私の足は、とても小さい。世界が異なったって、私の足はこの世界のひとびとの一般的な大きさよりもやはり、小さなものだった。
私の足よりとても大きなお靴に、ぎゅうぎゅうと詰め物をして毎日履いた。くしゃくしゃにまるめたオフホワイトのティッシュや、ほつれた糸がちらちらと覗く黒色の切れっ端、肌ざわりの好いシルク生地の金色と碧色の混じったハンカチ、ぽこぽことした凹凸のリネンワッフルは青色で、波打つストールは揺らめくような水色。お靴の爪先まで隙間ができないように指で押し込んで、その後に自分の足を――嗚呼ソックスを履くのも忘れないで、そっと、詰め込んだ。さまざまなものに私の足は包まれて、そこから脚を生やしている。
夕焼けの色に濡れる中庭で急にお靴を脱いでみようと思ったのは、ぎゅうぎゅうと包まれている足が痛む為ではなかった。
誰もいない中庭のベンチにそっと浅く座って、お靴から足を抜きだす。あんなにも私の足を包み込んでいた詰め物たちだけれど、私を手放すようにあっさりと抜けでた足が少しだけ、足先の影を揺らすようにしていた。夕焼けに伸びるベンチの影から些細に飛びでている私の足の影はやはり、とても小さかった。まるで本当は存在してないんじゃないかって、ベンチから静かに離れた私の足が踏んだのはもちろん中庭で、整えられた芝生や通りの石畳で、草の汁が滲んだり薄いソックス越しに些細な砂利が足の裏を突いてきているようだった。
私の足はとても小さいけれど、私の体を支えていた。ふらふらとするように歩んでみても、倒れるだなんてことはなかった。
中庭には人の気配がなかったけれど、オンボロ寮に帰るまでに誰かに会うかもしれなかった。だから、私は自身の小さな足をそっとお靴に詰め込みなおす。私の足を見ることで、誰かの機嫌が損なわれることは私の望むところではなかった。
束の間抜きでていた足は、詰め込みなおした後でも少し、まるでそのままの私の足がそこに存在しているんじゃないかって、私を不安にさせた。僅かな恐れが詰め物やお靴の代わりに私の足を包んでいるような気がした。それでは、恐れなど目に見えないものだから、私の足はやはり誰かの眼差しに晒されているようなものだった。私の足音は怯える声だった。
だから、オンボロ寮の、自身とそうしてグリムの住まう部屋の扉を開ける前に静かに声をかけられた時、それがどんなにやわいものであっても私は、肩を揺らしてしまったのだ。
「監督生さん」
声音は二回、監督生さん、と。ドアノブを握り込んだまま振り返ることをしない恋人に、二度目の呼びかけを聞かせる彼の声はそれでもやはりやわくて静かだった。
「どうしたの、オルトくん」
次は返事も振り返ることも忘れなかった私の眼差しの先には、その通りに彼がいた。反重力装置でその場に、宙にゆらゆらと揺蕩うオルトくん。空気に泳ぐその体がお魚だったなら、彼の足は尾ひれだった、極めて薄い反物のようにゆらめく。けれどオルトくんはただただオルト・シュラウドでいて、水もないのに水をかきわける音がするはずもなくって、反重力装置の出力の微かな音が私の鼓膜を震わせているようだった。衣を纏わぬ彼の、それが衣擦れの音のようなものだった。
片足をもう片足で隠すように後ろにし、お靴の爪先でとんと廊下を突いてしまったのは、彼の意識を自身の足から遠ざけさせたいためだった。彼が私の足に眼差しを向けていたわけじゃなかったのに、その意識が今、私の足に向いていたことが分かっていた。そうしてそれが勘違いではないということが、私の腕を取りながら彼自身の手でドアノブを回し、部屋へと入り込むオルトくんのふとして聴かせるような言葉で分かった。
「ねぇ、足の裏、怪我してる」
