姫百合の知らえぬ恋


 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ   大伴坂上郎女

 私の目の前で一つの和歌を詠んだ貴方は知らないでしょう。歌仙、私もまた胸内一つに和歌を詠んだことを。貴方が先人の言の葉を追いその意に触れたと喜ばせている頬に私が胸を温め、それと同時に苦しいと痛ませていることも。貴方は何一つ知らないでしょう、だからこの美しくも残酷な神様は何度と私の胸を抉るのです。
「――だからね、この歌を奥方に贈った忠興の意を得たような気がするんだ。……刀である僕がこう言っては変かい?」
「いいえ、そんなこと。奥方、ガラシャ夫人はそのような歌を贈られてどのような心持だったのでしょう。やはり、より愛しい思いに胸を焦がしたのかしら」
「そう、ではないかな。その時僕は本に刀であったわけだから、今より人の心情を得るに疎いものだったからね。胸内のことを察することはできずとも、今思えば表情確かそうであったと」
 言葉を終えて少し、間を空けて歌仙は小さく笑んだ。青年の姿をしたこの神の笑みはいっそ少年のそれだ。恋を恋だと知らぬままに胸を温める、その笑みだ。つきん、と胸が痛む音が耳の裏に響いたような気がしました。もし私の心が硝子でできていたのなら、それを砕いたのは歌仙だと言う。心そのものがそう叫ぶ。
 私は呟くような声量で幸せな人ですね、と零しました。本当に、彼女は幸せな人だ。それが私が抱く醜い感情を集めた故に言の葉に乗せてしまったものだとしても歌仙、貴方は笑みを深めるのですね。
「僕にもこのような歌が詠めるだろうか、……人のような確かな意を孕んだものが」
「ええ、きっと。それに……歌仙は人ですよ。と言っては失礼かしら、貴方のような美しい神様に」
「……止めてくれ、そういうのは。僕に世辞を言ってどうするんだい」
「世辞など。……歌仙、よければ一つ、詠んでくださいな」
 できることなら私の為に。本当は私でない女に詠んだものだとしてもそうだと錯覚させて欲しいと、言の葉に乗せぬまま心に置き去りにして。歌仙、少し紅差し緩んだ笑みで勿論などと言っては無駄な期待を持たせるだけだと貴方はまだ知らないのでしょうか。この残酷な神を私は己の身を焦がすほどに恋うている。それがどんなに不毛な思いであっても戻るに戻れぬと分かり、また引き返そうとは一寸も思っていないのを知っている。千々に乱れたままに寂しさは鳴る。
 伏し目、見ぬこの世で貴方は描いているのでしょうか、そこに恋しい者の姿を。唇に乗せられた音は酷く優しい響きで、また胸がつきんと痛みました。耳鳴りに片耳を覆うとした手を誤魔化し髪を梳く私は。
 歌仙の唇が紡ぐ歌。花盗人を詠んだそれに、私は笑んで見せました。それも忠興殿がガラシャ夫人に贈ったものなのでしょうねと、言の葉乗せれば彼は照れ隠しに前髪を指先に遊ばせて私から庭先に目を向ける。いえ、初めから私など見てはいなかった。
 唇紡げば彼女のことばかりと、私は声を荒らげ悋気の念のままに憤怒すればよいのでしょうか。いいえ、そのようなことできません。そうしてしまえば彼は雅でないと私に首振り言うでしょう。そしてあの人とは違うのだね、きみはと言うでしょう。それで、私の心を殺してしまうでしょう。だから、私は私の保身のために頬を綻ばせて梅の花を見るのです。
「梅が見事ですね」
「ああ、……風流だねえ」
 どろりとした眼で梅を見る私の横顔を貴方は見ない。

