厳かに沈黙を貫くパイプオルガンの眼差しの先、ステンド硝子を抜けた彩色を伴った陽光が祭壇に降り注いでいた。また、その祭壇上に何も纏っていない半身を預けるようにして伏せっている女性の背中にも。背の骨や肩甲骨の窪みをなぞるようなそれは、その女性の皮膚に一種の宗教画を描いているようでもあった。けれど、教会の天井を僅かに突こうとでもしているような嬌声がそこに在ったのなら、それはあまりにも不釣り合いであった。
否定に同調するように若い青年の手の平全体が女性のその背を押し、或いは覆い被さるようなその上半身の為に祭壇上により潰れる乳房。骨の軋む音と、下卑た水音と、肌と肌がぶつかる音と、彼女の平時と変わらぬ心臓のとくんとくんとした音。
彼女はただ、喉が渇いたと睫毛を伏せた。
ナイトレイブンカレッジには闇の鏡に選ばれた生徒たちが世界中からやってくる。そう、世界中からだ。そうともなれば彼らの生活様式も多様であり、思想もまた多岐に渡った。そのどれもに対応している、とは言い難いがうちひとつを司る敷地内の教会に彼女はいた。生徒たちが纏う式典服にどことなく似ている装いに身を包み、今は赤のワインで喉を潤すその女性の職を言い表すならシスターである。少しばかり、では苦しいほどにその倫理は捻れているがそもそも、世界そのものが捻れひとつもないと言い切り証明できないのでは彼女と彼女の周りで煙のように燻る誰か達の行いを否定できるものでもなかった。故に、倫理のそれなど、今は匣にでも詰め込み眼差しをやらぬ方が賢明だ。
祭壇を尻の下にし、煽った液体に女性特有の緩やかな喉骨の隆起を晒す彼女は僅かに眉根を寄せる。そのアルコールが不味いのではない、少しばかり前に今は尻の下にある祭壇上にて貪った行為の拙さが彼女の眉を寄せたのだ。主に拙いのは今はこの場を後にしたその相手ばかりであったが、相手はまだ年若い青年なのだから仕方ない。それでも、とげんなりした表情で酒気を纏った吐息を溢しながら彼女は視線を何処を目指すでもなく泳がせた。
その眼差しにちらちらとしたものが映り込んだのは、静かに鳴り響いた為だ。この教会の扉は僅かに古くなっている。学園長への報告に開閉の度に鳥が鳴いているようでは締まりがありませんだなんて言った唇、あれは冗談も含んでいたのだろう。それは兎も角、彼女はその来訪者に問いかける。
「あらあらまあ坊や、迷子?」
彼女の唇はそう尋ねたが、彼女とて扉の隙間からひょこりと顔を覗かせたその人物が迷子ではないことは分かっていたようなものだ。そうして、この教会に来訪する者たちの大半の理由が彼には当て嵌まらないこともまた分かっていた。
「坊やでも、迷子でもないよ!」
そう軽快な声音を響かせた少年に、彼女は胸中で眉根を寄せた。このような子供は苦手であった。
「そうね、そうでしょうね。シュラウドの弟くん、きっと貴方は迷子ではないでしょうね」
坊やではあるけれど、という言葉はくるりと回されできた赤ワインの渦の中に吸い込まれたようだった。
「僕のこと、知ってるの?」
顔先だけではなく、教会内に歩み入った(正しく表現するなら歩むではなく飛行してだが)彼は、窺うことができる表情の部位は眼球周辺ばかりであるがその眼を睫毛をぱちぱちとはためかせて驚きを露わにする。
「そういうことになるでしょうね」
「兄さんが、此処には来ちゃいけないっていうんだ。だから、僕はあなたとお話しするのは初めてだけど……それならどうして?」
口元の通気口辺りに指先を添え小首を傾げるようにして尋ねる彼の眼差しなど素知らぬ顔で、彼女はワインを乾かしたグラスに再びを注ぐ。瓶口から僅かに滴ったつゆを指の腹で拭い、それを自身の舌先で舐る。それから、気の無い声色で返事となる言葉を返した。或いは、返事にも成り切っていない言葉だが。
