人でなしの恋ひ


 さて、これはとある本丸に在る一振りの歌仙兼定という刀の身に起こったできごとだ。つまりは、僕の身の上話。何の変哲もない、言えば他愛ないできごとでしかない。けれど、他ならぬ僕と愛に関するできごとだ。勿論、己一振りの話では済まない話であるが。
 僕はそうしたものを唇に紡ごうと思う、聴いておくれでないか。

 僕と主との初の顔の見合わせというのは薄桃色の桜の花弁が舞う、大体の刀剣男士が審神者と顔を見合わせるそれと大差ない。今でさえあらゆる感情を孕ませる血肉の身体であるがその折というもの、僕は器が肉であるばかりで心というものはそれに追い着かないものであった。故、さしてその瞬間というものに今時分のような感情は抱いていなかったとしか言えないだろう。
 つい先程まで玉鋼であった存在に寸に感動を覚えよというのも荷が重い話だろう兎も角、僕が人の身というのは風流や雅を感ずることができる尊いものであると感情を誠に抱くことができたのはその瞬間より後であるということだ。人に近い形で感情を抱くことができる今の状態で思い返せばしんみりと心うつことができるかもしれないが、それは後付けでしかないのだから偽りなく語ればつまりはやはり僕と主とのはじめましてというのはそのようなものであるということだ。
 どうか、素っ気ないものだと言わないでおくれ。皆が皆、壱から惚れ惚れするような馴れ初めを持ち得ているわけではないというわけさ。

 主と共に眼差しを向ける牡丹の美しさというもの、つつぅと葉を滑り落ちる朝露の珠に儚さを感じたその時折だ、気付けば僕は人間めいた感情を抱くようになっていたのだろう。知り合った初めではなくきっかけという意味合いであれば、僕ときみとの馴れ初めというのは何気ないふとした瞬間に訪れた季節の感慨深さ、それに寄り添ったものであろう。
 きっかけが遅れたものとしても、流れがゆるやかであったとしても、水流が絶え間なければ浮かぶ笹の葉が流され続けるように僕の心持ちというのは何処か何処かへと向かうかのようであった。終点というものを心知らずとも望んでいたのだろうね、この場合の終点というのがどのようなものかは察して欲しいものだ。口にするも不粋だろう。

 寄せられていく心と、さて時折につきりと痛む心の臓。
 いつのことだろうか気付けば、共に同じ空間に在り同じように景色に眼差しを向けていたことが心喜ばしかったはずであるにいつしか、意味合いが少しばかり違っていた、のだ。
 主が眼差しを向ける景色が憎い。その眼差しを奪ってしまう花が蝶が、それらが憎い。景色などではなく僕が奪ってしまいたい、きみの眼差しを。きみの眼差しが僕は欲しい。僅かな欠片を言えば、きみの、眼が欲しいと思った。ざわりざわりと強い風に晒される木々のようなこの胸中はいったいどうしたことか。分からない、一寸も分からないのだ。理解を得ないということがこんなにも恐ろしいものだと知らなかった、そう変哲も無い刀であった時は。
 壱を得ればどうにも弐も参もやってくるもので、主が眼差しを向けるそれは景色以外のものでもこの胸中はざわざわとしたものになっていた。いつしか感情の風というものが知らず知らずと時知らず、感覚で言えば指先が冷たくなるから吹雪いているのかはたまた、頭の芯が熱くなるから雪などお門違いであるのか。細かなことはいい、つまりは僕は主が眼差しを向ける、仲間内さえ仄かに憎くなっていた。同じ釜の飯を喰らう、戦場では背を預け合う関係であるというに、主が笑みを口辺に浮かばせたままに眼差しをやるその刀らに悋気の懸念を抱かずにはおられないのだ。

