ひび割れた硝子越しの夜明けの色が、心許ない薄いカーテンで遮られながらも君に注がれていた。君が息を詰め、そのまま静かに沈んでいくように眠りに落ちてから僕に眠る夜などないとばかりにずっとその姿を見つめている。或いは、もっと遥か前から君を見つめていた。
気味が悪いばかりの僕の蒼の炎を嬉しげに見つめる眼差しも今は、瞼の下で休息に着いている。伏せられた睫毛が瞼と共に時折ぴくりと震える信号をじっと見ていた。浅く酸素を取り込む肺が肋骨や肉や皮膚を押し上げ、その身体にゆるくかかったシーツも些細に天に近くなり、そうして遠ざかることを繰り返している。鎖骨のほんの下から脚の途中までを隠すそれは白いワンピースを纏っているようにも見えた。滑らかで無垢な足の裏は草の汁に濡れることなく、昨夜はその爪先でシーツを掻いていたことを思うとそのちぐはぐさが僕の頬を痙攣させるように微かに笑ませるのだった。
起こさぬように、極めて慎重に触れた君の頬は温度を宿していないようにも思えた。夜明けの色に濡れる肌は朝露が降りてきても儘に受け入れてしまいそうだった。途端に、君を失う或いは失っているのではないかという恐怖に襲われる。その唇に殆ど触れそうな距離で耳を澄ませると、君の浅い呼吸の音が鼓膜を微かに揺らし、僕の心を少しだけ撫で下ろした。
僕みたいなやつが君に受け入れられたことは未だに信じられないことだった。君から愛されていると知り感じている今だからこそ言える虚勢だろうけれど、僕は僕だけが君を好きであるということでよかった。拒絶も、亡失も、あらゆることがそれまで以上に恐ろしくてたまらない。僕は何処までも底辺に成り得るだろうと思った。僕を置き去りにする君などを受け入れることが自身にできるはずもなかった。
衣擦れの音は、僕がひっそりと持ち込んだ果実を包んだその布地からだ。室温にぬるいその表皮へと指の腹で触れ、反発を知る。果実へと向けた眼差しはそればかりはどこか無感動であったと思う。膨れ上がった感情は、通り過ぎてしまったのかもしれない。いき過ぎたとも、言える。
シュラウド家の領地でただ根を下ろし実を成す大樹の果実を捥いできた時の激情は、夜明けの空気で霞んだらしかった。それでも、ただただ僕は亡失の恐怖に怯え、たったひとつの果実を捨て去ることさえできやしなかった。
爪先がそうして指先が潜り込んだところから奔るクレパス、その胎のそこからびっしりと姿を覗かせる紅玉は君の足元を掬い取り呑み込むことだろう。青臭さを纏った甘酸っぱい香りが冷たい空気に揺られながらも僕の鼻先を掠めていった。
死でさえ、僕らを別つことができなくなるんだ。君を奪われたくなかった、別離など許されるはずもなかった。いずれ君が死者の河を泳ぐだなんて考えられなかった。そこに流れる全てに嫉妬し、僕はなんにひとつも手につかなくなるだろう。例えば僕がハデスさまであるのなら、君はペルセポネで、僕の側に在らねばいけないはずだ。僕の眼差しの先に一瞬だろうとメンテーなんていないから、妬いた君が踏みつけてミントにしてしまう存在もいない。僕に固執するその感情を確かめたいとは、思うけど。
冥府の女主人、君は妻、奥さん、僕のお嫁さん。僕にとってのペルセポネに成って欲しかった。僕のところまで、おちてきて欲しかった。受け止めた君と一緒に潰れて、爆ぜて、ひとつに成ることだって厭わなかった。
神話の時代からただ静かに生きてきた大樹、コレーを冥府の女主人にした果実、理を歪ませる魔力を宿した柘榴は僕の手の中に在った。
耳元で自身の脈打ちの音が酷く鳴り響いていた、もっと落ち着いて臨めるかと思ったけれど駄目だった。柘榴の一粒を摘む僕の指先は緊張で青っ白く、細かく震えていた。ぎしりとベッドを軋ませ、眠る君の身体を跨ぎ眼差しを落とす。あまりにも静寂を纏って眠る君はやはり、既に亡くなっているようにも思えた。それが僕の鼻の奥をつんとさせ、喉をヒクつかせそうだった。
軽く押し当てた柘榴の粒に緩やかに反発する君の唇は、柘榴のそれより遥かに薄い色素だ。眼差しの先、僕は、一枚の宗教画を前にしているような気持ちだった。
ハデスさまは、地上に帰れることを喜び綻んだペルセポネの口元に柘榴のそれを捻じ込んだ。そういう語りも、在る。
「ぁ」
音を零したのは、僕自身の唇だった。強張った指先は思いがけずそのひと粒に圧力をかけてしまった。潰れ、僕の指先を汁に濡らしたそれは呆然とする指の間を抜け、君の輪郭の側に転がり落ちた。遣る瀬なさに息を吐いた。そうしてすぐに唾を呑んだ。僕の指先を濡らす汁が先端に集まり、そうしてぽたりと落ちていた。
君の口角に薄く滲んだ果実の汁が、僕の下腹部のあたりをざわつかせた。
