わずらい


 はらり。瞬きをした浅葱色、歌仙の睫毛の影から薄桃色の花びらが落ちた。する、と彼の頬を滑り撫でたその一枚は、おもむろに差し出した私の手の平の上へとゆっくりと舞い降りたようで。片手の平、飽いていた左手を伸ばす。その花びらは私の爪よりも小さい。それは儚い。薄桃のそれは指のはらにすべすべと心地のよい触りのものだった。
 花に遊んでいた私の視界にすっと入り込んできたしなやかな指先、これは歌仙のもの。彼の指の腹とて、薄桃を撫でた。花びら越しの触れ合い、静かに自身の口辺が持ち上がるのを感じる。そうして、私の鼓膜をくすぐるかのように零される音も。静かで、低い、この胸の下に在るだろう心が撫ぜられる。きっと、彼もそうと知って穏やかに笑っているのだ。歌仙の声、嫌いではない。視線の先に在る指先も、嫌いではない。そうして勿論、歌仙、あなたそのものとて嫌いではないのだ。
 私の手は、薄桃を握り込んだままに歌仙の手の内だ。彼の着物の袖、手首辺りに密と揺れる紫苑色。
「主、縁側に出ないかい?」
 その誘う言葉、彼の表情へと私は自身の顔を上げる。仄かに小首を傾げた歌仙に、彼の髪の藤花色が揺れた。その側、左耳の傍らでは白藤色が枝垂れている。それは藤の花。形容するものではない、本当の生花。鼻先を近づければその花の香さえ分かる、紛う事なきそこに咲く花。
「なんで?」
「理由を聞くのかい? そうだねえ、どういうことにしておこうか」
 きみの手が冷えているようだから、と歌仙が言った。歌仙の手が温めていると答えておいた。
 庭先に植わる花が咲いたと聞いたよ、と歌仙が言う。歌仙の側にも花は咲いていると私は言った。
 おやおやと歌仙はその唇を笑ませた、それを私は自身の眼差しにじっと見ている。ふっと、小さく笑みの空気を零した彼の唇。目元に咲いた彼岸桜が揺れて、ひらりとまたその花びらを散らした。薄桃を見ていれば、その花の香りは私へと寄り添うように近くなる。
「好いた同士の男女が閨にいればどうなるか、分かりきったことだろう?」
 近づいたのは花の香りだけではない、歌仙自体だ。言葉の後にその唇は私の頬に、目元に触れた。花が私の肌にも触れる、そうして散り落ちる。
「まだ、明るい」
「そうだね、だけれど関係が無い」
「寧ろ、ほんの前まで」
「それもまた、さ」
 しかし、移り行く日々の尊さを感ずることも大切だからね。と、歌仙は私の髪の一束を手に、唇を寄せた。彼の少し崩れた着物の襟元、そこから覗く牡丹が酷く悩ましいものだと私は思う。視線を、顔を背けるにも私の髪を歌仙が手にしている為にそうとできない。言い訳だと、分かってはいるけど。

