気の音がそのブルーライトに薄暗く照らされた空間に響いたようであった。オルト・シュラウドのオートシステムの作動により彼の背中から外された樹木の枝や根っこにも思える機械のパイプから吐き出された気体が伴った音だ。
音にするならキュィンと僅かに鋭利さを抱いたものを纏わせながら、オルトの瞳孔部は引き締まる。『オートモード解除』と、誰が聞いているでもない言葉の音の後、光の珠の幾数がそこに現れ、流れ星の尾っぽにも似た碧色の流線型を描き、彼のまなこの中を駆けた。
「もうっ! 兄さんったらまたベッドじゃないところで寝てる!」
先ほどとは違い人間みのある声色で、それでも彼の兄であるイデア・シュラウドがその空間で寝入っている為に彼は極めて小さく、けれど確かに叱責の音声を上げた。
両腕を胸元に抱きながらぷんぷんと怒っているが、その数秒後にオルトの小さな手が兄の足元に落っこちている毛布をその身体にかけてやるのは間違いなく、日常とも呼べるものであった。
「……今度こそ……SSR……ノーカン……この石はノーカン……貯蓄余裕っすわ……」
むにゃむにゃと寝言を言う兄の音声データを撮り続けながらも、オルトはその目元を縁取るかのような色彩を捉えている。その色彩コードがまたより一層濃くなっていることに彼は溜息を吐く行動をする。昨夜は徹夜でなかったとしてもまた夜更かしのそれをした、しっかり寝て欲しいと訴えたのに。
できれば、起床にふさわしい時間帯だとしても今日はこのまま寝続けた方が明らかによいと検索などしなくてもオルトには分かっていた。けれども彼は今日の兄の授業に関するデータを起ち上げながら、兄が嫌々ながらに呻きながら優先順位を指定したものを前面に位置させた。
二番目に指定された時間に起床を促すしかなかった。
「兄さん、兄さん、起きて。起きて、朝だよ! 今日は一限目から出ないとまずいって言ってたじゃない」
数回、オルトの手の平は軽く兄の肩を揺らした。少しだけ浮上した兄の意識をオルトは把握した。けれども兄は、はっきりとした目覚めの言葉をその唇から発していない。ゆえに、オルトは先ほどよりも圧力をかけて兄の肩を揺らすことをした。
「兄さん、兄さんっ! 次は魔導ビームだよ!」
「……ビームは……浪漫……、『承認』……」
「『音声承認されました、魔導エネルギー充填開始……エネルギー充填20%……』」
「うぇっ?! 起きたっ! 起きましたぞっ?! 『おはよう、オルト』!!」
瞼を閉じていたとしても確かに感じる眩さは、オルトの心臓部手前に集められる光の。寝入っていたとしてもその先を察知したイデアの跳ね起きた足先が壁かデスクの一部を蹴り上げたような音を上げさせた。事無きを得た兄弟の間にその騒音は些細なものであったようだが。
「『魔導エネルギーの充填を中断します』うんっ、おはよう兄さん!」
少しの慌ただしさを纏いながらも、似たような笑みで交わされる兄弟の挨拶が一限目を幾分後に控えたままにお互いに染み込むようであった。
眠気を纏ったイデアの指先は彼自身の目元を擦り、オルトの指先は彼の肌に数秒触れる。
「『体温異常無し。血圧異常無し。共に平均より微かに低い数値です、対策として良質な睡眠を推奨します』」
「あー……、じゃ、今日の授業はタブレットで」
「駄目だよ、確かに兄さんが予定に設置したじゃない」
「うっ……知ってた……人生ハードモード……」
ふらりと立ち上がるイデアは、しぶしぶと身形を整え始めるらしかった。
オルトは兄がちゃんと一限目を受けようとしていると、片手を口元へと当ててふよふよと浮遊しながら笑んだ。その口元は今はメカニックに覆われている為に窺えないものであったけれど、オルトは確かに微笑んでいるらしかった。
不意に、兄が歩みを止めてオルトへと振り返る。オルトは浮遊しているそれでも見仰ぐことになる兄の眼を覗き込むようにして把握した。
「おはよう、オルト」
「うん、おはよう兄さん。ふふ、二回目じゃない。まだ眠いみたいだね」
「……そうだね」
やわらかな微笑みを、少しだけ躓くような流れで浮かべたイデアは徐にオルトへと手を伸ばし頭を撫でた。互いに良く似た蒼い炎のそれが兄の指の合間でちらちらと熱を感じさせずに燃えている。
