がたごと揺れる、それでも静かに駆けていく馬車の腰掛の上で不意に気付いたように、彼女は目をぱちりとさせました。するりと膝の上から徐に下ろされた手の平は、天鵞絨の触りを今し方知ったばかりというようにそこを撫でたようでした。そのすべりすべりとした上等な触り心地は、眠りの海がひたひたと肌を濡らし、その波間を漂っていたのかもしれないと彼女に思わせます。
聞こえてはこない潮騒に耳を澄ませてみようかなんて少しばかり思った彼女の鼓膜を撫でたのは、くすくすとした少年の声音の細波でした。まるで波の合間から伏せた睫毛と共に顔先を上げた彼女の向かい側には、同じように静かに腰掛に座る少年がいます。
「私、ずいぶんと長いこと眠っていたような気がする。ねえオルト、まだ辿り着かないかしら。」
「そうだね、ずいぶんと遠いから。」
彼女の問いかけに、オルト・シュラウドは小さく頷いて言いました。蒼い小さな火の子が少しばかり置いていかれるようにして、ぱちんと宙に弾けて消えます。そんな彼が瞬く度に僅かな間に隠れんぼうをする眼を、彼女はどことなくぼんやりした意識で見ています。それは夜の海中でゆらゆらとたゆたうくらげが見仰いだお月さまでしょうか、あるいは天体そのものです。銀河に横たう星のような彼の瞳を彼女は愛していましたし、愛していたのは瞳ばかりではなくオルト・シュラウド、彼そのものでした。
「お寝坊さんみたいだ、眠いなら膝枕しようか?」
眼差しも頬も唇も笑ませてそんなことを言うオルトに、彼女は拗ねたように顔先と首を彼から背けました。馬車の窓にはそんな彼女の姿が僅かばかりに映り込んでいます。その先には未だ辿り着くところを先にした道のりが、左からやってきては右に追いやられていくようでした。
窓から見える景色はいっそ、夜を通り越して銀河の宙でした。いちいの葉に浮かんだ露の玉はきらきらと光って、草の中にはぴかぴかと青びかりを出す小さな虫たち。駆けていく馬車にそれらの光は流線型を描くようでもありますから、馬車は流れ星が寄り添う方舟のようでもありました。追い抜かれることなく、置いていくばかりでは少しばかり寂しいことでしょうが。
オルトが抱くお月さまではなく、夜の空に依然としてありつづけるお月さまは星も方舟も、そうして彼女とオルトをも分け隔てなく見つめているようでありました。そのお月さまを見ることができたのなら、欠けた今夜の月はチェシャ猫のにんまりと笑ったそれなのかそれとも、ぷうかぷかと天の川に浮かぶ小舟なのかをオルトと一緒に話すことができたはずです。けれども、馬車の中から仰いだ空には月を捕まえることができませんでした。それに少しばかり彼女は睫毛を伏せます。
「……だいじょうぶ? 疲れてるみたい。」
「ええ、もしかしたら疲れてるのかも。ずいぶんと道のりが長く感じるの。」
窓に片頬をくっつけるようにした彼女ですが、窓ガラスのそれが冷たいのかぬるいのか、よく分からないようでした。それで「竜胆。」と、眼差しにしたものを徐に言葉に紡ぎます。
「竜胆が欲しいの? 僕、取ってこようか?」
「もう駄目よ、あんなにも遠いでしょう。それに、予定外に馬車を停めちゃ悪いわ。あなたの帰りも遅くなるもの、叔母さまたちも心配しちゃう。」
竜胆からオルトへと視線を戻した彼女を彼は、合わせた眼差しでまじまじと観察しているようでもありました。それは望遠鏡を覗き込み天体観察に興じる少年の姿とも言えます。
彼女はオルトの瞳の深い色のところにたくさんの星が瞬いているように思えました。その瞳の中に広がる天の川に彼女自身も泳いでいるように思えてくるものですから、少しばかり困るといった表情で仄かに眼差しを落とします。そんな彼女の感情にオルトは笑み声を零しながらその口元を微笑ませているものですから、彼女の視線は行きどころを定められずにいるようなものです。