彼のその言葉に、ソックスに滲んでいるのが草の汁じゃないことに気づいた。或いは、私の流した血と一緒に草の汁だってソックスを濡らしていたのだと。腕を引くままに私をベッドに座らせたオルトくんは、その位置情報が容易に取得できるとばかりに「応急手当て箱、借りるね」と言った。現にそれが何処でひっそりと埃を被って沈黙を貫いているか告げなくても、彼は宙を泳ぎだしていた。
「プレシジョン・ギアじゃなくても簡易修理はできるし、アーキタイプ・ギアだって全身スキャンができるんだよ」
窓から差し込む夕焼けの色が、夜の色を手招きし始めていた。
私へと帰ってくるオルトくんの両腕の中には応急手当て箱があった。うっすらと埃を被ったそれが、なんてことない木で作られた変哲もない箱が、彼に抱かれると特別なものになったように思えた。彼はとても綺麗だった、どこまでも澄んだ湖のようだった。枯葉でも抜け落ちた鳥の羽でも、その水面に落ちたとたん、特別な意味を孕むことさえあった。それらは本当は、彼の睫毛に紛れ込む砂埃や肩口にそっと乗ってみる糸切れなのだけど、そのカテゴリーという殻を破りあらたな使命を、生を抱いて誕生しなおしたようなものだった。
ベッドに座り込む私の足元に、ことりと音を立てて着地したようだった、オルトくんは。跪く彼の動作にオンボロ寮の床板はぎしりとなんて鳴かなかったけれど、私の喉は歪に鳴き声を上げてしまいそうだった。かたわらに応急手当ての箱を置いたオルトくんが次に手を伸ばすのは間違いなく、私の足だったのだから。
「自分で、できるから気にしないで」
小さな声だった。けれど、オルトくんなら私のどんなに小さい声だってとらえてくれる。それなのに彼は、私のその訴えなんて聞こえないとばかりに、片手で私の足首を支えて、もう片手は私のお靴に指先をかけたようだった。
恋人に、彼に、オルトくんに私のとても小さな足を晒すことは初めてのことだった。
くしゃくしゃにまるめたオフホワイトのティッシュや、ほつれた糸がちらちらと覗く黒色の切れっ端、肌ざわりの好いシルク生地の金色と碧色の混じったハンカチ、ぽこぽことした凹凸のリネンワッフルは青色で、波打つストールは揺らめくような水色。お靴の爪先まで隙間ができないように指で押し込んだそれらは、オルトくんが私の足をお靴から抜きだすことを決して邪魔することはなく、静観しているようだった。
王子さまは硝子のお靴を後のお姫さまに履かせるのに、私のお靴はするりと脱げて、私とオルトくんの眼差しの先に、私のとても小さな足をついには晒してしまった。未だ眼差しを拒絶するようにソックスが存在しているのだけれど、それはあまりにも心許ない遮りでしかなかった。
私が自身の足を見ているのなら、私の足元に跪き私の足を取っているオルトくんの表情だって景色に映り込むはずだった。けれど彼の表情を見ることができない私のそれは、彼が私の足をどう思い、どのような表情を浮かべるか知るのがこわかった、それだけ。
支えられた足首のあたり、ソックスの履き口に微かな圧迫を感じた。見ると、オルトくんの指先がその箇所に引っかかっていた。ひっぱり下ろされるその感覚が、時間が、あまりにも長く私には続いていた。
応急手当て箱の横にそっと置かれた私のソックスには、確かに、少しだけ血が付いていた。緑色と黄緑色と土の色の合間に、赤黒いそれがぽつりと。その歪な図形みたいに、私だってぽつりと呟いたようだった。
「オルトくん」
「なぁに、監督生さん」
彼は言葉を忘れたわけではなかった。私の呼びかけに返ってくるその声色は、いつもとなんら変わりのないものに思えて仕方なかった。それが、私がそうあって欲しいと強く思っているためにそう思えてしまっているとしても、仕方なかった。
