とある名家に二人の男児がいましたとさ。
嫡男である男児は愛想が悪く自室に篭りがち、それでも幼いながらに家長を継ぐに十二分な才を宿していました。次男である男児は愛着ある笑みと共に活動的、けれども少しばかり病に伏せることの多い肉体を有していました。
どちらがより優れているかなど親が口にすることはありませんでした、口にすることは。けれども、か弱い生命を愛護する本能をその二本足の個体が抱いているとしたら、どちらを目にかけて可愛がるかなんて分かりきっているようなものでした。目は口ほどに物を言うとは、まさに。眼球は、どれも、似ているっていうのに。
両親の愛を偏に欲しかったわけではない、同じように、同等に愛してほしかったわけでもない。
けれども、悪いものを食べた後の、皮膚の下で胃という内臓が消化液を飛び散らしながらひどく収縮し、粘膜の壁の中で形を失っていくものたちを、ぐるぐると掻き混ぜているようなそのような気持ち悪さが、たまにあるだけ。妄執のようなものが、血潮をどろどろとさせいるような。
それをエゴだと知ったのは幼な子が物心を抱いた折、そうして諦めを抱いた時。その薄影とも、数年越しの付き合いとなって、そうして月日は当たり前のように散り重なった。
「兄さん、入ってもいい?」
「……いいよ、入っておいで」
ノックを忘れたままに、少しだけ開かれた扉から弟はその顔先を少しばかり覗かせるようにして此方を見ていた。教養も何もないといったそれは今は自身とてそうだった、上等な毛触りのラグの上に無造作に散らばる本のひとつから眼差しを上げた僕であるのだから。
返事のそれに嬉しそうに部屋に入ってくる弟のその快活な眼差しや瞳は、星が宿っているようでもあった。無垢であると同時に無力ではなく、弟はかしこい子であった。兄が弟に抱く薄暗いものに気付きながらも、それを受け入れているのである。そればかりでなく、それは兄を慕う弟というカテゴリーを装うものではなく、確かに存在している感情であるらしかった。
――それを本当に信じることができたのはこの瞬間ではなくもう少しばかり後のことで、その事実を永遠に得られることがなくなったとしても、時を戻すことができたのなら、皮膚を掻きむしりあまつさえこの心臓さえ取り出してもよかった。けれども人はまだ、時間を戻す術を知らない。
「兄さん、今日は何を読んでるの?」
同じように床に座り込み、僕の手元の本を覗き込む弟の横顔を窺う。活字を視線で追い立て眉を寄せるがきっと、学ぶ時間さえ取れば弟とてこれらを容易く呑み込むだろう。ただただ、弟は兄より生まれるのが遅かった為に家長を継ぐ存在ではない、それだけだった。家長を継ぐに必要な才は弟にも、十二分に。或いは、もしかしたら、兄以上に……。
「齢六百六十六年以上の石榴の大樹の蜜、嘆きの乙女の涙石、黒死ネズミの尻尾、付箋だ」
呟き隙間を拵えた唇をそのままに、弟の眼差しは本に並んだ魔法薬のレシピから窓際の卓上へと移ったようだった。つい先ほど名称を口にしたそれらと、爛々と輝く液体が勝手に波打つフラスコ、それらへと。
「作ったの? これを? すごいっ! こんな難しい魔法薬を作るだなんて……兄さんはやっぱりすごいんだ!」
「まだ、だよ。材料が足りないし……、それにこんなの作れたってすごくなんてない。こんなの、材料さえ揃えば作れて当たり前」
純粋に兄を讃える眼差しは不眠気味の眼球には酷く眩いようで、僕は弟のそれとは違い眉根を寄せるようにして口辺を歪ませる。
「兄さんは自身を過小評価しすぎだよ」
「正当だよ」
今度は弟の眉根も寄ったが、自身のそれとは似ていないものだろうなと、どこか思考をぼんやりとさせながら思う。
「もうっ、頑固なんだから」
むっとしてそういう弟の口振りはなにもこれが初めてでなくてそれこそ、お前はなんて頑固なんだと言ってやりたくもなった。少しだけ浮ついた気持ちを知らぬ存ぜぬと押し寄せて。