「さぁ、どうしてかしら」
「教えてくれないの?」
「質問ばかりの男は、嫌われるのよ」
彼女はちろちろと燃える蒼い炎を見ながら、少年とよく似たその姿を思い浮かべた。イデア・シュラウドという青年はこの教会への来訪者には含まれていないが、学園中に広まっている噂をその青年が耳にしていないとは思えない。そこに在る爛れた女のことを知らないわけがない。ともなれば、無垢を捏ねくりまして造ったような目の前の少年の来訪を許すはずがなかった。
カツンっとした音が響く、祭壇から降りた彼女のピンヒールが床を叩いた音だ。
踏鞴を踏まずとも、くらりとした。悪い酒だ、普段ならこんな状態になるはずもないのに。
追い払うか或いは自身がこの場から去ろうとした彼女はその額に手の甲を寄せ、目眩とステンド硝子越しの眩い陽光を遮りながら足を踏み出す。彼女のまなこの中で、ステンド硝子が一際に煌めいた。星屑を思わせるそれがまるで、粉々に割れて降り注いできそうであった。
翳していた手の平で遮っていたはずのそれが視界いっぱいになっている感覚に、遅れて彼女は疑問を浮かばせる。
浮いているのは彼女のピンヒールやその足の裏でもあった。つまり、彼女は重力に見捨てられたように倒れようとしていた。絡めていた指先から抜け出したワイングラスに嗚呼割れてしまう、だなんてそればかり思い自身のことは何処か他人事でさえあった。
重心を失った彼女の体を迎え入れたのは、天のお國でもなければ教会の無機質な床でもなかった。背中や肩口、膝の裏に感じる無骨を通り過ぎた感触は、彼女の脳をはっきりとはさせなかった。ワイングラスが割れた音は、何処か遠い異国での出来事のようでもあった。
その幼く細く頼りない腕でどうやって自身を支えたのか見当もつかなかった、彼女はメカニックには疎くまた考え込むには今の前頭葉は役立たず過ぎたのだ。
ブラックアウトしようとする彼女のまなこはそれでも、意識を失うその瞬間まで見開かれていた。彼女の眼差しという光景の額縁の中、何処までも深い暗闇が拡がりそれでも蒼々と燃焼し浮かぶ唯一のそれが、まるで反転した世界での太陽のようであった。月のように寄り添いを求めながらも、血潮さえ干上がらせ影をも焼きつかせそうな。
その蒼の太陽こそが自身の瞳孔であるかのように、眼球は爛々としていた。けれどもそうして、彼女の意識はぷつりと途切れた。
その教会の天に賛美歌は響かない。整備だけはされているパイプオルガンも弾き手が在らず、彼女の指先はただたんに鍵盤のひとつを叩いて無様に音を立てるだけしかできない。音楽の教養がないことに対して、彼女自身どのような感慨も抱いていなかった。それでも、何かを賛える為に自身の喉から滑らかな音を吐き出せたら少しは心地よいのではないだろうかと思ったこともあった。そうしてその度、爛れた情事での獣めいた鳴き声が自身の鼓膜に絡みつく。
無様だと、誰かが言ったような気もした。或いはそれは自身の発した音が頭蓋骨に反響し響いている。そうして、彼女はどうでもよくなってきた。喉が渇いたと、睫毛を伏せた。それと同時に気付く、睫毛は疾うに伏せていた。嗚呼ここは意識を失ったがゆえの世界なのだ、と気付く。そう思えば、意識を辿り戻すのは、夢の中から這い出ることは容易い。ただその境界線の置いていく向こう側に、賛美歌を聴いたような気もした。それはすべりと心地よい、絹の極めて細い糸が耳の管を通り降りてくるような思いだった。糸を手繰り寄せたくもあった。けれど、彼女は暗転を繰り返すようであった。
暗転
重い瞼を開けた折、彼女は自身の後頭部に鈍い痛みが在ることを知った。それは床にぶちつけた為ではないゆえにずきずきとしたものではないが、じくじくとした感覚がそこに存在していることを彼女に知らせていた。