私の怪我した足を片手で支えながら、もう片手だけで脱脂綿を取りだし消毒液に浸し、私の足の裏の、傷口を拭った彼の指先は器用だった。浸す量が多かった消毒液が皮膚に押しつけることでじゅわりと滴りこぼれ、彼の指を濡らしてしまっているのも確かだったけれど。
オルトくんの指先を濡らし、手と手首、腕を伝ってしまったその液体におそろしくなった。彼が損なわれることもまた、私の恐怖だった。揮発性の高いそれがすぐに乾いてしまったのは、本当にさいわいなことだった。
傷口を拭った脱脂綿はオルトくんの手の中に握り込まれてしまったから、消毒液や脱脂綿に滲んだ自身の酸化していた血の色を窺うことは敵わなかった。私は、握り込まれたその脱脂綿に思いを馳せているようなものだった。
「監督生さん、痛い?」
「痛く、ない」
彼の指の腹は私の足の裏を押し撫でたようだった。傷口でさえ、その旅の通過点のようだった。私は石畳に爪先をひっかけたように言葉を跳ねさせてしまったけれど、痛くないのは、どこまでも本当のことだった。
足首を掴んでいたオルトくんの手が離れた、もう片手だって私の足から離れた。ころりと脱脂綿の塊が彼の手の中から転げ落ちた、私はそれの行方を見守った。応急手当ての箱にやわくぶつかったその塊、手放された塊。彼から手放された、脱脂綿の塊と私のとても小さな足。けれど、足を地につけることを、私はしなかった。その宙に在り続けることが正解のような、彼が望んでいることのような気がした。そうして、それで合っているというようにオルトくんの両手は私のとても小さい足を包み込んだ。彼の、オルトくんの小さな手たち。それでさえ包み込まれてしまう、私の小さな足、とても小さな足。
「監督生さん、痛い?」
手を繋いだことで知っていたオルトくんの手の平の温度が、私の足にふれていた。緊張で冷たくなっているその肌をあたためるように、彼の指先は少しだけ戯れたようだった。私は彼の問いかけに首を小さく横に振っていた、やはり、痛みはないのだから。
私のとても小さな足を小さな手たちで包み込みながら、オルトくんは親指で、身を縮こませるように酷く内側に丸め込まれている私の五本の指に触れるようだった。もしかしたら指の本数を間違える人だっているかもしれないけれど、オルトくんがカウントを間違うだなんてそんなことは、ありえないことだった。一本一本を確かめるように、些細な溝の流れを彼の親指は辿った。彼の指が一本の輪郭を辿り終えるたびに、私は心の中でそれが何本目か数えていた。もしかしたら、彼の指先が辿り終えたそれが何指なのか、私にさえ忘れかけていたようなものだった。
「痛く、ないのよ」
親指の旅路が終わることを引き止めたいような、縋りつくような響きだった、私の声は。返事をするようにオルトくんの中指は私の足の甲を軽く叩いたようだった。それもまた、とんとんと、響くようで。
「あのね、四歳のお誕生日の、そうあれは一週間ほど前その日にね、親戚の方に手を引かれて向かったのよ」
背中を押されたように思い出を上唇と下唇の間からこぼし始めてしまったのは、もしかしたら私自身にさえ不意打ちであった。いいえ、私にだけ不意打ちだった。
「骨が硬くなってくるんですって、あんまりに幼い時を過去にしてしまったら。……だから、私は四歳のお誕生日の少し前だったのね」
話し続けることにわずか戸惑い、引き結びそうになった私の唇。けれど促すように、励ますように彼の中指はやはりとんとん私のとても小さな足のその甲を軽く叩く。それは母親が幼い子供を寝かしつけるようなものにも似ていた。私のとても小さな足を包むオルトくんの手たちはもしかしたらその時、ゆりかごだった。
