覆水の行方
始まりは些細なものかもしれない、それはどんな事柄においても。流れる小川が何れ大河になるかのように、一輪の花の息吹がやがて咲き誇る一面を魅せるかのように、ぽつりと打った雨粒は心という水面に波紋を広げていた。それは知らず知らず、知らぬ知らぬと。
夜を降り通した雨は又昼を降り通す勢いに本丸の屋根を叩いていた。鼓膜もその荒い雨音に打たれてはどこか心臓に響く。
審神者部屋、そこで紙面に筆を滑らせていた審神者。この本丸の主である彼女は降り止まぬ雨を見やるように閉ざされたままの障子戸の先へと視線を向けた。絶えず呼吸を繰り返す肺は雨の湿気った空気を取り込んでは余分な物を吐き出させる。墨の乾きが悪い、そうした言い訳に筆を転ばさぬように硯へ預け向けた視線の先には近侍である歌仙兼定、その一振りが。彼女の唯一である、一振りが。
「雨、止まないね」
耳に煩い雨の音、その中でも彼女の声は響くようだ。僅かに膝を開けた正座で控え、眼差しを畳みへと落としていた歌仙はそのままにあぁとした返しの言の葉を彼女へと聞かせた。それもまた雨の音に紛れることはなく。
審神者である彼女の初期刀でいて近侍である歌仙兼定、この本丸に唯一存在するその刀剣男士一振り。彼女の唯一。
審神者は向けた視線の先、歌仙の眉根の溝を知った。僅かなそれに睫毛を震わせる。零した吐息はどちらのものでもある、苦しげな響きのそれだ。次いで鼓膜に響いたのは衣擦れの音、歌仙が己の胸元の着物を指先に握り込んだ音。僅かに背を丸めるようにしたそれに審神者は目を見開き、そうして咄嗟に彼に縋り付いた。
「歌仙っ、どうしたの……? 具合が、悪いの……?」
「っいや、何でも無い。……大丈夫だから……」
着物の袖に縋り付いた審神者の指先を歌仙は解いた。やわい動きでされたそれは、それでも審神者の心に小さな棘の痛みを知らせる。不安げに揺れた審神者の目の色、彼女の色は混じることのない歌仙の浅葱色へと向けられた。だけれどふいと逸らされた彼の眼差しに彼女は伏し目に睫毛の影を落とす。そこに雨は降らねど、心には降るようだった。
降りしきる雨はその日を通してそこに在るものを打ち続けた。ただ一つの器、それを受けきるには到底足りない、と。
それは一度の出陣を終え、そうして手入れにより怪我を治癒し終えた直後の事。欠けの一つも見当たらぬ本性歌仙兼定の刀身を収めた鞘を歌仙が受け取ろうと伸ばした手、それは空を掻いた。審神者が目を見開いたのは視線の先、歌仙が痛みに蹲るかのように上体を畳みへと伏せたからだ。
「ァっ、っが……! ぐ、ゥ……!!」
下方から聞こえる音は、歌仙の声、だろうか。そう戸惑う程の音は呻き声に成りかけたどこか人ではあらぬ音。空を掻いた手は寸にその音へと向かうようにして審神者の目前より引き下がった。そうして空を掻いたその指先は彼の、自身の喉を掻き毟り始めた。
「っ歌仙!?」
行動が遅れたが歌仙の異変に審神者は彼へと呼びかけながら距離を詰め、そうして喉元を掻くその手を制するに己の手で触れた。いや、その手は触れる前に歌仙の手の中に在った。
「っあ゛!」
ぎりりと音が聞こえる程掴み込まれた痛みに審神者は声を上げる。しかし彼女の訴えの声にその力が弱まることはない。寧ろ骨を砕かんとするかのように歌仙の力は徐々に強まっている。己の骨が軋む音、それを聴覚に聞きながらも審神者はか細くも彼の名を呼んだ。唯一の名、彼女の唇が紡ぐ唯一の音。
ふと、途切れるように握り込まれる力は無くなった。そうして無くなったのはそれだけではなく、歌仙兼定その一振りの意識もまた。畳みを打つ音、倒れたその体。意識を無くせども荒く聞こえる喉の奥からの濁った呼吸音。審神者は痛む手へと気をやることも無く歌仙を見ていた。