静かな馬車の中では、ぱちぱちと火の燃える小さな音もよく聴こえることでした。青いマグネシヤの花火のようなオルトの髪に彼女は耳を澄ませます。オルトの兄も持つその蒼い焔を彼女は持っていませんでした。滴る蒼い焔もマグネシヤの花火も自身にはなくって、泣いて兄弟を困らせていた少女の姿がほんのつい最近のように彼女に思いだされます。今よりも大変にあどけない、幼な子たちのそれです。
欲しいなら、僕があげるよ。だから泣かないで。
指の腹で拭われた涙やその優しいばかりの声色も思い出して、彼女は熱を持ちだす頬をやり過ごすことに努めました。彼女の手はその時、少しばかり扇でした。ですがちっとも役に立たないそれです。ひのきの枝のあかりが側にあるみたいにぽかぽかと炙られて、頬の熱はずいぶんと落ち着きやしません。
「ねぇ、少しだけ寄り道しちゃおうよ、僕この先に河原があるの知ってるんだ。ずっと座りっぱなしで疲れちゃったから、ちょっとだけ。」
僕疲れたな、と言いながらもオルトのそれは彼自身のためではなく、偏に彼女のためでした。それを分かっているから彼女は口の端を笑ませて、それでも少しだけ困り顔のそれをします。
嘆きの島へと帰る馬車は、かぽかぽとした蹄の音と滑らかな車輪の音を緩やかに、静かにその場に停まりました。
先に下車したオルトの手に自身の手を重ねながら、彼女もまた外の空気を肺へと迎えました。するりと、つべりと、それはシルクの生地が降りてくるようでした。まだ馬車のほんの少し外に出ただけです、けれどまるで水のように木々の合間や装いの中を流れる空気の澄み切った音を彼女は聴いた思いでした。
シュラウド家の馬車を後ろ後ろに、二人は歩みます。繋いだ手を引くオルトが少しばかり彼女より先でした。二人の足の下に落ち葉はかさりと鳴ったり、舞い降り重なったそれは時折にふわふわと互いの体をやわく反発させるようでもありました。それはきっと、互いの手の平が重なっているためでもありました。
水晶細工のようにみえる銀杏の木に囲まれた小さな空間から微かな霧のヴェールを纏ったようなほの白い道を通り、そうして二人は河原に着きました。
「本当に、河原だわ。」
「嘘は言わないよ!」
オルトを信用していなかったはずもないけれど、彼女は僅かに驚いたようにせせらぎの合間に感情を抱いた声色を流します。それに彼は無邪気に笑うようでした。そうして確かに、オルトは彼女に嘘を吐きたくはないのです。
「見て、河底の砂、水晶みたいでしょう?」
じゃりりといわせたオルトの踏み出した足に、彼女は水面に波紋を拵えるような声を上げます。或いは、繋がれていた互いの手が離れたからでしょうか。
「っオルト! ぬ、濡れちゃう!」
慌てる彼女に笑いかけ、靴も靴下も脱ぎ丈を捲ったオルトは「だいじょうぶだよ。」と言いながらじゃぶじゃぶと水を掻き分けていくようでした。そうして、河底から僅かな砂を攫って彼女の元へと戻ってきます。
「ほらね、水晶みたい。それに中で小さな火が燃えてるみたいでしょ?」
彼女の眼差しの先に掌を広げ、指できしきしとさせてオルトは言いました。手招かれるかのように顔先をオルトの手の平へと近づけた彼女の眼差しというのは凸レンズのようなものです、水晶のような砂粒の中に燃ゆる小さな火を見つけていました。
そうして流れる水に手の平の上の水晶たちを帰したオルトは少しばかり考えたような顔をして、今度は年相応の少々悪戯っぽい笑みと眼差しを彼女に向けました。
ひゃっ、と鳴いた彼女の喉というのは、偏にオルトが急に自身を腕に抱くようにして地面から脚を離れさせたからです。それに、またじゃぶじゃぶといわせながら河の中へと歩みだしたからでもありました。
「オルト、おろして、オルトっ!」
慌てたように彼の体にしがみ付きながらも彼女は言います。
「今おろしたら濡れちゃうよ?」
しっかりと彼女の体を支えながら彼も言います。
「それでも重いでしょう……!」
「そうかな、白鳥の羽根みたいだよ」