「ほんとに高い塀の向こうから、鳥の鳴き声がぎゃあぎゃあ聞こえてきてた。三歳のおんなのこだったからあんなにも高く見えたのかもしれないし、鳴き声だってとても大きく聞こえたのかもしれないわ」
オルトくんの人差し指の腹は私の親指の爪に触れていた。よく磨き込まれた鏡面みたいにつるつるとしたものだったかしら、それとも貝殻の内側みたいにつるりとしていながらしっとりともしていたかしら、蝋燭みたいに見た目だけつるっとしていて本当はどこまでもやわらかで脆いものだったかしら。今朝だって自身でふれたはずのそれを思い出すことが、今の私にはとても難しいことに思えた。その通りに、今まで受けてきた試験のどの問題よりも難しかった。
「二羽、生きていたの。あれは鶏ね。生きているではなくて、いた。片方ずつ差し入れた私の足を包んだのは、内臓だったのか、脂肪質だったのか、筋肉だったのか、もう覚えてないの。ただ、とてもあたたかいものに包まれたのを覚えてる」
その感覚は大きなお靴にいろいろなものを詰め込んでから自身のとても小さな足を差し入れた感じであると言おうとして、言えなかった。その感覚が近しいのは今は、彼の手たちに包まれていることの方だから。
「お靴を履くみたいに、私は、包丁で切り開かれた鶏の胸元に自身の足先を滑り込ませたのよ。鶏の血やらなんやらで足を柔らかくするためって言われたわ。……なんだか変ね、それではまるでマリネみたい。マリネ液に漬け込むなら、鶏肉の方が適しているのに」
思わず小さく笑ってしまった私の声を追うように、オルトくんも静かに笑み声を響かせた。マリネ液の中で溺れてしまったような心地さえ、私は覚えた。野菜の小さな細切れがマリネ液に沈み、底にぶつかって立てたほんの微かすぎる音にも似ていた、私たちの笑い声は。
「鶏のお靴を脱いで、お水でよく洗って、拭われるタオルの中で私の足はその色にちょっと近くなってたのよ、おろしたてのまっしろなタオル」
今更ながらに、彼の手が脱がしたお靴が彼より私に近いところに横たわっていることに気づいた。ぎゅうぎゅうと詰め込んだ詰め物たちが覗いていた、そのどこにもまっしろなおろしたてのタオルはなかった。
「ピンと伸ばした親指はひょっとしたら鶏の首に似てたかも。その他の四本の指が、しっかりと握り込まれて、あって思う間も無く、力任せに足の裏に向けて折り曲げられたのが見ていたから分かったわ。ばきっと折れた骨の音が、私にも、もちろん聞こえた。そうしてもちろん、痛くはなかった……」
穏やかな沈黙が十数秒ほど彼と私の間に揺れていた。
沈黙が終えたのは、痛くはないのよって再び、何度だって言う、私の言葉のためだった。問いかけるように、彼の眼の中を奔った碧色の光の粒のためだった。
「十メートルほどで幅はこれくらいの布がね、三歳のおんなのこの小さい足をもっと、もっと小さくするようにしっかりと巻かれていくの。端っこまでいったら、針と糸で細かいところまで縫いつけるのよ」
彼の片手が応急手当て箱から、ガーゼの巻かれたのを摘み上げていた。ガーゼは十メートルも使われることがないようで、片手で器用に必要な分をくるくると解かしたオルトくんはそうして、鋏の音を響かせた。しゃきん。
「最初はね、むしろ大きくなったの。折れちゃったんだもの、骨、しょうがないのよ。それで……形を整える為にね、無理やり私は歩かせられた。痛みもないのに痛いって泣き喚くことはしなかったけれど、まるで他人さまのもののような自身の足で歩くのって不気味。誰かの足が私を追い立ててるみたいだったのよ、きっと。布が汚れると新しい布で巻き直してね、もっと理想の形になるように、前よりもきつく巻くの、ずいぶんと」
