さぁさぁと流れた些細な風が、伏せた瞼の睫毛を微かに揺らすようで心地好かった。元いた世界のような暑苦しい季節を連れてくるのだろうか、こうして無作為に時間を経たせていたのなら。或いは、四季らしい四季、その移り変わりはこの世界には存在しないのだろうか。私は知らない、だって私は此の世界に生まれ落ち育まれた生命ではないのだから。
 少し前には遠くではあるけど聞こえていたエースやデュースの、何かにはしゃいでいるらしかった声も今はない。ただただ閉ざした目蓋の裏に広がる色彩みたいな静寂が、鼓膜にも纏わりついているらしかった。運動場の片隅に在る樹に背中を預けて眼差しを伏せる私に届くのは、時折に吹く風の音でしかなかった。
 魔力なんてものを欠片さえも抱いていない私が飛行術の授業中に命じられることなど筋力トレーニングでしかなく、ずいぶんと励んだそれに高まった体温は当たり前のように肌にうっすら汗を浮かばせていた、少し前は。もし茹だるような季節なら滴り服に滲み、布地を逃れるように弾けたのならそこらへんの青草に飛んでいたのだろう汗は、私の知る夏をこの世界が知らないのかそれともまだ迎えていない為に、涼やかな風と気温にいつしか引いたらしい。
 もしかしたら夏を焦がれているのかしらん、だなんて独り言つ。それは心の中で、誰に聞かれるでもないのにひっそりと。
 そんな時だった、些細な風に紛れて、少しだけ馴染み深くなった、自然に生まれたものではない気体の対流の音に鼓膜が揺られたのは。
「監督生さん、お昼寝してるの」
 瞼をやわく押し上げるようにしてこの世界の景色を再び捉えると、閉ざしていた為に少しばかり霞んでいる光景の中には静かに、それでも確かに、私と同じように眼差しを逸らさぬようにしているオルトくんがいた。
 そうだね、と僅かに上唇と下唇の合間に隙間を開けるようにして零した私の言葉は掠れていて、春一番でもなんでもない風にさえ掻き消されそうに危ういもの。
「邪魔をしてごめんなさい。でも、お昼寝するなら此処じゃない方が良いと思うんだ。近くで言うなら、あっち。人体に必要栄養素を生産する為にも日光を浴びるのは良いことだけど、あまり浴びすぎても良くないから」
 少しだけ眉を困らせているように見える彼から眼差しを落とし、引き寄せるように視線を引き寄せれば木陰はもうそこにはなくて、嗚呼、私は、日差しに抱かれるように眠っていたのだな、と何ともないように思った。事実、そのような事は些細で、何ともなかった。けれど、そうして忠告を告げた彼に、視線を帰らせるようにすると何故だか申し訳なく思えてきてしまう。それと同時に、私と同じように陽光を儘に浴びている彼の姿が眩しく思えた。感情的なものではなくて、彼に降り注ぐ太陽の光、その肩口や彼の些細なところに差し跳ね返るそれが、音があったなら鋭利めいたきらりとしたその光が、本当に、私には眩しかった。
 だから、私は、オルトくんから眼差しを落とすようにお互いが踏みつけている青草になんて視線を戻した。今、私もオルトくんも延長線上、同じ青草を、世界を踏みつけているんだなんて、漠然と思ってしまった。それはもしかしたら、彼が予測し危惧した日差しを浴びすぎた為の脳の誤作動なんてものだったのかも。くらりとなんか、しなかったけれど。
 アスレチック・ギアって言うんだっけ、かっこいいね。覚えてない目眩を拭うような瞬きの合間に、視線を合わせずに私は言った。その通りに、今の彼は白が、彼曰く人間には白く見えるばかりの塗装が大部分を占めるそのボディではなく、青と白が心地よく組み合わさったボディで、青草を踏みつけていた。踵のバネに潰れて絡む草の名前なんて私には分からなかった、オルトくんに乞えばその名称を知ることができただろうけれど、それを尋ねることはさして重要なことではないと思った。
「えっと、ありがとう」
 少しだけ戸惑ったような雰囲気を感じた、でもそれは気の所為かもしれなかった。私は彼の足下ばかりに視線を向けていたから、彼がどのような表情を浮かべていたかなんて分かることはなかった。もしかしたら、顔を上げていたとしても分からなかったかもしれない。彼の口元を彼の今の姿では捉えることができなくて、その眼差しと些細な頬の表情から彼の全てを察することなど、私にはきっと、できないから。それができるのはきっと、全てを知り得ることはできるのは彼のお兄さん、イデア先輩なのだろうなと思った。事実、そうなのだろう。私の意見を肯定するようにオルトくんの踵のバネに反射したきらりとした陽光が眩しかった、目を細めるしかなかった。
「あの、監督生さん」
 なぁに、と返した私の声色はもしかしたら素っ気なかったかも。本当に、そんなつもりはなかったのに。ただただ、眩しくって仕方ないって、眼差しを上げることができないばかりに、彼と目を合わせて声を聞かせることができなかったのが、言葉尻の後に微かな後悔のような余韻を揺らめかせているようだった。それは陽炎のようでもあり、水中に揺蕩う魚の尾ひれのようでもあった。
