眠りの淵にて、きみを待つ
朝露がぽったりと地に落ちた、水鏡に映っていたのは遠く遊ぶ短刀達の姿。賑やかな声、それに共するように木々はさぁさぁと揺れている。未だ午前の陽の眼差しを縁側は受ける、その場を暖めながら。
「主、今日は何して過ごすんだい?」
静かに、それでいて心地よく響いたのは歌仙兼定、その刀の声だ。庭先に向けていた視線を穏やかなそれのままに部屋の内、審神者へと向けた彼はその唇を笑ませる。向けられた審神者、彼女もまたその唇を笑ませて言の葉を紡いでいた。ただし、彼女のそれは苦笑い。
「提出期限が一週間を切った書類を……」
言葉尻は小さくなっていた。歌仙の唇は笑んだまま、けれど浅葱色の眼差しはままに蒼さを深めていく。その眼は笑んでいなかった。言葉にせずとも歌仙は言い、そうして彼女とてその意を得ていた。だからどちらとてそれに対して何も言わず、審神者は筆を取ることになる。
「桜木はもう花を散らしてしまったねえ。どれを見ても葉桜だ」
「もう一度満開の桜から開始できるけど、そういうことじゃないでしょう?」
「そうだね、それは雅じゃない。何気ない、ふとした瞬間に季節を感じるのが風流というものさ。これを用意するのは不粋というものだ」
緩やかに瞬き浅葱色に若葉色を泳がせる、そんな歌仙の姿を審神者は自身の眼差しの先に。
審神者と歌仙の時の織り重ねも数年となる、早いものだ。深く思い出そうとせずと初に見あわせたその時のことは思い出せる、色鮮やかに。舞う桜の花弁美しい、されどそれ以上に花の化身のような姿の神に彼女の目は奪われた。そうして月日を経たせ彼と彼女は歩み寄り、彼女に彼の心は奪われた。心、互い寄り添わせた。
それは尊い。それは儚い。心地は夢と現の狭間、されどそこに在る織り重ね。
陽に翳して目に眩い、簪の煌き。嬉しげに目を細める審神者のその手の簪をそっと取った歌仙は、彼女の後背へと周り手早く髪を纏めてしまう。大輪の花を指の腹に撫ぜ、笑んだ唇は彼女の髪色に触れる。くすぐったげな笑い声、彼女のその声に彼の笑み声も混じってただに穏やかな時間であった。
万屋、そこで売られていた簪を自身買って審神者へと贈った歌仙は満足そうに彼女の隣へと並ぶ。
永久の中をきみと歩みたいと願っている。こうして隣あい歩もうと、この先の道は途切れていると知っている。延々と続く道のりは苦難でもあるのかもしれない。けれどきみが在るのであれば、僕と共に在るのであれば僕にとっては苦難ではない。ひとっつも。形有るものは壊れる、花は散り枯れる。それは醜悪ではない、故に儚く美しいものである。けれど人とは永遠に指先を縋らせたい生き物なのだ。縋りたいと僕とて思っている。自身、人にあらずとも。
今は歌仙の指先は審神者のそれと絡んだ。片手に荷を持ち、もう片手で愛しい人に触れた。きゅっと力を入れられ、指で応えるように肌をさする。いつまでもきみとこう在りたいと思いながら、その心を持ちながら歌仙はただに穏やかな笑みを彼女へと。揺れた藤花色。
藤の花は咲いてただ揺れる。
本丸の在る空間へと足を踏み入れると同時であった、その異様さに気付いたのは。それは歌仙、審神者の両者。漂う気の名残は時間遡行軍のもの、そうして嫌な静寂。秘するとされる本丸の在り所に在ってはならぬ名残、がくがくと震える審神者の脚。歌仙は審神者を支え庇いながらも気配を探っていた、敵軍が既に此処におらぬことは知っていた。探るは、味方刀のもの。眉を顰め、下唇を噛んだ。ぎりりと。
幸福が崩れる間など刹那である。幾ら大事に閉じ込めておこうと、失う。失うとすれど、守るに閉じ込める。守るとするに、失う。
何が過ちであったのか、そこに過ちはあったのか。言うなればそこに過ちは無かった。過ちは、此処にある。
一度襲撃を受けた本丸に住まうことなど勿論のこと叶わず、審神者と歌仙兼定は別の軸の本丸へと身を置いていた。彼女と彼。彼女と彼、だけ。先の時間遡行軍の襲撃によりこの審神者の顕現させた刀剣男士は歌仙を除き全てが折られていた。粉々に散らばる刀身、ぽっきりと折れた刀身。あちらこちらに落ちるその光景、瞼を開けていようと閉ざしていようと関係など無い、彼女の網膜に焼きつき四六時中苛んでいた。