 猶ながらえて恋やわたらん、と歌仙の唇は小さく音を作る。その視線は目下の畳の方へ向いているけれど、そうではない。まどろみとしたままに紡ぐ音は、思うにもよらぬ命の、と。歌仙兼定、彼の本性の手入れをしながら時折私が向ける視線に彼が気付かなければその孕んだ感情など到底気付く由もない。つれなさは、とぽつりを零して僅かな吐き出しの息は溜息。その行き先を見たくはないと私は刀身を見やっては曇り無いそこに映る自身と向き合う。お前はなんと醜いのだと、刀の中の私が顔を歪めていた。いけない、笑っていなければ。お前は歌仙兼定の主であろうと言い聞かせて笑うのだ。小さな弧を描いた唇は貴方には上手に笑えているように見えるでしょう、私にはこんなにも歪に見えるというのに。お前は主、ただの主でそれだけだ、と。
「歌仙、手入れが終わりましたよ」
 刀身を鞘に収めて膝の上に言えば、夢の淵より掬い上げられた者のような顔をするこの神は。眠そうですねと笑ってみせたら、手入れは心地いいからと前髪を手遊び貴方は顔を背けた。片手の平は私に向けて、それに本性を返して私は歌に触れました。
「思ふにも よらぬ命の つれなさは 猶ながらえて 恋ひやわたらむ」
「え……?」
「貴方が紡いでいた歌ですよ、宗尊親王の詠んだものですね」
 無意識に詠んでいたのでしょうか、歌仙は私が繰り返した歌に僅か目を見張るようにして背けていた顔を私へと向き直しました。
「歌仙、まるで恋をしているようね」
 まるで恋をしているよう? 違う、歌仙は恋をしているのだ。知っているではないか私は、この心が痛い程に。それなのに私の唇はそのような音を紡いでは貴方が否定することを望んでいる。その頬に紅など差さないで。柔らかに笑まないで。眉を寄せて首を振って言って、恋など僕はしていないと。
「恋、……僕が……? ああ、そうか……恋、……僕は恋うていたのか……」
 その感情の名を知ったこの神の美しいこと。それでも貴方の笑みが胸に痛いのです。
「筆、筆を……! 歌を詠まねば、この心の意を孕んだ歌を……! ぁあ、主、御前を失礼するよっ」
「ええ、きっとよいものが詠めますね」
 ああ、この青年の恋はやはり少年のようだ。そのように無邪気に頬を綻ばせて。私の醜さが光と闇の後者のように濃度を増す。
 平然の彼にしては珍しく慌しい足音、それが遠くなっていく。それを聞き終えてから私はこの身を折ってきつく瞼を閉ざしました。瞼の裏の暗闇に己が独りであることを痛感するのです。
 大丈夫、大丈夫だと言う声音は自身の心のものでしょうか。だって歌仙の恋うている彼女は疾うの昔に亡くなっているではないか、過去ではないか。今、彼が幾ら思っていようと、それまでではないか。だから、大丈夫。大丈夫。大丈夫? いないものに勝てると思っているのか、それはより思いを強くするのではないか。それでも大丈夫などと戯言を吐くのか。大丈夫だと嘲けているのは、何に一つも彼が私の心に省みないからとの皮肉であった。
「歌仙……」
 私は独り、凍えて死んでしまいそうだ。

 庭先に見えるは午睡のような穏やかさ、それは別世界のようで。私の顔はその時確か強張ってしまったけれど、貴方は指の腹に花弁を撫ぜるままにそれに顔を向けていたから気付くことはありませんでした。
 遠征からの手土産だと見せられたそれは丹色の百合、彼の指先が姫百合の茎をたおやかに摘み、花弁に添えられ手は愛しいものを扱うもの。その私に向けられることない眼差しに、我が身が人であることの無念さ胸を締め付けます。花に生まれたかったなどといえば貴方は笑うでしょうね。
「一輪だけ咲き誇るがあまりにも雅で、触れるべきではないと思いつつも終ぞ手折ってしまってね」
「……、いいのではありませんか。手折った花を無碍にはしないでしょう、歌仙は」
 姫百合よ、お前も苦しき恋をしているのか。
「きみの部屋に、生けてもいいかい? 僕の部屋には紫陽花を先に生けていてね、咲き誇る前に入れ替えてはそれこそ無粋であろうし」
 頷き私はいいですよと貴方に答えました。早速と構えるその様子を見守りながら思いを馳せる。姫百合よ、夏の野の繁みを抜けようとお前の恋は知られぬのだな、と。手折った花を無碍にはしないがそれだけだ。勘違いをしてはいけない。神に恵愛されることに思い違いをしてはいけない、自身だけが特別であるなどと。日の差す場所へ踏み出そうと何も変わらない、貴方のことも私のことも。隣合い佇もうとも別の世にいるのだろう。
 姫百合を憐れむ私を姫百合が憐れんでいる。
「歌仙」
「何だい、花器は此方でない方が良かったかな」
「いいえ、貴方に任せますよ。……歌は詠めましたか」
「……、ああ……詠めたよ」
「そうですか……歌仙、貴方は人ですね」
「……いいや、僕は刀だ。そうであれば良かったと、思ってはいるが」
 互い、顔を向け合わず思いも向け合わず。百合の香が鼻先を撫でて何故だか目が熱く、喉が詰まる思い。零した涙が滴っても口付けるは揺れる百合の花なのでしょう、暁の星に泣き出しそうな顔を向けて。百年など疾うに過ぎ去っていようと、貴方は一抹の望みに賭けているのでしょうか。待っている、彼女がこの世にまた生を受けるのを。
「主――」
「主殿、政府の者が来ているぞ」
 何かを言おうとした歌仙の言葉は意図せず障子の向こう側からかけられた声で遮られました。政府の人間の来訪を告げる鶯丸に分かりましたと返事を一つに歌仙を見やる。貴方は呼びかけの続きなどないとばかりに首を振り、生け終えた姫百合を見ました。
「……忠興なら何と言うのだろう」
 ぱきりと音が、今もう一度。