本丸を濡らす雨は、降り止んでいた。
時の政府より派遣された人間、垂れ下がった面布の下でその唇はただ淡々と音を紡いだ。
「原因不明です。この刀はもう、駄目でしょう」
使えないと音は響いた。後の音は刀解を勧めるものだ。審神者は、四肢を掻き寄せるようにしてただただ蹲り呻きの音を響かせる歌仙から視線を心を逸らさぬままに首を振った。そのようなこと、できぬと。その首降りを、歌仙兼定の首元の掻き傷を、順にただ見た時の政府の人間は腰を上げた。その足のままに部屋を出れば、もう用は終わったと帰ることだろう。
「はッ、ァ、……っ、……! ふ、ゥ……!」
苦しげに震える背を、体を、自身では宥めることができずと思いながらも審神者は抱きしめるようにしてただただ悲運に喘いだ。歌仙、歌仙と彼の名を呼び重ねる。部屋に響くのは荒い呼吸に審神者の悲痛な声で。
「歌仙、歌仙……」
その名と共に零れ落ちた涙は歌仙の着物へと滲み濡れた。それに跳ねた体を心を誰が知ろうか。
時は経った、しかし時は薬には成らぬ。或いは薬だ、劇物だ。確かな病の名を知らぬままに重ねてはそれをただ深めることと知らず。だけれどそれが唯一できることであると、最善であると信じるしかなく。審神者と歌仙兼定の間に折り重なるものは。
部屋が薄暗く感ずるのは心持の為かもしれない。審神者の向けた視線の先、畳みへとだらりと体を横たえて虚ろな視線を返す歌仙のその様は明らかに悪化しているものであったから。藤花色で美しい髪、それも今や痛み彼の青っ白い頬の肌にかかる。かつて優しげな眼差しを審神者へと向けていた浅葱色はくすみ、ただただ審神者の動きを緩慢と追う。嫌に静寂な姿、されど呼吸の荒い音。審神者はただただ歌仙を思いその頬を涙で濡らした。ぽたりと彼女の涙は歌仙の頬を打つ。ひとつ、ふたつ。
みっつ、打ったそれが本当に打ったのは。
響いた音にやはり荒い呼吸の音は追い縋った。一に響いたのは審神者の後背から、荒い呼吸の音、見仰ぐ。審神者が己の涙で白く滲んだ視界に広げたのはその何処までも深い蒼さ、浅葱色。
――それは口吸いであった。喰うような、喰われるような。
「ふ、ぁ……! んんっ……! ぁ、ん……っっ……!!」
「……ッ、……! ふ、……、……」
喘ぎの音を追い縋るように歌仙の舌は審神者の口内で暴れ、そうして彼女の舌に絡み付いた。扱き上げるかのようなそれに審神者が体を震わせるそれを知りながら、ただ執拗に絡ませるを続ける。ずりゅっとした滑り。それにびくりっと跳ねた体に舌同士が離れれば、寸に歌仙のものは縋りじゅっと彼女の舌先を吸い立てた。震えは、止まない。
「っっ……! ふ、ぅ……! は、あ……っ、……」
ぬるりと舌は退いた、そうして唇同士もまた離れた。くらくらとした脳で酸素が足りぬと審神者は喘いだ。確かとない意識で音を聞いた、それは絹を裂く音。その音は己の体の直ぐ側、本の産毛ほどの先より。
「っ……!?」
審神者の装いは歌仙によって手荒に破かれた、そうしてその浅葱色に晒された生肌は彼の視線にぞくりと震える。小さな悲鳴の音は彼女の唇から零れる前に喘ぎにも似た響きに成った。ねっとりと、歌仙の舌が審神者の首を舐り上げる。ぁぁ、と聞こえた音を確かめるように舌は二度その場を舐め上げた。
「ぁあ、やっ……! かせっ……!」
「っ、ッぐ、……!」
歌仙は審神者の首筋より弾かれるようにその顔を上げた。そうして荒い呼吸を繰り返すままに己の喉に手、爪先で肌を引っ掻く。深爪のそれでも皮膚は破かれ赤い線と共に血が滲む。刻んだ罪を数えるかのように、赤い線は増えていく。
