花は何処に咲く
その桜の木は花が咲くことがないそうだ。それはとある噂話、けれども確かその桜木の高い空へと伸ばされた枝の先々に芽吹きを見たものは誰とおらず、薄桃色の花が人々の眼差しに在ったことも今はあらず。ただただ桜の木はそこに植わっているそうだ、まるで枯れているようでけれど枯れることなくただただ。
少女、いや少女の面影を残した女性が一人ベンチに腰掛けている。ベンチはその桜木への花見の為だけに置かれたように正面にひとつだけ。その桜の木に花が咲くことはないと言われていることから皮肉なものだ。
季節は桜木が芽吹いていてもおかしくない、けれどやはりその枝に芽吹きの兆しはない。そのただ宙へと伸ばされている枝木を彼女は見ていた、それで溜息をひとつ。彼女の溜息に特別な意味合いはない。その年頃の女性にありがちな感情のあれこれで、例えば周りの友人の恋愛関連だとかで。恋とはどういうものかしらん、自身に覚えがなくとも少しばかりの焦燥感に襲われて。それでぼんやりとした彼女の眼差しの先に今朝方の小雨の名残、枝先に乗っていた露がぽつりと地面に落ちたりなんかして。
例えば、あの桜の木に花が咲いた時に自身の恋は成就するのだと願掛けをひとつ。
意味などないのだ、芽吹きはないのだから。今、恋のつぼみを彼女自身が抱えているわけではない。あの桜が芽吹くことさえない。だから、だから彼女は鞄をよりと抱え込むようにしてベンチへの腰掛けを深める。まだほんのりと薄ら寒い風が彼女の頬を撫ぜながら時間の流れがまるで遅くなったように錯覚させるだけ。
またひとつと零した溜息は何処へと行くのだろうか。
彼女が瞼を開けた時、その鼓膜はさわさわとした音にくすぐられた。彼女の眼差しの先、桜の花満開で。薄桃色を視界いっぱいにして一瞬にして胸を躍らせた彼女はそれでも、あの噂話を知っているので今自身が置かれている状況が夢であると分かっていた。けれど、誰と構うことなく花を咲き誇らせた桜木の立派なさまはそれが夢だとしても彼女の心を喜ばせるもので。
桜の美しいさまに彼女はふらりふらりとまるで薄桃色に誘われるように歩み出した、頼りないその一歩毎に花の香りはよりと彼女の肺を満たす。苦しいとは言わないが、満たされるその感覚に彼女は深い呼吸を繰り返した。
一歩、また一歩。桜の木が逃げだすわけもない、彼女が歩めばその距離は当たり前にないものとなっていく。
夢の中とはいえ、その花が満開に咲いていること以外はどうやら本物と同じようで、彼女が手の平を当てた樹の幹は太くその仄か湿った表皮の触りを彼女に知らせていた。
ほぅ、と彼女は息吐く。
吹いた風はさぁさぁと花と葉と枝の撫ぜりの音を聴かせる。
「っ」
ふと、彼女は何かに気付いて一歩二歩と後退した。その桜木より少し離れたところ、彼女はそっと見上げる。薄桃色へとじっと目をこらす。
桜の枝に誰かが腰掛けている。枝を折ることもなく花を傷つけることもなく、器用にその誰かはそこに在った。そうして、彼女を見下ろしていた。彼女の眼差しはその誰かと一致していた。けれど、けれどその誰かの顔を彼女は認識できない。咲き誇った薄桃色が誰かの姿を隠してしまっている、仄かちらちらと見えるはその誰かの装いだけ。今時に古風、着物の裾が風にはためいて。
「……誰?」
彼女は誰かへと問いかける、誰かへと確かに眼差しを与えたままに。
「 」
誰かの口元が見えた、誰かが何か音を口にしたのも彼女には見えた。けれど、音は桜に攫われた。
彼女が再び目を開けた時、そこには花を咲かせていない桜木が在った。噂通りに花を咲かせることない桜の木。それはただ彼女が目を覚ましたということで、けれど不思議に桜の木は天を目指すことなく彼女の目尻へと向いて立っていた。おや、まだ夢の途中なのだろうかいや夢からは覚めている。そう思うと、瞬き。それで、彼女は自身の頬の下にある感触を覚える。ぱちりぱちりと瞬きを繰り返し、遅れ、ああこれはと気付き慌てて起き上がるのだ。
