夕焼けがしのび込むこともなく、時計も身動ぐことのできない今の体勢では見えなくて分からないけれど、たぶんもう今はずいぶんと夜に近いのだろうなと思った。けれどオルトくんが帰ってこないからそうでもないのかもしれない。もうすぐ帰ってくるのかな、やはり、どちらか分からないなと思った。少しだけ崩しているけど正座に近い姿勢の脚が疲れたなと、思った。
 眼差しを落とすとイデアさんの蒼く燃える炎がぱちぱちと小さな音をさせながら揺らめいていた。その揺らめきは静かな海を水面から覗き込む日差しに似ていた。もしかしたらそれは眩しくて、微かに目を細めた私の睫毛の震えにイデアさんは気付いていないようだった。
 私の腹部を上半身で絞めるように抱くイデアさんの耳は服越しだけれど私のおなかにぴったりとくっつけられていた。このまま食堂で夕食をとることを忘れ去りそうなおなかが鳴いたりしないかしらと、少しだけ腹部に力を込めた。そうすると彼はくつくつとおかしそうに笑った、本当はそんなにしっかり揺らされるはずもないのに、腹部が細波のように揺れたような思いだった。
「海みたいだよね」
 何処にあるか分からない時計がちくたく鳴っている、その合間にイデアさんがぽつりと呟いた。穏やかな沈黙の時間がずいぶんと長かったから、徐に返した私の相槌は迷子になったようだった。イデアさんが何に海を見出したのか知らないままに「うん」と返しては、少しおかしなことだった。私の肌を焼くことはない髪間に指先を潜り込ませたままの私には、海を見出す先は彼でしかなかった。
「嘆きの島ってさ、島なんだよ。その通りに。つまり周りは海に囲まれているわけだけどさ、島の端っこは何処もだいたい断崖絶壁でさ、対流の関係で激しい波にいつもぶたれてるんだ。或いはそう、波は掻くように抉るように岩肌を苛んでる」
 久しぶりに唇を開いたわけだから、イデアさんの声は少しだけ掠れていた。それでも私に説明するように言葉を紡ぎ続けるうちにだんだんとその掠れは消えていくようだ、僅かにそれがさみしいようにも思えた。後ろ髪が引かれるような思いにイデアさんの後ろ髪を指で梳く、そっと。
「それでも波はちっとも嘆きの島を小さくしないんだ。抉るような波だってのにさ。ような、でしかない。いや極めて正しく計測すれば体積は減少しているんだろうけどさ、そういうことが言いたいんじゃない。分かるだろう?」
 ゆったりと瞬きをしたように問いかけられた響きがあった。私は静かにこくりと頷いた。けれど、私がいた場所、住んでいたところには断崖絶壁もそんな激しい波もなくってうまく想像ができなかった。そのようなところも、探せばあったに違いなかったけれど、私は知らなかった。だからイデアさんの声を聴きながらまるで御伽話でも読み語られているようだった。苛烈な波の話をしながらも穏やかな音程のイデアさんのそれが、より現実を遠ざけているようにも思えた。
「よく崖の下を覗き込んでたんだ、むかし。……、島から手放されているようでもずいぶんと遠くまで及んでいて、潮はよくよく引き寄せるんだ。嘆きの島には無い極彩色の果実だとか、腐ってたり岩肌にぶつかって波に揉まれてぐちゃぐちゃだったり歪に欠けてたりしてたけど。何処かで沈没したらしい船の帆だったり、魚かなんかの卵をびっしりくっつけてた」
 昔、の響きは少しだけ他と異なっていた。その後に若干に噤んだ数秒に、私は思いを馳せた。
 崖の上からよく分りましたね、イデアさんずいぶんと視力がよろしいみたい。そんな風に私が言うと、彼は指先を一本だけ跳ね上げるように私の腹部から離したらしかった。
「釣り上げたんだよ、まさか。結構な頻度で、水死体も釣られたそうにしてた。わざわざ釣り上げなかったけど」
 イデアさんの指の腹に私の指の腹を触れさせてみると、その指ごと私の手はイデアさんに囚われてしまった。意外とあたたかいイデアさんの手が私の冷え性の手、その体温でぬるくなっていくのを感じた。
 海、お嫌いなんですね。私は呟く。少しだけ驚いたようにイデアさんの髪の先が揺れていた、その揺らめきを追うようにイデアさんは違うと言ったようだった。
「嫌いじゃない。そもそも、君が海みたいだって話してるのになんで嫌いってことになるんだよ……」
 私の髪はイデアさんのように揺らめいて驚かないけれど、海みたいだ、の主語が私であったとこには肩が跳ねるようにして驚いた。やはり、イデアさんは笑った。今度のそれはにやりとした気配だった。
 でもそれじゃあ、私、ずいぶんとしたイメージみたい。嘆きの島をその波で掻くように抉るようにしてる海、極彩色の欠損した果実やお船の一部や水死体をイデアさんの眼差しに届ける海じゃないですか。不服そうな響きを私の声音は抱いていなかったと思う。
「嗚呼、別に、嘆きの島のくだりは意味なんてないよ」
 ないの。
「そう、ない。人生に確固たる目的なんてものがないみたいにさ」
 最後の声音を私の服へと染み込ませてから、ゆるゆるとイデアさんの腕はとかれていった。その温もりに追い縋るように、くきゅりと鳴いた。
「ふひひ……おなか、鳴ったよ。ディナー、如何様にしますかな?」
 聞きながら、それでもその問いかけも意味なんてないようにイデアさんは私を横たわせるようだった。海に溺れようとするイデアさん。イデアさんに溺れて、かぷりとあぶくを水面へと逃すみたいだった、私は。