こっくりとした炎のような色合いの西日が、黄昏の時間を纏って図書館に差し込んでいた。イデア・シュラウドはその背の高い体を必死に縮こめ、本棚と本棚の狭間から領域外へ影を伸ばしてしまわぬよう注意しながら、一心不乱に眼差しを向けている。夜はまだ降りてきていないというのに、彼の眼差しの根元に在る月めいた金色は月光を放つかのようにぎらりぎらりとしてみたり、そうかと思えば雲に隠れたがるかのようにその目蓋に強く遮られていた。興味と、怯えと、そうして幾つかの感情をとっかえひっかえする眼差しは、その忍んだ眼差しは、黄昏色をたっぷりと引き込むその窓際に座る人物へと偏に注がれていた。
自身のそれとは違いしゃんとした背筋で流れを描く制服や、手元の本へと向けられた顔先に少し伏せられた目元、描写を追うリズムで訪れているかもしれない瞬きやその際に震える睫毛、ページを捲る指先を注視した時などは自身の耳の側でそうされたかのような些細な紙擦れの音を聞いた思いだった。静かに読書を嗜むその姿を、彼は自身の寮室から嫌になるほど遠い図書館に足繋ぐ通い、外面ばかりは静かにくる日もくる日も眼差しに収めていた。
緊張に乾く口腔で熱を持つ空気を殆どない唾と一緒に喉の奥へと押し込む彼は、黄昏を纏うその姿を好きでいた。或いは、姿ばかりでなく。つまり彼、イデア・シュラウドはその人に恋をしていた。
ファーストコンタクト。その日、イデア・シュラウドは人目を気にする素振りで図書館に向かっていた。魔法史の授業で出された課題の条件に、図書館から最低一冊は本を借り共に提出する必要があるという意味合いがくっついていたことは彼の心を鬱屈とさせた。図書館に存在する本のデータベースはオンライン上に存在するというのに、なぜデータ添付ではいけないというのか今時如何程にも遅れているのかと愚痴りながらも彼は、人気が少ない時間を選びに選び、確かに誰もそこへは向かっていないということを確認しながら図書館へと辿り着く。図書館、他植物園、嫌いではないのだ。むしろ、静かで他人を感じることが少ないその場所らを自身の部屋以外だと貴重だと思う。けれど、そのどちらも部屋からは遠く、その道のりに誰かと遭遇するという危険が付きまとう。それが彼には耐えられなかった。
そろりと、室内を外から覗き込む。眉を寄せ、深い隈を寄り添わせた目を細め、そこに誰もいないことを確認した彼はその空間に足を踏み入れる。借りる本については部屋を出る前に既にピックアップしていた。あとは手早く、迅速に、それらを本棚から抜き出し貸し出しのノートに情報を書き込むだけ。そう思う彼の視線の先ではノートとペンが宙にぷかぷかと浮いている。管理人などというものは存在しておらず、魔法道具であるノートに同じく魔法道具であるペンで本のタイトルと自身の名前を綴ればいいだけ。それは大変に都合が良い、人と顔を合わせることを必要としないのは。しかし、そうも魔法で便利にするならやはり電子データを添えるだけで一向に構わないのではないかと、彼は苛立ちを蒸し返しながらピックアップした本のタイトル、整理番号を探していく。
百八十をほんの少し超えた彼の身長でちょうど真ん前を向いたところ、猫背のそれも合わせてちょうど目線にあった段へと平行に視線を滑らせていく。目星をつけていた本の整理番号へはあと五十、二十、体をずらす、あと十、四、一、そう、隣の。「これだ」と、呟きかけた彼はその音を呑み込むこととなった。衣服と衣服の接触、或いは他者とぶつかったという衝撃。実際に彼自身へと加わった物理的衝撃などさほどでもない、例えるならば魔雀の涙ほどでも、といったところだ。けれど誰もいないと思い込んでいた彼にしてみれば誰かとぶつかった事実など、些細とは程遠いところに存在していた。それでつまり、目に見えて大振りな動作で身動いだ彼は、その他者を弾き飛ばすこととなった。