 僕の心は騒がしいばかりになってしまった、心象というのは仄かにも外へと現れてしまうのかもしれぬ。あの日、主が僕を審神者部屋へと呼び招いたのも僕の身体を労るそれだったのだから。あれもまた何らかのきっかけであったと思うよ、僕は。
 手ずからに君が淹れてくれた外つ国の茶、まあ所謂紅茶であるがそれの味というのは今も鮮明にこの舌に浮かび上がる。というのは偽りである。あの日飲んだ茶の味など覚えているはずもない、何せあの時の僕には茶の味など一欠片も分からなかったのだから。
 目に麗しい翡翠の果実、きみの唇はそれをマスカットだと紡いでいた。主の指先、爪先が、仄かにつぷりと果実の皮を突き破りそうして親指と人差し指は摘まむようにして皮を剥く。瑞々しい果肉が互いの眼差しの先へと現れる、果汁はきみのその指先へと僅かに滴った。きみへと向ける感情が何にひとつもなければただ小言を口にして手拭いでも差し出していたことだろうがこの身、僕の身のうちにとある感情が渦巻いているものだからその折の僕といえばまるでその場に縫いつけられたように或いは置物であるかのようにぴくりともしないものだ。まるで唇で食むかのように、一息に口内へと終われず一息に喰らわれず。そうだそれはまるで僕に蠱惑的に見せつけているようであった。思い違いに他ならないことだが。
 その丸い球体を、いや果実を食む主をじっと見ている僕の鼻先を茶の湯気が擽る。そうだ僕はその時カップを携えながらも口をつけることもせずただ携えているばかりであった。陶器の音がかちゃりと鳴ったのはそう、何とは無しにふと気付いたからだろう。
 まんまるい果肉はまんまるい主の眼に、像を浮かび上がらせている。
 なんだかくらくらとした。気を取り戻すに茶へと口を付けるが、どうにも。未だ温度を保ったそれさえ生ぬるく香りも僕に知らさずに胃へ滑り落ちていくだけ、そのような気分であった。くらくら、くらくら。
 それで、僕の眼差しの先にあるのは薄らとした揺らめき陽炎、幻影でしかない。虚だ、どう考えようと僕の心が魅せた幻だ。きみの指先が皮剥くそれが果実などではなく、僕にはいっそ眼球に見えたのだから。ぴりりと薄い透明の皮を剥いて姿を現した瑞々しい眼差しが他ならぬきみのものであることは当たり前に分かった、欲しい欲しいと一心に思っていたものであるのだから分からぬわけがなかった。
 きみの唇がきみの眼差しを食んでいく、ひとつふたつ。僕の背筋をたらたらと嫌な汗が肌を濡らし垂れていく。
 明瞭とはひとっつも言えぬ僕の聴覚が捉えたきみの次の言葉というものはきみが僕を労る言葉であった。僕の気晴らしになるものを与えたいと、それはいったい何だろうかときみは問う。花、茶器、きみは問う、僕は何が欲しいのかと。実には、唇で言わなかったが胸中では僕は主と眼差しをきっちり合わせながら伝えていたことだ、欲しいのものなど、きみの眼差しでしかない。きみの目が欲しい。きみが先程食んでいた、勿論それは幻影だがそれが欲しいと。
 言葉を濁すように微かに笑う僕にきみは気付かず僕が欲しいものの捜索を続ける、そうしてきみは笑った。眼差しに口付けた唇は僕へと笑いかけるのだ。
 置物であったのは疾うに昔であったとばかりに、それはもう弾かれたとばかりに僕はその場立ち上がり後にした。記憶朧気ではあったが僕の口は心中とはうらはらにつらつらときみに取り繕ったはずだ、何らおかしいところはなく僕はその場を離れたはずだ。あの時の僕の唇はそこは夢中だとばかりに、自身の気も知らずに呆気なく言葉を紡いでしまいそうであったからもう、僕としては主の目前から早に去らねばいけないとそればかりであった。
 その夜の夢というのも甘美な、いや今に言うなら甘美であるがその時の僕には心を苛まれる酷く恐ろしいものであったか。
 昼には勧められても口にすることができなかったマスカット、その果実一粒を僕はきみから手渡され食す。そのような夢だ。どこか慎ましく皮を剥き、初々しい口付けめいたそれで触れ、唇で食み、口内へと迎え入れる。指を濡らすものは果汁に非ず、それはきっと涙であった。それなら、その幻想の中で僕が食んだものが何であるかなども、分かるだろう。