軽い、軽い、と言って揺らしてみせるものだから彼女はより、ひしとオルトに身を寄せます。彼女の心臓の音とオルトのそれが、刻む速度が異なりながらも絡まってとけるようでもありました。
しばらくを慌てた彼女でしたが、じっと落ち着いてみるとそれはとても素晴らしいことだと気づきました。水はとても透き通ったものでした、それはまるで水素なんかよりもはるか遥かに。それでもオルトの脚が浸ったところは少し水銀色で、ぶつかったところなんかは束の間うつくしい燐光をあげては後ろ後ろへと流れていきます。それらに感嘆の吐息を溢し、空気の震えをオルトに触れさせるようでした。
彼女の吐息を追うようでした「えいっ。」と小さく呟くようにしてから、オルトが片足で水面を蹴り上げるようにしたのは。ぱしゃりという水音は少年の無邪気な声音に似ています。そうして水の玉が大小さまざまに宙へと弾けました、それがきらきらと大変うつくしく彼女のまなこに映ります。けれどもちょっぴり驚かされたので、潜めるような声量を以て彼女は彼に囁いてやりました。
「意地悪な子は、花嫁に逃げられると思うの。」
「そうなんだ。」
「逃げちゃった花嫁には追い付けないのよ、歳も身長も追い付けないし。」
「年齢は仕方ないけど僕きっと、君を見下ろせるようになるよ。」
「今だって私の方が見下ろしてるのに? あっ、オルト、冗談だから、離しちゃいやよ!」
目線が徐々に下げられていくため、慌てたように彼女は付け足します。もちろんオルトのそれだって冗談ですので、直ぐに抱きかかえ直されるようでした。
互いの笑い声が交えます。それは番いの鳥が身を寄せ合っている姿にも似たものです。
「私、オルトが年下だって身長が私より低くたって、時折びっくりさせてくる意地悪な子だっていいわ。オルト・シュラウドその人だったら。……ねえ、こんなにも献身的な婚約者を持てて幸せでしょう?」
「うん、僕にとっての一番のさいわいみたい。」
「やだ、ちょっと、恥ずかしいことを言ったわ。嗚呼、ほら、そんなに笑わないで……!」
彼女はオルトから自身の顔を隠したそうでしたけれど、どのようにしたって彼が覗き込んでくるもので、仕舞いには彼の体をはたくようにして抗議するようでした。
「少し顔色がよくなったみたい、戻ろっか。」
「もちろん一緒によね?」
彼女は冗談めかして言いました。オルトは、言葉は返さずに笑んでいました。
河岸へと戻るオルトの足が生みだす燐光の道標を些細にも網膜に焼きつける行為に似ています。あるいは、宝物をひとつひとつ大事に箱に詰めていくようなものです。
その道は霧のヴェールをもう一枚と重ねて纏っているようでしたけれど、二人は馬車の元へと戻ることができました。もちろん、互いの右手と左手というのは重ねられたそれです。
馬車は、また静かに銀河の宙を駆け始めるようでした。
つい先ほど宝箱に詰めたものを、彼女はぱちりぱちりとした瞬きを以て幾度も取りだしては楽しんでおりました。その顔色が確かに、馬車をうんとずっと奔らせていた時より良くなっていたので、オルトの頬というものも楽しげなそれです。
「私、あの河原、好きだわ。」
上手くステップを踏めなかった足先の運びに似ていました、彼女の紡いだそれは。彼女自身もそれがおかしかったもので、少しばかり口の端を結んでから、誤魔化すように繋げて言います。
「だから、イデアに言うの。」
「兄さんに?」
「ええ、私……死者の河の色、好きじゃないの。オルトやイデアの焔みたいな蒼色でもなくて、陰鬱な青白さで、渦が巻いてるところは碧色でしょう。それなら、さっきの河のそれが私好きだわ。」
「甜瓜、嫌いだもんね。」
「確かに好かないけど、そんなんじゃあないわ。とにかく、きっと、イデアならやってくれるから言わなくちゃ。」
「そうだね、兄さんならきっとやってのけちゃう。でも、あんまり兄さんを困らせちゃダメだよ?」
「そうね、兄さまを困らせすぎちゃいけないわ。私にとっては、たった数ヶ月を先行く兄さまだけれど。背ばかり高くって、あんまり年上にも感じないわ。やっぱり、たった数ヶ月だし……。」