その言葉たちを今日も今日とて受け入れることがない兄から弟の視線は一度本に落ち、しばらくを活字の間に漂い、そうして徐に僕の方へと向いた。そのまなこの中に自身の姿が泳いでいることにぎくりとした、隠したいものすらまるで全てが見透かされているように思えたのだ。
「ねえ兄さん、残りの材料って裏の森で取れるんじゃない? 行こうよ!」
「えっ、それって、今日……?」
「うんっ、それに僕、兄さんと二人で出かけたい!」
「なんで、そんな……」
「こんなすごいものが僕の兄さんは作れるんだって、みんなに自慢したいんだ!」
それに、兄さんと二人で、昔みたいにもっと、遊びたい。と、小さく続いたそれを退ける術を僕は知らなかった。僕の服の裾をその小さな指先で縋り寄せる弟を退ける術を。
「…………分かった、行こう。オルト、二人っきりで出かけよう」
弟のまなこに映る自身の笑みは、仄かに引き攣っていた。
そうして僕らは森へ至る。
執事やメイドたちの目をくぐり抜けて至った森は、少しばかりもやに覆われていて湿度を感じ、そうして薄暗かった。それでも、家の書斎でひとり本の山を作っているその間に吸っているどんよりとした空気より、遥かに晴々としたものに感じた。
感情はちぐはぐだった。
兄を慕う弟、個を個として慕う、ただただ慕ってくるそれに絆されていると言い表しても間違いではないだろう。片手を当てた胃のあたり、その下に身を潜めるそれを互いに知りながらも、僕の手を引き、嬉しさを隠そうともせずにどんどん歩んでいく弟の姿を見るのは悪い気がしなかった。
けれど、時折に鼻先を擽る苔や腐った倒木の臭いは、悪いことをしているという感覚を忘れさせやしなかった。子供だけで裏の森へ入るのは禁じられていたからだ。そうして、それを言い出した弟に、少しばかり仄暗い感情が心臓のあたりに纏わり付くようだった。
やはり、感情はちぐはぐだった。
弟が言い付けを破る言葉を吐き出したというのは、弟とて僕と同じに成り得るのだろうという慢心にも似た思考を孕ませるようであった。またそれに伴い、父や母が弟を叱りつけるシーンを想像したりもした。
足下に這い寄るのは茨を携えた植物の蔓ではなく、自身への嫌悪だ。
やはり、弟は光のようなものだった。光があるから影は生まれ、強い光であるために影はより濃く深いものとなっていく。自身の浅ましさを知らしめるかのようで嫌だった。それと同時に、光は、酷く魅力的に思える存在であった。信仰される者と信仰する者、そのような。一種の宗教のようでもあった。
自身の中に巣食うものを言語化するなど、無理な話だ。吐いた溜息は森の空気より湿度を纏い、分離し、お前に一生付き纏ってやるというように僕の周りにぶよぶよと漂っているような感じがした。
「ねえ兄さん、これはそう?」
「あってる、出来る限り花弁に近い位置で折るんだ。茎の断面にガラス管の口を当てて、……そう、四滴まで。それ以上は純度が下がるから要らない」
僕の口からの説明を聞きながら肯く弟の手はスムーズに魔法薬の材料を採取している。それにやっぱり……、という言葉を呟く胸中が煩わしい。何処かに潜んで鳴き声をあげている鳥たちより、喧しいものだった。
眼差しを何処にやるでもなく彷徨わせていると、視線を注がれている感覚がした。もちろん、それは弟からであった。
雲が僅かな間に太陽を隠したのか陽光の届かぬ暗さを増した森の中、弟のまなこの中の星がなくなったようにも思えたのは、どういう意図での錯覚かは分からない。
手を繋ぎ直した僕らはより、森の奥深くへと足を踏み入れて行く。
「うーん……結晶化した輝り苔、意外と見つからないね」
「結晶化するのに必要な気温をクリアしてないんだろ、時期がちょっとズレてるし……冷える夜明けも増えてきたけど」
少しだけ肩を落としたような弟の背中に言葉を付け加えた、それは事実でもあることだし。また空を見仰ぐと鬱蒼とした木々のそれで陽光が殆ど遮られていて、少しばかり肌寒さを感じるようでもしかしたら本当に在るかもしれないと思えた。弟への言葉が出任せにならないかもしれないと、僅かに胸を撫で下ろした。