――その制服は、ナイトレイブンカレッジのものとは違う色調で、作りで、しかしどこか学生らしさを忘れないデザインをしていた。つまり、他者たる人物は他校の生徒であった。
彼は、自身が支えたその体が纏う制服を無感情に観察していた。それは数秒、まったくもってその行動をとった自身が彼にとって他人事のようであった。
ぶつかり、自身が弾き飛ばしたからといって、その体が重心を失うように後ろに倒れようとしていたからといって、咄嗟に相手の身を庇うような行動ができたのはイデア・シュラウドという人物にすればとてつもなく希少なことであった。彼に言わせれば、とある石を有する架空のメンバー選抜で切実に欲する喉から手が出るほどにも欲している登場人物を得られる確率より、遥かに低い確率だろう、と。兎も角、そのような稀に稀を何層も重ねたような彼のそれは思わぬ結果をその身に与えることとなったのだ。例えば、最初のひとつ。体を支える際に用いた自身の腕その先に存在する勿論自身の手、それが触れてしまった或いは今現在と触れているのが相手の胸部でいて、その制服の下に自身とはまた異なったさわり、膨らみを感じたということが。
他人事の時間は、終わりを告げた。
イデア・シュラウドの心象風景といえば、大海原もいいところであった。次々と襲いかかる波の猛烈なさまは、かのアルゴー船といえども無事に航海を終えられるかどうか……。そのような混乱、戸惑い、焦り、それらの渦中に彼はいた。心の外では果たしてまったく、慌てるさまが伺えなかったがそれはただ偏に彼が精密機器さながらにフリーズし、レスポンスのレの字もないといっただけであった。
落ち着いた呼吸、瞬き、吸われた酸素に自然と膨らむ肺が制服の下の胸部を僅かに押し上げてはイデア・シュラウドの手の平の肉に反発していた。そうして彼女の唇が、音を発する為に少しばかり隙間を開けたようであった。
「あの」
「っぁ、いやっ、これはっ、ちっ、ちがっ! つ、通報しないでっ……!」
「いえ、ありがとうございます支えてくださって。……すみません、本棚しか見ていなくて」
自身の胸元に両腕を掻き込むようにして飛び退いた彼はしどろもどろに言葉を発したが、それに対して相手といえばただ静かにそう言うばかりで、罵倒のひとつも飛んでこないとむしろそれこそが罠なのかもしれないと彼はより身を固くして構えたところであったが、待てど暮らせど罵声のひとつも浴びせられることはないようであった。ただ彼女は自身の両脚でしゃんと背筋を伸ばし、何もなかったとばかりに先に続いて本棚へと視線を戻すだけ。彼の窺うようなその視線の先で、指先に本の背を引っかけたところであった。
そうして、控えめに下げられる頭と、その場を去る背中。
彼は手の中の感覚を忘れ去るように握り込み、されど暫し待つ間もなく開き、そろりそろりとその指先を本棚の端へとかけて、顔先だけを出すようにして窺い見る。去った姿は再びと彼の視界の中に戻ってきていた。貸し出しノートに文字を綴るその横顔の、少し憂いているようにも思える彼女の睫毛の陰りにイデア・シュラウドはぽつねんと「綺麗だな」と心の中で呟いた。それは、静かな湖の水面に何処からかやってきた雫が一滴ぽつりと落ちたようなものであったが、そこから生じる波紋というものは幾重にも続き重なり、何処までも紡がれていくように、とある感情は育まれていくのであった。
彼女は決まった曜日の夕方の時間にやって来て、本棚と本棚の間をゆったりと散歩するように本を探しだし、黄昏の色をたっぷりと吸い込むかのように窓際で暫し活字に視線を落とし、そうして読みかけのそれを借りていくという流れを繰り返しているようであった。読む本の情報をデータ化蓄積し分析してみたものの、それらは手広く偏りなく、そこから彼女の嗜好データを得ようとするのはなかなか難しいことだとイデア・シュラウドは唸る。