例えば、彼女の眼差しの先には青年の姿が在った。やわらかな癖毛に穏やかな顔立ちの。
例えば、彼女の眼差しの先には恋というものがあった。やわらかく彼女のその胸を締めつける緩やかな感情の。
それで、彼女は暫し言葉を忘れた。彼女と青年の視線が一致したままに十数秒はゆるりと流れたようで。
「きみ、随分と寝入っていたようだが」
心地好い低さの声音が彼女の鼓膜を震わせたが、彼女がその胸を落ち着かせることにはならない。ぼぅっとしてしまったが、自身が目の前の人物の膝を借りて寝てしまっていたという事実に再びと気付いたのだから。
謝罪か、このような場所で眠ってしまった言い訳か、彼女は口を開こうとしたが急いた心持ちのままではどうにも言葉というのはやってこない。切れ切れと音を零すだけ、そうしてそんな彼女を前に青年はどうともした様子を見せずただその身を前へと屈ませた。青年が手を伸ばしたその先に彼女は視線を向ける、自身の鞄が地面に落ちていたことあまつさえその中身さえ溢れさせていたことに肩を跳ねさせた。
「あっ、すみませっ……!」
「気にすることはない、けれど警戒心の無さは気にするべきだ」
関心しないな、婦女子がこうも。と、青年は唇に彼女の手荷物を拾い上げていく。勿論彼女も慌てて拾う。空は快晴だが、彼女の心はどんよりと曇っていた。今し方恋を覚えて浮いていた心ではあったが、これではどうにも印象が悪いものと。ちらりと彼女が盗み見た青年の横顔は険しいものではなく仄かに唇に笑みを乗せているようにも見えた、それだけが彼女には助けであった。
「あの、ありがとうございます。それにすみません……」
どういう経緯で自身に膝を貸すことになったかは定かではないが、彼の膝を借りていたという事実は揺るぎない。
「二度目だ、気にしないでくれ」
青年がベンチより腰を上げた為にそれを追う形で彼女も腰を上げる。彼が歩み出したことで自身が引き止めていたということがどうにも分かり、もしかしたら何かを言いたかったであろう彼女の唇は言葉を呑み込む他はなく。ただしゃんとした背筋を彼女は見送っただけであった。
芽吹きに至るかつぼみがひとつ。
それは、それはきっと彼女の夢。桜がさぁさぁとした音を聞かせる夢。語りかけてくる誰か、けれどやはり声は届いてはこない、そしてその表情を窺うことも。品の良い口元が言葉を形作るのを彼女はぼんやりと見ている、音を知れずただ動いている唇を。
髪を掻き乱すような強い風、それに零れ桜は宙へと舞い上がる。視界を埋める、誰かの口元さえも隠すように。薄桃色に攫われるように、彼女の意識は掠れていく。夢のようなそれは、掠れて消えて。
さて、今日は雨が降っている。確かに、予報では夕方から夜にかけて雨が降ると言っていたことだ。けれどだからといって彼女がそれに備えているということにはならない。つまり彼女は傘を持ち合わせていなかった。肩口の装いを少しばかり濡らし、それをハンカチにて拭う。彼女は本屋の軒下で雨宿りをしているところであった。
自身の不運に彼女は顔を俯かせて靴先へと視線をやる。軒下へも飛び込んできた雨粒がぴしゃり、ぴしゃりと靴先を叩いて遅れ雨を滲ませていく。それはどうにも心を憂鬱とさせるものだ、追い打つような雨粒がもう一粒と。
「雨宿りかい」
彼女の靴先を何度目かの雨粒が打ったそんな時、声はあった。そうしてその声色に彼女は覚えがあった、だから俯かせた顔を上げるのに少しの戸惑いもあって。
「……雨宿りです」
ぎこちないと彼女自身にも分かる返事の声だ。上げた顔、横を向けばあの日の青年が自身の隣に立っている。あの日、淡い恋心を芽吹かせたその人が。
「見るからに傘を持っていないようだ」
彼は彼女の濡れた肩口に視線、そうと言う。偶然の出会いが嬉しいやら、よりによってこんな姿の時にと彼女の胸中はぐるぐるとするようだ。またと俯き始めた彼女の視線、雨は強くなるばかり。