私のとても小さな足を包んでいた彼の手が離れたのが少しさみしかった、オルトくんのぬくもりになった温度がまた少しずつ冷めていくのは。
しゅるりとした音を仄かに響かせるようにしながら、彼の手によってガーゼが私のとても小さな足に巻かれていった。気づかなかったけれど、その前に、やわらかなクリームを傷口に塗られたようだった。
「軟膏だよ」
尋ねることをしなかった私に、それでも答えを彼は与えてくれた。くるくるとガーゼに巻かれていく私のとても小さな足、お靴、そのままに履けるかしら。
「数日の後、茶碗のかけらを足の下に敷くの」
「ちゃわん」
「お米をよそったり、お茶を注ぐ食器でもあるわ。カフェオレボウルに似てるって言った方が、わかる?」
「材質はカフェオレボウルと同じかな、一般的多くを占めるカフェオレボウルの材質の」
「私、その一般的多くを占めるカフェオレボウルの材質を知らない。でも、陶磁器よ、つるりとしていて冷たい。それのかけらと一緒に、歩くのよ。破片は足に突き刺さっていたらしかったし、肉は削げるし腐ってく。それで、どんどん、理想の形に整えられていくの。美しく、より美しくって」
ガーゼを巻き終えた私の足をオルトくんは見ていた、その修理の仕方に損ないがないか確かめるためだった。
「ずっとずっと昔から痛くなかった、私の足はどんどん小さくなっていったのだけれど。……感触は存在するのに痛覚が存在しないのってどういうことかしら。さわりの先で突然、勝手にかくれんぼを始めちゃうのって、ずるいと思わない。何処に隠れてしまうのかしら。それとも、何処かへ行っていたら、どうしましょう。オルトくんは、痛くないかしら」
急ぎ足で帰ってきた恐ろしさに、身を乗りだすようにして私は彼へと手を伸ばした。足ほどには小さくない私の手は彼の頬元に寄り添う。彼は猫がそうするように私の手の平に擦り寄った。
「どこが痛いの、監督生さん」
彼の声の細波にあわせるように、ライトブルーの光りがちかりちかりとした。思っていたよりも夜が、互いの体に降りてきていたことに、今更ながらに気づいたようなものだった。夕焼けの後ろ姿を見送ることも、忘れていた。ちぐはぐな会話がそこに在ったことも些細だったけれど、夜を迎えたことはより些細なことに思えた。
彼の口元から排気によってうまれた対流が私の手首をかすかに撫でていた、そのまま二の腕や肩口や鎖骨やなんかに遡ってきてくれてもよかった。覆うものなんて些細だって、いうように。かりりとやったのはオルトくんではなくて、私の手の爪先だった。もどかしいって、彼の口部パーツの端っこを爪先で掻いていた。
ほんの些細な音を立てて彼自身の手で外された口部パーツの下から、生身の彼の口元が現れた。生身という言葉の定義を考えるだなんて、できるはずもなかった。
「どこが痛いの、監督生さん」
静かに瞬きをしているのに、彼の眼は何処までも私を見透かしているようだった。肌だって筋肉だって骨だってオルトくんは見通してしまうけれど、追憶なんかは感情なんかは見透かすことができないはずなのに、彼の眼というのはそれらすら手招くものだった。或いは差しだされた手だった。
「私の……、とても小さな足」
彼の瞬きに揺れる睫毛より静かに、静けさを努めて私は唇を開く。それを告げると怒られてしまうからって、そんな響きだった。
オルトくんの静かな瞬きは変わることもなく、そのままに彼は彼自身の小さな手たちの上に私のとても小さな足を乗せた。それは水を掬いとるような形だった。もしくは、異国の高貴な方がとある女性の硝子の靴を得たようなシーンがそこにあった。