「主、政府からまた便りがきていたよ」
歌仙の声音。彼の差し出した文、それになど目もくれず審神者はその体へと縋る。それを知っていた歌仙、文を机へと置いてその手で彼女の背中を撫ぜ下ろす。
幾度目かの便りは審神者の任を急かすもの、彼女が応じることを止めたもの。彼女は、ただただ恐ろしかった。歌仙を、彼を失うことが。確固として在るもの、永きに続くものなど無いのだ。歌仙以外を失った、そうして彼さえ失ってしまうことなど考えたくもなかった。恐ろしい。恐怖から目を背けたかった、現実など眼下にしたくなかった。眼下、幻覚と刀を散り落とす。
「戦場に出ねば、僕は」
そっと囁くように言った歌仙に審神者はその腕の中で震えた。同じように震える唇で彼女は行ってはいけないと言葉を繰り返す。
「……あなたまで失いたくない、私には歌仙しかいないの……歌仙、歌仙……ずっといて、いっちゃやだ……」
歌仙はその言葉に鼓膜を震わせながら彼女の体を抱き込む、背を撫ぜながらも心をざらりと撫ぜられているのは彼に他ならない。状況はともあれ、彼女に求められているのに彼が喜ばないはずがなかった。政府からの便りなど、彼女に確認を取らずとも破り棄ててしまえばよかったのだ、本当のことを言うと。されどそうとせずに唇に伝えるのは、度に彼女が自身を失うことを恐れ求めてくるから。求められる度に震える心にどうして抗えようか。
歪んでしまった、互い。
そうと知りながら、歌仙は審神者を宥めるにその唇に自身のものを寄せる。一度二度触れ、食み、差し込んだ舌先で唇を開けさせれば舌も絡めあった。彼女の鼻にかかったような声を聞きながら、その背を寝かせていく。己を失うことを恐れる審神者に、己の存在を知らせるに。
自身の装いの前を寛げる歌仙を審神者が止めることもない、当たり前に。やわ肌に薄紅咲いた花、幾数も重なれば牡丹のようだ。薄く消えてしまう前に同じに唇寄せて吸い上げれば彼女は鳴いた。傷の舐め合いのような行為は片手では足らぬものとなっている。
「僕は此処にいるよ。きみに触れているのは、僕だ」
審神者の胸元に頬をつけ、彼女の鼓動を歌仙は聴いている。片手で腿の側面を撫ぜ、その震えを感じている。
恐ろしいとその頬に零れていた雫を舌先に拭い、見下ろす審神者の下方へと。
「どうか泣きやんでおくれ」
雫、ししどに濡れているそれもまた舌先に。幾度と、泣きやんで欲しいと言葉にしながらも舐るそれが涙などではないことなど知れている。雅でもなんでもない言葉遊びでも、ぷくりと膨れたそれを玩ぶ度に善がる彼女の嬌声はどうとあっても歌仙を昂らせた。
「ぁっ、ぅ……! かせんっ……! ぁっぁあっ……!」
「ん、あるじ……僕とてきみを失いたくないんだ」
「ひっ、ぁ……!」
指の腹に敏感なそれを撫ぜ押し、その側にて言の葉紡げば空気の震えさえ愛撫となる。
「僕を失いたくないだろう?」
「っあ、やっ……! かせ、んっ……!」
嫌々と首を振る審神者、白肌を情欲の熱の色に染めている。嫌だ嫌だと失うことを恐れる彼女の唇に自身の吐息を触れさせながら歌仙は宥める、ほら僕は此処に在ると。離れたくないだろうと問い掛けながら、離れてはいない密と触れあっているとする。
ぬちぬちと触れあった性器から水音。甘く色づいた吐息が混じりあう。
「ぁっ、ぁあああ……!」
「っく…………!」
埋めきり、それでもひとつにはなれぬと知る。けれど揺らせば審神者は歌仙へと縋り、求める。求められれば心と体は昂る。一時の救いにしかならずとも一人と一振りは愛欲に溺れ知らぬ振りとした。
ぐちゃぐちゃと音が酷い、或いはその思考回路が。それも仕方なし、雄は昂りを吐き出すに頂きを目前にしていた。
張り詰めた雄の先端で子宮口を打ちつけながらはぁはぁと獣のような荒い呼吸、歌仙は眉を顰めたままに一度息を呑む。詰まった酸素を勢いに吐き出すようにして言葉に紡いだ。
「っぁるじ! きみの、名前を教えてくれ……!」
歌仙に激しく突き上げられながら、審神者はその訴えに僅か戸惑った。刀剣男士に審神者が名を教えることは政府より禁じられている。かつて、名を教えたことによる問題や事件が幾つかあったらしい。戸惑い、けれどそれはほんの僅かでしかない。悦に喘ぎながらも彼女は自身の名を歌仙へと教えていた。彼女の唇が紡ぐ名に歌仙の体は震え、自身の唇で紡げば心も震えた。
