花は咲きけり
薄桃色の花びらはちらちらとまるで小雨のようにきみへと降り注いでいる。風に撫ぜられた桜の花と葉のさざめきがさぁさぁと耳を掠めるもので、小雨を思うそれはよりと。けれど、満開の桜をじぃと見つめるきみの瞳の中に舞い散る零れ桜のさまは流るる星々を思った、きみの瞳はその時に宵の空でさえあった。
徐に差し出したきみの手の平の上に春はいずる。すべりとした花びらを指の腹に遊び、唇に弧を描くその様子に僕の口辺もまたそのように。きみが心を喜ばせる時、僕もまた心を喜ばせた。僕にはその折心が在った、ほんの意識をもった時にはまだ携えていなかった心が。人の、心が。きみの喜びに同調するなら悲しみとて、きみの唇が寂しさに仄か歪んだ時、僕のこの心はつきりと痛んだものだ。
「どうしたんだい、悲しそうな表情をして」
「この桜も、直ぐに散ってしまうと思って。春は去り夏が来るなら、もう葉桜になってしまうのだなと思って」
つべりつべりと桜の花びらを撫でつけながら君はそれが物悲しいと言う。僕がどうしてそんなに物悲しいと言うのだと問うと、きみは僕が贈った紅を薄く引いた唇でこの鼓膜や心を撫ぜる言の葉を紡ぐのだ。
「歌仙が寂しがるから、花が散るとあなたが寂しがる」
僕がきみと感情を共にするように、きみとて僕と共にあった。それなら、それなら僕は葉桜に心を悲しませることはない。
「葉桜も 人とも在れば狂おしき 我が身心に 花は咲きけり」
抱き寄せた僕の装いにきみの手の平から零れ落ちた桜の花びらが掠め、ひらりひらりと他の零れ桜に紛れて地へと落ちていく。今は視界を埋めるほどの薄桃色も、時の流れと共にその身を潜めやがて葉桜となりその先は葉も落としてしまうのだろう。けれど、詠んだその通りだ。きみは葉桜に僕が寂しがると言ったが、葉桜であろうときみと、愛しい人と共に見るその瞬間が在るのならばこの胸は喜びに躍るばかりで。この浅葱色の眼差しの先に花はなくともきみに与えられた身のうち、心に花は咲いている。きみが種を蒔き、芽吹かせ、咲き誇らせた大輪の華が。
確か、その日一人と一振りで見た桜は季節に追われるようにして散ってしまい、来る初夏に桜木のそれは葉桜に。薄桃色の雨を星々を胸に抱きながら僕ときみは葉桜の前に在った。きみが差し出した手の平の上にあの日のように桜の花びらが落ちてくることはなかったが、それでもその手を僕が取り繋いだものだからきみは唇に物悲しいと紡ぐことはなく。僕も、悲しいものだなど口にするわけもなく。終わりが来ないものは僕ときみの間にも在るわけがないと知っているがそれでも、そうして手と手を取りあい生きていけるならそれに優るものなど在りはしないと。
葉桜のさざめきを目を閉ざして聞いていた、遠くに近くに。それは近くに、遠くに。
例えばそれは無抵抗のままに水底に揺蕩っていた身体、それが人成らざる手に透明な水と共に静かに優しく掬い上げられるような。深く沈んでいた意識はそのようにして浅くに引き上げられた。遠く遠くの静寂なる水面は、意識がはっきりしてくるほどに波紋が広がっていくような珠露の飛び込みの音が。
一度目を開けるとぼんやりとして霞んだ視界に低い天井が映った。耳は今日の悪天候である雨風の音を捉えている。二度三度と瞬きを繰り返して視界を鮮明にしていく、首の後ろに違和感を覚える。ああ、無理な体勢で寝入ってしまっていたと知った。夢をみていたこともまた知った。先ほどまで寝入っていた眼に蛍光灯の眩さを感じながら、十秒たっぷりに深呼吸だ。
「歌仙が居眠りなんて珍しいね、紅茶淹れるけど飲む?」
僕の見仰ぐ天井への景色を遮るように視界に入ってきたのはきみで、きみの髪が僕らと世界の間にあるカーテンのようにゆらと揺れた。きみ曰く、居眠り。そう長い時間を寝入っていたわけではないようだ。