指の腹で絵具を伸ばすかのように、もしくは擦り付けるかのように、君の口角を濡らした汁に触れた。或いは、恋人に指の腹でルージュを引いてやっているように、僕は君の唇にそれを滲ませ、浸透させることに陶酔した。
たったひと粒の汁などたかが知れている、二粒めを君の唇の宙で潰し、圧死したそれはシーツに放り投げ、彩色を続行した。それは芸術家が描くものに自身の精神生命を注ぎ込む行為に似ていた。もし僕の何かを君に捧げることで君の中に僕が存在したままになるなら、それはどんなに素晴らしいことだろうかと思った。
熱を孕んだ僕の吐息が降りていずれ君の頬を滑っていった。キャンバスを勢いの儘に飛び出した筆先のように、僕の指先は駆けたようだった。仄かにこつんとぶつかったのは君の歯で、君の唇のその内側に潜り込んだことを僕に知らせた。心臓が跳ねる。不意の驚きに指先を引っ込めた僕は、それでも恐る恐ると再びに君の唇に誘い込まれた。今度、ぴくりと反射で小さく跳ねたのは君の舌だった。指の腹、柘榴の粒を摘み潰した、僕の、それが触れた君の舌だった。
四粒ほどの柘榴のそれがペルセポネを冥府に縛り付けたのなら、どれほどの粒の液体で君を僕の側に縛り付けておけるだろうか。目眩とも陶酔とも知れぬくらりとした感覚が身体を廻り四肢や末端から逃れようとしているかのようだった。
ぽたりと、弾ける。
それは望まれぬ中で生まれ落ちたようなものだった。そうして呆然に殴られる僕自身の気も知らず、追い打つかのようにぱたたと滴り君を汚した。僕は掻き寄せるかのように鼻を押さえ、己の手の内へと触れさせる呼吸は獣のものに似ていた。自身の血の匂いに噎せ返りそうだった。
震える眼差しの先、僕の鼻血が君の皮膚を滑り、輪郭をなぞっていた。それは、完成を間近にして決定的に逃れることのできないミスを犯してしまったような気持ちだった。その一滴の絵具の水溜りが、精神生命を込めて描いたものを台無しにするのだ、女神を穢すのだと嘆く画家の声を聞いた。
胃から迫り上がるものを感じて、慌てて君の上から飛び退いた。転がり落ちるように、いいやその通りにベッドの下へと歪に蹲った僕は、痛いほどに背骨を軋ませながら酸素に喘いだ。緊張と興奮と懺悔と苦痛と、何れが何だか分からないが、綯い混ぜにした極彩色を吐き出してしまいそうだった。けれど、ただただそこを汚したのは逆流した僕の胃液だった。
「ごめっ、ごめん……! ごめんなさいっ、僕はっ、こんな、こんなっ……!」
胃液に濡れた唇で嫌悪しているのは、他ならぬ僕自身にであった。
「イデアさん」
静寂の音だった。君の、僕の名を紡ぐ声色というのは。
むくりと君は上体を起こし、ベッドを軋ませた。シーツを掠めて衣擦れの音をさせる君の脚がまず、ベッド上から降りた。それは冥府から逃げ出そうとするエウリュディケにも思えた。それならばオルペウスはいったい誰なのだろうかと、ひくりと喉が震えた。そこは逆流した胃液で僅かに焼かれていた。
君が逃げ出そうとしたならと向き合ったのかもしれない、或いは額を擦り付けながら謝罪しようと。けれどそうとはならず、君はベッドに腰掛けたままで僕は座り込んだままに君へと迷い子のような眼差しを向けていただけだった。
僕の窺い見るその先、君の指先は徐にその肌に付着した僕の鼻血を拭い、そのままに柘榴の汁を浸透させた唇へと誘われた。ちゃぷりという微かな水音を聴いた思いだった。
「私、柘榴は嫌いです。青臭くって、いつまでもそれが舌先に纏わり付くようで……」
柘榴は嫌いです、と君の唇は幾度かを呟いた。
許して、許してと懺悔を吐きながら僕は君の脚に縋り付いた。涙か胃液か、僕自身も分からぬものが君の脚を汚していた。幾数も絡み合った感情のそれを何とするかなんて分かるはずもなかった。
君の両の手の平が僕の輪郭を掬い上げた。それだけで微かに、溺れていた水中から救われたかのような気持ちだった。
未だ僕のそれとは異なる髪が、ヴェールのように君以外のものを僕から隠した。僕には君しか見えていなかった。あたたかさを孕んだ湿度が僕の鼻先を掠め、儘に君の唇が僕の鼻先に触れた。今なお僕のうちから溢れる血を君の舌は拭い、ちゅぅと幼げな音さえ時折に立てながら、奪っていった。君自身の唾液と僕の体液がひとつになってその喉を滑り降り、胃液にぽちゃんと落ちていく想像をした。殆どその通りだった。
「だからどうか、美味しく喰べさせてくださいね。できうる限り」
僕の唇に吸い付いた君の唇が、微かな鉄の香りを孕ませながら囁いた。
君の愛ばかりが僕を恐ろしくさせ、また深い何処かで彷徨わせる。転げた柘榴は、爆ぜて潰れるにはまだ未熟だった。何れ咽せ返るような腐臭を纏い、落ちた先で爆ぜて潰れて、境界線を見失えたのならば。そんな切望を抱くように、僕らは夜明けを忘れた。