 さて、僕は眼球に囚われてしまったと思うだろう。けども話というものは未だ続くものだ、他でもないきみの言葉でね。
 首は欲しくないかと、きみは笑みの頬で僕に問いかけてきた。
 その瞬間の胸中の僕といえば、油断していたところ横っ面を叩かれたそれであった。ひとつの月の間に僕が欲しがるであろうものを捜索していたきみの些細な冗談だ。確か、きみは冗談だと笑った。きみに合わせるように僕も笑っていたがいとも容易く流せることではなかった、僕には。
 不思議なことに、いや、主の言の葉というのはいつだって僕にとって惑わしのそれであった。あんなにも切望していた主の眼というものが、あの言葉以来一心に思うものという席から外れていたことだ。勿論、一寸も欲しくなくなったわけではない。ただ、一等に欲しいものが舞台袖から躍り出たというわけだ。つまり、それ以来の僕は主の首が欲しくなっていた。きみを畳へと仄かに押し倒し、髪を一房この手に取って、そうして唇に紡ぐその瞬間を想像すると得も言えぬ感覚が四肢へと走る。きみに向かって首を差し出せ、などと言えるだろうかそれでも、確かに僕はきみの首が欲しくなっていた。紛うことなく。
 それで、いつぞやは眼球の幻影に囚われていた僕であったが今度は首の幻影に囚われることになるらしかった。首を差し出せなんて、唇の癖にしていたのが悪かったのかもしれないね。なんて、これはただの冗談さ。首に纏わる昼の夢は確かなものだけれど。勿論、きみの首。きみの頭と、胴を繋ぐそれに纏わる、昼の夢さ。
 昼にみる夢は白昼夢、きみの首をぐるりと囲む赤黒く細い線は首斬りの、ほんの指先ちょんと押せば斬ったそれが空へと舞いでて地に転げ遊び始めるものだ。瞬き、幻影拭えずに指先にきみを小突いてみたこともあっただろう、やってきた現実に主の首が跳ね踊ることはなかったが。
 こんな夢もみた、僕の手拍子にあわせて手鞠が跳ねる。とん、とととん、とん、とととん、跳ねる手鞠に僕は上手だねと笑いかける。手鞠をついているのがきみで、きみは笑むのだけれど笑みがある場所というのが本来ある場所ではなくて。僕は大事に大事に手鞠を抱え込むというわけだ。頬の土汚れを拭いながら。夢の、夜にみた些細な夢の話だ。
 首を斬ってはいけない、当たり前だ。そのようなことをすればきみは死んでしまうのだから。改めて言うことでもなし。
 けれど、思えば思うほどに僕は悪戯に白昼夢に苛まれる。現実と幻影の波は潮の満ちかけのようだ、いや、そのようであればもっと分かりやすかっただろうか。満ちて引いての入れ替わりであればもっと分かりやすかった。どちらも波でしかない、海原の波のひとつひとつの見分けなどつくはずもない。僕の心は大海原であった、酷く荒れ狂う。ある日のことなど、斬ってはいけない斬ってはいけないと思うばかりに絞めていた、きみの首を。白昼夢の話、なのだけれどね。

 さて、僕はね、もう辛抱ならぬ。勿論、きみを殺めたいという意味ではない。装いの上から、身形など気にしておられぬと指先で皺を作り心の臓を鷲掴むかのように。歯痒いという言葉があるが、僕はどうにも心の臓ばかり掻き毟りたくたまらなかった。
 僕はもう、きみが欲しくて欲しくてたまらなく。
 その日もまたきみは僕へと心配そうに、眼差しを向ける。ただその眼差しは在るべき位置に非ず。いや、眼差し、眼そのものではない、正しき位置に在るべきは。首が、首の位置が正しい位置に在らぬのだ。きみはしゃんとして座り此方へと眼差しを向けているが、緩やかに携えられた手はまるでひとつの土産袋を持ち携えていように、首を。きみはきみ自身の首を持ち僕へと微笑みかけている。嗚呼、そうだ、きみはそのようなところから僕に笑みを魅せている。白昼夢のなんと恐ろしいことか。
 言うなら後のそれは吐露であった。
 吐露、まるで胃の中のものいや、臓腑それ自体を外へと吐き零すような。最初から最後まで。誰ぞの眼差しが、眼球が欲しくなった僕のこと。幻影。首に魅入られたこと、白昼夢、悪夢。
 誰ぞの指先が葡萄の皮を剥くように眼球の薄皮を剥いていたことを思い出しながら話していた際、過去のときめきは僕のうちへと戻っていたものだ。首に走る一線の美しきはどのような頚飾にも劣ることはないと熱く言葉を吐き出していたことだ。ちょんと突きたくなる指先の幼心を口にする時はどこかうぶな男児のようでこの顔を隠したくもなった、淡い羞恥を覚えもした。そのような自身がきみにどう見えているのかとちらちらと眼差しをやったものだ、両の手の上のきみに。
 僕の本性、歌仙兼定でひと思いに首を斬るその暫時をこの唇より描写し語れば興奮もしたが、それと同じに押し寄せるは薄暗い思いだ。苛む波だ。赦されぬことを紡いでいると座り込んでいた理性が漸くに唇を薄く開けたことだ。
 僕は何をつらつらと吐き出しているのだろうか、このような、赦されぬと。それすらひとつの呪詛であるかのように零し始める僕に、それでもきみは平時の声色で聴かせた。きみは疎いのかそれともおぼこの真似事、僕を欺くのか。僕が渇望する対象がきみ自身だということに一寸も気付かぬままの唇で、音を紡ぐのだ。
 まるで、まるでそれは恋のようだ、と。
 そこに在るだけで痛む心の臓や、音を思いを吐き出す度に掻き毟りたくなる喉、爪先に自身の肉を掻いてしまいたくなるほどのそれらが、きみが紡いだその刹那静まりかえったことだ。
 恋う心だって? これが? そんな、まさか。
 僕は呆然として言ったことだろう、なんせあのような白昼夢が全て恋の成すものであるだなんて思ってもいなかったから。
 疎いのはそう、他ならぬ僕であった。人の感情など、それを差す単語など知るはずもなかった。けれど僕は知った。たった今その時、僕は身のうちで荒れ狂う暴雨が恋い慕うそれだというのを知ったのだ。
 嗚呼そうだ、僕はきみの眼差しが眼が欲しい。
 嗚呼そうだ、僕はきみの首が欲しい。
 嗚呼そうだ、僕はきみに恋なるものをしているのだ。
 嗚呼そうだ、そうだ、僕はきみが一等に欲しいのだ。
 随分と、晴れ晴れしい心持ちに迎えられたようやっと。暫しの間僕の臓腑で息づいていた蛟がその身をくねらせ何処かへと去って行った、そのような心持ちだ。それでそれは、その怪異の去り際に伴ったものだ。僕の唇より掠めて零れる言の葉だ。
 嗚呼、僕はきみが一等に愛おしい。
 その折の主の眼というのはまるで硝子玉のそれであった。驚きに見開かれた眼は球体を感じさせ、僕の姿を偏に映すそれはまさに。僕はきみの眼差しをそれまでも素晴らしいものと感じていたがそれでも、その瞬間まで最たるを知らずにいた。僕だけを映し続ける主の眼差しは至極甘美な感情にこの心を沈めたものだ。
 恋とはおちるものではなく、沈むものである。そのような浮ついた言葉さえ僕は水底からかぷかぷと泡を天上へと昇らせながら思っていたものだ、勿論全てこの心中にて。
 何に一つもせずにはおるまい、僕が持ち得るは言葉だけではないのだから。
 徐にこの手に取るはきみの手で、いつぞやに朝露に肌を濡らしたその指先を自身のものと絡めた時のこの心の感動は言うに言われぬ。指の腹をきみの手の窪みへ滑らせ仄かな隆起を知れば、嗚呼この薄い皮膚の下に血潮の流れる管が在るのだなと些細な感傷に浸ったものだ。
 か細い、か細い手だ。僕はこの手を取りきみと生きていく。
 もう再びときみへの恋う言葉を口に、音が掠めるは僕の唇ときみの手。僕が自身の頬へと導いたきみの手だ。この温もりを、僕は糧に生きていくのだと心に何度も紡いだもので。
 それはまったくの不意打ちであった。言い換えればあれはまるで、弾けて切れた琴の糸だ。或いはそれが頬を掠めたような。掠めたのがそのようなものであればどれほど良かった、きみもそう思うだろう今は。

