イグニハイド寮の廊下はとても寒い。まだ冬に別れを告げ切っていないこの季節はどの寮の廊下にも大体暖かみなど在りはしないが、幾つかの寮の中でもイグニハイド寮の廊下は一段と冷気に包まれているような思いを抱くものである。
 片腕に書類を抱きながらもう片手は天を仰ぐように眼差しに翳してみれば、此の血色の悪いにもほどがある指先の向こうには何とも心許ない灯りがぱちりぱちりとなさっている。大食堂のシャンデリアなどの核となる半永久品の魔法石とは違い消耗品のそれが切れかけてしまうのは仕方の無いものの、そうして来たる入学式の準備に追われて忙しくなる時期ゆえに代えがやってこないのもしょうがないものの、しゃんと灯しなさいよと思わずにはいられないというのが私でございまして。とは言っても実際にはどれも口には出していませんがつまり、どうこうとは思っていても私もまた、ただこの薄ら寒い廊下をただ過ぎ去るだけなんですけども。
「お仕事ご苦労さまでございますぅ……あ痛っ!」
 幾分演技めいて、不規則に消える灯りに声かけて手振りでさようならをすれば壁に指先を打つける始末。コツンっと鳴った、だいぶ冷え固まっているようだった。

 いらっしゃいますか……いらっしゃいますか……。地よりも低いところから這い上がってくるような、例えば生者の足下を掬わんとする亡者のような、そんな囁きめいた声色と共にその扉に拳の骨を皮膚越しに打つけることを繰り返す。のも、最初の二度で飽きてしまいましたので、私は自身では己のそれをどう言い表したものかと思う平時の声色で「寮長、寮長」と呼びかけました。もうノックはなしです。冷えた身体に音がコンコンと響いてしまって、どうにも調子が悪うございましたので。
「待って、少し、セーブするから……」
「えぇえぇ待ちましょう待ちましょう、可愛い可愛い後輩の身体が一層に冷え固まるまで如何様にも」
「せっ、急かしてくるな……!?」
 きっと慌てて操作されたコントローラーのがちゃがちゃとした音と、立ち上がったそれで膝の上から落下した攻略本のばさばさとした音と、何らかに躓き勢いの儘に扉に強かに額を打ち付けたようなごつんとした音がしたことです。痛みを噛み締める声音などが聞こえてきやしないだろうかとそっと或いはじっくりと耳を扉にくっつけてやろうかと思いましたけど、僅かばかりの同情の心を以って私はただ立ち尽くし待つことをしました。
 そうして静かな音を立てて開いた扉の先に、寮長は立っておりました。仄かに赤くなった額に手の腹を添わせるようにしてその下ではもしや泣きそうになっていらっしゃるのではと問いかけそうになる瞳を携えながら。彼はいずれを構えながら私を眼差し下ろしてくるのです、背の関係で。
 嗚呼それは、蒼く燃える炎で。嗚呼その先でお月様のような金色のそれが涙という雲間に隠れそうになっているのです。
「あっ、躓いたであろう何らかはチョコバーですね。まだ食されていないそれですね」
 逃すように己の視線と顔先を寮長が躓いた原因物質の方へと向けながら私はと言いますと、彼に書類を押し付けるようにしていました。というか廊下冷えます。
「ぁっ、廊下さむ……」
「そうでしょうそうでしょう。さ、立ち話もなんですから。別にい座り込もうだなんて思ってないですが」
 その後退でチョコバーにトドメを刺さないでくださいね、未開封を開封或いはつまり破裂させないでくださいね、二度目の踏み付けで。とそんなことを言いながら寮長を後ろに下がらせ、その過程で私はちょこんと座り目を瞑っているオルトくんを見やりました。
「ぁあやっぱり、オルトくんは調整中だったんですね」
「そうだけど……」
「寮長への配達の任が回ってくるわけですよ」
「配達……“寮長集会のお知らせ”……ぅっ、頭痛が痛い」
「頭痛が痛い」
 嫌なものでも摘むようにして、いえ実際それは彼にとって心底嫌なものなのでしょうけれど兎にも角にも二重表現の的となった寮長集会のお知らせの紙、それは攻略本とゲーム雑誌のお山の中腹に預けられるようでした。それは忘れるフラグなのではと思わずにはいられなかったのですが、私としましては今回のお役目は配達、それだけでございましたので「もう、いいや」と我関せずといった次第でございました。どちらかと申さなくとも、私の意識が向く矛先というものはその山脈の向こうにちらちらと姿を見せているのですから。
「っていうかさ……その呼び方なに」
「その」
「……寮長って」
「寮長は、寮長ですよ。イグニハイド寮の、長です」
「敢えて複数回言ってくるこの感じ煽ってきていらっしゃる?」
「そんなつもりはないですけども。たとえ入学式の為の寮長集会にちっとも赴いていらっしゃらないようでも、迫りくる来たる日には紛れもなくイグニハイド寮の長に就きますじゃあないですか。ねえ寮長。強いぞ偉いぞ進め頼れる? 我らが寮長、ストレスマッハ」
「別に好きでなったわけじゃないし……こちとら疾うに胃に穴が空きそうだが? そもそも拙者の反応で遊んでいる可能性が見て取れるんだが?」
「少しだけですよ、少し」
 さぁさぁお役目御免というわけで。
「ねえ今如何様なお気持ち? と尋ねたくないわけではないですけど、それは置いておきまして、イデアさんが次期寮長で私は悪い気はしません」
「君のそれは顔も知らないというか覚えられない誰かじゃないだけいいってやつだろ……」
「そうです」
「いや即答」
「冗談は兎も角、お友達……お友達……? が評価されるのは嬉しいじゃあないですか」
「疑問形」
「議題は友達の定義ですか、おともだちってなあに」
「えぇー……、いやでも友達の定義……定義……友達の……?」
 眠っている時でもオルトくんの髪或いはその炎は燃え続けているのだなあだなんて考える私を横目に、イデアさんは私の投げた疑問の思案に耽始めるようであった。いやオルトくんは眠っているわけではないのですけれど。
 静かな空間には、ぱちぱちと炎が燃ゆる音がよく響く。ぱちりと私の聴覚の薄い膜を爪先に引っ掛けては弾くようにこそばゆく、視界横目に窺い見た燃ゆる蒼い炎のちろちろとした先っちょなどは肌の表面を舌先で薄く舐られるように焦れる。嗚呼、まったく。
「なにゆえ現実の感情や関係性はパラメーターとして視覚化できないものか」
「それな! と、言ったところです」
「……よ、よくよく思い返せば君は僕とあまり視線を合わせようとしないし……距離もほどほどみで取られていて……あれこれもしや拙者顔も覚えられていない生徒A以下なのでは……!」
「あらまあ」
「ぅっ、そうと思えばコミュ障の発作が襲ってきた……!」
「あらまあお大事に。そも、対面でのお話が嫌いというのがイデアさんのプロフィールの項目にありそうなものですけどね」
「ぐっ……、確かに、対面でのお話は基本嫌なんですけど……それは全般的にと申しますか特定の人物には当てはまらないこともないようなそうでもないような?!……ハッ! もしや、『髪燃えてない? なにそれこわ近寄らんとこ』のパターンなのでは?! 相手は蝋ですし?! 『あっぶな溶ける溶ける近寄らんとこ』って、あ〜状態異常やけどは物理型では致命的ですし? あっこれそうだわこれだわ状況判明」
「いえ確かに蝋燭ですけど広い意味合いでは私。それにしても自然な流れで物理型判定しましたね仮にも魔法士学生なんですから特殊型判定してくださいよ、そもそもポから始まりンで終わる生物じゃあないですけど。そうしてしかしながら、炎で溶けるなら魔法薬学の授業で大釜の前に立っている時点でそれは自殺志願者では?」
 イッツアワンダーランド! でございます。魚が空を飛び鳥が地面へ潜るかもしれない時代なもので。遠い遠い昔は物言わぬ蝋燭も今や人の形して子孫繁栄に成功しているということです。詳しく知らんけど、自身のお家のことですけれども。
「いやそもそも拙者の髪は火災を起こすタイプのそれではないからそれが蝋を溶かさないことの証明では!?」
「お耳遠い遠いしてますね」
 証明だと申しながらも自身の両の手を胸元に掻き寄せ壁際に後退する様といったら。随分と背の高いことでいらっしゃいますのに、小動物を連想して仕方ないと私は申しましょうか。もういっそのこと少しばかり私に頂戴できませんでしょうかその背。
「冗談は兎も角、イデアさんも例の新作ゲームを手に入れていらっしゃるのでしょう? でしたらその森を蹂躙……しばかせてくださいませ! が、今回の後輩の用件です」
「開幕荒らす宣言! ローカル通信ですな良しきた!」
「さてローカルで届くでしょうかね」
「敢えてとてつもなく離れていく……! そういうところですぞ?!」