「……少し冷えるけど、オルト、調子は」
「大丈夫だよっ、最近は調子が良いもの!」
にこりと笑みながら振り返った弟に、そう、と返した。その僕の言葉を僅かばかり追うようであった、弟がぽつりぽつりと話し始めたそれは。
「……兄さん、僕が二週間ぐらい流行り病で熱に浮かされていたこと、覚えてる?」
「突然だね、覚えてるけど……」
それはもう数年も前のことだったから、弟が何故突然そんなことを話し始めたのか、不可解であった。弟は歩みを止めるでもなく顔先も前に戻していたから、僕の戸惑いの表情も伝わっていなければ弟自身がどんな顔で話し始めたのかもよく分からなかった。
「感染るものだったから、ずっとひとりで……メイドさんたちは看病してくれたけど、それはありがたいことだったけれど……」
世間がどうだか知らないが、隔離され、使用人たちに看病されるのは何もおかしなことではなかった。例えば父も母も、そうして嫡男である僕も、病に臥せるわけにはいかない。当たり前のことであった。
「目を開けてても確かに見えてなかったし、誰が何を言ってるかも明瞭じゃなかったけれど、それでも全然何も分からないわけじゃなかったんだよ」
少しだけ、繋いだ手に力が込もったような気がした。それでも弟は振り向かない。
「僕は、次男だから」
その言葉の後、息を呑み込んだ音を響かせたのがどちらだったのか、定かではなかった。
か弱い生命を愛護する本能をその二本足の個体が抱いていたとしても、その畜生どもが妬みや残虐性を持たないということにならないと、自身とてよく知っていた。
そうしてそれは僕が嫡男としての苦悩を抱いていると同時に、弟が次男としての苦悩を抱いていることに、今更ながら気付いたようなものだった。それは僕の頬をはたき飛ばしたかのような衝撃にも思えた。
衝撃の後にぷかりと浮かび上がってきたものは共感だろうか、それとも新たなる同位体を探しだした発見への喜びにも似た、或いは、或いは。そうしてそれはそれとも、浮かび上がってきたわけではなく、弟が僕と同じところにおちてきたような……。
まず間違いなく僕は混乱していた。その中でも、役割にばかり目を向けていたのはシュラウド家の領地に在る全てだったのだろうと、乱れる思考の中でも浮かび上げていた。
野鳥の金切り声に肩を跳ね上げたのは僕だ、そうしてそれがひとつの些細な区切りであるように、先ほどとは異なった声色で弟は話を続けた。
「兄さん、きっと覚えてないねっ!」
「えっ、なに……」
「近付いちゃダメって言われてたはずなのに、それも窓の外からやってくるだなんて、びっくりしちゃったなあ。熱に浮かされてたから夢だとも思ったんだけど、兄さんのひんやりした手が僕の額に触れた時、あっ夢じゃない! って気付いて僕、嬉しくてたまらなかったんだ」
平時より少しばかり早口で言う弟のそれは先ほどとは違う衝撃を僕に与えてきた。
確かに、自身はそのようなこと忘れていた、し、弟はその時深くに眠っていたと思っていたから、弟の口から事実を語られることはその感情を語られたことは、酷く居心地が悪い思いになるものだった。これはつまり羞恥だった。
「『オルト、はやくよくなって』それだけを言う為にわざわざ……あれは、カーテンを繋ぎ合わせたもの? 僕の部屋、何階だと思ってるの、危ないじゃない」
叱責にも思える言葉であるのに、くすくすとした笑み声を抱いているものだから、もう、僕は歩き方も忘れたようにその場に立ち止まりたかった。それでも僕の手を引き弟は歩み続けるものだから、躓かないようにするだけで精一杯だ。
「僕はね、兄さんが大好きだよ」
そこで漸く振り返った弟は確かに笑っていた。その言葉も表情も、僕自身が弟に抱いている薄ら暗いもの全てを何処までも受け入れていくといったものだと悟らせてくるものだった。