僅かに尻を滑らせ身を退けたのは審神者とて無意識だったのかもしれない、それは歌仙を拒絶するものでなくとも。喉元で跳ねた歌仙の指先はその場を引っ掻くことを止め、それは直ぐに審神者の体を押さえ付けるに至った。下腹部に手の平、もう片手がままに審神者の下半身への装いにかかり、絹を裂く音はまたと。刀剣男士の力を以って事をすれば装いなどただの布切れに寸に変わる。審神者はただに布切れを肌に触れさせているだけのようなものであった。
「ひっ……!」
審神者が喉を音に鳴かせたのは、自身の両腿に指先を埋め込ませる程に歌仙が手をやったからだ。後に鬱血の痕を残すであろう程の力、それで歌仙は審神者の腿を開かせた。なれば彼の眼差しの先には彼女の、女人の秘する所が晒される。息を呑んだ、されど彼女の抵抗する力など些細なもので。
「っあ! やっ、やだっ! ひ、ぃ、……! んっ、あっ……!」
「っ、……ふ……、…っハ……ァ……は、……ァっ」
歌仙の荒い呼吸は審神者の股の間で零されている、それが表す意味。まるで喉を掻いていたのはその渇きを訴えていたようで、そうして審神者の内から溢れてくるもので己の喉を潤そうとするかのように歌仙はその場所へと執拗に吸い付いては舌で舐り上げていた。激しい吸い付き舐りにまた水音も激しい、そうしてその動きに歌仙の鼻先がぐりぐりと審神者の陰核を押し滑る。それもまた愛撫。
「かせっ……! あっ、ん! かせんっ……!」
吸い付かれるそれを制しようとする審神者のその手は、歌仙を己の股座へと押し付けているようにも見える。ぐちゅ、と差し込まれた舌先に指先は跳ね、そうして浅い内を掻く舌先に彼女の指先は歌仙の髪を握り込んでいた。舌の動きに翻弄されるままに審神者の指先に心許無くも力は入り髪を握る。それでも彼の愛撫がその程度を変えることはない、抑えたものには。ぐちゅぐちゅと激しい水音を響かせながら、歌仙の舌は膣口で暴れ続けた。
溢れる愛液、それを歌仙は吸う。よりと響くように吸い上げられるそれ、審神者の胎が音に震えた。強い吸い上げ、それは彼女の不意を突いてそこへと。歌仙の口淫によってぷっくりとした膨らみをみせていた秘芽、それが彼の唇に吸い上げられた。
「ひっっ、ぅうっ……!!」
何も咥えていない審神者の膣が締まった。今は与えられていない雄を乞うようにきゅぅきゅぅと締まるそれは彼女の体が絶頂を覚えたことを表し、歌仙を押さえ付けたままに逸らせた背で悦に喘いだ。
震える背はくたりと畳みへと付けられた。快楽の余韻にはぁはぁと喘ぐ審神者は定まらぬ視点を空に泳がせる。
虚ろげ、されどその目は見開かれた。
「っだめ! ぁ、やっ、ぁああ!!」
熱が触れた。それの意味を寸に察した審神者は抵抗の声、そうして体を身じろがせたが何に一つも変わらない。僅かを埋めたかと思ったその熱は、ずくんと一突きに彼女の奥を打つようにその全てを埋め切ったのだから。その衝撃は脳天までを打ち抜かれたかのようなもの。
「ぁ、……ぅ……」
胎に響くそれに審神者は震えた。けれどその震えを省みることはない、歌仙は。ずるぅ、と雁首辺りまで抜き出された雄。自身の中を擦るその肉に審神者が喘ぎの音を唇に零し、またその唇は跳ね上がるような嬌声を響かせた。雄は、雌を打つようにして勢いに埋め直されたのだから。
「っ! や、んぁっ! ぁ! ひ、ぁ……ぁあっ!」
そのがつがつとした様は歌仙兼定という彼のそれとは程遠い。されど審神者を抱き貫いているのは紛れも無く歌仙、彼であった。その事実に審神者は嬌声を上げ続け、胎を震わせ続けた。
「ッぐ、ゥ……! は、ァ、ッ……!」
人の声を無くせど、歌仙は喘いでいた。そうして審神者を嬲り続けていた。