不明瞭な視界がようやっと明瞭さを引き連れてきた時、彼女は半ば呆然とした。何故なら、彼女自身の視界は殆ど少年で占めていたからだ。降ろされ続けている眼差しに、遅れて気づいたのは後頭部の鈍痛が彼の膝によるものからだということ。
僅かに身動いだ彼女の手の平が木の触りを知る、嗚呼教会の椅子に座った彼に膝枕をされているのかと漠然と状況を判断した。それでも、彼女は普段通りを束の間忘れた。
「意識の再浮上を確認しました。脈拍の計測を開始します。――異常はありません。引き続き、現状維持に努めます」
無機質にも思える声色が彼女の鼓膜をくすぐった。それで、彼女はようやく言葉というものを思い出したかのようだった。
「後頭部が、痛いわ」
「えっ?! 損傷箇所はないはずだけど、もう一度確認するね!」
今度は少年らしさを抱いた声色で彼は言った、彼女はその言葉に引き続く彼の行動を止めたが。
「違うわ、あなたの膝が痛いと言ってるのよ」
「それはごめんね、でもこれが最適解だったから……」
血中のアルコール濃度が、急に立ち上がったことにより、云々と紡ぎ出す少年の声音を彼女は聞き流した。
「だから、水分を摂取したほうがいいよ!」
透明な液体で満ちたボトルが彼女へとかざして見せられる。十中八九ミネラルウォーターであろうそれの中で屈折する光が眩しく彼女は目を細めたのだが、少年はその様子を未だ身体が不調であると捉えたらしい。蓋を開けた少年のもう片方の手の平は彼自身の口元、通気口に徐に触れ――。
「待って」
「どうしたの?」
「何をしようとしてるの?」
「僕は経口摂取しないけど、人間はするでしょう? それでおねえさん、今は自力で摂取できないだろうからこうするのがいいって検索結果で」
「遠慮するわ、飲めるわ、自分で、もちろん」
「うん、分かった!」
上体を起こすと、いや起こしている過程でもくらくらとした。その感覚は倒れる前よりはマシであった。けれど、少年が行おうとしていたことを思うとまた異なった目眩に襲われそうでもあった。
手渡されたボトルは、彼女の手の平を冷やした。てっきりぬるい温度に触れると思っていた彼女の指先が跳ねる。その僅かな反射に少年は「冷却機能を使ったんだ!」と無邪気な声色で仕組みを答え、彼女の方はというと微かに目を細めるようにしてただ冷えた水を幾度か煽った。半分を空けても未だ舌に鈍い乾燥が纏わりついているような感覚であった。
「本当はもっといたいんだけど……あと十分後には寮室にいなきゃいけないから、帰るね!」
「そう」
気の無い、真実気の無い返事を零した彼女に少年はボトルの蓋を手渡す。そのちっぽけな蓋を手放した少年の指先は彼自身の体の線に沿う前に、一本の指を立てて彼女へと向いた。
「お酒、飲みすぎちゃダメだよ!」
彼女は特に返事の言葉を返さなかった。返すつもりもなかった。けれど、数秒待っても指先をずっと自身へと向け続け少年が帰る様子を見せないので、しぶしぶといった様子で顎先を頷かせるだけをした。彼は、満足したように目で笑んでいた。
やはり、古い扉は鳥のような鳴き声を上げた。ボトルの中の水を気紛れに揺らしながら、特になんとはなしに去り行く少年の後ろ姿を彼女は見ている。鳥のもう一声の前に少年はくるりと振り返り、来た折とよく似た軽快な声を彼女に聞かせた。
「それと、僕は坊やじゃなくてオルトだから! オルト・シュラウドだからねっ!」
その響きが微かに賛美歌のそれに似ているように思え、嗚呼脳がアルコールで駄目になっていると彼女は睫毛を伏せながらこめかみに指の腹を当てる。鳥のもう一声は彼女にはよく聞こえなかった。
