夜のヴェールを被せるように、モストロ・ラウンジの明かりを一段階落とす。週末に入る夜の決まった時間帯のみ、普段はオーダーストップである時間も越えてモストロ・ラウンジは改めるように客を招き入れる。或いは、入れ替える。
太陽を思わせる果実の微炭酸飲料や、生命や誕生を意味とする果実の濃縮液、それらが詰まったボトルが並ぶ棚をスライドさせたのは欠伸を噛み殺すようにしているフロイド。ソフトドリンクやその材料が並ぶ棚の後ろから姿を見せた異なる棚、そこから内で琥珀色の液体が波打つボトルを手に取ったのはジェイド。カクテルグラスの細い一本足に指先を絡めて目を唇を笑ませたのは僕。
「さぁ先生方、夜を楽しんでくださいね」
海のものはもちろん陸のものまで幅広くご用意しておりますので、どうかごゆっくり。どうか、散財に励んでくださいね。後者は胸の内でにんまりと笑みながら、教職員限定のアルコール有りのモストロ・ラウンジ開店を声にするのだ。
「言いましたよ、確かに言いました。他でもない僕が口にしました、楽しんでくださいねと。だからって、教員ともあろう方が我を失うほどに酔うなんてどうかしている! クローズだというのに、ほんとに何処に隠れているんですあの人?!」
今夜もずいぶんと繁盛したことだと満足していたことが嘘のようだ、お帰りになられる教職員方を見送る際にフロイドの一言「あれ、足りなくね?」が吐き出されるまではまったくもって順調だった。ジェイドに「確かに、お一人見当たりませんね」という言葉と口辺に何らかの意味合いを含めた笑みを向けられるまでは。
今は行方不明の、防衛魔法の授業を担当とするその人は、氷塊が浮かぶ海のような方だ。いつも感情の起伏がこの人にはあるのだろうかと思う静かな表情で、真面目に授業を受けようとしない生徒に向けられる眼差しは、温度自体は感じられないがフォルムが切れ長な為に冷ややか。声音はいつも淡々としているが女性にしては低い為にこれもまたどこか冷たさを感じるもので、そのような方だから、放課後防衛魔法に関する質問をしに行った際など先生のその声を聞きながらもどこか海氷の音を聴いているような気持ちになる。それは小さく静かで、ぴしり、ぴしり、と葉脈のような細いひびが刻まれていく音に似ていた。
あの音が今は何処かとても遠い異国に旅立っているような気持ちにもなってきた。泥酔するような人だとは思ってもいなかった。知らぬ間にふらふらといなくなり、閉店時間になっても姿を現さないだなんて。
「そもそもジェイドもジェイドだ……帰るわけじゃなくラウンジの奥にふらふらと向かったのならその時点で引き留めればよかった! スタッフオンリーの先に向かう客を見送ってどうする?!」
腹正しいのは彼だけではない、ホール担当もキッチン担当も、スタッフはふらふらと何処かへと向かう彼女を尽く見送ったというじゃないか。苛立ちメガネの縁に指を添える僕を前にして「あー、先生ならあっちへ行きました」だなんてよく言えたものだ。あなたがた全員減給にしますからね。そう独りごちながら、あっちへ、あっちへ、と目撃情報を辿る。まさか、金庫のある部屋に? だなんて少しばかりほんの少し本当に些細なほどに少しは思ったが、そちらではなくある所に辿り着く廊下への扉が僅かに開いていたので、何故そんなところに迷い込むのかと思いながらも僕もそちらへと向かうこととなった。
モストロ・ラウンジは巨大水槽の眺めも楽しめるカフェだ。人工海水を満たし、珊瑚やイソギンチャクなどの生物も管理し、海底の景色を再現したそれは海を寄り添わせたと言っても過言では無い。人工物であるが故に多少、肌に違和感があったり舌の上に妙な味が纏わり付いたりはしますが。兎も角、その水槽はなにも密閉されたものではない。蓋なんてしていなかった。自然界の海だって、蓋なんてついていないでしょう。もちろんだからといって、その水槽の淵に佇み今にも飛び込みそうな姿を黙って見過ごすだなんて僕にはできませんが。ジェイド達じゃあるまいし。