誘いを紡いだ唇は紅を引いていないがそれは今日が出かける予定もない休日だからというだけで。再びの問いかけは声でなく唇の形だけで、きみの瞳の中に見る自身の瞳の色なんかを何と無しに見ながら返した答えは小さな音だがカーテンの効果か互いの間に響いたような気もした。ただの錯覚だが。
「あぁ、頂くよ」
僕の返事の後に取り払われたカーテンに視界はまたどこか眩い。背筋をしゃんとしたきみに、仄かな違和感を拭うと首筋に手を当ててソファに座り直す僕。
きみは踵を返す、そのほんの僅か後にかちゃかちゃとした音、今日はどの揃いのカップを使うかきみが選んでいる音だ。雨風の音が遠くなっていきそうで、微睡みも後にするに僕はまた何度かの瞬きを意識する。紅茶への返事の後に主、と呟いたのは心の中だけだった。
日本のありふれたマンションに住んでいる二人の男女、そのうちの男がもう片方の女へ主なんて呼びかけるのは不自然この上ないことだろう。それが、自身の中では至極当たり前のことであるとしても。いや、言うなら当たり前だった、か。僕はきみと恋仲になった後、名を教えられてからもきみのことを主と呼ばなくなったわけではなかったから。恋人になった、名を教えられた、どちらも今の人生の話ではなく口にするならそれは前世というやつなのだろう。
いつかの、僕の話。或いはきみの話、僕ときみの話。それを誰かに聞かせたとして、十人いて十人が心の底から信じることはないだろうと思う。遠い昔、死ぬ前、僕は刀であったなど。きみが審神者なる者で、刀であった僕に人の身を与えたなど。刀剣男士と呼ばれるものが審神者と共に、歴史を守る為に戦ったなどと。きっと、人は信じないことだろう。
誰が信じるかも知れぬ画はこの瞼の下にあった、或いは脳裏の片隅に。本性である刀、それを青眼に構えた折の高揚感。相対するものが聞かせる刃唸りの音、口辺に笑みなどを漂わせている自身がいた。勿論、在るのは戦場での記憶ばかりではない。黄昏に紅葉の薄影を頬へ落とし、それでいて上目に此方を眼差しの先にするきみの姿。徐々に宵へと向かう時の流れ、とくりとくりと脈打つ己の心臓の音を聞いていた。きみをこの胸へと引き寄せたその時の感覚さえ、今の僕にもある。
「ダージリンだけど、ミルクは?」
「二杯目には貰おうかな」
かちゃりと、音は鳴った。カップへと紅茶を注ぐきみのその睫毛は仄か湯気に湿る、ゆったりとした瞬きが日々の穏やかさを語っているようだ。少しの笑みを唇に乗せてカップを紅茶で満たしたきみを僕は見ていた。きみが差し出した紅茶の水面には僕の顔が映っている、同じに少しの笑みを唇に乗せた僕が。僅かに揺れた水面が胸中に在るほんの些細な感情を表しているようにも思えた。本当に、ほんの些細な。
きみに、前世たる記憶は無い。刀であった僕に人の身を与えそうして心まで与えてくれた、僕の一等大切な女性。かつて僕らは恋仲だった、かつてと言わず今も恋仲だが。きみに審神者であった時の記憶は無くとも、僕ときみは今生でも結ばれた。今の時の言葉で言うとするなら、同棲カップルとでも言うところか。
「お手製のクッキーもどうぞ」
「ん、……少し甘いかな」
「分量間違えちゃった」
一人と一振り、厨に立って菓子作りなどに精を出したことも思い返せばあった。外つ国の菓子など知らぬし完成のさまを想像できなかった僕にきみは一から説明したものだ。出来上がったものがどこで間違えたのか味がちくはぐで、今のように互いなんとも言えない笑みで茶にて流し込んだ。その思い出を、きみは知らない。
ほろりと崩れた菓子が少々テーブルを汚してしまった。
知らない知らないとは言うものの、僕は別段きみを責めようだなんて思ってはいない。勿論だ。時折に仄かな寂しさがざらりとこの胸を撫ぜるが、幼子のように泣き出してしまったりなどするものか。少しばかり迷い子のような不安感に包まれる、だけ。
「これは雨、やまないね」
「ああ、夜を通して降るそうだ」