俯いてしまった彼女の視界にひょっこりと折り畳み傘が映り込んだのは直ぐだ、彼女がその意味に気付いたのは彼が言葉を紡いでからであったが。
「使ってくれ」
「えっ、……二つ持って……?」
「いいや、これだけだ。けれど気にしないでくれ、きみが使うといい」
「そんなっ、あなたが濡れるじゃないですか!」
「いいから。きみを雨に濡らしながら帰すなど雅で、っ……好いことではないからね。いいから、こういうのは素直に受け取っておくものだよ」
断りの彼女の声に反してその折り畳み傘は手の平へと押しつけられて、離れた彼の手に落とすことを避ける為握り込めば受け取ったということで。
戸惑う視線を青年へと向けても彼は彼女へと穏やかな笑みを向けているだけ、そうして彼女が返すことを良しとしないままにその足先は軒下を抜けて。彼女があっ、と思った時には彼は雨の中に走り出していた。彼女が慌てて発したお礼の言葉は強い雨音に彼に届いていたかも定かでない。
残された彼女は暫し呆然と、夢を見ていたのではないかと。昼にみる夢、白昼夢。けれど彼女自身の手には確かに折り畳み傘が在って、しっかりしろとばかりに飛び込んできた雨粒が彼女の頬を叩いたのであった。
待ち合わせているでもなし、この本屋にあの日来ていたのも偶然だったのかもしれない。それに時間帯だって分かりはしない。それでも、彼女は借りた折り畳み傘を持って何度と本屋を訪れた。それは借りたものを返すということもあった、けれども恋した相手にもう一度会いたいということの方が大きいだろう。
ちらりちらりと来店する客を気にしながら本の一冊を立ち読みし、今日は来なかったとそのままに読んでいた本を買って帰ることを何日か繰り返す。それでこれは何度目の何曜日の話か、兎に角何度目かの来店で。ばったりと。
驚きを声にしたのは彼女で、彼は音にはせず唇で形作っただけ。
「きみ、今日は快晴らしいが。それは日傘でもないよ」
彼は彼女が腕に抱くようにしている傘、自身の傘に視線を向けてそう言った。それに彼女は少しの恥ずかしさを感じないわけにはいかなかったが、それでもその人に再び会えたという感情が胸に溢れてくるようであった。
「知っています! いえ、それは言われるまで気にしませんでしたけど……そうじゃなくて! えっと、あの、傘……」
「ああ、別に良かったのに。ありがとう」
「此方こそ、ありがとうございました。えっと……」
彼女は言い淀んだ、何と呼んだものかと。青年の名を彼女は知らなかったのだから。
「歌仙。僕は歌仙だ」
青年の唇は自身の名を彼女へと教えた。少しを驚いて見開いた彼女の目その視線は彼、歌仙へと。
「あっ、私は」
「知っているよ。きみ、いつぞやに定期なども落としていたからね」
儘に、歌仙の唇は彼女の名を紡いだ。呼ばれた自身の名はどこかくすぐったく、それで落ち着かないさまはまるで胸の内がざわざわと風に撫ぜられるあの桜木になってしまったようで。
少し会話をしたように思う、けれど彼女はその会話の記憶を曖昧としていた。どうにも心に落ち着きがなくて、変なことを言わないようにするので精一杯で。もっと可愛い服で髪型でどうして待っていなかったのだろうかと思ったり、やはり変な返事を返してしまっていたのではないかと思ったり。心はぐるぐるとしていた。けれど、会えたことを嫌に思う気持ちなんてものはひとつもないもので。
彼にまた会いたい、歌仙さんにまた会いたい。そう、恋心が胸を温めるばかり。
桜、あの桜だ。やはり誰かが枝に腰掛けて彼女を見ている、見返している。さぁさぁと花々のさざめきの合間、その覗く浅葱色が彼女の瞳の色を見返していた。そうだ、その時彼女はその誰かの眼を見ていた、眼が見えていた。