ある時の彼女の眼差しは少年の短い冒険への出発の朝を見守り、ある時は数字と記号が指し示す過程と結果を読み解き、腐葉土や海洋生物の骨の地層に思いを馳せ、メレンゲとレモンの甘酸っぱさをレシピの文章から噛み締め、おどろおどろしい怪奇の語りを何食わぬ顔で聴き、彼の所有する電子書籍のジャンルも幅が増えていく。次はこれを読むのではないかという憶測は外れてばかりであったが、彼女の読んだであろう文章を世界を同じように辿っていくことは彼の心を喜ばせるようだった。サイクル、或いはイデア・シュラウドにとってのルーティンにもなったそれの半ば、図書館は同じ書籍も複数置いているからデータを購入する手間も省けるからと託けて紙媒体のそれらも読むように彼はなった。貸し出しノートのそれ、彼女の名のすぐ下に自身の名が綴られていることが臍のあたりがこそばゆくなる思いでまた、まったくもって満更でもない思いだった。正直なところを言えば、彼女の名と自身の名が並んだその部分を破り取って保管したかったのだが、そうと意図した指先がぷかぷかと浮かぶペンにはたき落とされたのはそうも過去ではない。貸し出しノートに防衛システムがあると知れたことだ。
夕陽に染まる彼女の姿というものは、黄昏色に抱かれているようであった。季節が移り変わり寒色の色合いがもう少し早く訪れるその時になれば、彼女は夜に抱かれるようになるのだろうかと、イデア・シュラウドは夢想した。自身の視界でもちろちろと燃え揺れる蒼の炎は、黄昏ではなく宵であった。自身の想像に頬を染め、そうして照れた彼は、なかなか寝付けぬ夜を更していく。
或いは徹夜明けとなった彼の朝や昼というのは、彼の横っ面を叩くようだ。特に、飛行術の授業というものは。補習というものは。
イデア・シュラウドの胸中は荒れていた。自身がなかなかに厳しい飛行術と自論を晒したとしても、放課後の補習など勘弁してほしいにもほどがある。特に、図書館に彼女が訪れる曜日は尚更だ。駆けないにしても早足で、焦っていたとしても人目は避けるように、彼は目的の場所へと向かい、そうして静かに空間へと身を滑らせた。
――感覚は、あの日のそれに似ていた。
弾き飛ばされないにしても重心を失わないにしても、ぶつかられたのは彼の方であったが。
「ひぇ」
彼の口から零れた音の理由は、殆ど自身の胸に縋り付かれているようなものだと思ったからだ、彼女に。どちらかと言えば自身がぶつかられた側であったが彼は彼女が自身に飛び込んだことで負傷していないか触れたことを気持ち悪がっていないかはたまた突き飛ばされ拒絶されないかとしどろもどろに言葉を発しようとして、そのどれもが文章には成らず単語として溢された。
「けっ、が! だいじょうぶっ、ですか……!」
歪なリズムを刻む心臓の音を無視し、一週間分の気力を使い終わる寸前のような声音でようやく発することができたそれは、我がことながら少々おかしかったと彼は思う。それでも彼は彼女が自身の言葉に頷き返してくれたのを確認し、心の中で喜びを露わにしているところだった。
「大丈夫です。あなたこそ、怪我はありませんか」
――イデアくん。
思わぬ人物から思わぬ名が出たと、イデア・シュラウドはその数秒その音の響きが自身の名前であるということを忘れた。
「……………えっ。あっ、なんでっ、知って……?!」
「知ってますよ」
知ってます。と、繰り返して静かに笑ってみせた彼女のその姿を、彼は網膜と鼓膜に焼き込み擦り込みたい思いであった。
