結納
「おや主、どうしたんだい?」
襷掛けの紐を解きながら問うたのはこの本丸の初期刀である歌仙兼定、その刀。またその視線に在る幼き娘、それはこの本丸の審神者である。
審神者はその手に白い紙を持ちて、ちょこちょこと歌仙の元へとやってくる。側へと来た彼女、小夜左文字よりも下にある小さな頭部を見やって歌仙は主と言いながらもその頭を撫でた。
「こんちゃんからお手紙もらったけど、むずかしくしてよく分からないよ。歌仙、よんで?」
政府からの伝達かと歌仙は審神者の手よりその白紙を得た。そこに並ぶ文字の羅列に、今の主では未だ読み進められないものだと思いながら午後の勉学の予定を立てる。と、その内容を読み進める毎に歌仙の表情は奇妙だと言わんばかりに変化していく。そうしてその声音は確かなそれだ。
「うん……? 結納、括弧仮だって……?」
結納と言葉を紡いだ歌仙に審神者は、ゆいのう? と小首を傾げてその音を聞き返す。くりっとした目は陽に煌いてその言葉の意味を知り得ていない。
「結納か……きみが……早いのではないかい? 僕の世でのそれでも、適齢期とは言い難い」
「むずかしいよ」
「あぁ……促しでもこれは強制か。言葉尻に滲み出ている……雅でないな、これでは」
「歌仙、むずかしい。ゆいのうって、なあに?」
顔を顰める歌仙の袖を引いて審神者は訴えた。そもそもの単語が分からないから、歌仙の機嫌が悪くなる理由が分からないのだ。
歌仙は審神者の指先より自身の着物地を解きながら、どう説明したものかと僅かに視線を泳がせた。
「ええと……きみの世では、結婚と表すのが一般的だね。婚姻を結ぶことだ」
「こんいん……」
「ああ、そうだ」
歌仙は説明した気になっているが、審神者はまたも分からない言葉が出てきたぞと眉を寄せてその唇を僅かに突き出した。むずかしいと。
そんな審神者の様子に気付かずに、歌仙はその紙面へと視線を走らせることを再開した。
「……ふむ、契りの品を任意の刀剣男士に贈ること。尚契りのやり直し、無きものにすることはできないために注意せよ、か……」
かさりと、紙の擦れる音がした。審神者は仄かに眠いとその目を瞬かせた。
「主、良く考えて事を進めるんだよ?」
「んー」
「指輪を贈る相手は良く考えて……」
ここで歌仙は不意に気付いた、審神者が持ってきたのはこの紙一枚であることに。視線探せども、審神者の小さな手の平はそのようなものを持っていない。きっと、その衣の内にも持っていない。歌仙の口辺は、ひくりと。
「……主、指輪はどこにやったんだい」
「んー?」
「契りの品が同封されていたのでないかい。指輪、指輪だよ」
「んー」
「あ、る、じ!」
「ぁ、ぬいちゃん」
「ぬ?」
声を僅かに荒らげた歌仙の気も知らず、審神者は縁側の角を曲がって姿を現したぬいをその目に留めた。またもとたとたと足音を共に彼の側へと近寄ると、ままにその体を腕に抱く。幼い審神者が抱くと、刀剣男士らよりはるかに小さいぬいも大きく見えるものだ。
「主、話は途中だろう。しゃんと最後まで、……?」
歌仙は審神者の腕の中のぬいに目をやり、少し考える。いつもと違うと。
ぬいは、腕輪などしていただろうか。
「ぬ? ぬぬい? ぬ~」
「ん、歌仙によんでもらったの。むずかしいことばかりだねえ?」
「ぬっ!」
「あ、歌仙。ゆびわね、ぬいちゃんにあげたの」
「…………え」
歌仙は呆然とその言葉を聞いた。僕の主は今なんと言っただろうか、あげた、あげただって? やり直し、無きものにすることはできぬそれを? それはつまりは既に契った後だと? ははっ、主の冗談も時に面白いものだ。そもそも、ぬいには指がない。
「ゆびわ、おっきくなってぬいちゃんのおててにすっぽり」
「……は」
「ぬい~」
「ゆびわ~」
「あ、ああ……手遅れじゃ、ないか……」
どうしろと、本に一体どうしろというのか。歌仙は白紙を手に握り潰し己の痛むこめかみを指に摩った。
歌仙の困り顔に審神者はぬいと共に目を向ける。ぬいと共に小首を傾げる。
「だめなの……?」
あ、泣き出す。もしここで駄目だといえばこの娘は泣く。歌仙はそれを知っている。知っているがどう言葉を紡げばいいか分からず、曖昧に濁した。
「いや、いやあのね……」
歌仙はその視線を泳がせながら如何様にするべきかと考える。主は婚姻のことを何も分かっていないと。
「主、婚姻とは男女の契りだ」
「歌仙がまたむずかしいこと言ってるようぬいちゃん」
「ぬぬ~?」
「ぐっ、……ええと、つまりその者と番に……いやこれは不味いか……家庭だ、家庭を持つことだよ。家族になるということだ」
「? ぬいちゃんもみんなも、かぞくだよ?」
「ああ、そうだろうね……!」
「ぬぬぬいっ、ぬぬ~、ぬっぬっ!」
「んんん、ぬいちゃんもかぞくだよう」
「いやそのつまりね、ああ、死が二人を別つまでという言葉があるだろう……?」
「ぇ、ぬいちゃんしんじゃうの……?」
「ぬ゛っ!?」
「違う、違うそうでない。だから泣き出すのはよしてくれ……! つまりは永きを共にするということで……何故刀の僕がこうも説くに困らねばならないんだっ……!」
歌仙は視線を庭木へと向けて歯痒いとする。だけれど、ぱっと顔色を晴らした審神者は彼の言葉の一つが分かったようだ。その腕の中のぬいをしっかり抱え直してから、満面の笑みで歌仙へと言った。
「歌仙、ぬいちゃんでだいじょうぶだよ!」
「うん……?」
「ぬいちゃんとずっといっしょにいるってことだもんっ。ねえぬいちゃん?」
「ぬ~ぬい、ぬぬぬ! ぬいぬいぬいっ!」
「思い違いをしているな……つまり、きみが母でぬいが父ということになるんだが、何れ子も…………いや、僕にそれは知り得ないが」
「! お母さんに!」
「ぬ! ぬぬぬいぬいぬいっ!」
「あ、ああもう…………いい、のではないかい……?」
「みんなとかぞくだけど、もっとかぞくだねえぬいちゃん」
「ぬ~ぬぬ~ぬぬい、ぬっぬっ」
花のように笑むそれに、ならばよろしいかと歌仙は半ば事実を受け入れた。幼い故だ、今はただ此の事を事実と置こう。問題の先延ばしなど雅でないが、僕のこの頭はもう考えることを放棄したがっている、と。
「ぬぬいっ、ぬぬぬ?」
「んー。ん、こどもはおんなのこがいいとおもうのぬいちゃん」
「ん゛ん゛ん゛っ」
歌仙の雅でない声音が漏れる。
つまりは、今日も本丸は平和であった。