それだから彼女は「イデアはイデアだわ。」と零した音と吐息で自身の下唇を撫でたようでした。けれどもそれはなにも鬱々としたものではありませんでした。
それで、二人は互いの兄のことについて些細な会話を続けます。それはなにも、見仰いだあの星の輝きが既に死んだものであるかなどといった、銀河の黒の洞穴のような陰りを抱いたものではありません。小さな星々は砂糖菓子のそれで、まるで舌の上にほろほろと崩れてやわい甘みが広がったような、そのような笑みを頬に広げていくようなものです。
そんな二人の合間にちいさく鳴ったのは、星めぐりの口笛ではありませんでした。オルトの唇が吹いたそれであったのならと、彼女は思ったことですが。
彼女の羞恥ゆえに染まった頬のいろどりというのは果実を思わせましたし、それでもしかしたらオルトも思いだしたのかもしれません。手荷物などなかったとしてもその側に静かに寄り添っていた絹地に包まれていたそれを、しゅるりという仄かな衣擦れの音と共に彼女に気づかせました。またそれは、甘い苹果の匂で。
「お腹空いてるでしょう、食べていいよ。」
「ありがとう、でもオルトの分を奪っちゃう。」
「僕は要らないから、だいじょうぶ。」
差しだされたオルトの両の手の平の上には、黄金と紅でうつくしくいろどられた果実が乗っています。互いの鼻先をくすぐる薫りのとおりにそれは素晴らしき苹果でした。それを落っことさないように受け取った彼女の唇が、つるりともすべりともした表皮に寄せられました。それはうら若き乙女の接吻にも似ています。彼女の歯がしゃくりと苹果を囓ります。馬車の中にはその瑞々しく甘い爽やかな薫りが広がりました。トパーズ色のつゆが彼女の指先を濡らすようでもあります。その神聖さをまとった光景を、天体のような眼差しにオルトは横たえておりました。
馬車はするすると駆けて行きます。
「あら、あれは何の火かしら。あんなに赤く輝く火は何を燃やせばできるかしら?」
向いから目の前へと膝を突いたオルトに指先をハンカチーフで拭われていた彼女は、ふと視界の端、外のとっても奥で燃ゆるその赤き光に気づいたようでした。
紅玉よりも赤く透き通り、リチウムよりもうつくしく酔いしれるようにその火は燃えています。生まれる煙は高くに昇り、桔梗色の冷たくもみえる天を焦がそうとしていました。それらが、彼女の眼差しをうんと手繰り寄せ、少しばかり胸元の装いを爪先に掻いてしまいそうな焦燥にも似た感覚を与えます。
「あれは蠍の火だよ。」
なんでもないことのようにオルトは彼女に答えます。
「蠍の火なのね、それなら私も知ってるわ。焼けて死んだ蠍の、その火が何度夜を巡ったって燃え続けてるっていう、聴いたわ。お父さまから、だったかしら……。」
迷い子のように一度オルトへと戻った眼差しは、またとその赤い輝きに寄せられます。オルトの眼差しは、シルクの上にやわく寝転ぶ彼女の指先ばかりを見ていました。
「野原……、バルドラの野原に一匹の蠍がいて生きていたのよ、小さな虫やなんかを殺して食べて。ある日、いたちに見つかって、追いかけごっこ。いえ、そんなに可愛らしいものじゃないわ。だって蠍は一生懸命に逃げたもの、殺されて食べられちゃうから。もうダメだって時に、蠍はいきなり井戸に落っこちちゃうの。……溺れてしまうわ。溺れて、死んでしまうわ。そう、どうあがいてもどうやっても、ダメなのよ。そうして、蠍は祈る……。」
きゅっと、オルトの指が彼女の指先を掴みます。彼の皮膚の下で細かに震える彼女のそれを抱いて慰めようとしたものにも思えますし、しゃくりをあげそうな彼女の喉にその先を唇にする必要はないと言葉にせず通せんぼうをしているようでもありました。
彼女の瞳には幾分前にみたイチイの葉の上にあった玉のつゆのような涙が浮かび始めていました。喉はもう、その蠍のように祈りを零さずにはいられないといったものです。