桜で窺うことのできなかった誰かの姿が今は彼女にも捉えられるものとなっていた。弧を描いた唇、微笑んでいるその頬を視線で辿れば彼が彼女へとある感情を抱き向けている視線が。彼女にも彼の顔が見えていた、それも何れそう遠くない後に忘れてしまう。いや見ている今でさえ彼女は覚えていられない。それでも、青年のその笑みが彼女の眼差しの先に在った。
「きみの眼が僕の姿を捉えられている、こんなにも嬉しいことはないよ」
言の葉も桜に邪魔されることはなく。風はそよそよと彼の藤花色の髪先を撫ぜ揺らすだけ。
呼吸をひとつに、肺は桜の香りに満たされた。それにくらくらとしたまま、彼女は眠りの世界に誘われやがては目が覚めるのだろう。
二度あることは三度ある、とはよく言ったものだ。どうやら相席しか見込めない店内、それはとある日の。視線で空いた席を探していた彼女は自身の眼差しの先に彼を見つけて暫し呆然とする、彼女の手提げ鞄の中では帳面に文具が僅かにかちゃりと音立てる。右へ一度泳がせた視線、戻せば彼。彼というのは勿論彼女が恋心を寄せる相手であり、歌仙という青年だ。彼女の視線の先には手元に眼差し、どうやら小説本を読んでいるらしい歌仙の姿があった。
目は口ほどに物を言う、彼女の視線が声量大きくなく口数も多いものであったわけではないが。彼女が見つめていた歌仙の伏せられていた目は緩やかに瞬き、そうして文字から眼差しを上げるに至る。例えば互い視線が一致した、例えば此方を知った瞬間に唇に笑みを浮かべた。それが彼女の頬を赤くする。
此方へおいで。
歌仙の唇は音を紡ぐことなく誘った、彼女は勿論のこと彼へと歩み寄るのだろう。
「やぁ」
「っこんにちは」
上擦ったそれに気付かれただろうか、彼の唇はくすりくすりとした笑み声を零すではなくただ穏やかな形で彼女に座るを促すものであったが。
前よりはまともな会話ができている、と彼女は思った。それと同時に、口を付けた紅茶の味もよく分からないのでやはり拙い受け答えをしてしまったのではないかという不安も。
「そうか、勉学の為だったか。生憎今日は店内が忙しないようだが」
「ですね……、まぁ、気分転換も必要ですから」
「あぁ、そうだね」
何処に住んでいるだとか、勤め先などそんな会話は互いの間になかった。けれど、あれを好む、こうしたものが好きだという教えあい。時折に声に出して笑う歌仙の様子に彼にとってもこの時間が特別なものであればいいのにと彼女は視線の置き所に迷いながら思う。
彼女の眼差しが歌仙の腕時計に向いた時、彼もまたちらりとそちらへと視線を向けていた。時間について唇に零したのは彼の独り言の響き。
「もうこんな時間か……。僕は出るけど、まだ勉学には向かなそうだな。……きみ、此所へよく来るのかい?」
「いえ、たまに」
「へえ」
彼の視線は窓の外を見た。その後の言葉、彼が眼差しに浮かばせていたのはそんな風景なのだろう。
「この近くにね、好い喫茶が在るんだ。静かで古風で、それでいて古すぎるというわけではない。風流でよいところだ」
どうだろう、勉学にも向いているよ。今度、一緒に。
彼の誘いに何という言葉を以て返したのかを彼女は覚えていない。ただ、それは応じだ。断る道理など、ひとっつもない。
そうして気付けば彼女は自室のベッドに横たわり呆然と呟いていることだ。
「……デートでは? デート、なのかな……?」
その響きは彼女自身の鼓膜を揺らし、部屋の空気へと溶け消えていくようで。
花々のさざめき、桜の香気。つべりと自身の頬を掠め撫ぜるその薄桃色の花びら、彼女はふるると睫毛を震わせた後にその瞼を開けた。そうすれば視界に広がる光景は何度目かの景色で。彼女は仄かくらりとした。それは自身に向けられる浅葱色の眼差しに、或いは桜の香気に、漂う感情に。
彼女は彼を見上げる、枝に腰掛けた彼を。
「やぁ、きみ。ずいぶんと嬉しそうな顔をしている。逢瀬なのだってね、きみ」
私は、彼を知っている。