 それは些細なこと、少なくとも歌仙、貴方にとっては。それでも私には全ての終わりでした。分かってくれとは言いません。貴方は悪くない、姫百合の恋など知らぬし貴方は別の花として恋をしているのですから。
「まったく、きみは……」
「……ごめんなさい」
 形の良い眉を顰めた貴方は私ではなく風景へ顔を向けては平時より低い声で言う。それに私は顔を俯かせて心許無い声色で謝罪しました。謝って欲しいわけではないと言う彼のより低く苛立ちを孕んだ声に、私はまた同じ言葉を返してしまう。ああ、また彼を苛立たせてしまった。
 歌仙が、息を吐き出した。
「……ふぅ、……いいんだ。きみがきみでしかないように、僕は僕でしかないのだからね」
 あの人には、なれないだろう。そう歌仙は言った。いいえ、貴方は言っていない。そう思いたい、それでも私の耳と心はそう聞いたのです。痛い、とても痛い。喉が絞まる、呼吸はこんなにも難しいものだったでしょうか。この体と心は凍え死んでしまいそうに震えてしまう。視界が急速に狭まる間隔と、夜の帳が下りるように薄暗くなる私の目前は。
「それでも、きみは僕の――いや、……なんでもない。……きみ、大丈夫かい」
「ぇ……? っぇえ」
 上手く、言葉が出てこない。
「……顔色が悪い……この話はもう止そう。だから、休めばいい」
「そう、させてもらうわ。……後をよろしくね、歌仙」
 最後、上手く笑えていただろうか。私の頬は。

 部屋で声を押し殺して泣いた。着物を濡らし、畳を濡らし。もう、駄目であった。もう無理であった。私は、私は心を殺してしまった、歌仙に。悪くはない彼は、それでも私の心を殺したのは間違いなく歌仙、貴方であった。
 心は死んだ。そうなればもうこの体、死ぬしかなかった。
 震える手で筆を取り、皆と本丸の後を心当たりへと託し残す文を綴る。一時期見習いとして私の元へ来ていた彼女へと、縋った。ごめんなさい、ごめんなさいと、筆、紙に墨が滲む。皆に向けた謝罪でもあり、歌仙だけに向けたものでもあった。だがそれは彼には迷惑なだけであった。そうして、彼の後に何に一つもないようにと思いながらも彼でない者に向けた文には私の彼への思いばかりが連なってしまう。泣き濡れた。
 悪いのは私であった、勿論のこと歌仙ではない。悪いとするならば私が芽生えさせたこれこそが只の一つ、悪いことであったのだ。それでも、歌仙、私は貴方を恋うていた。恋うて、身と心を焦がし、終にはそれらを焼き尽くしてしまっただけ。それだけ。それだけの話なのだ、だから。
 まだ何も知らずに純粋に貴方を慕っていた頃の私にはもう戻れない、それでもあの時共に見仰いだ梅を今もう一度と見よう。梅を愛しむ心を最期に持つのだ、貴方に見留められなくても。
 手に刀、最後に見た私の部屋では姫百合がその花弁を萎ませていました。



