散りて花は網膜に焼きつく


ゆるりとした風に庭先の草木が揺れている。さぁさぁとした音は耳に心地よいもののはずだ、目を楽しませる梅の花の紅でさえ風流なそれだ。けれども、向けた自身の眼差しはただに視線。心に何一つと浮かばないと知る。その理由でさえ知っている。いつからだろう、筆を取らなくなってしまったのは、瞬きの合間に苦を重ねるようになったのは。はらりと地に舞い散る梅の花びらに重ねてしまうそれの意。
 庭先の梅の木から視線を戻すと、きみは筆を指先にただ遊ばせていた。一度、二度、知られずに瞬くことを繰り返す。薄く開いた自身の唇、引き結び、紡ぐ音を選ぶ。
「主、手が止まっている」
 淡々と紡げばきみの視線は僕へと向き、そうして無感情に紙の上へと戻ってしまった。指は筆に遊ぶだけ、けれども胸内に唇噛むのはきみのその行動の為でなし。ただに己へと向けて。
「それは今日に終えねばいけないものだろう、筆を休ませる暇など――」
 自身の声音を途絶えさせたのは、きみにはまだ捉えられないとしても僕には分かるその気配と足音の為だ。足取り確かに向かってくるそれに、煮え滾ったものを臓腑に注ぎ込まれたような感覚を覚える。数秒の後に窺える姿をこの目に映したくはない、故に僕はそっと顔先を部屋の隅へと向けるのだ。
「主、八つ時だ。甘味を拵えたから、休憩を挟んではどうだい?」
 眼差しを背けれど耳に聞こえるそれは仕方なし、けれども憎らしくなる。心弾ませて言の葉を紡いでいるその声色、自身のものと同じであるのだから。
「ありがとう歌仙さん。でもこれを終わらせて」
「暇を取るのも大事だよ。体が資本なのだからね、僕もきみも」
「……うん」
 きみの声音、ちらりと視線戻せば部屋の隅へもう一度と戻すことができず。きみの頬が緩むのをこの浅葱色に映している。その姿は揺れない。ただに心一つで見つめているのだから。
 僕はきみを好いている、恋うている。きみが笑みを向けているのはそこに在る二振り目の歌仙兼定であろうと、壱に手にされた刀としての僕はその時よりただきみを、きみだけを恋うている。
 けれど、悋気の念を孕みとてこの唇に紡ぐことはないのだろうと他人事に思う。ぁあ、いや、僕は人ではなかった。あれとてそうだ。同じに刀、そうして同じ刀の分霊である。だというに、と呟きかけた胸内拭い去るに噛んだ下唇をきみは見返ることはない。
 ぴくぴくと痙攣するように腿の上に跳ねる自身の指はきっと同じ顔の男の首を斬りたがっている。拳、握り込んで心中にて嘲笑った。

「っせめて雅に散れ!」
 敵打刀の首が飛ぶ、振るった歌仙兼定の儘に。前へと踏み出していた脚に力、身を翻し僕の後背を狙っていた敵短刀の体を薙ぐ。返り血、頬へ飛ぼうと構いやしない。付着したそれを拭うことなく戦場に視線を走らせ他を知る。地に脚、立っているのは全振りが味方だ。それにゆっくりと瞬きを繰り返し、抑えていた呼吸数を平常のものへと戻していく。
「……この時代の遡行軍は征した、帰城しよう」
 ぽったりと地に黒々とした体液が落ちた。見れば自身は返り血に酷く汚れている。付着したそれらに己のものは含まれていない、僕は掠り傷一つ受けていない。目を細め、元に戻す。きっと此度の誉も僕が頂戴することだろう。
 帰城は早い、原理は知らぬが時の政府が生み出した機能故に。此度の戦果の情報も唇紡がずとも知れていることだ、けれども僕は自身の言葉を以ってきみに伝えたい。だから手早く戦支度を解いて向かうのだ。
 快勝、戦果の報告。淡々と紡ぎ、その耳に流し込まれる。部隊長の、きみに戦果を報告するこの座を他の刀に譲るわけにはいかない。だから此度も努め振るったそれで誉を頂戴した。変らず、此度の誉も僕だ。変らず、けれどもいつしかきみは誉のそれに対して唇を開くことをしなくなっていた。瞳さえ、今は僕を見ずに下方へ向かう。ただ情報を印したそれへと。
 きみは今、何を思っているのだ。きっと何とも思っていないんだろう、僕に対しては。
 散った葉が折り重なったようなこの胸の心持ちだ。
 忌々しいと眉が寄る、きみは眼差し向けてこないので結構である。神気が、自身とよく似た神気が近くなる。
「主、ただいま。遠征より帰ったよ」
 無表情を努めてただ見た、遠征より戻ったという二振り目、その手の内の桃の花木。
 報告をし終えたことだからと腰を上げ、二振り目と入れ替わるように部屋を後にした。いつしか入れ替わってしまったのは、本当のそれは何だというのか。