 歌仙の体に花が咲き始めて、もう一年が過ぎたのかとぼんやりと思う。春のやわらかな日差しに肌を染める歌仙、縁側に隣合い座り、なんとはなしに絡めた指に視線を向ける。すんと息を吸えばどの花から香るかまでは分からないが、どこか甘い香りが私の肺をいっぱいに満たす。歌仙だけの香りが好きであった。あった、と言うように過去、今は花の香りも混じる彼の香りが好きだ。季節を知らん振りしたままに気紛れと咲く花に、歌仙の香りは定まらない。それでも、私をその腕に抱いてくれた時に包む香りは欠片とて嫌いになるものではない。時に穏やかに、時にざわざわと、私の心を撫ぜる彼のそれが好き。
 緩やかに瞬きを繰り返すと陽光に瞼が温かい。瞼を閉ざした歌仙が今、何を思っているのか私には知れない。眠っているのだろうかと、肩口の白雪芥子に触れるとただに彼は笑み声を零す。眠ってはいない、浅葱色をその瞼に隠したままに花を陽に遊ばせているだけだ。白い花は、日光の為に目に眩しい。
 花は、奇病。天の災いや妬みによる呪いではないのだ。少なくとも、政府の見解では。とても現実のものとは思えない奇病。されどそれを歌仙は患った。そうして過去よりそうであったのだけれど、とても現実の下に在るとは思えないその美しさ。私の初期刀でいて、始まりからこの先の終りまで続く近侍のその彼、歌仙兼定。彼は、体に花を咲かせながらも今日も確かに此処に在る。
 病を発症してから彼の顔色が悪くなっただとか、その腕は痩せ細ってしまっただとか、そういった支障は無いのだ。それでも時折、大小様々な花に埋もれるようにして身を横たえている彼を、その浅葱色を瞼の下に隠している様を見ると、私の心は酷く焦る。その頬はとても血色がよいというに、自身の瞳の色で見下ろしたその景色はまるで、まるでとこの心を喧しいほどに騒ぎ立てるのだ。
「主、どうかしたかい」
「何も、ないよ。歌仙こそどうかしたの」
「少しだけ手に力が入ったようだからね、いいや」
 歌仙の指の腹が私の手を摩る。
「きみは、躑躅は好きかい?」
「つつじ」
「牡丹色より仄か色濃い、色の名にさえ宛がわれているその様の」
「たぶん好き」
「そうかい、残念ながら今日は咲いていないようだ」
「……花、言葉」
「おや、知りたいのかい? 恋の喜びだよ、その花の言葉は」
 ふと顔を向けると、その浅葱色はどこまでも優しげな様子で私へと向けられていた。それがどこかと私には恥ずかしいもので、庭の砂利へと視線を落として顔を俯ける。しかしそんな抵抗、些細なものだ。歌仙にとって。
「咲き誇る花は不粋だと知りつつも手折りたくなるものだ」
 その手は、私の頬へと触れた。
「主、こちらを向いて」
 そうと歌仙は言うが、その言葉のままに彼の方を向くなど難しい。視線一つでも心を急かしてしまう私だ、そうと知っているのに態々と言葉で遊ぶのだ。
 その言葉に私が視線を砂利から上げることがなくとも、やはり歌仙には支障が無いらしい。頬に触れていた手は至極優しく、それでも視線を歌仙自身へと向けるに至らせる。歌仙の眼差しの先に自身がいて、彼の浅葱色の中にまで自身の存在がある。きっと、私の頬は彼の目元に咲くその花の薄桃色より色濃いものだ。
「僕はね、きみの眼の色も好きだ。しかしね、こういう時はその瞼の下に秘すとしたものだよ」
「こういう時」
「ああ、口付けてもいいだろう?」
 言いながら、聞きながらも、歌仙は私の応じを待つことなく一度指の腹で撫ぜた私の唇へと彼自身のものを寄せるのだ。仄かな触れ合いを繰り返し、私が瞼を閉じればそれは口付けと表すそれから口吸いと呼ばれるものに移り変わる。小さく響いた水音、それに歌仙の襟元の絹地を握り込めば響いたそれは衣擦れの音にくしゃりとした花びらの音。牡丹はきっと、その胸元で花を崩した。

