「嗚呼、」
 思わず零れたような音を呼吸は伴っていた、精神は落ち着いているはずもないのに肺の収縮膨張の度合いは平時の通りのようだった。落ち着き払っている呼吸が、それでも僕自身の鼓膜に他人事のように響いていたんだ、君を好きになったその瞬間に。感情の水底にぽちゃんと水飛沫を上げ、深く深く沈んでいった些細な秒数に。
 僕のとある感情の芽生えに君は特に気付いた様子もなかった、零れた音さえ把握されたのか定かじゃない。それでも、経った十八年の長いとも短いともどちらともつかない人生の中、愚かな吸って吐いての呼吸の合間、欠片でさえ触れたこともない感情のひとつに触れてきたんだ、君が。指先ほどを触れさすことさえ哀れな事だと、どこか自分自身でも思い込んでいたってのに。それでも今、この感情の膜が僕の皮膚の微かな先を縁取っているようなそれが、ひとつも悪いことのように思えなくて、監督生氏、君が与えたその罪深さをどうか知って欲しいな。
 もちろん、とある感情が芽生えたその瞬間に唇を開いて言葉で縋り付いたりなど僕はしなかった。モニターと僕の眼球とを忙しなく行き来する君の眼差しを、僕に喋りかける為に開かれ結ばれる唇の戯れを、それらを遮ることは酷くはばかられた。
 水晶体に君の姿を抱きながら思ったんだ、幾数の分岐点を経ても辿り着いてしまうマルチバッドエンドである僕の、それすらも覆るだろうって。君の為なら、痴れ者と亡者しか在ろうとしない冷たくて寂しいそこでも在れるだなんて思ったんだ。底で息を潜めて生ける、そう思ったんだ。
 これはまだ君には内緒なんだけど、僕はいずれ家長を継いで死者の魂を管理しなきゃいけない。シュラウド家は長きに渡ってハデスさまの留守を預かってきたんだ。もちろんそれは光栄なことだろうけど、蔓延る有象無象、つまり口先ばかりのお家柄の奴ら皆が皆、尊びながらもその裏っ側で不吉だ呪われた家だと陰口を茶会の受けものにしているそれらが、鬱陶しいのもまた事実なんだ。きっと君なら、分かってくれる。
 痴がましいかな、浮かび描いたそれでは僕がハデス様で君がペルセポネであるのは。隔離された箱庭で、僕とオルトと君で、永きに身を浸すんだ。病める時も健やかなる時にも、ずっと、ずっと。
 冥府の薄影のヴェールを君へとおとし、契りの術式を行うんだ。あまりにも素晴らしい計画で、思わず今この瞬間にも誓いの口付けを君へと寄せそうにさえなる。モニターに釘付けになったそのまなこの下、無防備に隙間を空ける上唇と下唇の誘いというのが、オルペウスをも振り向かせた罠のようで、少しだけ僕の下腹を叱咤するように力ませた。
「監督生氏、」
 僕の呼びかけに続きを待つ君の表情が堪らなくて、唇を吊り上げて、それでも続きはやらないままにただ見つめ合ってみた。これって実質誓いのシーン、そう思いながらも性急に事を進めないのは臆病な、いいや、セーフティネットは必要だろう。皮肉っぽいけど。
「もっと用心しなよ。……そこ、その先、死角から飛び出てくるから。ふひっ、遅かったみたいだね」
 ほんと、用心しなよ。今回はなにひとつとせずにオンボロ寮に帰してあげるんだからさ。

 さて、夜明けの色に濡れながら練ったプログラムは間違いがないだろうか。数字と記号の織りなすそれであろうと試行テストは大事だ行き当たりばったりは愚者の成すこと。
 例えば勝手に緩急をつけるタイピングの音というのは、指先の昂りはその時在ったのは僕しかいない寮室だってのに君に捧げる音律を刻んでいるみたいだった。
 思い出しながら、内臓の底から湧き上がってくるような感情が僕の口辺をひくりとさせた。大釜から立ち昇る紫煙は少し目にしみた。苦手でも得意でもない魔法薬学、僕が魔法薬に忍ばせる心の弱さは、君をほんの少し積極的にできるかな。恋やましてや愛だなんてすすんで囁きそうにない君の唇は、その時ばかりは仄かに吊り上がり、隙間を開けて、僕の望む言葉を聞かせてくれるだろうか。