「あっ、あっ、オルト……! そのっ、少し、別れて探そう……! そ、その方が効率がいい!」
「うん、分かった」
弟のように素直に受け入れることができない兄のことを、知り分かっている微笑み方を弟はしていた。
繋がっていた手はするりと離れて、ひんやりとした空気が皮膚を撫でたようだった。
「……でも、あまり遠くに行っちゃ駄目だよ」
「分かったよ、兄さん」
うんうんと頷くそれは、悪戯っぽい笑みをいっしょにしていた。深い森の肌寒さは今や、頬に心地よいものだった。
――もしこの時、弟の手を離さなければ良かったのだろうか。いいや分岐はもっと前に、或いは先に……分からない。幾重にも別つその全てが同じところに辿り着くかもしれないという思いに沈められているのは、救済を求めるエゴの酷い言い訳だろうか。
脳内を整理するように徐に歩きだしたそれ、靴の裏でふわふわとした苔を踏み、時折にぱきりと小枝を踏み折る。思考は捗りそうもなかった。
少し疲れた。
疲れはそれでも、僅かに胸を撫で下ろせばまた歩みだせるものであった。重量のあるもやが脚に纏わり付き、まだこの長い先歩き続けなければいけない憂鬱を感じさせるもの、じゃない。そうだこれはいっそ、安堵だった。
これからはもっと素直に、弟に向かい合うことができるだろうか。
不思議に歪る口辺を照れ臭いときゅっと引き結んで、歩みをゆるめ、近くの樹木に背中を預けた。体力的に疲れたというのも、間違いではなかった。
僅かな間、瞼を閉じていたつもりだ。森の中では振り子時計の音なんて響かないから、もしかしたら自身が思っているよりも長い時間そうしていたのかもしれないけれど。
不自然な静寂というのは時に、喧騒より鼓膜に脳に響くものだ。
開けた視界、森の音が消えたような感覚に不意に気付いた僕は、確かに虫も鳥も生命を有するそれらの鳴き声がひとつもしないということが確かなことであると知った。
困惑していた、けれどもその感情はぬっと現れた次のものに即座に場所を奪われたようなものだった。
樹木に預けた背が硬直する、視界の後ろから突然割り込んできたのはぬらぬらとした鱗と巨躯をくねらせる、大蛇にも似た怪物で、頭部だけですら僕自身より大きいというのにその首はひとつではなく、ばらばらに九つ、視界に紛れ込んだ。
その怪物の眼はどれもまだ僕を捉えてはいなかったが、既にその眼球の全てに射られているような、全身にナイフを突き立てられているような錯覚。
地面に近しいところからゆらりと揺れた首が、眼だけしか動かせない僕の視界をそればかりにした。その瞳孔が僕を捉える瞬間が訪れるシーンが脳内で幾度も繰り返された。
最悪の想像は、喉を一度に干上がらせたようだった。ヒュッ、という乾いた音が喉の奥から反射で飛び出し、その失態をただひたすらに胸中で罵倒した。
怪物が鎌首をもたげるのを、硬直状態で見守るしかなかった。その眼球がこちらを向くことを悟りながらも、数ミリとて動けないでいた。
何も動かせない中、それでも眼球だけは僕も動かせていたのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。分からない。それでも、僕は、怪物の肩越しの向こうの景色に、弟の姿を見た。まだその瞳孔がこちらを捉える前の数秒にも至らない時間の中、思考は脳裏を巡っていった。四肢は硬直し、なんにひとつの行動も取れなかったのに。
「っオルト逃げて!」
――果たして、僕が取った行動の、最も深い底に存在していたものが何であったかは、今でも明瞭ではない。
弟を助けたかった兄がいた、きっと怪物の餌食になろうとしている兄を弟は身を挺して庇うとするだろう。同じように、声を発して怪物の注目を集めて。
弟に縋りたかった兄がいた、絶対的な光として己の中にあった存在なら、救いを与えてくれるだろうと。同じように、互いが犠牲になろうと独りではなかった。