 花が咲き始めた当初、歌仙は口吸いはおろかその身に触れる、近付くことさえ許さなかった。睫毛と共に小さな花をその目元で揺らし、その奇病が私へと伝わる可能性が僅かでもある事柄を排除する項を淡々とその唇で紡いだ。一番にその唇で紡いだのは自身を刀解するようにとのことだった。私は勿論反対した。
「いいかい、このような奇病、きみが患うとすれば何れこの病の前に僕が亡きものになろうと、その前にこの身この心は死ぬ」
 だから、刀解を許すとしないならせめて僕の側に在ることを止めるんだ。言葉を最後に、障子戸は静かに閉められた。縋るに縋れぬとその場でただ泣き濡れては涙を零し落とした。その先に歌仙の姿を知ろうとも、触れることはできないと。
 そうして歌仙の姿を見ること叶わず声だけを耳に通すこと三月、その日もただに彼の声だけに縋り付いていた。その時の言の葉のやりとりの内容は、仄かにしか覚えていない。歌仙の読む和歌を聞いていた、彼の声に耳を傾けているようでいなかった。私は静かに障子戸に手をかけたまま、自身の煩い心音を聞いていた。
 元より錠など無いものだ、それでも歌仙の、彼の私の思う気持ちが分かる故に開けなかった扉だ。
 歌仙の驚きの声もそのままに、私は飛び込むようにしてその胸へと縋り付いた。そこに咲く花々に埋もれるように、溺れるように。
「何故っ、何故だ主! 約束したことだろう……!」
「ごめんっ、なさい」
「どうか離れてくれ、そうして出て行くんだ。ああ……花が、花に触れてしまっては……」
「――約束を守ることは私にはできていなかった、一つも」
 歌仙の姿を見ること叶わず声だけを耳に通すこと三月。彼の私の思う気持ちが分かる故に開けなかった扉。そんなもの、私にはなかった。
「ごめんなさい……私は、眠る歌仙を伺いに何度も側に寄った……それに、口付けさえした……」
「そんな、そんな――」
「っけれど! けれど、私には何に一つも無い。今も、ほら……私の胸を痛めるのは歌仙のこと以外何に一つも無いの」
「しかし、もしもきみに何かがあったら僕は……」
「歌仙が側にいないなら、死んでいると変わらない。だから、だからもう許して」
 歌仙の胸元より顔を上げ、彼の浅葱色を伺う。白萩の花が枝垂れ、浅葱色と共に私を見下ろしていた。歌仙のその双眸を覗き込むことができたのは確かに三月ぶりのことだ。私の愛してやまないその色だ。自身から寄せた唇、白の花に触れさせて確かに患うことが怖くないと伝える。彼の戸惑う唇、言の葉を紡ぐ前にそれにすら私自身から触れた。
「花に死ぬというなら、一緒に死ぬことを選ばせて」
「きみは、……僕と共に逝くというのか」
 刀と人、何れ辿り着くそこが同じではないというに。歌仙の唇は静かな音を以って紡いだ。彼を仰いで視界を彼で埋める私に、白萩の花びらはひらひらと舞い落ちてくる。見れば、目元の茉莉花は仄かに珠露をその花びらへと浮かべていた。それの愛しいさまを、私はずっと見ていた。何に一つも恐ろしくは無いと、花を共に。

 花は散る、花は枯れる。されど花はまたと咲き誇る。今はただ、歌仙と共に私は在れる。

 分かつ熱、重ねていた吐息をそっと離すその気配に閉ざしていた瞼を開ける。彼岸桜、花びら散らし欠けたそれを目元に浅葱色がただと私の目を覗き込む。近い距離は変わらない、歌仙の吐息は未だ私の唇に触れてこの心を撫ぜ続けていた。だから、だから視線を逸らすことなど。
「考え事かい、妬けるね」
「歌仙のことであるのに?」
「それでも、だよ」
 既に春に温められた体をよりとするように歌仙は私を抱き込む、耳元に唇を寄せられれば藤の枝垂れが私の頬をくすぐるものだから身じろいでしまう。決して歌仙から逃げるものではないというに、そうした私の動きでさえ抱き込む歌仙。肺は香りで満ちている、この胸もまた歌仙で満ちている。
「宵闇には程遠い。黄昏にさえ、だ」
 彼の声に、花を揺らすようにして言葉を返すその内容など決まりきったものだ。

 私の体に花は未だ咲いていない。けれど、宿した思いを芽吹きと言い、歌仙の言の葉一つで咲いて、そこに在り続ける花は疾うにこの身の内に。
 歌仙、あなたが好き。
 花は散らない、花は枯れない。されど花はまたと咲き誇る。今はただ、歌仙と共に在れるこの日々が愛しい。