「戦火は治まることを知りません、これからも長く苦しい戦は続くでしょう。……歌仙、それでも私に力を貸してくれますか?」
「勿論だ、僕の主。僕はきみの為に自身、刀を振るおう」
「……ありがとう」
「感謝される謂れは無いな、きみの為であることは僕の為でもある。だから僕が刀を振るう、きみが揮うは采配だけにしてくれるかい」
 主、僕の主。きみと出会ってから一年、その時に梅の木の下で交わした言葉、あの日のことを今でも夢に見ては昨日のことように思い出される。それでも僕は昨日の僕ではないと言えるんだ、この身に燻る思いが日に日に強くなっているから。

 先人の残した和歌の一つをきみに詠むとそのままに笑んでくれるきみがいる。その唇の弧を見る度に思う、僕も歌が詠みたいと。ただ一つと詠むのではなく、その意を確かこの身に宿し孕んだものだ。それをきみに詠んでその為にきみが頬を綻ばせればと願わずにはいられない。刀が何を言うのだと思うだろうが、嘯いていたとしてもきみは僕を人と称してくれたから。僕はやはりきみの為に歌を詠みたい。そのいつかの日を思って今は、拙い僕の言の葉は心の内に忠興の言葉に肖った。
 花盗人としての罪を自覚しながらも花を手折り、その花だけを愛でる歌。僕にその花を手折ることはできないと知りつつも。
「それも忠興殿がガラシャ夫人に贈ったものなのでしょうね」
 優しげなきみの言葉と眼差し。胸がこそばゆい、きみの笑みに。穏やかに笑むその中に女性の艶やかさを見つけてはそれに目を留めてしまう自身に戸惑い、そうして取り繕う。
 刀が主に似るというなら僕は忠興だ。そうして歌を詠んだのならば、その先にいるきみは誰であるというのか。やはり、名も知らぬこの感覚に僕は戸惑う。それでも僕は自身の胸内にあるこの感覚を上手く言葉にできないのだから、庭先に顔を向けることで胸の燻りをやり過ごそう。
 庭先の梅が、雅だ。
「梅が見事ですね」
「ああ、……風流だねえ」
 きみと共に在ればどの風景もそうであると言いたがったこの唇よ。

 本性を手入れされることの心地好さは言うに言われぬ。彼女の歌仙兼定を扱うその手、その手がやわく優しげでまどろみを誘う。この身には触れられていないというに、肌を手の平撫でられる心地に僕は勘違いをしてしまいそうだ。間違いを、犯してしまいそうだ。
 手入れの終わりを告げられ、はっとなる。心に浮かんだものを気付かれないまでも察せられぬよう取り繕う。危いのは考えか、心か、僕自身か。
「思ふにも よらぬ命の つれなさは 猶ながらえて 恋ひやわたらむ」
「え……?」
 正直、どきりとこの胸は跳ねた。
 恋しい人のことを幾ら思って苦しんでもそれで死んでしまうわけではない。この命の無情。このまま生き永らえて、恋し続け、これからも苦しむことになるのだろうか。
 僕の戸惑いを拭うように、きみの唇はその和歌は僕が言い零したものだと言った。そう言うから、きみの顔を見るままに気付かれぬとしても僕は肩を下ろすようにして気を落としてしまった。
「歌仙、まるで恋をしているようね」
 きみの唇が紡いだ。
「恋、……僕が……?」
 恋、恋と言った、きみはまるで僕が恋をしていると。今まで書物を読んでも和歌を詠んでもただの情報でしかなく理解し得なかったそれは、幾ら縋っても触れ得ないと思っていたそれは、僕の中に疾うにあった。それも、きみを思ってのものがあったのだ。この感覚が恋であると、この胸にすんなりと溶けて共になる。胸が温かい、この感覚の名を僕は漸くに知ることができたのだ。
「ああ、そうか……恋、……僕は恋うていたのか……」
 そうかこれが恋であったか。きみを恋うていたと自覚すればもうこうして正座している膝が落ち着かぬ。歌を詠みたがっている心のままに、きみに向けたこの思いと共に筆を取るのだ。確かな意を孕んだ歌、きみへの恋の歌を詠めることの嬉しさ。抑えが利かぬ。
「筆、筆を……! 歌を詠まねば、この心の意を孕んだ歌を……! ぁあ、主、御前を失礼するよっ」
「ええ、きっとよいものが詠めますね」
 ああ、詠めるとも。ただきみに面と向かって詠むのはまだ先延ばしにして欲しい。幾ら刀と永らえてきてもこの身、心はまだ幼稚であるから。きみを前にしたら僕は格好を付けられないだろうから。