「ねぇ兄さん、一限目は一緒に受けても良い?」
「一限目……良いんじゃない? 一限目だけなら。確か二限目以降はダメなやつだったでしょ」
「うん、二限目には小テストが控えてるし、その後も同行不許可だよ」
「…………ステルス搭載タブレットを同行させてホログラムをオルトに重ねれば部屋から出ることなく、」
「駄目だよ、兄さんったら」
「うぅ……弟も厳しい……」
もどもどと寝衣にしている青と薄墨色の横線に彩られた装いを脱いだり次を着たりしている兄の姿を網膜部に捉えながら、オルトは兄と一緒に授業を受けられることの喜びにふふふと笑んだ。心なしか反重力装置で浮遊する上下もいつもより穏やかに感じられるものだった。
教室に差し込む朝の陽光が混じる蒼の炎の色彩というのは、暗い寮室やイグニハイド寮そのもので見られるそれとはまた異なったフィルターを通過している、とオルトは思った。
三百十六ページ、八行目を読み上げる先生の音声を捉えながらもオルトは少しばかり体を縮こめるようにして隣の兄の姿を見ている。その肩部の流れは、今日は先生の問いに腕を真っ直ぐ上げて答えようとするのは忘れたと言わんばかりだ。
陽光に燃ゆる蒼い炎が滴った先にある眼差しが、いやいやながらに出席したとはいえ少しばかりの真剣さを抱いていることにオルトはやはりその水晶体に兄の姿を写し続けていた。さながら、音声にせずとも彼が抱いているものを言葉にするなら、「僕の兄さんはやっぱりかっこいい、どう考えてもかっこいい」であった。
ぱちり、ぱちりとした瞬きがシャッターを切るものだと知っているのはオルト自身とイデアであったけれど、兄は弟がそうしていることも気づかないようにやはり眠いとばかりにその目元を擦った、ぱちり。
一限目の終業のベルを聞きとげて数分、オルトの眼差しは兄を見仰ぐ。
「兄さんだったら何も問題ないと思うけど、小テスト頑張って! それに三限目以降も」
「しんど……オルトは徘か、散歩? まぁ……いつもの時間には帰っておいでよ」
「うんっ!」
兄に手を振りながら、振り返されながらオルトはふよふよと教室を後にした。
徐に辿り着いた中庭で井戸を覗き込んだオルトは、そのままでは少し見難いがわずかに遠くの水面に映る自身の姿に片手を口元に寄せて微笑んだ。長さはてんで兄のものに追いつけないが、陽光のフィルター越しの自身の蒼の炎は数十分前に見ていた兄のものにとてもよく似ている。それがとてもオルトを嬉しくさせた。
「あっ! お花が咲いてる……」
幾分覗き込んでいた井戸から眼差しを移したオルトは、井戸のほんの片隅にこっそりと生えている花に気づいたようだ。
青っぽく小さな花。彼自身の手よりも小さな花弁のそれは背の高い兄の姿には似ていないが、燃ゆる蒼い炎の色に角度によっては似ていたので詰むことにしたらしい。オルトの指先で摘まれ揺れたその花の面影は、火の子によく似ていた。
太陽はどんどん真上へと移るらしい。
ぽかぽかとお昼が近いと、少しばかり通路のどこからも外れたオルトを出迎えたのはルチウスの姿だった。
「こんにちはルチウス、少し早いけどお昼寝?」
芝生の上に寝転ぶルチウスの尾がたしりとその場を叩く。それは返事のようでもあったけれど、怪訝さも抱いたその眼差しがオルトに向いているのでつまりは僅かな警戒でもあった。
その尻尾の動きや眼球の動き、耳や毛などの立ち上がりを観察しながら、ルチウスが木から降りられなくなり助けた日のことがオルトに思い出される。それはルチウスと前回出会ったデータとしてでしかなく、警戒されている理由であるとは結びつかなかったようだけれど。
警戒する眼差しと、観察する眼差し。先に折れたのはルチウスだ、そのなんとも言えない鳴き声が芝生へと寝た口元から零れた。それに対する動物言語のデータをインストールしていなかった為にオルトにはルチウスが何を言ったかは分からなかったが、ふよよと移動し、ルチウスのその側へと、座った。許可としたらしかった。
「ふわふわだね、それにあったかい……」
オルトの指先の一本がルチウスの毛に埋もれる、尾っぽはたしりたしりと芝生をぶつ。
「あっ、ごめんね。お昼寝のじゃましちゃった」