両の手の平で包み込むようにカップを持ち、息を吹きかけ、横目で見ている雨脚にきみは言う。きみは猫舌で、カップに口を付けるのはいつも僕が先だ。水面から時折に眼差しを此方へと向けるきみが可愛らしいと思う。遠くの雨の音を聞きながらそれでも、ぽちゃんと一粒の珠露が静かに水面を打った音を僕は聞いた。嗚呼、これは。きみの姿に胸をあたためながら、よりと浮かび上がってくるこれは。
それは雨上がりの本丸で、短刀達の植えた花壇の花々から零れ落ちた雨粒の音。横目で見た水溜まりは水鏡と成りて、今は晴れやかな晴天の空を映し込んでいて。戻した視線の先には勿論、きみがいて。湯呑みを傾けた後にもうきみでも飲めるのではないかと言葉紡いだ僕へと向けられた、眼差しで。
緩やかな瞬きの合間の、夢幻とも思える。
今の僕の中にかつての全てが在るわけではない。と、思う。今のように些細な何かを切っ掛けに浮かび上がってくる思い出が記憶が未だ在るのだから。
思い返せば、僕は最初からきみとの記憶をこの胸に抱いていたのではなかった。最初、僕が今の世に人として生まれた時、そうして僕らが出会った時のことだ。僕はきみをかつてのきみと知らずに恋うた。淡く、狂おしく。烈火に、やわらかに。
恋仲になった後、少しばかり日を経たせた後にきみに教えたものであったがあれは僕の一目惚れ。それであった。偶然か必然か、きみと出会い眼差しにその姿その笑みを見た時この胸は寸時苦しくて、そうして少しきみの姿は眩しいもののようで。僅かな息苦しさに呼吸を忘れているのかと意識に酸素を取り込み、仄かに甘い花のような香りにくらくらと。初対面でそれでいて唐突であるというにきみの手を取ってしまったのは今思い出しても気が急いていたものだ、羞恥の熱も覚える。けれど、この人が好きだという感情の儘に高鳴る鼓動を抑える術はなく。
その瞬間に恋う気持ちを伝えなかったのは偏に僕の気性だ。人見知りなどとは言わないが、さすがに臆する。確かに初対面の時間をそう経たせぬうちに僕はきみの手を取ったことだが、恋う思いの告白などできるはずもない。一目惚れをしたなどその時は伝えることができなかった、同じように僕に一目惚れをしていたきみに。後に聞いた折、きみが浮かべた笑みとその言葉に僕はどうしようもない感情に揺られる他なく。
きみとの記憶を初めて思い出したのは恋仲になったその夜であった、或いは朝だ。それは夢であると錯覚しそうでけれども確かに僕にあった事実であると解った。
初めての瞬き、与えられた人の身、自身の両脚で地にしゃんと立っているという感覚。刀剣男士として顕現されたその記憶、僕の前世の。けれど、僕の感情を揺らしたのはそのどれでもない。薄桃色の花びらが視界にちらちらと舞うその中に立つきみで。眩いような、きみの笑みで。そうだ、僕はかつてもきみに一目惚れのそれをしていた。きみの笑みをきみを乞うていた。きみの心地好い霊力が満ちた空間でどこか息苦しくこの胸が痛いと、僅か自身の胸元の装いを指先にしていた。その思い出の時、僕の鼻先はきみの香りにさえ撫でられていたものだ。
ぎしりとベッドから上半身を起こし目覚めの時、僕の頬は仄かな涙に濡れていた。僕は、僕らはと思うとまた込み上げて。
僕は確か、きみに再び出会えたことが嬉しいのだ。
窓硝子を叩く雨粒の音、がたりがたりとした窓枠の震え。雨は急いているように強く成りつつある、夜には豪雨だ。
「この雨じゃ桜散っちゃいそうだねぇ」
きみは紅茶を一口飲んだ後、窓の外へと視線を向けて言った。勿論そこに桜木が在るわけではないが。
「なんだい、花見にでも行きたかったのかい?」
「お花見、もいいね。桜は散ってるかもしれないけど」
夜のライトアップされた桜でお花見も好い感じだろうね、ときみは目を細めるようにして笑った。その頬の笑み、きみが描いているであろう花見のそれに僕の姿はきみと隣り合っているだろうことを知れて僕もまた笑みを浮かべてしまう。甘過ぎるクッキーを囓りながら、僕もまたきみと共に在る時間に思いを馳せていた。