 自覚した恋に浮かれていた僕が落ち着きを取り戻し、通り越し、うっそりと心曇らせるにはそう時間はかからなかった。
 きみへの歌が詠めなかったわけではない、勿論。ただ僕は知っているのに知っていなかったのだ、僕らの間に横たわる残酷な事実に。僕は刀だ。きみを幾ら思うとそれは不毛でしかない。僕が刀剣男士でなかったら、彼女が審神者でなかったら。或いは僕が刀でなく人であったなら。不毛、それではそもそも出会えてさえなかったかもしれぬ。それにそうであっても彼女が僕を好いてくれる謂れなど。指の腹に付いた墨に目をやらず吐いた溜息は、今日よりこの部屋に留まり続けることになる。

 第一部隊、部隊長として向かった出陣先で僕は刀を拾った。稀に有ることだ。手にしたそれのほんの土汚れを払い、僕は眉を顰めた。拾った刀は本丸へと持ち帰る。そうして審神者であるきみの手で新たな刀剣男士を顕現させるだろう、それを僕は知っているから。見なかったと気付かなかったとそうして置いて行こうか、それともやはり持ち帰るか。まるできみを試すように? いいや、僕にはただこれをきみに持ち帰るしかないだけだ。
 そうして、僕はきみに刀を差し出した。
「主、刀を拾ったよ」
「はい、分かりました。では早速ではありますが顕現させますので歌仙に近侍を任せても、……?」
 僕の差し出した刀を受け取ろうとした手のままにきみは言葉を途切れさせた。その目には確か僕の拾ってきた刀が映っており、その唇は後に刀の名を紡いだ。
「歌仙、兼定」
「ああ、そうだね。拾った刀は歌仙兼定だ」
 だから、捨て置きたかった。僕でない歌仙兼定を此処に置きたくはなかった。きみの傍に寄せたくなかった。もしこれが僕のようにきみに懸想したとしたら、僕は同じ顔をしたその男を迷わず斬るだろう、そうしてきみを戸惑わせるだろう。もしかしたら歌仙兼定の血を浴びたままにきみに愛を乞うかもしれぬ。そのままに拒絶されたら僕は何をするか分からない、きみにさえ。
「主、部屋を移そうか。顕現させるのだろう?」
 意識、きみの指先にさえ触れさせぬように僕は刀を持ったままの手で身を引いた。己の心中とは裏腹、顕現させることを促す言葉を吐き出しながら。
「ぁ、……いいえ、取り消します。この刀は顕現させません」
 僕の身はぴくりとその言葉に反応する。きみのその言葉の意を僕は探る。
「……二振り目は政府に止められているのかい?」
「いえ禁止されては。推奨もされてはいませんが」
 この歌仙兼定を顕現させる気はないときみの唇が言う。僕はその唇を見る。きみの言葉を信じようとして疑っている僕がいた。そんな僕を見やるままにきみは僕の方へと手を伸ばし、刀に触れるではなく僕の手に触れたのだ。
「私には貴方がいますから。私の歌仙兼定は、貴方だけです」
 まさに天に昇る思いであった。
「……恐悦至極」
 僕に触れるその手を取り唇を寄せたいとさえ思った。叶うならきみの唇、心にも触れたい。僕は緩む頬のままにきみに笑み、刀をその手に預けた。きみの歌仙兼定は僕一振り、その事実が喜ばしいと。