懺悔室というちっぽけな方舟めいた匣の中で束の間の転寝に勤しんでいた彼女は、遠くに聞こえた鳥の泣き声にその意識を浮上させた。けれど、薄皮一枚先で自身を膜のように覆っている倦怠感に来訪者を出迎える気は持てず、明瞭な景色を捉えることなくぼんやりと開けた眼差しはすぐに睫毛と共に伏せられる。歓迎されないとすれば来訪者も寸に踵を返すことだろうと、彼女は再びと眠りの谷間へと落ちていく。
そうして彼女が再び目を覚ましたのは、意識の軽い浮上の時に草原の香りを嗅いだからだ。或いはそれに抱かれているような心地も。殆ど密室に近い此処に風がそのようなものを運んでくるものかしらん、と不明瞭な視界を繰り返す瞬きで確かなものへと彼女は変えていく。
「…………はぁ?」
彼女は数秒、自身はきっとまだ夢の中にいるのだろうと思った。何故なら、今や自身を膜のように覆っているのは倦怠感ではなく(体の怠さが完全に拭われているわけではなかったが、驚きの為にそればかりではなくなっていた)もっと物理的な、そう、緑、緑、緑、そうしてまだらに白であった。それらは、身動ぐと装いの合間から皮膚をくすぐり撫でるように降りてきたり、擦れ潰れることで一段と香り濃く彼女の鼻先を撫でた。或いは、撫でて降りるはその場に在り続けるものばかりではなく、新たに新たにと天から降り注いでいるものであった。
どうりで草原の香りを嗅ぐ、青草に埋もれながら彼女は思った。
やはり、彼女の意識は寝起きのそれだったのだろう。自身が埋もれるそればかりで、何故懺悔室という匣の中に雨のように青草が降り注ぐものだろうか今なお。
「あっ、おはよーございます」
その声で、彼女は漸く気付いたようなものだ。青草のひとつを摘み上げながら、指先のそれ以外にも自身へと降り注いだ、その声音を仰ぐ。いつかの少年が覗き込むようにしてそこに在った。まだらの白、何かの花がぽろりと落ちてくる。鼻頭にぶつかり転げたそれをぼんやりと感じながら、嗚呼、懺悔室の天井は何処へ行ってしまったのだろうと考え込もうとして、やめた。
「……また来たの坊や」
「坊やじゃないよ!」
「あー……はいはい、弟シュラウドくん、また来たのねぇお帰んなさい。お兄さんに叱られるわよ」
爪先で押すようにして扉を開けると、雪崩のように青草は外へと滑り出ていった。少しばかり自身を埋める青草がなくなったことで彼女は懺悔室の底ら辺を手探りに探す。その指先はボトルの瓶口に触れ、それを引き上げる。彼女の眼差しの先で琥珀色の液体が揺れていた。
「あっ! 駄目だよ、飲み過ぎ注意報だったら!」
「私にはきみのお願いを聞く義理がないの。お分かり?」
栓を抜こうとした彼女の動作は止まる、衝撃か風圧か、彼女の視界は舞い上げられた緑とまだらの白、そうして降りてきた蒼や月白や金色の月などを朧げに拡げた。抽象画めいていると、思った。
「……あのねぇ、この匣はね、顔を突き合わせてお話しする為のものじゃないのよ」
いくら相手が少年とはいえ、一人しか入ることを想定していない空間に複数を詰め込めば狭いものだ。彼女は顔をしかめる、自身の膝か或いは下腹の辺りかの上に降りてきた少年に、もしくは互いの合間で潰れた青草の濃い香りに。
「えいっ」
軽い声で、彼女の手の内の酒瓶は奪われたようだった。そのよく分からない何かを付けた頬を打ちつけてやろうかしら、と腕に力を込め、止めた。若さ故の予測の付かなさに振り回されるのは、自身を失うようで面倒であった。
そうしてやはり、少年の行動は彼女にはよく分からなかった。奪ったボトルを後ろ手に隠すようにし、次に両手に翳し見せてきた青草を主にした輪っかに、この少年は自身にどのような反応を求めているのだろうかと溜息を吐きそうであった。
「お願いじゃないよ、取引!」