彼の唇が、ガーゼの上から私のとても小さな足にふれた。肌とガーゼの境界線にふれ、そうして肌だけにもふれた。オルトくんの睫毛にくすぐられて、少しだけ足先を揺らしてしまいそうだった、私は。
「他には、どこ」
教えてと、彼の唇が囁いた。静寂にとけてしまいそうであるのに、それは耳元で囁かれたかのように私の鼓膜をたしかに震わせる。
このあたりかしら、と、つきつきと痛むような脈拍を繰り返す心臓のあたりを私は、差しだした。やはりオルトくんの唇は、私が痛みを訴える箇所にふれるようだった。彼がそうする度に、まるで自身が特別な存在に代わっていくようで、化学反応のようにその箇所は熱をもつ。
「オルトくんは、痛くないかしら」
私もすでに問いかけた言葉を再び口にしていた。私の声音が彼へと降りていき、オルトくんの眼差しが私を見仰いだ。彼は唇を開かなかったけれど、指先は少しだけ迷ったように彷徨ったあと、彼自身の胸元にたどりついたようだった。
顔先を寄せるとほのかな熱にくすぶられたような思いだった、彼の胸元の炎の燃焼はふれたって火傷を伴うものでもないはずなのに。視界いっぱいに濃淡に揺らめくそれは水にも思えた。炎とは正反対でありながら、そっと水中を覗き込むように私は唇を寄せた。もし上唇と下唇の合間に些細に隙間をこしらえたのなら、濃淡に燃える蒼い炎が喉に流れ込んでくるのかしらって思いながら、私の唇はこつんと彼の炎の揺り籠のふちにぶつかった。
また互いに向かい合うと、彼はくすぐったさを耐えるようにもさみしさを耐えるようにも眉をかすかに困らせていた。もしかしたら、私だってさきほどはこんな表情をしていたのかもしれなかった。
「他にも、あるかしら」
彼は、ほんの少し考えているようだった。
「ここ、かな」
彼の指先は彼自身の下唇にふれていた、音のわずかな振動が彼の指先を微振動させたのかどうかに思いを馳せた。やはりオルトくんがそうしたように、私も自身の唇で彼が差しだした箇所にふれた、寄り添った。
吐きだされる気体同士がまじりあっていた。
「嘘ついてごめんなさい。僕、痛くないや」
「私もよ、ごめんなさいね」
お互いの謝罪の音がお互いの唇を撫でていた。
そこが痛くなくたって、私と彼は互いの些細な箇所に唇を寄せることを繰り返した。嵌め込まれた眼球の丸みを感じる瞼だったり、鎖骨と皮膚と些細な筋肉がつくった小さな窪みだったり、もう幾度と唇同士だったり、いろいろなところに。
「兄さんに、足、作ってもらいたい?」
耳たぶに触れた唇の問いかけはさりげなさを装ったつもりみたいだったけれど、彼の眉は困っているように少しだけなだらかに下がっていた。
とても壊れやすいものをどこまでも大切に扱うように、極めて繊細に、私のとても小さな足をオルトくんの小さな手たちは包んだ。そうして彼はそれを自身の胸元に抱き寄せるようだった。
「僕は、監督生さんの足、好きだよ」
ちろりと、蒼い炎が私のとても小さな足をくすぐった。
「ううん、オルトくんがいいなら、私はこのままでいい」
それは偽りでもなんでもなくて、本当のことだった。彼に包まれながら唐突に気づいたようなもので、私は包み込まれたかった、そういうことだった。私のとても小さな足、知らないからこそ喪失の痛みに怯える私、誰かとは異なり誰かとはおんなじような私、すべて、すべてを包み込まれたかった。受け入れて、欲しかった。
「僕は、監督生さんのこと好きだよ。愛してるって言っても、君は信じてくれるかな」
それがまるで硝子の靴であるように私の足先は彼の胸元に在る。
あなたの、蒼くやさしく燃える炎にさえ私は包まれていた、抱かれていた。
そっと、はじまりの呼吸をする。私も、この世界に生まれなおした。