 それは百合であった。
 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。あれは白百合のことだったか、兎に角遠征の帰路で見つけた姫百合に僕は心惹かれた。繁みに一輪だけ咲き誇るさまは触れてはならぬきみを思えたし、また一つの和歌が僕の唇を震わせる。
「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ」
 和歌を詠めば姫百合はきみではないものに僕の心映った。
 そうして僕は一輪のそれに指先を伸ばす。力を入れずとも折れた茎は、こうして手折られることを待ち望んでいたようにも思える。僕はこれを手土産と称してきみに贈ろう。きみはその意に気付くだろうか、気付かないだろう。気付いて欲しいのか、いや気付かないで欲しい。僕ら寄り添え合えぬなら。
 午睡のような穏やかさだ、庭先の景色だけは。
「きみの部屋に、生けてもいいかい? 僕の部屋には紫陽花を先に生けていてね、咲き誇る前に入れ替えてはそれこそ無粋であろうし」
 あまりな建前、きみはそれに気付かずにいいですよと僕に頷き答えた。早速と花器に生ける僕は姫百合を憐れむのだ、やはり姫百合の恋は知られぬのだなと。僕がきみの部屋に生けたいと思ったのは、本当の意は、姫百合の知らえぬ恋は僕のそれだからだ。苦しい、この恋だ。知られることがなくともこの恋心がきみに寄り添えばいいと縋った僕の不毛さだ。
 丹色の花弁も寂しげに揺れている。泣きたいのは僕であった。
「歌仙」
「何だい、花器は此方でない方が良かったかな」
「いいえ、貴方に任せますよ。……歌は詠めましたか」
 咄嗟、息を呑んだ。きみと面と向かっていないから僕は迷い子のような顔を見せるを避けられた。
「……、ああ……詠めたよ」
「そうですか……歌仙、貴方は人ですね」
「……いいや、僕は刀だ。そうであれば良かったと、思ってはいるが」
 心の底から。僕は幾ら時が経とうと人にはなれないのだ、口惜しい。
「主――」
 僕のきみに呼びかける言葉は鶯丸殿の声に遮られた。それに僕は自身に向けて顔顰める。けれども僕は自身の唇が何を紡ごうとしていたのか見当も付かなかった。後に言葉を紡ごうとも音は出ずに口を噤むしかない。だから、きみが僕に向ける視線に首を振ることしかできなかった。見やるは姫百合。姫百合よ、僕の代わりにお前の恋が知れればいいと。
「……忠興なら何と言うのだろう」
 きっと彼なら思い人に上手く伝えられるだろう。僕なんかより、ずっと上手く。

「まったく、きみは……」
「……ごめんなさい」
 僕はきみと顔を見合わせぬままに言葉を零した。自身の声色が平時より低く苛立ちを多分に含ませていることは分かっているし、きみにこのような態度を取るべきでないことも、分かっている。それでもいつも通りに感情を胸内に隠していることなど今の僕には到底無理な話であった。
 抱けば僕の腕の中に容易く収まってしまうであろうきみの体が、僕の声色の前により小さく見える。こうもきみを脅えさせているのは僕だ、何と幼稚なのだろうか僕は。きみが悪いわけではないと知っている。何故なら僕がこうも心、沸き立てているのは悋気の念に他ならないから。
 事の顛末を聞いたのは全て終わってからのことであった。それがより僕の肝を冷やしまたこの体に巡る血を沸き立たせることになる。
 きみに縁談が来ていたなど、冗談だろう。僕をからかっているのだろうと思いたがっていたこの身にきみは確かな話であると言った。半ばまで進んでいたらしいことも、そこで途切れ破談したことも僕の知らぬうちにあったこと。始まりはきみでないにしろ、確かきみが進め、終いにしたのもきみだ。全て僕の知らぬうち、とは。僕の思いの不毛さと共に、近侍としても心そこまで置かれていなかったのかと自惚れにただただ己が腹立たしい。
 顔を俯かせているきみがそのままに声色謝罪の言葉を口にするから、僕はより自身に苛立ちままの声色で謝って欲しいわけではないと言った。ああ、これもまた彼女を脅えさせる要因になるというに、それでもきみに優しくできない程に僕はきみの縁談相手だった男を憎く思っている。
 またきみは僕に謝った。それに、もしからしたらきみは縁談相手だったその男のことを好いていたのではないか。そう過ぎって、カッと頭に血が昇った。彼女以外の者が此の場にいたらそれが誰であろうと刀を抜き振るっていたことだろう。鯉口を切りたがった指を拳握り込み、気持ち落ち着けるに息を吐く。
「……ふぅ、……いいんだ。きみがきみでしかないように、僕は僕でしかないのだからね」
 あの人には、なれないだろう。
 そうだ、僕は、きみが思うような人にはなれない。この身はどう抗うとしても仮初、僕は刀で人ではない。真似事だ、人の。真似事ではない、この思いは。きみが芽生えさせたこの思いは確か僕のものである。刀の僕が宿したものだ。僕が人でないとしても、きみを思うこの心だけは許して欲しい。僕の主でいてくれ。僕の思い人でいてくれ。唇は、縋る言葉を吐き出したがっている。
「それでも、きみは僕の――いや、……なんでもない。……きみ、大丈夫かい」
「ぇ……? っぇえ」
 彼女をこんなにも恐がらせてしまう自分が不外無い。きみに触れることができないこの身。
「……顔色が悪い……この話はもう止そう。だから、休めばいい」
「そう、させてもらうわ。……後をよろしくね、歌仙」
 僕の名を呼んだきみにこの胸は張り裂けそうだ。
 彼女が去った後、僕は庭石に己の拳を叩きつけた。皮膚に滲んだ血に笑いが込み上げる。嗚呼、人の身を得ても人に成り切れぬ付喪神の遣る瀬無さよ。