「とりひき」
「お酒、僕がもらっちゃったからこれをおねえさんにあげるね」
「……青草の輪っかを?」
「クローバーの花冠だよ!」
白い綿埃を付けた緑色のただの輪っかだ、抽象画とするのならば。花冠だなんて御大層なことで、と思った彼女は仰け反らせた首で少年の手から遠ざかろうとするが、懺悔室を転がりでないことにはあまりにも逃げ道がないものであった。
殆ど重さは感じない、今は脱げているフードがその頭部にあるかどうかに似ている些細な重さでしかない。けれど、少年手ずから与えられたそれは些細な重みがゆえに余計に、彼女の肌や心臓のあたりにざわざわとさせるような感覚を生み出した。それがこそばゆくて身動いだ彼女に、花冠も僅かにずれる。
少年の指先は花冠の仄かな傾きを直し、流れる水のような些細さで彼女の耳元の髪を梳いた。
自身の耳の輪郭に微かに掠めたそれに、彼女は硬直した思いであった。その反応はあまりにも初な生娘のそれのようで、彼女はそうと思った自身に胸中で舌を打つ。大凡人の持ち得る感触ではないそれにただ、不意を突かれただけだと。ゆえなど、彼女とて知り得なかったが。
「ぁ、兄さんが僕を探してるみたいだ」
まるでそれが今現在分かるように(実際、彼には分かり得たことだが)少し上方を向く瞳孔と、自身の輪郭からパッと離されたその手に彼女は少しだけ胸を撫で下ろす。
「僕の兄さんもよくベッド以外のところで寝ちゃうんだけど、ちゃんと寝具のあるところで寝た方がいいよ? パフォーマンス回復力に影響するから」
寝ている人を青草に埋めたやつが言うことだろうかと半ば彼女は思ったことだが、口を挟むと自身の上から退こうとしているその行動を遮ることになりそうでただ口を噤む。
ただただ、少年の言動を見ていた。帰っていく背中と、その少しばかり上の方を。あの蒼く燃えている髪は花を、クローバーのそれを燃やし尽くしはしないのだな。と、漠然と眼差しにしていた。歪に引っかかったそれが出ていく前に落ちるか、そのままに姿がなくなるか視線を向け、そうして鳥は鳴いた。後者だった、と尻の座りの悪さを直しただけであった。
彼女の巣窟はそのとある教会であるといっても過言ではない。が、かといってそれは彼女の行動範囲がそればかりであるということにもならない。つまり、朝露が降りたばかりの夜明けに彼女が徐に寮塔の建ち並ぶそこを歩いていても何ら不思議はないということだ。早朝のそれが行きなのか帰りなのかを知るは、無粋なことであろうが。
数秒、彼女は雨が降ってきたことかと思った。雨は紫色ではないだろうが、魔法を孕んだものであるならばそのような色にでもなるだろうと。けれど差し出した彼女の手の平の上に舞い降りた造形は雨粒には程遠く、それは花びらであった。嗚呼こんなこと、つい先日にも覚えがある。同じではないが、限りなく近い出来事が。
彼女は眼差しと顔先の両方で天を仰ぐ、イグニハイドの寮塔がそれに沿う。その視線の先に相手の顔までは確認できなかったが、窓から伸びた二本の腕はいくら世界中から生徒が集うナイトレイブンカレッジといえど他の生徒と見間違うはずもないなと、彼女は唇を開いた。
「坊や、人に何かを降らせるのがお好きなの? 変わった嗜好だこと」
あまり大きな声量であったとは言えないが、彼女のその言葉は腕の持ち主であるあの少年へと確かに届いたようであった。それは驚いたように跳ね、その手の平の上からまた数枚の紫の花びらが彼女へ雨と降る。
「ちっ、違うよ! これはただ、本当に処分しようとしてただけ……!」
あと坊やじゃないよ! と、窓枠から腕だけではなくその上半身までも乗り出しながら見下ろし言う少年の姿に、彼女は既に捕まえていた花びらをかざした。
「なぁにこれ。……竜胆?」