たしり。オルトの指先は引っ込み、ルチウスと同じように芝生の上へと横たわった。そこも陽光を受けて僅かに暖かく、検索したところどうにもうたたねに好ましい天気であることをオルトに知らせた。
寝入り直したルチウスのそれを真似て、オルトは目を閉じる。データ整理をし始めたものの、その姿はうたたねによく似ていた。また、オルトの片手に握られたままの小さな青い花がささやかな風に揺れるのと彼の蒼い炎がぱちりぱちりと燃えながら揺れるのも、おそろいのようであった。
オルトがデータ整理に一区切りをつけるのと、ルチウスが目覚めに上げた鳴き声は殆ど同じだった。彼が展開した視界、かたわらを見下ろすとルチウスは四肢を伸ばし、もう一声の後に歩き出す。
少しだけ考えたオルトはルチウスに着いて行くことにした。生垣を渡り始めたとしても、彼にはその後ろを着いて行くことは容易だ。
振り返り、自身の後を着いて来るオルトの姿を子分ができたと思ったのはルチウス自身しか知らないだろう。
植物園に入ってみたり、図書館を外から覗き込んでみたり。そうしてまるでそこに通う学生であるかのように校舎の廊下をルチウスとオルト進んだ。
今日は時間の許す限りルチウスの後を着いて行こう、そう思ったオルトが不意に宙に留まったのにルチウスは振り返らなかった。オルトもまた、もうそこにはルチウスのことを考えるメモリの余裕などないといったばかりだった。
――保健室には近寄りたくない。
嗅覚センサーを掠めるその空間のにおいは、エラー動作を引き起こさずともそれに近しい何かを呼び起こしそうで、警報音や何のシステムも作動していないのに彼の動作を止め、その場所へとこれ以上近寄ること拒むのだ。
オルトの手の中で僅かな圧迫のために花の茎が潰れたようだ、微かな草の汁が彼の手の平を濡らした。
「っそうだ、部室に行こう! ボードゲーム部の部室!」
起ち上げ直したかのような声を上げたオルトは転回する、そうして保健室を遠くにするようだった。
今はまだその誰もが授業を受けている時間の為、部室はなんとも静かなものであった。
ちょこんと椅子に座ったオルトは、画像データを取り出して向かい側に兄がいるとするものらしかった。笑む、やはりその口元は今はメカニックに覆われているがやはり楽しげなものだった。
その後、ボードゲーム部の部室を後にしたオルトは校内を気ままに浮遊しながらも兄の画像、音声データを引き出すことをした。それらはオルトの感情システムの数値をとても穏やかにするものであった。またそれらを形にするなら、幸福を形にしたものとよく似ていた。
だから、時間設定したはずなのにわずかばかり帰りが遅くなったのかもしれない。
自身のボディを夕焼けの色が濡らし始めたのに慌てたように宙を駆けて行くオルトの姿が、放課後をまばらに過ごす学生たちに目撃されていた。
「兄さんっ、お疲れさま!」
「オルト、……おかえり」
「えへへ、ただいま!」
そろりそろりと迎える宵の色に似ているブルーライトの明かり、それに照らし出されている兄と眼差しを合わせながらオルトは元気よく言う。そうして、少しだけもじもじとした様子を見せながらオルトは兄の前へと片手を差し出した。
「あげるっ! 兄さんに……ぁっ、しおれちゃってる、どうしよう、こんなはずじゃなかったのに……」
お互いの眼差しの先でくたりとした様子を見せるその青い花に、オルトはどんどんと肩を落とし、反重力装置も機能しなくなり始めるといった様子で降下していく。けれども、
「あれこれ……ずいぶんとレアな品種では? SSRといっても過言ではないのでは? さすがオルト! うん、さすがオルト。兄ちゃんは嬉しいよ」
そう言ってその花を兄が受け取って、彼の頭を今朝のようにやわい動きで撫で始めるものだから、オルトの足がカツンっと床に音を響かせることはなかった。
「兄さん聞いてっ、今日もね、いろいろあったんだよ! まずね、」
「あ〜落ち着いて、落ち着いて、拙者の弟が今日も元気過ぎる。メンテしながら、聞くから」
「うんっ、あのね――」
兄と弟の話し声がその部屋に響く。
こうして、彼らの些細な学園生活のなんでもないような、それでいて尊い一日は過ぎ去っていくようだった。