図書館の殆ど入り口でイデア・シュラウドの胸の中に飛び込んだ彼女というとそれはもう黄昏の時を後にするということだったので、ナイトレイブンカレッジを後にするということだったので、もういっそ彼女を帰したくないなと思う彼の思考が作用することはなく、やはりただ何事もなかったかのようにその背は彼の視界から消えていくこととなる。
大凡の目的のなくなった図書館内へ、イデア・シュラウドはぼんやりと眼差しを漂わせる。夢見心地であった。宿主の意識も確かとしないままで徐に足は歩み、そこを闊歩する。
紡がれた自身の名と「知ってます」の響きを何度も聴覚に思い出しては楽しんだ。
と、何処をと捉え見ていたわけではなかった彼の視線は黄昏色を吸い込むようにしてぽつんと在る本に気付く。それは先日彼女が借りていった本。返却することも、引き続き借りていかれることも忘れられたように沈黙するその本を、彼はまじまじと見つめ始める。
イデア・シュラウドもまた、その本を既に読んでいた。彼が歩み寄り徐に手を伸ばしたのは、指の腹で撫ぜたのは本の天の部位よりはみでていた栞だ。「忘れてる」と、何処か平坦な音で零した唇と、栞が挟まれたそのページを見開く彼自身の手。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」
ちょうど栞の挟まった紙面、徐にイデア・シュラウドの視線を惹き寄せその唇にさえ呟かせた数字金額というのが、徹夜明けの彼の脳とまなこをハッとさせた。「算盤が語る恋」いわく、算盤という極めてアナログ式な会計道具といろはという言語、言語数とを合わせたトリック、それらを用いたお話であるのだが、昨夜既にこれを読み終えていたイデア・シュラウドといえばその数字がまさに青天の霹靂であるかのように思えた次第だ。
数字という括りで言えば、此処ナイレイブンカレッジの図書館の本にも整理番号として書の背中にそれらが刻まれている。彼女が冒頭を読み借りていく本のそれらの数字が、尾っぽの方からイデアの脳内には流れていき、ぴたりと止まる。或いは、ぴたりと当てはまる。その瞬間、蒼の炎は黄昏の色さえ呑み込むかのように一瞬に燃え上がり、そうして彼は本を落としたその手で自身の顔を覆うことになる。呻き。
いとしきみ。いとしきみ。と、音に成らずにイデア・シュラウドの唇で紡がれるそれは、先ほどに聴いた彼女の自身の名を呼ぶ音と「知ってます」という柔らかさを孕んだそれで再生された。
十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二、意図する言葉はいとしきみ。
彼はこれまでの、もしかしたらこれからの人生でも一度有るか無いかの勇気を奮い立たせた。つまり、この場を去った彼女を追いかけたということだ。
ほんの数分先、イデア・シュラウドは彼女に、黄昏の君に告白する。或いは、彼にとっては、応じの返事をする。
落ち着いて、極めて落ち着いて考えればもしかしたらイデア・シュラウドとて気付いたかもしれない。作中、算盤が語る恋は最後の最後でヘチを向いてしまったということ、百八十と少しも背のある彼がいくら身を縮めようと存在感は皆無にできないということ、あまりに熱烈な眼差しを相手が察せられないことなど稀に稀を重ねてもなかなかに難しいということ、それらと自身の名の下に幾度も追い縋る青年の名にまったくもって知らないだなんて口にしたら嘘になること。つまり、つまり、何の悪戯か彼女の忘れ物も栞の位置も、まったくもって神様だなんて存在の気紛れに他ならなかった。
ほんの数十秒後にイデア・シュラウドは告白をする。
勘違いによる先走り。けれども、数秒後に喜びのあまり彼女を抱きしめ、彼女からも抱きしめ返されているものだから、何の悪戯も神様だなんて存在の気まぐれも馬鹿にできないものだった。
――そうして、イデア・シュラウドは彼女に告白した。