結局、その日の雨で桜は散ってしまったらしい。これは花見と称して桜木を見に行った故に知り得たことではなく、豪雨の数日後のきみとの買い物帰りで見た桜木のさまだ。遠くに見える薄桃色を付けていない木に眼差し、やはりこの間の雨で散ってしまったようだとぼんやり呟いた僕。きみは立ち止まり、ぽつりと言った。それは桜の木に対することでも何でも無くてただ一言、靴擦れ。きみが視線で自身の足下を見ているから僕もきみの視線を追って二人できみの足下を見たわけだ、僕は数秒の後にきみの一言の意味が飲み込めたわけだが。
「痛むのかい、どれちょっと待ってくれ今横抱きに……」
「え、いいよ」
「遠慮することはない」
「恥ずかしい」
「初めてでもないだろうに」
「初めてだよ、たぶん」
「……そうか、でも遠慮は無用だ」
きみの靴擦れが思考に割り込んだことで僕もきみも花見に関することは忘れたわけで。
桜の花びらを散らし尽くしてしまった雨はその後も桜の葉を濡らすに何度も、何度もやってきては去った。時に雨は僕ときみが同じ場所にいない時に降り、時に雨は僕ときみの繋いだ手を濡らすように降り。若緑の葉に浮く珠露は溜まりに落ち、その水鏡は晴天の空を映し出していた。
藤の花を見に行ったこともあった、枝垂れた花枝の下に在るきみの美しかったことだ。街路の紫陽花を二人見つめていたこともあった、ひとつの傘を共にし。そうして僕らはこの年に花見をすることなく、春はどことなく去り始めていくようで。
季節は初夏を迎え始めるのだった。
真夏ではないにしろ昨日と比べれば気温も上がり、服の下にじんわりとした汗を感じるそんな日だ。僕は自身の片手に収まっている白いカップ、その内のトパーズ色の氷菓に視線をくれてやっていた。何でもない、檸檬味のジェラートだ。それが僕の眼差しではなく太陽のそれで仄かに溶け始めているのが分かる。カップのほんの底に溜まる露に僕の表情は映らないが、ベンチなどに腰掛け背を丸め気味の自身の心持ちが空模様のように晴れ渡ったものでないことなど、どうとあっても知れている。
スプーンで一口、後に吐いた息は春を置き去りにした初夏の味がした。
「歌仙のそれは、杞憂ですよ」
僕の溜息を視線で追うようにしたその幼い声に、伏し目がちであった眼差しを上げて心持ちもどうにかしようとするがどうにもできず。僕はその少年の、いや、お小夜の方をちらりと見てから唇を開こうとして一度止め、それでも音を紡いだ。
「それ、とは」
杞憂だとお小夜は言った、けれど僕はその杞憂だというのがどれのことなのか分かっていない。たぶん、分かっていない。
「そこからですか……歌仙、あなたはあの人がかつてを覚えていないことが寂しいんです。……そうして恐れている、自身の中にだけかつてが在ることに。あの人に拒絶されることを何よりも恐れている、だからそれの要因に成りかねないと」
杞憂です。とお小夜はもう一度言う。
かつての僕らの話、それを十人に話しても十人信じないことだろうと言ったが彼は違う。お小夜は信じて、いや、知っている。僕らのかつてとお小夜のかつては近しいものだ。僕を知り、僕の愛しい人を知り、そうしてその言葉を紡いだ。
「あの人が歌仙を拒絶することなど、ありませんよ。かつてを抱いていようとなかろうと、あの人はあの人だ。あなたも、それを知り分かっていることでしょう」
雅なことなど分からないと唇にしながらも季節の花に愛おしげな眼差しを向けていたことを、向けていること、知っている。僕は知っている、きみの中にかつてが無かろうときみは僕が愛したその人だと。それに、僕はきみがかつてのきみでなかろうと今生で恋うたのだ、僕が愛したその人であるのは間違いようがないことで。そうだ、僕はきみが恋しい、愛しい。だから心を悩ませているとしても、この感情は確かなものなのだ。
「そうか、杞憂なのか」
「ええ、杞憂です」
止まない雨はないのだな、と。
「寂しいなら、寂しいと言ってしまえばいいと思います。自身の中にだけ在るのが恐ろしいなら、それも伝えてしまえばよいと。……婚礼、楽しみにしています。用意しているのでしょう?」