「ううん、トリテリアだよ。それでね、ブリザードフラワーを作ろうと思ってたんだ」
「…………」
別にそこまでは聞いていないとも思ったことだし、花の名称を聞いてもピンとは彼女にこなかった。ただ指の腹に滑らかな花びらの触りだけを感じていた。
「でも、ダメだった。うん、ダメだったんだ。だから……処分してた」
「へえ」
少年のその気落ちしたような声色に次のような言葉を返したのは、気紛れであったかもしれないしそうではなかったかもしれない。彼女とて分からなかった。けれど、生物などそのようなものだ。みな、ちぐはぐに縫い継ぎされたものである。
「駄目だったのなら、しょうがないわね」
「えっ」
「だって駄目だったんですもの。駄目だったなら、駄目で、それでいいでしょう?」
「……いいのかなあ、それで」
「ごめんなさいねえ、私、励ましたりするのは得意じゃあないの」
彼女は「言葉では」と続けて囁いたようであったし、少年は「別におねえさんのこと馬鹿にしたわけじゃないよ」と誤解をとくように言葉を零したようであった。
ぽつりと、彼女の鼻先を雨粒が打った。少年より先の天へと眼差しを移し、そこに在る濁り色の脱脂綿にも似た雲を知る。今度ばかりは本当に雨が降り始めるらしかった。
「もうしないうちに本格的に降り始めるよ。だから、帰るの急いだほうがいいと思う」
「そうね、雨避けの魔法を使うにしてもどしゃぶりはごめんだわ」
またひとつと降り落ちた雨粒で彼女の装いの色が微かに滲んだ。それへと眼差しをやり指先にて拭い、そこにはもう何の痕もない。ついでとばかりにもう一度眼差しに仰いで見れば少年は「またね」と言いながら手を振っていた。彼女は、それに返すことはせず、ただ教会へと戻るのだった。
またねの言葉通り、その後も彼女と少年はよく顔を合わせることになる。それは初めの通りに少年がその教会に出向いたりが主であったが、敷地内の闊歩など教会外の彼女の出先であったりだ。そのどれもがその場にお互いしかいないもので、何ともタイミングがよいものだと朧げに彼女は思った。
交接のその時に居合わせるのは些かばつが悪い。考えただけで僅かに胃痛めいたものを感じるのではまるで、不貞を働いているようではないかとも彼女は思った。その感覚を彼女は笑った。不貞など、いまさらじゃあないか。その嘲笑の合間にもじくじくとするものだから、彼女は、今日は気が乗らないと来訪者を蹴り出した。
春の嵐でも来るのだろうか、狂い始めた気圧が骨を鈍く痛めつけているのだろうかと、腰骨の辺りを手の平でさすった。
長くもなく短くもないパイプオルガンの一音だけが教会の天を突いた。その指先を徐に鍵盤に押し付けていた彼女は僅かに脳に鈍痛を覚えたような表情を浮かべ、爪先を微かに齧る。眼差しをステンド硝子の極彩色を抜けてきた陽光の影に泳がせては、爪先を歪にする。自身のそれらにより鬱屈したというように、溜息にも似た吐息で己の下唇を撫でた。
パイプオルガンから彼女を振り向かせたのは鳥の鳴く音、来訪者のそれであった。
「あら、今日は違う感じ。式典服に似てる……似せてるのね」
少年の纏う色が幾度か目にしてきたそれらと異なっていることに彼女は僅かに目を見開き、細めながらナイトレイブンカレッジの式典服に似たデザインであると言葉を紡ぐ。彼女のその言葉に嬉々としたものを抱く少年はいつもより幾分早い飛行速度で扉の前を後にした。
「すごいでしょ? これも兄さんが作ってくれたものなんだ!」
「ふーん」
問いかけではなかったこともあって彼女は少年の返事に興味深そうな感情を孕ませなかったが、その音はどこか親しいものの言葉を鼻で笑うかのような響きを纏っていたかもしれない。