 恋とは、成就すべきものだ。だろう、きみよ。

 僕はね、物語を紡ぐつもりはなかったからね。刀身を鞘に収めるようなかっちりとした終いなど紡げないさ。それに、こうして事を思い出しながら語ってみればそういえばそういうことも在ったものだと思うものだ。むしろそう、そういうことが在ったかと少しばかりこの心が自身のことであるに驚いているような。それでも、僕の他愛ない、愛しい人への一心とした言葉の紡ぎを聴いてくれて感謝の他ないよ。僕のあぐらの上でこの声を聴くきみは唇を笑ませているから愛しいものだ。
 きみの唇が一房の髪、きみ自身の髪を食んでいるようで僕は指先に取り払う。つもりがどうやらそれは髪でないようで、取り払うが拭うになったようだ。擦れて赤黒いそれが、ふむ、これもどうやら白昼夢らしい。きみを思うあまり夜というのはどうにも安らかなものではないから。
 よぉく見れば瞼を閉じているから午睡のたゆたい。寝顔を僕へと晒すその無防備さも愛しいものだ。
 きみよ、眠ってないで声を聴かせておくれでないか。
 弾むような声音で言えば、手鞠が跳ねるように部屋の片隅へと転がった。眼差しやればそれは首らしい、人形の。そうであれば、この腕が抱いているのもそうらしい。だらりとした腕その先の指爪先がゆらゆらり、僕の装いを掻いていた。
 爪。爪と言えば嗚呼、思い出せばそういえば、僕の頬はきみの爪先にて一線を描かれたのだ。極めて細い糸のようなそれが、そうだ、主が払った手によって。
 じくじくと痛む、まるでつい先程に頬に血が滲んだような。喉が熱を持っているような気も、これは語った為であろうが。
 人形とはいえ首を転がしておくのは雅ではない。どこかふらつくこの身体であるが、首を拾い上げるのにそう支障があるわけがなかった。
 そういえば、主は何処へ在ろうか。そう思いつつ拾い上げた人形の首に覚える重さというものは、人形のそれよりむしろもっと身近な。
 恋とは成就すべきもの、そう叫んだ喉を思い出す。僕は誰にそう叫んだのであったか。そうだそうだ、そのようなことを叫ぶ相手などきみでしかない。他に在ろうか、そうだろうきみよ。
 はて、きみ、とは。
 嗚呼、よぉく見ればこの人形は――。