前は合間にさえ覚えていることができなかったけれど、今度ばかりは彼女も彼を知り続けることができた。向けられるこの眼差しも、声音も、私は知っている。彼は、彼は――。彼女が唇で紡ごうとした音は桜のさざめきに攫われた、音のない紡ぎを眼差しでただ彼は見届けている。
次に桜が攫うのは。
デートであるか否か、それを敢えていう必要も無い。彼女が過ごした時間、彼と。互いの合間に零れた笑みなど掬うにしても両の手から溢れ零れてしまうもので。
それで、よい時間というのは流れるのが早いもの。気付けば二人、別れねばいけない黄昏。
彼女の指先は彼の袖口を小さく握り込み、唇は拙くも言葉を紡いでいた。
「あの、また、会えますか……」
「きみ、些か……。婦女子はもっと気をつけるべきだ」
彼女の指先は彼の手によって袖口から離される。彼女の心に影、けれどそれは直ぐに拭い去られた。彼女の指先、いや手は彼の手に包み込まれたのだから。
「期待してしまうだろう、僕は君を好いているのだから」
例えば、歌仙の唇は彼女の頬に触れた。それは口付けだ。
「応じは次の時に聞かせてくれ」
ぼぅとする中でそれでも彼女は彼が手帳を取り出してすらすらとペンで文字を綴ったのを見たし、そうしてそれを自身へと握らせてくるのも感じた。歌仙の言葉も行動も、夢のようであった。けれども夢などではない、かさりと紙の心地と音を知らせたその走り書きが彼女に現実を知らせる。
返事など、決まっている。きっと彼とて彼女の応じを知っている、その唇に寄り添う笑みがよりと自信を孕んでいた。
けれど、けれど応じは次の時。黄昏に二人は別れ、そうして一人一人に夜がやってくるのだろう。
さざめき、桜木のさざめき。夢への誘い。いいや、いいやそれは違う。彼女の目の前に在る桜木に花は着いていない、故にこれは夢ではなくて。夜の月光に浮かぶ桜の葉がざわざわと音聞かせ、彼女の瞳の中に花着けぬ桜木は立つ。
彼女は夢遊病者のように気付いたら、そこに。或いはそう、誘われて。手引いたのは桜か、いいやそれはきっと。
彼女の髪を後ろに流すように風が吹く、音の移り変わり、さぁさぁとした音は花の吹雪を伴って。辺りは白光りに眩しい、当然夜とは言えないもので。空間は霧がかっているような、けれど見えぬことはない。
そうだ、彼女の目の前に彼は立っていた。桜の枝に腰掛けることもなく、薄桃色の花に姿を隠すこともなく。
「きみ、もうずいぶんと心を許している。だから僕はこうしてきみと向き合える」
睫毛で目元に影を落とし、彼は唇に紡いで聞かせる。彼の眼の中には自身を見ている彼女の姿、そうして舞い散る薄桃の花びらが泳いでいることだ。ちらちらとしたそれに彼はゆるりとした瞬きを数度、そうしてその手を彼女へと差し出す。
「僕の、手を取ってくれ」
藤花色の髪、浅葱色の眼、和の装いの後背に舞い散る桜。
「――あなたは、あなたは歌仙」
花がさざめく、彼女が紡いだ音に呼応するように。
「そうだ、僕は歌仙。きみに手を取って欲しい、僕の」
自身で唇にして、けれど彼女の頭の片隅には違和感が。歌仙、歌仙と空にその単語を繰り返せば違和感はより濃くなっていく。花の香気もまた。覚える違和感に、それを知ろうと彼女はするが、知ろうとする合間にも目の前の青年歌仙は差し出したその手を取って欲しいと彼女に眼差し訴える。
それで、彼女はふらりふらりと歩み出す。
例えば、彼女と彼の手が触れあう。その、瞬間。
「違う、あなたは」
花の香気は弾けるようにして霧散したようだ、鏡の割れるような音、まるで何らかの容器が割れそこに満ちていたものが零れだしてしまったような。
「主ッ!」
彼女の鼓膜を震わせた、その心を震わせたのは。
「歌仙、……歌仙!」
彼女の唇は確かな意を以てその名を呼んだ、それで振り返り自身を呼んだ彼の方へと一歩二歩と。桜の木の下に立つ彼との距離は少し少しと離れていく。
桜が互いの間に舞い散る、分かつように。