「先生! 馬鹿な真似はよしてくださいよ!」
人の体は海水に浮く、けれど相手は衣服を身に纏った酔っ払いだ。教職員の溺死事件などごめんだった。
「アズール・アーシェングロット」
平時よりもゆっくりと向けられた眼差しは此方を捉え、それにぎくりと自身の身を硬直させることに僕はなる。
先生の海中から見上げた月のような色合いの眼はその時、片目、月を忘れ夜も知らず、ただ深い黒ばかりだった。それは微かな光も届かない深海の色だった。
「潮の、匂い」
静かな声音で発したそのままに彼女はまだ月の存在する自身の目元を手の甲で拭い、僕の向ける視線の先できらりと煌り落ちる鱗。いや、違う。その目元から零れ落ちたのは所謂カラーコンタクトだった。僕の眼差しの先に姿を現したその両眼は、どちらも深海の色をしていたのだから。
どぼんと、或いはとぽんと音がした。どのような音がしたか、正直分からなかった。その瞬間僕は先生の眼に意識を向けており、いくら酔っ払っているからと彼女が実際に水槽に飛び込むだなんて思ってもいなかったのだから。
「嘘だろうっ?!」
コートとジャケットを脱ぎ捨てながら駆け出す、飛び出した勢いで帽子は後方で留守を決め込んだ。水槽の縁を革靴の裏が蹴った時自身の指先は首元のタイを無意識に緩めていて、マフラーは風を孕んで舞った後にきっと水面へと浮かぶことだろう。この革靴はもう使い物にならなくなるなと、どう借りを返してもらおうかと、ほんの些細な短い滑空時間に思考した。
人の脚からの着水は派手な飛沫をあげたことだろう、僕は無数の泡に視界不良を起こしていた。僕より深いところから浮かび上がってくるそれはしゅわしゅわと、陸の飲料であるソーダなんてものの生み出す気泡に似ていた。人間の唇からこぽこぽと漏れる形の歪な泡ではない。それは、ソーダに落とした果実が纏っているような、それらで発生したような気泡だ。それを僕は、よく知っていた。
僕が目を見張ったのは、下半身の衣服を脱ぎ去った先生のその脚の生白っさを知ったからでは決してない、決して。その人間の二本の脚がよく知る気泡を生みだし纏い、魔法の気配を孕んで姿を変えていったからだ。その脚は魔法で姿を変えていく、いやそれは間違いだ。それは、魔法が溶けていく光景だった。
枝分かれしたものが再びと絡み合い、幹になるように。ただひとつに、元どおりになる。白と黒の鱗を纏いながら人工の海中にくねり泳ぎ始めるそれは、本来の姿に成っていく光景は偏に目に毒だった。
あなたは人間ではなく、海蛇の人魚だった。
呆然は僕の上唇と下唇に隙間を開けさせ、今現在は肺呼吸であるのにそこから酸素を零れさせた。あぶくが、素知らぬ顔で水面へと逃げていくようだった。
「アズール・アーシェングロット、いけない子」
舌先をちろりとさせるようにあなたは言った。その長く細い舌は酸素を零す僕の唇のすぐ側にあり、覗き込むあなたの黒いまなこの中にいる僕自身の表情さえ確認できた。
「溺れてしまうよ」
それは、どういう意味を孕んでいるのか分からなかった。
今は肺呼吸の僕が失った酸素に喘いでいるから、あなたは酸素を与えようとしたのですか。いいや、海蛇だって肺呼吸だ。
僕の知らない、熱を抱いたような声色と劣情を孕んだ表情。海蛇は、若い蛸がお好きだ。溺れてしまうのは、あなた自身であると言いたかったのか。いいや、それは僕だって。
先生の黒いまなこの中に泳ぐ僕の表情はきっと、御伽噺の中のそれだった。運命の番いと会えたそれだった。
僅かな酸素と、どちらとも分からない唾液を分かち合いながら、彼女に契約書を書かせるにはどうすればいいだろうと僕は考えていた。ただ、僕だけを。僕を唯一として、生き喘いでいただくにはどうすればいいだろうかと。
くらりとした、酸素は残り僅か。互いの息継ぎに水面へと浮かび上がった折、僕はあなたをどうするかまったくもって分からなかった。