 どうにも、言及を避けたことでございました。
 確かに、確かに真っ正面からじろじろと視線をやるだなんてことしちゃあいませんが、けれども自身はずいぶんと彼に眼差しをやっている、所謂盗み見というやつをしているのです。彼は、ちっとも気付く素振りがありはしませんけど。溶ける云々恐ろしい云々というのは確かに、あながちまったくもって的外れというわけでもないんですよ。
 古い昔の蝋燭だったころの名残と申しましょうか、心持ちは時折その頃に還るようで。夏は好ましくない、溶けてしまいそうだから。熱は好ましくない、溶けてしまいそうだから。炎だなんて好ましくないの極みだ、溶けてしまいそうだ。それでも、それでも、蒼く燃える炎やちろりちろりと舐ってくる熱への焦がれを打ち消すことはできないというのがまた、蝋燭らしさでしょうね。ゆえに、イデアさんのその蒼の炎へ悶々とした感情を抱くしかないのです。嗚呼、心底。
 その熱で私を溶かしてください! だなんて。
 友人がどうとか此の口で紡げたものじゃありません、これはただの慾情です。その私という個を奪うことのない、略奪の熱を抱かない炎へと向ける幻想です。或いは下卑た妄執です。それはなんて不躾なのだろうか、まったく。下世話な感情を抱いて、なんて、なんて、相手に対して失礼なのだろうか。嗚呼、まったく。

 暫しをゲームに興じてイデアさんの部屋を後にした私は火照った頬をイグニハイド寮の廊下に渦巻く冷気で冷やしながら独り言なんて零すのです。
「炎にフェチズムを抱くそんな血筋なのかしらん……だなんて言ってちゃ世話ないです」
 蝋燭だもんなあ。
 嗚呼それに、私、あの金色の瞳もまた恐ろしさを感じるのです。蒼く燃える炎の奥のその瞳がちろりちろりと時折炎より溶かしてきそうで。熱を秘めていそうで。いずれあの瞳は私の知らない誰かを射抜くのでしょうか。見下げて、見上げて。あの美しい蒼の炎もまた視界に垂れ下がってくるのだろうか。この世にあれ以上に素晴らしいヴェールなど存在しないのでは。そのような素晴らしきものを何処ぞの誰かは。嗚呼それは、それはなんだかいっそ。
「嫉妬の炎に焼かれそう、だなんて」
 はあ、まったく、罪深く素敵な炎をお持ちなことで!