弟を牲にしようとした兄がいた、最善を得ようとするならば弟に声を投げるではなく、怪物の獲物に成るべきであった。同じように、強者に貪られる狩られる者たちのように悲鳴を上げながら駆け出すべきであった。
弟に赦しを乞いたかった兄がいた、怪物の横っ面をぶったのは弟の投げた石であった。同じように、逃げることを促す弟の声音。
――その後のことは、記憶が断片だ。
囮と、自己犠牲の化身と成った弟の背中。
逃げ出したのか駆け寄ったのか定かではない自身の脚。
弟の細い足に突き立てられた怪物の牙、与えられた玩具を振り回す幼児のような光景。
鬱蒼と茂る森のどの大樹よりも空に近く放り投げられ、地面へと叩きつけられたその、歪な。
ノイズが奔っている、精神を守ろうとするそれだ。弟を守れなかったのに、滑稽だ。
僕が助かったのは、怪物が腹を空かせてはいなかった為と、その光景のすぐあとに駆けつけた大人たちの為。
罵声と悲鳴と、声にも成らぬ空気の塊と、怪物を退けた後の空間に茫然とただ立ち尽くしていた僕は、そのあまりにも騒々しいはずの中の音を捉えていなかった。弟であったはずの歪な形の何かが白い布で覆われていくのだけをただ網膜にいっぱいにしていた。
シュラウド家の馬車は、その白い布の塊と何かを喚き続ける両親と、僕とを乗せて酷く揺れながら帰って行ったようだった。
出迎える者たちの慌ただしい声も、高い天井に響く両親の靴の足音も、よく聞こえない。地下室への階段を降りていく、僕はその背をただそうすることしかできないでいるように着いて行く。深い冥府の底へと降りていくような思いだった。
どこか厳かな気配を漂わせる台へと置かれた白い布の塊。無感情ですらあった、それでも僕はそれに寄り、眼差しを落とした。
「 」
その白い塊が音を、いいや、弟が言葉、のようなものを発したその瞬間の感情を言い表すことはできないだろう。弟は生きていた、弟は、生きていた。
――けれども果たして、生きているとは、生の定義とは一体何だというのだろうか。
その時の弟は生きながら、死んでいく存在であった。
怪物の毒はすでに歪な形と成った弟の四肢をより苛むようにじわじわと蝕んでいくものだった。
張り詰められた生命というか細い糸は今にも切れそうなものだ、そのようなものでも弟は縋りつくしかなかった。死へと向かう呼吸を繰り返すたびに揺られ、次の呼吸の瞬間にはシャキンと切られて冥府の底へと叩きつけられるかもしれない、そんな、残酷な。
深い冥府の底へと降りていく思いは、紛うことなく存在していた事実だった。
シュラウド家の全てを注ぎ、それでもそれは弟が死んでいく時間の歩みを遅らせているだけでしかなかった。決して、死へと向かう駆け足は止まることをしない。
死を生業としているシュラウド家であるからこそ、弟が若くして死んでいく存在である事実を否定し続けることができなくなったようだった。父も母も、使用人も、悲哀の言葉を言いにくる烏合の衆も、延命を諦めるかのような口ぶりになってきたのだ。
僕は、僕だけは、弟の死など受け入れられるはずもなかった。
生きながら死んでいく弟の時間、その間に僕とて何もしていなかったわけではない。弟を救う術を探し続けていた。そうして、僕は。
最初の日、朝方の肺に嫌に冷ややかな空気はあの時の森を思わせた。地下室の無感動なにおい、それもまた森の奥へと向かう苔や腐った倒木の臭いを彷彿とさせる。本当はそのような臭いはまったくないのに。顔を顰めたのは、あの時の罪悪感のようなものが、今は此処に横たう弟に忍び寄っているのではないか、弟がそんなものに身を浸しているのではないかと想像したからだ。
弟を包む白い布を僅かに解き、眼差しを落とす。僕のそれは震えている。
「オルト」
「 」
その以前とは違い乾いて少し荒れた唇が零したのがただの呼吸であるのか、呼びかけへの応じであるかも定かではない。
「オルト、お前を死なせはしないよ、僕は」