 全ての授業を終えた監督氏が、もうすぐやってくる。耳の裏に聞こえる君の足音の幻聴は、冥府の階段を降りてくる音にさえ思えた。弾んでやまない心臓をどうにか落ち着かせようとしながら、僕は眼差しを降らせる。ナッツを詰め込んだパイ菓子に、オレンジやスパイスを抱いたクッキー、歪な心臓の形をしてるみたいだ。胡桃のケーキにこっそりかけたシロップはつまり、試験管から滴るってこと。
 賛美歌のような声色を以って、僕を有頂天に押し流してくれやしないだろうか。押し流して、溺れさせて欲しいんだ。君に。
 そうして、君はやってきた。水仙の花を摘もうとしているのちの冥府の女主人のような迂闊さを共にして。だから、僕は、かつてほころんだペルセポネの唇にザクロの粒を捻じ込んだハデスさまのように、君に仕組まれたそれを与えてやるんだ。シーンはあまり、似てないけど。
 ほろろと崩れて少しばかりが君の下唇に縋り付いたパイ菓子に、食んだあとの吐息に絡みつくオレンジやスパイスの香りはクッキーのもの、歪な形をしているのは僕の皮膚や肉や肋骨などの下の心臓。やがて、君の眼差しはシロップをしっとりとスポンジへと染み込ませた胡桃のケーキに。僕の眼差しも同じように、そうしてから偏に君だけに。
 君の瞳の中に泳ぐ星の欠片が少しばかり迷子になったようだ、なんて。僕が仕掛けたに違いのに。
「ねぇ、監督氏、好きだよ。君が好きなんだ。……あ、愛してるんだ。き、君の好きなひとをこたえて、さァ……!」
 君の唇が薄く開くそれはひどい誘惑だった。ふっくらした花の蕾が開花を迎えたものにもとても似ている。けれども。
 残念、君の眼中に僕なんて存在しませんでした。なあんて。



 あくまで静かに鳴り響くモーター音に身を浸し、朝も夜も知らぬ存ぜぬで永遠と成り得るコードを求めている。冥府の底で。きっと神々でさえ辿り着かなかったそこへ、さらにその先を僕は見据えている、今は到達していないから、未だ祷にも似たまでの文字列を刻み続けているんだ。神話時代の神様を、全宇宙を超越するんだ。ねえ監督生氏、ナイトレイブンカレッジの学生やってた時の君に笑いかけてやりたいよ、輪廻天性の理だなんておもしろいと思わない。
 君と僕が、結ばれますように。嗚呼、君、僕はわかるよ。次の君は、僕を愛する。
 学び舎とさよならをするように、生者であった君とさようならをしたのも、もうずいぶんと前のことのように感じる。だからそう、次の君は、僕を愛する。
 死者を閉じ込める旧システムは、君を囲うには間違いなんだ、過ちでしかない。最新システムは輪廻天性のコードです。そのままに、何ひとつ変わらずに、変化を許さずに管理しては意味がないだろう。次の君は、僕を愛する。僕だけを見て、僕だけに触れ、僕だけを感じ、僕だけに全てを左右される。僕だけしかない、君になるんだ。もしかしたら、オルトからさえ、君を隔離するかもしれないってこと。
 僕の腹の底で塒を巻きながら身をくねらせる感情は、火傷しそうなほどの熱を抱いているようでいて、それであらゆるを凍てつかせる絶対零度のようでもある。ちぐはぐだってこと。そうして、僕を愛してくれる君に成るまで、この果たしてもない飢餓感を抱いて、それでも眼差しの先に辿りつくべきそれが在るのなら堪えて生けるから。けれどもはやく、僕を愛して。
 最新システムのコードを纏いながらぷかぷかと浮かぶ君は、蓮の花のようだ。か弱く揺れる花首は、指先で簡単にぽっきり折れる。でも君に力強さなんて必要ない。だって僕が君を守っているのだから。炎の海も刃の山も退けてあげる、僕こそが勝者だ。恋を叶える為なら三千大千世界だって燃やし尽くしてみせる、君の為なら全宇宙の支配者にだって成る。僕をとめる神様だっていやしない。
 それでも、変わらないんだろう。
 僕が身を寄せるスペースが、君の心に無い、存在しないってエラーばかりが表示されているみたいだ。容量はなんにひとつも減っていないのに、そんなのおかしい。理解ができない。それでも、そんな君を愛しているんだ。そうして分かるよ。
 嗚呼、次の君は、僕を愛する。次の君は、僕を愛する。次の君は、僕を愛する。次の君は、僕を愛する。次の君は、僕を愛する。
「監督生氏……生まれ変わったら、今度こそ僕を愛してね」
 そうしたら、すくいあげてあげるからさ。生と死の輪っか、から。