またもう一度と審神者を穿った歌仙の先端がその胎の入り口を打ち付ける。びくんっと跳ねた彼女の震えに追い縋るように打ち付けは幾度も続く。それで強く押し付け、歌仙はその腕に審神者を掻き抱くようにして収める。骨の軋みが聞こえるほどに抱き込められそれにも喘いだ審神者、その中で歌仙の雄が膨張し弾けた肉慾に精液が注ぎ込まれた。音が、びゅくびゅくと胎に響いていた。
「ッ、ぐゥっ……!」
「ぁ、ぁ、ぁ……!」
歌仙の神気を纏った精液が内へと広がる、それにくらくらと目眩喘ぐ。だらりと首を動かし錯覚の光が舞う中に見たのはその何処までも深い蒼さ、浅葱色の中に確かな兆し。
「っ、かせん……?」
「ッ……!」
浅葱色に浮かんだそれを確かめようとした彼女のそれは直ぐに叶わなくなる。
「んっ、あっ!」
ぐちゅりと抜き出された雄、それに悦の声を上げた審神者は寸に体をうつ伏せのものにされた。支えられ、引き寄せられる腰。宛がわれたと思った雄は性急に雌を穿つ。
「ひゃ! ぁ、ん……!!」
突き挿れられたそれは勢いに最奥を叩いた。それに彼女の体は反射逃げる。だけれど歌仙は覆い被さったままに彼女の手首を押さえ付けるそれで逃げるを防ぎ、逃げたそれを攻めるようにぐりぐりと奥を嬲った。性器を押し付け合うそれは行為を当たり前、番うべきだというかのようで。
「ぁあ……! や、ぁ、んんっ……!」
「は、ぁ……ッ、く……」
分け合う肉慾に歌仙の熱い吐息が審神者の生肌を撫ぜる。それにさえびくびくと震え、彼女は歌仙を締め付けた。呻き、その鼓膜を震わせる。びくりとした震えは肉に埋まった肉からも。
響く、肌と肌が打つかり合う音。激しい水音の破裂。飛び散る体液、どちらのものかも分からぬ。膣を激しく行き来する歌仙の性器に掻き撫ぜられじゅぷじゅぷと音に滴る。
「ぁ! ぁ! かしぇっ! かせんっ!」
「あぁ、ッ……! ふ、……っ!」
彼の名を呼び縋った審神者の体へと覆い被さったまま、抱き込んだままに歌仙は彼女を揺する。手首を押さえつけていた彼の手はするりと彼女と指先を絡め合わせていた。ぐっと、力に思いが込められていた。
大きな抜き差しではない、最奥に少しを退いては押し挿るを小刻みに繰り返すそれは。歌仙の吐息はよりと熱く、そうして短く切れた繰り返し。猛り狂った歌仙のものを咥え込んだ彼女の間隔の短くなってきた収縮。快楽を極めるに重なろうとするそれは互いに無意識、されど望んだものだ。
「ぁあっ! かせんっっ……!!」
「はっ、ぁ、あ、るじ……! あ゛あ゛っ……!」
審神者の膣はきゅぅと歌仙を抱き込んだ、それにぶるりと一層大きく身を震わせたままに悦に身を委ねれば昂りは弾ける。愛欲の液は強かに中を打ちながら広がった。
絶頂の余韻に体が震える、されど一番に震えているのは心であった。審神者は自身の鼓膜を震わせたそれが幻聴の為ではないことを願った。それを確認したかった。それでも歌仙の肉慾は吐精のそれに熱も芯も失わずに再びの律動を始める。
「っぁ、ぁあ! ん、ぁ……! ぁ!」
二度の絶頂、審神者は自身の体を支えておくことが叶わない。その上半身は畳みへと伏せているが、半身を起こした歌仙がその腰を支えて尻を突き出させるような体位をさせているために何も損なうものがない。審神者の思考はただただ歌仙で満たされ、そうして中も太く張り詰めた歌仙自身に満たされていた。
ただ揺さぶられる、それでも審神者は歌仙の声を聞いた。彼のそれを聞いた。その心のままに、揺さぶられ続けた。
性欲の色濃い臭い、名残と言い表すにはあからさまな事実。体液に濡れた審神者の体、その股の付近の畳を汚す白濁。ひゅぅひゅぅと微かな隙間風のような音は審神者の呼吸音。彼女が空気を肺に取り込み唇から零すたびに内から溢れ出るのもまた白濁。ぼたり、ぼたりと精液の水溜りが広がった。