「嗚呼、私は、いったい幾つの生命を搾取してきたか分からない。それなのにその私がいたちに奪われようとしている時に逃げてしまった。それなのに、溺れて、死んでいく。唇を噤んで、あげてしまったら良かったのだわ、私を。そうしたら、彼も、生き延びただろうに。」
ついにはぽろりと落っこちた彼女の涙を、オルトの手の平は受け止めたようでした。少しを弾けて濡らしたそれは、星屑のようにも砂糖菓子のようにもほろほろと崩れません。
オルトの左手は彼女の手を包み、右手はその頬に寄り添うようでした。彼女を覗き込む眼差しというものは、星を抱く銀河のやさしさです。
「ねえ、蠍は蠍で、いたちはいたちで、君は君だよ。おちついて、息を吸って……ほら、溺れてないよ。僕をみて、だいじょうぶ、ね、泣きやんで。」
「っどうして、私、こんなにも悲しいのかしら。私はもっと、心持ちをきれいに大きく、もたなきゃいけないわ。だって、あなたのお嫁さんになるんだもの。あなたの蒼い焔を眼差しに、心持ちを鎮めなきゃいけないわ。」
涙はオルトの手の平を濡らします、また彼女の泣く声色も彼の肌を濡らすかのようでした。
「悲しまないで、……僕はね、君をいろいろのかなしみ全てから守りたいんだ。一番のさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみな思し召しだっていうでしょう?」
「それじゃあ、オルトがあまりにも辛すぎるわ。」
「いいんだよ、君が笑ってくれるなら。だから、ほら、もう泣かないでよ。」
オルトの指の腹はやわく彼女の目元を撫でます、声色だってやわらかに彼女を撫でるようなものです。
「ねえ、君は自己を犠牲にする必要なんてないからね。」
どうしたって浮いてくる涙がまた、オルトの肌に弾けます。
「さいわいに至るために生きているでしょう、君は。」
彼女の零した涙が束の間互いを離れ、そうしてオルトの目元におちました。弾けて、星屑のようにさらさらとして、それでいて流れ星のような刹那のものです。彼女の涙はその時オルトの涙のようでしたし、確かにオルトの涙でもありました。
息苦しくって、喉がひりついて、涙でたしかじゃなくなってしまう眼差しで彼女はオルトを見ます。彼女が愛したお月さまにも天体そのものにも思えるオルトの眼が時折にみえなくなって、愛したやわらかな唇のゆるやかさも優しげな頬の笑みだって時折にみえません。陽炎や蜃気楼にも似たもやがまるでゆらゆらと隠すかのようなのです。
隠れんぼうをしているそれはオルトの身体で、そうしてとある記憶や真実ともいえるものでした。彼女は、唐突に気付いてしまったのです。仰いだ夜空に輝く星というのが、もう、うんと昔、過ぎ去った年月に、死んでしまっているものだと。
オルトと絡めていた彼女の指先はあどけない少女のものよりうんと女性らしさを纏ったものにするすると育まれていきましたし、今やオルトの右手が寄り添っていた頬というものも淑やかな細やかさの触りと流れを描くそれです。少女を置き去りにした姿で、それでも彼女は同じように涙をオルトの目元や頬へと零します。
不意に彼女の片手は取り残されたような寂しさを覚えましたし、眼差しを向けるとそこには彼女自身の手しかないようでした。オルトの熱の名残さえひと欠片もないものです。
感情に濡れた絹地がその喉の奥に詰まったような思いで、彼女の顔先はオルトの顔先と向き合います。自身を身仰ぐその眼差しも困ったように笑む唇も、なんにひとつも失いたくないと、彼女はオルトの頬をその両手で包みました。
「オルト、オルト、私たち、ずっといっしょでしょう? いやよ、オルト。私、さいわいなんていらない。あなたと生きていけるなら、オルト。」
オルトの唇は、彼女の言葉に応じることはありませんでした。あるいはそこに彼の唇がたしかと在るのかも定かではありません。