 確かに、僕が主に対して言の葉を紡ぐそれに甘やかさはないだろう。知っている、好意を向けてくる相手とそうでない相手であるのならば前者の方が好まれるであろうことを。ましてや僕とあれは同じ見目をしているのだから。されど、もしこの僕が今更に唇に紡げばそれはどうだ。ただの模倣だ。それは、僕ではない。きみの初期刀歌仙兼定ではない。きみが好んでいる二振り目の歌仙兼定を真似ているだけでしかない。それで好かれようと、僕を好いていることにはならない。口惜しい。
 部屋を出る際に盗み見たそれはきみの指先が薄桃色に触れるもの。刀の指先に触れてしまったもの。気が、狂いそうになる。

 主、僕はきみが好きだ。知らぬだろう、気付いていないだろう。けれど好きだ、恋うている、愛している。
「っ、……ぅ、く……ふっ、……ぁ、っっ……!」
 閉じた瞼の下にきみのあらぬ姿を描きながら肉慾に追い縋る。視界閉ざせど音はどうしても自身の鼓膜を震わせる。ぬちゅぬちゅとした粘着質な音、ただ自身の手で屹立した性器を擦り上げ下ろしているだけ。それでも、きみがただ僕を、僕だけを欲して善がっている様を思い描きながら扱き上げれば得も言えぬ悦が。腰の辺りから甘い焦がれがぞくぞくと背筋へと駆けていく。くらりくらりと、目眩。僕の名を呼び縋り、欲しい欲しいときみが求めるそれに。
「っぅ、ぅう……!」
 きみに本に与えられるのは僕だ。僕だけだ。力が全てとは言わないが、あれより僕の方が練度も圧倒的に高い。望んだ戦果を持ち帰っている。欲した刀を持ち帰ったこともある、折ってやろうかと思いつつも。僕は、僕にはきみだけであるというに、きみには二振り目がいる。もしかしたら、そう、三振り四振りと。
「ぁっ、ぁるじっ……! っは、ぁ、……!」
 欲しいかい、僕が。やろう、幾らでもやろう。きみが、他ならぬきみが欲するのであれば。
 欲しているのは自身だ、何よりも強くきみを求めている。きみを乞うている。きみを愛している、きみに愛されたいと望んでいる。
「っく……! っ、でっ……! でるっ、あるじっ! あるじっ!」
 絵空、きみを強く抱き込んで胎へと自身の子種を余すことなく注ぎ込む。実には己の手の平に欲を吐き出していようと、今だけは知らぬと描いたきみへと縋りつく。
 気付けば、黄昏がやってきていた。

 宵の静寂、自身の足音。疚しいことなど何もない。月の無い夜に漏れる審神者部屋の明かりにふらりと手引かれたのは無理もない。言い訳と、知りつつも。
 かたりと音を響かせた、気配だって消しておらぬ。それに、きみは起きて眼差しを見せていた。こちらを見たのは一瞬ではあったが。
 心が跳ねる、きみが戻した視線の先、指先にあるのは桃の花木だ。
「なんだい起きているのは業務ではないのか。……勤めに支障をきたすだろう、その花を愛でる時があるのなら早に寝ることだね」
 自身の声音の冷たさは己のことながらよく分かった。故に視線をこちらへと向けるをしないきみの心持もまた。いいや、きっときみの心を知る時は僕にはいつまで経ってもやってこないだろう。
「……歌仙は花を愛でることも忘れてしまったの? 全然風流じゃないね。歌仙さんの方がよっぽど――」
 音は、遅れてやってきた。
 畳の上へと滑稽な姿で身を転ばすきみが僕を見仰いでいた。肌を打ってはいない、ただに身を放り投げさせただけだ。着崩れた襟元、捲くれ上がった裾にきわどく脚が見え隠れ。きみは、何度と僕の心をざらりと撫ぜる。
「抱くよ」
 その瞳の色に自身の色を溶け込ませるように食い入り、言の葉を放つ。どちらとて揺るいでいない。衣擦れの音だけが宵の静寂に響いている。それだけだ。主、きみの拒絶とする言葉はその唇から零れ落ちてこない。けれども表情、僕と同じに感情を浮かべていない。
 刀剣男士の力を以って奪い去る装いのなんと心許無いことよ。ただの布っ切れ、一枚とてきみの姿を霞させるを許さぬ。
「…………」
 きみは、何も言わない。身を捩りもしない。体が強張っているでもなし、ただだらりとした四肢。されどこれは僕に身を委ねたそれではないと知っている、分かっている。知らぬ、知らぬと君を脱がせていく。全てを取り払えば、当たり前にきみのやわ肌がこの浅葱色に浮かび上がった。青っ白く、傷の一つもないきみの肌。ただに無垢な姿だ。
「――無理だ、僕にはできないんだっ……!」
 叫ぶように言い放つ。言葉の後、喉が引き攣る感覚。食い入るように見ていた姿は白く滲んだ。自身の頬を濡らす感覚に己が泣いていることを知る。ぼろぼろと零れているそれがきみの肌を打っている。しゃくり、肩を揺らす僕の姿がきみの眼の中に泳いでいた。僕だけが、感情を顕にしていた。
「っ僕は、優しくすることができないんだ。だからといって、傷つけることすらできない……! 僕はっ! きみに、何も残せないんだ……!」
 身を退け、その足元にて蹲る。呻き、懺悔する。僕が言の葉を紡いで聞かせる間、きみは何一つと発しない。ただただ僕の行いの音だけが部屋に木霊している。
「教えてくれ、僕は君に何なら残せるんだい……?」
 畳へと擦りつけていた額、顔を上げる。きみは僕の方に眼差しを向けていたがそこには何の感情も孕んでいない。
「……資材かな」
 きみはただ身を捩り目の色を隠した。