 オルトくんは、言葉を続けなかった。私も、深追いするように、追い立てるように問い質すことはしなかった。ただただ互いに、昇る太陽の光を浴びているようなものだった。
 とん、と音はしなかった。けれど、オルトくんの片方の爪先が地面を、青草を突いた。少しだけ姿勢の、流れの変わった彼の脚が、私の眼差しの先の光景を変えたらしかった。
 それはぽろろと揺らめく、オルトくん自身が背に受けた太陽で私との合間に些細に生まれる影に紛れる幾数の光の粒子で、日陰の波に泳ぐその大小さまざまな光の粒はいっそどんな宝石よりも美しく、そうして輝き、やはりその波間に泳いでいた。それは海と言ってもよかった、だって、水面に揺れる輝きを思い眼差しを仄かに上げた先にある彼の脚、そのふくらはぎの彩りはいっそ海でしかなかったから。穏やかに凪ぐ浅瀬の、透き通った色彩。改めて、彼のその優れたところを知ったような心持ちだった。
 私、海、好きよ。なんだか、ちぐはぐに縫い繋いだお人形のお口がよりいっそうにちぐはぐに紡いでみせたような調子に言葉を零してしまった。本当に、脈絡もないように、ただ、海に焦がれてしまった。或いは焦がれているのは、本当は。でも、けれど、ナイトレイブンカレッジにいながら、もしくはこの世界にいながら海を得ることってできるのかしらん、なんて、他人事めいた響きを絡めながら思考は、ぽろろとした光の粒の合間に落ちていくようだった。
「うみ、海。海、好きなの監督生さん」
 そうだね、と返した私の声はやはり掠れていた。もう、喋ることには、お返事することには慣れていたはずなのに。
 オルトくんの脚のところ、まるで海みたい。素敵ねって、掠れなんてなかったみたいに取り繕うみたいに言葉を零してみても、彼の生み出す光の粒子には似ても似つかないような気がした。
「海、そんなに好きなんだ。じゃあ僕が、連れて行ってあげる。あのね、バーチャル映像じゃなくて本当の海だよ」
 彼の言葉は私の眼差しを、顔先を上げるに至った。だって、とても驚いた。彼の生みだす海ばかりを見ていた私が上げた眼差しの先では太陽が眩しくって、それを背負った彼の表情は逆光でよく見えなかった。けれど、その中でも彼の美しく蒼く燃える炎がゆらゆらと揺らめいて、その美しさがじわりじわりと恐ろしさを手招いてくるようだった。
 もし、蒼く燃える炎に指先を浸すことができたなら。もし、その蒼く燃える炎が、ゆらゆらと揺らめきそのままに、波間になじんで、どこまでもいっしょになって、消えてしまったなら。海みたい、でも海になって欲しいわけじゃなかった。海に奪われたいわけではなかった。
 そんなの駄目、潮風も海水も、オルトくんには毒でしょうって、返した私の声は震えてなかったなら、いいのだけれど。
「じゃあ僕、海水にも耐えうるボディを兄さんに造ってもらうよ。それならいいでしょう、その方がいいよね。監督生さんの手を取って海に入ることだってできるから」
 駄目、だって、私、きっと、溺れてしまうから。なんだかもう溺れているみたいに、唇から空気のあぶくがあふれてしまうみたいに、そんな返事しかできやしなかった。
「僕、監督生さんが溺れたって助けることができるよ」
 塩水を招いたみたいに、つんとした。海水なんてない此処で。まるで海水の夢をみる魚の白昼夢みたい。ぴちりと跳ねて、最後の呼吸を追いだすみたいに。
「でも、やだな。監督生さんが海に溺れるの」
 ようやっと遠去かった逆光は、彼の頬のゆるやかさを残照のように私の眼差しの先に存在させて、今は隠れている月の代わりに太陽を綺麗だって賛美してもいいかしら、だなんて。
「ねえ、溺れるなら、僕に溺れてほしいな」
 そんな言葉、どこで覚えてきたの、おませさん。うまく、うまく、言葉にできていたのかも分からない。もしかしたら潮騒だって私には聞こえる。それは、どうしようもなく狂おしく巡ってやまない自身の血潮の音が、耳の裏に響いているものなのだけれど。
「文学の分野をサーチしてみたんだ。僕、へんなこと言ってないといいんだけれど。それとも、そう、月が綺麗ですねの方が良かったのかなぁ。でも、月の存在が消失してるわけじゃないけれど、監督生さんには、今は、視認できないでしょう」
 少し困ったように、自身の頬に当てた彼の拳がこつんだなんて音を響かせて、それは海の底で転げる小石たちがおぼろげにぶつかりあった音めいてるだなんて、嗚呼、私、疾うに溺れてどうしようもないみたい。恥ずかしくって伏せた眼差しの先で、彼のふくらはぎを通り抜けてきた陽光の宝石はやはりぽろぽろと美しく、綺麗ねって掠れる声を零しながら指先を伸ばしたら、光の粒子は私の肌の上を泳ぐように揺らめいていて。
 海、綺麗ねオルトくん。
「僕は、溺れてもいいかな」
 かぷりと、最後のあぶくが水面に旅立ったみたい。