弟の口元へと耳を寄せると、微かな吐息が僕の耳の輪郭をくすぐった。空気の音は「兄さん」と呼ぶそれに似ていた。いつかの日に耳や唇を寄せ合って内緒の話をしていた時のようだった。
脚を取り替えた、以前のように時折無邪気に素足で駆け回ることができやしなくたって、足の裏に青草の汁が滲まなくたって、誰よりも早く奔ることができるよ。墜落する天使のように底にぶつかることもないんだ。
下腹を取り替えた、以前のようにお菓子を夕食前にこっそり一緒に食べることができやしなくたって、他人から与えられる妬みや罪悪にそこを痛めることもなくなるよ。もやのような感情をお前が抱く必要もないんだ。
肋を取り替えた、以前のように不意打ちに抱きついてきたそれで薄い皮膚越しに骨をぶつけ、互い痛みにおかしいと笑いあうことができやしなくたって、患った病に咳き込みその骨を軋ませることもないんだ。健やかに生きて欲しい。
両腕を取り替えた、以前のように近い体温感触で手を繋ぐことができやしなくたって、お前はもっと尊いものを手にすることができるはずなんだ。僕なんかの手を引く必要なんてないんだ。
「オルト、僕はお前を死なせやしない」
最初の日を皮切りに、呼びかけては、弟の身体を取り替えていく行為を年月をかけて行った。急ぎ、それでも少しずつ、確かに、弟を助ける為に。
歪な塊。ぐじゅっとした何か。取り替えたものも、用意していた容器に丁寧に納めていった。
今までの弟のそれらとは違うけれど、歪な形に曲がった腕も、憎悪の色に濡れたように爛れた脚も、今の弟にはもう存在しなかった。少しずつ、少しずつ、弟を苦しみから開放していくそれこそが僕の贖罪でもあったのだろう。それこそエゴの塊であると、苛むものを知りながらも、僕にはそうすることしかできなかった。
声帯を、口部を取り替えた後、弟は何かを言いたげだったと思う。それでも、取り替えたばかりで上手く喋れなかった為にその時弟が僕に何を言いたかったのは分からない。――その訴えがなんだったかは、もう、永遠に分からない。
死体の白く濁った眼球の色合いとも異なる弟の眼球に纏わり付いているものは水溜りに浮いた油膜にも似ていた。お前の眼が綺麗なものだけしか映せなくなればいいのにと思った。けれどもそれは世界そのものを隠してしまうことになるのだろうかとも思った。そうして確かにそうすることでまず一番に映らなくなるのは僕自身だろうと少しだけ嗤った。
少しずつ、少しずつ弟を苦しみから解放する。されどその合間でさえ、弟は生きながらに死んでいく。死に、追い付かれるわけにはいかなかった。
そして、最後に残すは心臓となった。
はじまりの日から、色々なものが変化していた。年月もお前も僕も僕の……、色々なものが。
動力は魔法石を用いる、それは上等なものでないといけない。入学した学園から寄越されたそれは、生徒に配布するものとしては過ぎたる価値があるものだった。何不自由なく生きてさえいれば、弟も入学し、それを与えられたはずだった。僕などより弟が持っているべきその輝きを、祷を込めてお前の心臓部とすることにした。
蝕む毒、死の気配に、今まで以上に苦しんでいた弟を少しの間眠らせた僕は、その眠りの合間に最後のそれを行った。
弟の心臓の鼓動を両の手の平に感じ、今更ながらに血管とケーブルとの感触の違いに吐き気が胃の底から喉へと迫り上がってくるようだった。
けれどもこれで、苦しみから解放されるんだ。死んでいく弟を、救いたかった。
それはゆっくりと、脈打っていた。
「起きて、オルト」
弟が寝坊なんて、そんな珍しいことがあるだなんて、今日は雨かな。そうだとも、今日は雨で、初期稼働に必要なエネルギーは落雷を用いる。お前を少しだけ驚かせてしまうかもしれない、許してほしいな。
そうして、弟は、オルトは生きながら死んでいく存在ではなくなった。
「――僕はオルト・シュラウド。どんなアシストをお望みですか?」
けれども魂の在り処を定義するのは、今でさえ、僕には。