カツカツと彼女のピンヒールが教会の床を叩く。祭壇の前でふよふよと浮かぶ少年を、それでも見下ろす眼差しで彼女は問いかける。少年は、鉢植えをその腕に抱えていた。彼がたゆたう度に、白いながらも星を思わせる、少年の手の平ぐらいの花がその首を揺らしていた。
「アングレカムだよ!」
「あん……、まあいいわ。どうせ何を言ったって聞きやしないもの」
そうは言ったものの、何にひとつも小言を溢さねば居心地が悪い思いに彼女は腰に片手を当てて、少年から首と眼差しを背けながら続けて言った。
「坊やねぇ、いい加減お兄さんも呆れ果ててるんじゃない。通い妻じゃないんだから、そう頻繁に来なくたって。お酒も、ほどほどにしてるでしょう? 不本意だけど」
「坊やじゃないってば!」
「なあに、信じられないっていうの。血液検査でもなさる?」
「……確かに兄さんには行っちゃダメだっていつも言われるけど、でも……」
「でも?」
歯切れの悪いそれに、彼女は祭壇上に鉢植えを置いている少年へと向き直った。彼は鉢に植る白い花を手遊びのように指先で突いている。花首がゆらゆらと揺れていた。
「……おねえさんがお酒の飲み過ぎで倒れた時、僕、それが初めてじゃないんだ。あっ! お話しするのが初めてっていうのはほんと! 嘘じゃないよ! でも……僕、此処にくるのは初めてじゃなかったんだ。いつもは、窓の外から覗きこむだけだったけど……」
もし少年のまなこが確認できていたのなら、そこには呆気に取られた彼女自身の姿が泳いでいることだろう。そうしてその表情はきっと、感情と共により深められることとなる。続く、彼の言葉で。
「僕、おねえさんがお祈りする姿が好きなんだ」
「…………は?」
「心臓部の回転数は乱れるし、機体温度だって上昇する。レスポンス機能も滞っちゃう。エラーやバグかと思ったこともあったけど……でも、これらが指し示す結果は、おねえさんのことが好きってことでしょう? ちゃんと検索したんだ。僕、恋をしてるんだよ」
少年は、何の翳りもないやわらかな笑みで紡いだそれを彼女へと渡した。彼女は、いつかの反転世界での蒼々と燃ゆる太陽を前にしたかのような眩みを感じた。
「おねえさん、女神さまみたい。太陽みたいなんだ」
少年がその言葉を言い終わるか否かで強かに祭壇へとその背中をぶちつけたのは、彼女の指先が絡められたマジカルペンが彼女自身の影を蛇とし、しならせたその胴体で薙いだからであった。
鉢植えが祭壇の奥へと姿を消し、割れる音。少年がふらふらと床に座り込んだのはその音と同じぐらいに。音に意識を向けることは互いになかったが。
きょとんとした少年の輪郭のすぐ真横に音を立ててめり込んだのは彼女のピンヒールの踵だった。ほんの細い糸一本分の距離に刺さったそれに少年は顔先の向きを変えることも意識を逸らすこともしなかった。それにも、彼女は胃がむかついた。
「女神? 太陽? おふざけも大概にしてくださる? お得意の検索で知ってるでしょう疾うに。私みたいなのはビッチって言うの。大淫婦バビロンだなんて口の端で嘲笑されてるの、あなたのお兄さんだって知ってるわきっと」
眉を寄せて少年を見下ろす彼女の感情に合わせるように影の蛇は身をくねらせる。
「あぁいい子ちゃん、反吐が出るわ。だから、子供って嫌いなの」
少年の鼻先にて口を開けた蛇が、牙を見せながら威嚇した。
「うん、知ってるよ」
けれど、少年の覆い越しの眼差しも意識も変わらず、彼女ばかりであった。
「……はぁ?」
「大淫婦バビロン:『黙示録』によれば“悪魔の住むところ”であり“汚れた霊の巣窟”である。女の姿で表されておりきらびやかな装身具を身につけ、手に金杯を持つが、その杯は姦淫による汚れに穢されているという。大淫婦は殉教者の血を流すが、神のさばきによって滅ぼされる――」