差し出していた手の平が彼女の手に触れることない様を彼はその浅葱色でじっと見ていた。ひらりと舞い散った桜の花びらが一枚、それはやわく手中へと。眼差しはそっと地へ、そうして求めていた彼女へと。
「そうだね、きみは歌仙の手を取った。僕ではない、歌仙のね」
溢れんばかりの感情がその胸に渦巻いていることだろう、けれど彼はそれを零しだすことなくただ静かに言の葉を紡いだ。
「あなたは、歌仙さん」
「そうだね、僕は所詮きみにとってはそんなところだ。歌仙はそっちだったからね」
そっちと言われた歌仙、彼女が恋した、彼女に恋した彼が険しい眼差しを言葉主へとくれてやる。
「そんなに睨まないでくれ、僕とて之定が一振りであるのだから。きみは選ばれたじゃないか、此度も」
「きみは」
「僕はただの歌仙さ。残念ながら、彼女の手で顕現されることなかった歌仙ではあるがね。それでも僕はかつて彼女に恋していたし、今でもそうだ」
肩を竦める同じ顔の男。
「……そうだ、かつて彼女の手で顕現された歌仙は僕で彼女に恋し彼女と恋したのはこの僕だ。今現在も」
「分かっているよ。残念ながら、僕は昔から彼女の恋の相談相手だった。それ以上でも以下でもなかった。けれど僕はきみに手を取って欲しかったんだ。僕の、この僕のね」
何故、僕はきみのいない本丸に顕現したのだろう。何故、僕はきみに顕現されなかったのだろう。言っても、仕方のないことだけれど。
「僕はね、そっちの僕とは違って今生の存在ではないからね。干渉の全てを許されてはいないということさ。きみが歌仙に心を許したから僕はきみに対面できた。けれどきみが歌仙に心を許したということは……そういうことだって分かっていた。ままならないものだよ」
淡々と言葉を紡ぐかつて別の本丸にいた歌仙、前世で恋の相談相手であったその歌仙に彼女は心を揺らす。
「悲しんでくれるのかい? きみは優しいからね。けれどいいんだ、きっと僕は知っていた。微かな期待を抱いていたが、桜はきみを攫うことができなかっただけ。それだけさ」
歌仙は額にかかった自身の前髪を指先で掬い上げた、それで唇で弧を描いて彼女に見せる。
「それにこれはそんなに悲痛に満ちた終わりでもない。言っただろう、僕も之定が一振りであると。確か、そこにいる歌仙はきみの歌仙兼定だけれど、この世に生まれた歌仙というのはかつての歌仙兼定である。少しだけ、僕でもあるんだからね――だから僕は決して厭うことはない。祝福だけさ、僕がすることは」
歌仙兼定は、桜が舞い散る中に佇む歌仙と恋しい人の姿をその眼に映す。
「雅だ、これで好い。これで」
さぁさぁと桜が。風に零れ桜を舞い上げる風が吹く。その合間に聞える歌仙兼定の声は、やがて風と共に去り行くのだろう。
静かな夜に彼と彼女は佇んでいた。花を着けていないその桜木のたもとに。
月の光が静寂の色、穏やかな夜風が二人の耳元を撫でる。歌仙は、側に在った彼女をその手で引き寄せ腕の中へと抱いた。小さく、主と歌仙は呼んだ。そうして言い直すように彼女の名前も口にする。縋るような響きで、感情を孕ませ、大切であると、一等に愛しいと、何度も。彼女も彼に呼ばれる度に歌仙の名を呼び返した。思いも同じに応じて。
「きみは桜に攫われそうで僕の心は落ち着かないものだ……」
「攫われなかったよ、歌仙が今も抱き留めてる」
「だったら、僕はずっときみをこうしているからな。……嫌かい? あの日の返事を聞かせてくれるかい」
「好きだよ、歌仙。攫われるなら桜じゃなくて歌仙じゃないと嫌だ」
冷えない夜だとしても、互いの距離などないとしても互いより一層と身を寄せあい。
もう一度と吹いた風が彼女の髪を舞い上げた。それに薄桃色は添う。歌仙の腕の中、彼女は目を見開く。視界に舞い踊るその花びらは、花咲くはずのない桜木が着けた桜の花のもので。
彼と彼女が重ねだした手の平の上に花はいずる、ひらりと。そして風。
それは夜の空に高く高くと舞い上がり、やがては月へも届きそうに思うものであった。