疲労に微かな身動きさえ取るのが難しい審神者。虚ろな視線、それでも確かに歌仙の姿を捉えていた。自身を未だ跨いで見下ろしているその浅葱色を見ていた。深い蒼さはもう其処には無い、だけれど揺れた浅葱色。
――ぽたり。
審神者の肌を打ったのは白く濁った液体ではなかった。透明な珠露、それが彼女の肌を一つ二つと打ってそれは止まぬ雨のようにその体を濡らし始めた。
「……っぁ、あるじ、僕は……」
審神者は、息を呑んだ。
雨粒のようなそれを追うように紡がれた音は確か、歌仙のもので。そうして彼の眼差しはかつての彼のそれで確かに彼女を見ていた。審神者は彼のそれに答える声を聞かせたかった。だけれど喉はひゅぅと僅かに鳴いただけ。
「……僕を、僕を刀解してくれ。辛い、苦しい、痛いんだ、この胸は。いや、悲しみなど僕が感じるべきではない。きみが、……きみだけだ……僕は懺悔することさえ赦されていない……」
ぽたりぽたりと打つ歌仙の涙は、審神者の肌へと落ちては濡らす。その切実な訴えさえ彼女へと落ちてはその心を濡らした。
「僕は、僕は、……きみが愛しい。恋しく、愛しく、苦しい……。君が欲しくて堪らなかった。この浅ましい思いは口にも行動にも出さずに抑え留めていたのに、いつしかこの胸に折り重なってしまったこの思いは、きみが与えてくれた人の身をただの畜生に変えてしまった……!」
歌仙の爪先は自身の喉元を掻いた。獣の荒い呼吸を吐き出していた喉、されど彼女への愛を叫びたがったそれ。
「僕は僕を見失っていたのに……きみを得る度に取り戻していた。……それなのに、僕は、君を欲することを止めることができなかった。ただに君を揺すった、穿った、己の欲のままに君を抱いた。……抱いたなど、生ぬるい。僕はきみを蹂躙してしまった」
歌仙の涙は温い温度を審神者へと伝えていた。彼女はただに彼の声を聞き心を震わせる。
「嗚呼、僕は、僕は、……苦しい、主、きみがくれたこの身が、心が、苦しい……。きみが与えてくれたものなのに、どれも、そうであるのに、苦しくてたまらない……。きみが与えてくれたこの身に宿った思いがただ苦しい……」
そうして喉元を掻いた爪先で自身の胸元を歌仙は掻いた。その下に人の身の心の臓が在ると。苦しくて堪らないと。
「刀解してくれ、僕はこれ以上きみを傷付けたくない。苦しみたくない。君に拒まれることを思えばこの胸は死んでしまいそうに痛むのに、死ねはしないんだ……あるじ、どうか……ゆるしを、僕を……僕を……」
乞う、歌仙はその声に思いに。刀解を望む言の葉を紡ぎながら審神者の肌を濡らす涙。されどそれに打たれながら彼女は歌仙の心に触れていた。彼の思いを知り得ていた。彼が乞うたもの、ゆるしは――。
「っ、かせん……いやだよ、いなくなっちゃ、いやだよ……」
審神者の指先は歌仙へと伸ばされた。それを見開いた浅葱色で戸惑い、けれどもしゃんと絡め取った歌仙は息を呑む。その音に、審神者はどこまでも愛しい者を思うその笑みを彼へと向け続けた。
「私も愛しいよ、だから、いなくなっちゃいやだ……かせん、ずっと、いっしょに……」
呑んだ息は、その唇から震えて零される。とめどない涙は浅葱色から。望んでいたものを得た、得ていたと、心は震えた。それは言うに言われぬ幸福であるとその身その心を満たした。
始まりはただ一つの種子、宿らせた淡い恋の思い。開花を迎えた息吹はやがて咲き誇る一面を魅せるもの。ぽつりと打った雨粒にも似た歌仙の涙、それは審神者の心という水面に波紋を広げて止まぬ。それはもう知ったこと、知らぬとは言わぬこと。要らぬとは言わぬこと。
また一つと零れるその煌きは、ただに美しいものだった。