 何も変らない。あの宵など互いの合間に無かったかのよう。きみの僕へのそれも、僕のきみへのそれも、変らない。それでよい、それでよいのだ。何があろうと、僕はきみに何も残せないと知ったから。
 月は指折りに時を進ませる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、互いの合間に散りて花に葉は折り重なっているのだろうか。それは一体何なのだろうか。知らぬ。

 本来、審神者と刀剣男士が住まう本丸の在り所は秘すとされている。敵に居場所を知られることなどあってはならぬことだからだ。しかし、敵も無能ではない。絶対に無いとは言い切れぬと聞いていた、敵軍の襲撃。しかし、それが、自身のそれにあるなど思いたくもなかった。
 襲撃、僕が帰城したその時には既に酷い有様であった。ぽっきりと折られた刀が転がっている。人の身を失っておらずとも癒えるを許さぬ重い傷に地面へと転がり無を向かえようとする者。倒れている者は味方だけではない、敵も多数死んでいる。その数も多い。
 自身の神気を薄く広げ全体の有様を知る、地の獄は此処に在った。
 刹那、刀を握る方角から飛び出して来た敵短刀を薙ぎ払う、どす黒い体液が散った。一体ではない。二度、三度と払いながら体制を整える。やはり明らか、数が多い。また察するに練度も高い。伏した味方刀のそれでも知れる、また共に帰城した第一部隊の刀が倒れたのも視界の端に捉えた。同時に、槍の穂が横腹を掠める。踏み出し、刀の切っ先をその眉間に深く埋め、穿つ。胴を蹴り本性を抜き出す儘に体振り返る、後方の打刀を両断した。
 本性を握り直し、駆け出す。行き先など決まっている。その合間に死にに来る敵刀を斬り伏せていく。掠める。穿たれる。斬られる。血が噴き出す。刹那の熱だ、その後は感じぬ知らぬ。邪魔者を斬り伏せ、求めるはただ一人きみの姿だ。その唇が空気を吐き出しているかどうかも知れぬのだ、焦燥に斬り転がした首が僕の駆けりに打つかり何処ぞへ跳ねていく。知らぬ。
 きみの姿、振り被らんとされる大刀。首を、斬る。
 揺らぐ敵大太刀を蹴りきみの姿を確かとした。それでも返り血に右の視界は赤く霞み確かとは見えぬ。そうして視界斜めに構えてしまうのは、僕の首が中ほどまで斬り込まれているからであろう。この身は、もう持たぬ。されど、敵の全てを奢ったと知れる。生きたきみがこの眼差しの先に在ると知れる。それだけで、僕はもう良かった。
「か、せん」
 きみの声音に安堵したのかもしれない、膝から地に崩れ落ちてしまった。刀は僕の手より離れ土に音を聞かせる。指が震えている、血を失い過ぎた。肉も幾分失っている。揺れてしまった首に、きみ以外の姿も映った。いたのか、と見る。両膝から下を失いそれでも刀剣破壊とはならぬであろう具合の二振り目がそこにただただ在った。本性は払われたのか目に捉えられぬ、どうでもよかった。
「あるじ……どうやら僕はきみに資材さえ、残せないようだ……」
 言葉、紡ぎながらきみへと視線を戻す。自身の手で傾いた首を戻しながら。どうやら指も何本か失っていたようだ。
「――ぁ」
 不意に零してしまった声。僕の首はあたたかなもので包まれたから。あたたかな、きみ。僕へと縋りつくきみ。僕の主。
「歌仙、あなたが、やはりあなたが誰よりも綺麗……」
 僕の首を抱いたきみは、その両の手に僕の頬を。傾いた視界、赤い霞、それでもきみと眼差しをあわせることができた。
「あるじ」
 顔を見せてくれたきみの表情、僕は何よりも強いものをきみへと遺せたことを知る。紅く染まった頬に、涙潤ませた瞳、熱く零された吐息。それらは恍惚。僕は、きみに遺した。これは呪いだ。資材など到底、足元にも及ばない。きみに、遺せた。呪いは、きみの心を蝕み続けるであろう。二振り目など、もうどうでもよろしい。三振り、四振りと来ようと、僕はもう知っている。この呪いの強さを知っている。きみに遺せたものの尊さを知っている。
「歌仙……」
 きみの唇が悦として僕の名を紡ぐのだ。霞む意識、最期震えたこの心。

 嗚呼、恐悦至極だ。