少年の瞳は彼女の瞳を静かに見返していました。それで、本当にやわくやさしげな緩やかさで、瞬きのそれをします。彼女は束の間でさえオルトを見失いたくないもので、瞬きさえ忘れようとしていましたが、どうしたってそれはあらがえないものです。
ゆっくりと閉じられた彼女の瞼に追いやられた涙が、頬から離れて落ちていきます。
馬車に弾けた涙の粒を追うように彼女が目を開いた時、もうそこには、がらんどうが広がっているばかりでした。
泣き崩れる彼女の身体はひたりひたりと濡れるようでした。それは彼女の涙であり、あの水晶のような砂粒が横たう河であり、そうして眠りの海でした。沈んでいくのかそれとも掬いあげられるのか、誰だって分かりやしません。ただひとつ言えることは、きっと、彼女を救いあげられるものはもうそこにはいないということだけです。
「――空間転移魔法の魔力を検知。術者の逆探知を開始します。三、二、一、特定完了。脅威は在りません。サーチモードを終了します。」
ブルーライトの明かりがイデア・シュラウドの横顔をしとしとと濡らしています。眠ることなく夜を更かし、僅かな倦怠感を纏わせながらもしゃんとした指の運びでスリープモードのオルトを起動させた彼は、おはようの挨拶も前に告げられたその言葉に驚いたようでした。淡々とした声音が告げた脅威が無いという宣言も、突然のそれでは身を固めるようにして構えても仕方がありません。
少し息を呑んだイデアの眼差しの先です、オルトのその側に粒子のような光は煌めくようでした。それは夜光虫のものにも似ています。
風を孕むように、あるいは湖面に揺れる波紋のように描かれ始めた術式に、よく知ったそれに、イデアは少しばかり鬱蒼としながら眼差しを伏せました。従姉妹の、或いは弟の婚約者の、元婚約者の、その姿がうまれ、たとえばその頬がししどに涙に濡れているものだから、やるせなさは募ることでしょう。
彼女はその皮膚のやわらかいところにギアのそれが痛いぐらいに沈もうと、そんなことひとつも構いやしないとオルトの体を抱きしめました。
ぽろぽろと零れる彼女の涙というものがオルトのボディを伝い、そのうちに天の川に成ってしまうのではないかというものです。
「私の一番の幸いは過去現在未来全てがあなたの幸いよオルト、オルトがいなければなんにひとつもないの。至る為に色々の悲しみもみな思し召しだというなら、私は――」
魔法の名残でしょうか、少しの風が撫でたようでした。彼女の足下を通り過ぎた水のせせらぎのようなそれが装いを揺らします。今やオルトのボディにも似た脚が震える彼女の体に反して、しゃんとそこに立っているようでした。
彼女の心臓の音とオルトのそれが、刻む速度が異なりながらも絡まってとけるようでもありました。今はまだ、異なったそれです。
「ずっと一緒よ、オルト。」
夜の海中でゆらゆらとたゆたうくらげが見仰いだお月さまのような、天体そのもののような、あるいは銀河に横たう星のようなオルトの瞳に映るのは泣き止まぬ彼女の姿です。
僅かに軋んだ心臓部に、まるで錆びてしまったような可動部のつなぎに、もしくはもっといろいろに囚われ、オルトはひとつだって応じることができやしませんでした。ただ静かに、マグネシヤの花火のようなそれがぱちぱちと燃えています。蒼い小さな火の子が少しばかり置いていかれるようにして、ぱちんと弾けて、消えました。
空気ばかりは流れる水のように澄み切ったものでした。それでも満ちるのは寂しさばかりであるように、銀河のとあるところで泣く迷い子のいかないでという声を聴いた思いです。
オルトが抱くお月さまではなく、空に依然としてありつづけるお月さまは星も方舟も、そうして彼女とオルトをも分け隔てなく見つめています。けれども、今は夜明けに隠れんぼうをしているようでした。銀河の夜のヴェールはするすると引き上げられてしまったのです。ですから、彼女のこともオルトのことも、なにもいうことはありませんでした。
それでもただ静かに、シュラウドたちを夜明けの色が濡らし始めることでしょう。