もう、抗うことなど。
「かせっ、っっ……!!」
「っふ、ぐぅ……!」
己の名を呼ばれ最奥を突き上げられたことに審神者はどうしようもないままに達し、きつく歌仙を締めつけた。歌仙とて限界のその折りにきつく食まれれば耐え切れぬ。また耐える気など無いと、半ば雄をその場にめりこませるように彼女を攻めながら白濁とした欲を勢いに注ぎ込んだ。びゅくびゅくと互いに響いて感じていた。
主、僕はきみを失いたくない。
ぽつりと、歌仙の涙は審神者の肌へと落つる。
黄昏色に染まった液体、硝子の内。眼差しを閉ざした少女、西暦二千二百五年の闇。争いの軸は此処にあらず、故に少女は此処で眠る。
争いの軸に向かうは精神だけであった。精神しか迎えぬ場所であった。幾つも並ぶ液体で満たされた硝子の棺、その一つで眠る少女の肉体は朽ちぬ。禁忌とも言える干渉、朽ちぬ肉体の作り方。ならば審神者となったものは不死であるのか、それは否。幾ら肉体は永久としても精神はそうではない。精神が何処に宿るのか明言はされていないが、もしかしたら脳に宿っているのかもしれぬ。
その世界で死んだ者の脳は死ぬ、脳死。其処に少女は死ぬ、此処に少女は死ぬ。そうして、死んだ。
時の政府は任を果たさぬ者には罰則を下す。役職は解かれ、貴重とされていた審神者であることでもなくなる。さすれば残った何の価値も無い人間など用もないのだ、一欠けらとて。狭間に帰するに時間も手間もかからぬ。だから、故に、そうして。
夕暮れに染められた液体、少女が水の揺らめきを見ることはない。それは現世に残る、抜け殻。
「僕はきみが好きだ。人であっても、人でなくても。審神者であっても、審神者でなくても」
歌仙は一心に浅葱色を向けながら彼女へと言の葉を紡いだ。後背に彼の声を聞いた彼女は緩やかに振り返り、笑ませるは唇に頬。風に桜の花は舞い、遠くには短刀達の賑やかな声が聞こえる。
彼女は歌仙の手を取り、同じように一心に瞳の色を向けた。
「私も歌仙が好き。歌仙、ずっと一緒にいようね」
桜はよりと舞う。晒されている首筋をひらりと掠め、風に流されて何処と知らずに。
薄桃色に隠れることはできずとも、唇を戯れさせた。そこで時はただ穏やかに織り重なっていた。
誰もいない、誰もいない。底に在るのは付喪神ではない。人でも、神でもない。ただのぬいぐるみ。歌仙ぬい、ぬいと呼ばれていたそれ。ただの無機物であるそれは黄泉の狭間でもない場所の底へ。
永遠の黒。気付けば時は経っていた、百年など疾うに。永遠の白。何処でもない場所でそれはかつてのよき者たちの夢をみる。だけれど誰もいない、誰もいない。底に在るのは誰でもない。
止まぬ雨はないと身を寄せあう。
埋もれるは零れ桜に。
浅葱色に泳ぐ若葉色。
傷の舐め合い。
指先は藤花色に触れる。
さぁさぁとした葉の音。
刀の折れるぱきぱきとした音、惨劇。
簪は陽に眩い。
唇同士の戯れ。
現に知らん振り。
よき者たちの夢、何処でもない場所で綯い交ぜに。
ぬいは語らない、物語の結末など。けれど語るに及ばず。かつての物語の項、ひとつひとつと掬い上げて紐解いて。指先で摘み上げるひとつ、意味あるものなのだから。
――夢を見ているのは、誰だ?
了
――夢を見ているのは、誰だ?
ぬいは語らない、物語の結末など。けれど語るに及ばず。
語るのは、夢を見ている誰か。
物語の結末は描かれている?
――夢を見ているのは、誰だ?
かつての物語の項、ひとつひとつと掬い上げて紐解いて。指先で摘み上げるひとつ、意味あるものなのだから。
問いかけはひとつ。
――夢を見ているのは、誰だ?
夢を見ている者の正体を知り得ただろうか。
一ページ、一ページ、一番最初の文字を掬い上げ、紐解いて。答えを知るにひとつの文字を並べる誰かの指先。
朝、何、黄、誰。あさ、なに、たそ、だれ。あ、な、た、だ。
――夢を見ているのは、誰だ?
それは、あなただ。
ぬいは結末を語らない、結末を語るのは夢を見ているあなた。
幸福も不幸も、あなた次第。
ただ待つのだ、あなたを。
眠りの淵にて、きみを待つ。