その無機質さを孕んだ声色に彼女は下唇を噛みそうになり、けれども続くそれらにやはり、上唇と下唇の合間に感情の隙間をあけることとなる。
「でも違うよ、おねえさんの身体に悪魔も霊も住んじゃいないし、女性ではあるけど……華美な装飾は嫌いでしょう? 透明のグラスが好きだし、穢れたところなんてひとつもないよ。これはグラスのことじゃなくてね! 血管に流れてた血だって、おねえさんのものそのものだったし、裁きによって滅ぼされたりするもんか! 僕がね、守ってあげるね」
にこりと、彼は笑んだ。彼女は踏鞴を踏みそうな心持ちであった。けれど、刺さったピンヒールがそれを抑えていたようなものであった。
「おねえさんが××で×××を××しようと、僕がおねえさんのお祈りの姿が好きなのは変わらない。おねえさんが好きなのは変わらない。心臓部の回転数の乱れも機体の温度上昇も滞るレスポンス機能も、変わらない。……ねえ、バースト・ギアのボディで来たのはね、僕のボディの中でこれが一番おねえさんの服装と似てたからなんだ。人間は、特に女性は共感を求める生物なんでしょう?」
少年は、彼女の脚に両手を触れさせ、自身の手の甲越しに頬を寄せるように頬に在るパーツを寄せた。
「心臓の鼓動速度は上がった? 血液温度は? 応答速度の乱れはどう? 質問ばかりでごめんなさい……おねえさんも、僕と同じようになってたらいいな。ねえ、子供が嫌いでもいいよ。僕を、好きになってくれたらそれだけでいい」
少年の吐息が彼女の脚をくすぐるようであったし、彼によって彼女に与えられたものはそればかりではなかった。
「、」
「坊やじゃないよ」
唇を引き結んだ彼女と何ひとつ変わらぬ彼の間で蛇が陽炎のように揺れ、そのままに消えたようであった。
「……はぁ、そうね」
押し出された吐息のような声量だ。
「坊やと呼ぶには、少しばかり魅力的だと、思う、わ…………オルト」
陥落、それであった。
祭壇へと刺さったそれを抜き、その場にへなへなと崩れ落ち座り込む彼女のことを大淫婦バビロンだなんてとてもではないが言えそうになかった。自身の両の手で覆った顔は頬を紅潮とさせ、それは劣情というよりは純情のものに近しかった。その睫毛は恥じらいの涙さえ仄かにのせては震えていた。
「おねえさん、可愛いね」
「叩き出すわよ」
虫の鳴くような声量だった。
座り込んだ彼女とは反対にオルトは浮遊した、座り込んだ彼女であれば彼とて容易にその顔を上から覗き込むことができる。普段とて、難しいことではなかったが。
彼女の自身を隠すその指先がいとも容易くとかれていく。それでも、多少は抵抗しようとあまりに力なく手を払った彼女のそれにオルトは「あっ」と声を上げた。
「そこは排熱部だから触っちゃダメ! 火傷しちゃうでしょ?」
それはどこのことだろうかと瞼を開けると、眼差しには彼がいっぱいにひろがった。
やはり、蒼々と燃える太陽だと思った。その太陽に焦がれたように、彼女は自身とて無意識に唇を開く。
「どこなら、火傷しないの?」
少しだけ、オルトは考えたようだった。もう一度尋ねようとした彼女に返す答えに、言葉を用いることをオルトはしなかった。
「――しないって思ったけど、僕のほうが火傷したかも……熱処理が追いつかないや」
そう自身の唇に両の指先を添えて笑うその姿と笑み声に、彼こそが信仰しうる存在であるかもしれないと彼女は、賛美歌の旋律の調べを聴いた思いであった。それはすべりと心地よい、絹の極めて細い糸のような。その糸が、ステンド硝子の赤を抜けた陽光に染められお互いの小指を繋いでいる、そんな乙女のような幻想を描き彼女は羞恥に唇を引き結ぶ。恥じらいに喘いでしまいそうなその喉は、もう乾いてはいなかった。