初夏は時に僕をくらりとさせた。
それはいつかの日とは違う風も天気も穏やかな休日、きみの淹れたセイロンティーに唇を湿らせていた時で。両の手の平でカップを包み込み息を吹きかけ冷ますきみを見ていた僕は、少しだけこの唇が先走ったように言の葉を紡いだのだった。
「僕が自身の前世を覚えていると言ったら、きみは信じるかい?」
口にした僕はその瞬間他人事のようで、それでいて何を口走ってしまったんだと焦っていたようで、けれどきみにただこの僕を受け入れて欲しいだけであった。壁掛け時計のかちこちとした針の音が大きく聞こえる、僕がきみの言葉を待つその短い間。
「信じて欲しいの?」
「問いに問いで返す、きみは。信じてほしいさ」
きみはただ静かに僕に問う、きみの瞳は僕を拒絶するそれを秘めてはいなかった。カップをソーサーに預けたかちゃりとした音が少しだけ、僕の心臓を突っついたような気がしただけ。
「聞いて欲しいの?」
「…………たぶん」
間を空けてしまったのは、杞憂だとしてもやはりきみに受け入れてもらえなかった場合を考えて。どこかちくちくと痛む心臓で一度泳がせた視線を戻した先、きみの眼差しはどこまでもやわく優しいものであった。
それで、話してしまったわけだ。
僕は刀を振るっていたんだよ、刀であったのに。
へえ、それは大変だ。けれど歌仙が刀を振るうだなんて素敵なんだろうな。
見たいなら、模造刀でも今度買っておくよ。
そういうことではないんだよ。
僕ときみはね、恋仲だった。
審神者と刀剣男士は恋仲になってよかったの。
それは、微妙なところだね。
なるほど、秘密の関係だ。少しの甘いみつ。
否定はできないかな。
今の僕の中にある思い出をきみは、その頬にやわらかな笑みを作り聞いてくれていた。初めて思い出した時のことも、その後のことも、つい最近のことも、全てをきみに僕は話した。きみが首を頷かせる度にあれも、あれも聞かせなければと心は急いて。けれどその焦りは嫌な焦りではひとっつもないもので。
僕だけが覚えているそれに少しの寂しさを抱いたその時のことも、僕は話した。僕がテーブルの上に預けている手にきみは自身の手を重ね、まるでその寂しさを抱いていた時の僕の心をやわらげようとするかのようで。少し、鼻の奥がつんとするような感覚を隠すように僕はまたひとつときみに思い出を話す。
気付けばテーブルの端に寄せていた紅茶は当たり前に冷めきっていた。口をつければ渋いと眉を寄せてしまうことだろう、全てを話し終えた僕はどこに眼差しを向ければいいか迷うようにそんな冷めた紅茶の水面なんかを見ていたりして。きみは紅茶を一口も飲めていなかったと思い出して席を立つ。
「紅茶、僕が淹れ直してくるよ」
「そう? ありがとう」
かちゃりとした音を共に僕は紅茶を入れ直しにキッチンに立って、きみの方を振り向かずにその頬に浮いたままである笑みを思い聞いた。嗚呼、きみは唇で弧を描いたままだ。
「きみ、僕の話を信じただろう。何故だい」
「歌仙が信じて欲しいって話してくれたから」
揺れた紅茶の水面、僕が胸に満ちた思いに吐いた息はそれを静かに撫ぜたようだ。揺れたのは、ただの気恥ずかしさだが。きみのくすりくすりとした笑みの声が僕の背中に、こそばゆくそれでも喜ばしいばかりで僕は自身の口辺の辺りに漂う笑みをそのままに浮かべるしかない。
「そういえば今年の春、桜でお花見しなかったね」
「そうだね、来年の春はしようか花見」
ふと思い出したように言ったきみに僕は返事の言葉を。
「行こうよ、お花見」
きみは時に唐突だ。
当たり前なのだが初夏を迎えていた桜木に薄桃色は見当たらず、目に鮮やかな緑が風を前にさざめきを聴かせていたことだ。今は花を着けていないが、自信誇らしげに立派な幹や天を目指すかの如く悠々と伸ばされた枝のそのさまをきみと二人で見仰ぐ。葉々の間からの陽光が眩しくて、目を細めてしまう。
「桜が咲いてるのも見に来ようね、来年」
嗚呼、と返事。きみの口辺に少しの寂しさが乗っているのに僕は気付いた。きみがそのような心持ちなら僕もまたそのように感じてしまう。じぃときみが見ているのは若緑色なのか葉の間を抜ける陽光なのか、それとも春にはそこに在った薄桃色なのか。その眼差しを見ようときみを見る僕、きみもまた僕の眼差しを見てからどこかを見たようであった。
きみは徐に手の平を差し出した、舞い降りてこない花びらに思いを馳せるように。
「葉桜って言うんだよね、これ。やっぱり少し、寂しいかな」
「……何が寂しいんだい」
「歌仙は好きでしょ、咲き誇った桜の花。あなたが寂しいと、やっぱり私も寂しいな」
きみはやはり、僕にとって一等に大切な女性であった。言葉にできぬ感情が胸を満たし、それでも言葉を紡がねばと自身を心中にて叱咤。きみの手に重ねるは花ではなく、僕の手だ。
「僕は、僕は寂しくなどない。花が咲いていないとしてもきみが在れば、きみと在れば」
僕は、君と在れるならそれでいい。それがいい。
「葉桜も 人とも在れば狂おしき 我が身心に 花は咲きけり」
僕はかつて詠んだ歌をきみに聞かせる。きみよ、僕はかつてと同じ思いだ。葉桜であろうと寂しくなどない、愛しいきみと共に見るその瞬間が在るのならば僕のこの胸は喜びに躍っている。今のこの眼差しの先に花はなくとも、僕の身のうち心に花は咲いている。今生の身体はきみに与えられたものでなくても、その花の種を蒔いたのはきみで。芽吹かせ、大輪の華を咲き誇らせたのもきみで。
「僕は、きみが此処にいてくれればそれでいい。僕と共に在ってくれるなら、他に何も望まない」
強く吹いた風、桜の葉のざぁざぁとした音が僕ときみの鼓膜を撫ぜていた。重ねた手の力を仄かに強めた僕に、きみの指先が微かぴくりと跳ねたような気も。
風はきみの髪を乱してしまっていた。もしかしたらきみのその心さえ乱したのかもしれない。葉桜へ眼差しを向けていたきみの横顔、その頬につつぅと流れ零れたものがあったのだから。
きみは、泣いていた。
涙に頬を濡らしたきみを美しいと、より愛しいと思ってしまったのは少しの不謹慎かもしれぬ。けれど、けれど、きみが愛しかった。泣きながら、きみはそれでも笑った。
「かせっ、かせん……」
きみの声音の響きは確か、僕を思ったもので。喉に詰まるような思いを精一杯に吐き出し、僕はきみをこの腕の中に抱き寄せるしかなく。きみは僕の腕の中で少しだけ、小さい声で言った。
「……私が自身の前世を思い出したと言ったら、歌仙は信じる?」
「信じて欲しいかい?」
「問いに問いだ、信じてほしいよ」
「信じるよ、勿論だ。きみが、信じてほしいなら僕は信じる。きみが僕を信じてくれるように、僕はきみを信じる」
僕はきみの濡れた頬に口付ける。ひとつの契りめいたそれは仄かにしょっぱいものであった。僕の名を呼んだきみの唇もまた僕の頬に触れて、咲いていないはずの桜の香りに胸が満たされるような心持ちであった。
「言いたいことは、あるかい?」
問いかけに、きみは僕の服を指先に握り込んではにかんだ。
「歌仙、私をまた好きになってくれてありがとう。好き、大好き」
「っ当たり前だろう。ああ、恐悦至極だ……僕はきみを愛している」
手と手を取り合い生きていけるならそれに優るものはないといった思いは、今も紛うことなく同じで。僕に寄り添うきみの熱が夢幻ではないかと錯覚、きみは確かに僕と共に在る。
互いゆるりと瞬いた。僕ら、同じ過去を思い出したのかもしれない。唇に笑みを乗せて、ただ言葉を紡ぐことだ。
「きみよ、僕の妻になってくれ」
紡いだ音の後、胸元に頬を寄せるきみをよりと抱き寄せる。何度と頷きながら涙で頬を濡らすきみが愛おしくて、ただ愛おしくて。
春は去り、夏も去る。秋が去れば、冬も去りて。そうして何度目かの春がやってくる。季節は巡り、僕らの間に時は織り重ねられることだ。きみと僕は、共に。