 それは件の翌朝、皮肉なほどにやわらかな陽光であった。
 眠れぬ宵をままに明けた僕を襲った突然の喪失感。巡る、身震いする程の感覚に身体を強張らせ目を見張った。
「主……主は何処に」
 唇が自ずと呟き、僕は急いた心のままに身を跳ね起こす。不吉な予感を胸内に収めたまま戦場を駆ける以上に速くきみの部屋に向かった。思いたかった、杞憂であると。それなのにそこにきみの姿は無く、僕は夜衣のままに本丸内を駆けきみの姿を探した。自身の身振りなどに気をやる余裕など到底無い。駆けた故ではない、この胸の痛みは。
 梅、梅の木。
 傷みに胸元の生地を指先に握り込んだ僕は唐突にそれを思った。それは審神者部屋から見える梅の木ではない。この本丸の裏手側に行った先にある、梅の木だ。それはあの日僕らが見仰ぎあった。
 あの日の記憶に後背ひび割れが見えた気がした。
「主……きみは……」
 きみは梅の花の散った中に眠っていた。着物も梅の花に合わせるかのように鮮やかで、僕の鼻先を梅の花の香が撫ぜる。
「主、そんな所で眠っていては体を壊してしまうよ……」
 言いながら、僕は眠っているきみへと距離を縮めていく。僕の気配にも足音にも気付かずに瞼を閉ざして眠っているきみに心臓の脈打ちが自身の耳に煩い。
 僕は気付いていた、きみへと言葉を紡ぎながらも。きみの傍らに転がる血を付けた歌仙兼定その刀にも、花の香に混じる血生臭さも、その着物を染めるきみ自身の血のことも。
 僕は気付いていた、きみはただ血溜まりの中に事切れているのだということを。血塗れた唇がまるで紅を差しているようで、それは薄く開かれている。きみの唇は今にも僕の名を呼びそうであった。
 それなのに、きみは確かに死んでしまっていた。僕の主、僕のきみは、死んでしまっていた。



 当時――見習い審神者としてこの本丸にお世話になっていた時のこと――私はその人のことを先生と呼んで慕っていた。教えを乞われるほどに学があるわけでもないしただ就任が早かっただけだからと、頬に紅差し首を振るその人の表情を今でも覚えている。先生は美しい人だった、それに強かだった。
 強かだったけれど、思えばそれは他者から見た押し付けでしかなかったのかもしれない。今こうして私が此処にいることがそう告げている。自ら命を絶った前任審神者の後任として此処にいることが。
 見習い期間も後僅か。その頃だった、先生からの文を受け取ったのは。その内容は自身の後任としてこの本丸へ来て欲しいとの項と皆を宜しく頼むというようなもの。先生の筆が書く文字を知っていた私には確かその文が先生からのものであると分かった。簡潔であるその内容。それでもその筆の震えや紙への滲みが先生の心情を語っていた。先生が亡くなったことを知らされたのは文を読み終わった直後にこんのすけから。何故先生が自らの命を絶ったのかをその時は知らなかったけれど、私は確か先生を思って泣いた。
 遺言となってしまった先生の言葉に沿うように、私はこの本丸の後任審神者として着任した。先生が顕現された刀剣男士は皆、先生の人となりを継いだように当時今よりも審神者として不甲斐無い私を力いっぱいに支えてくれた。今も、皆は私を支えてくれている。
 歌仙兼定、初期刀であり先生の近侍を最初から最期まで務めていた刀剣男士。彼もまた後任の私に嫌な顔一つせずに支えてくれた。唯一つ、彼が表情を歪ませるのは梅を見る時だけだった。あまりにも辛そうに見るので、庭の景趣を変えましょうかと申し出たことがある。梅の無いものにと言った私に、彼は口を噤んではただ首を振るうだけだった。私は彼が辛そうに見る梅を見て、その美しさに何故風流であると頬を緩ませないのかと不思議であった。後に知ることに、なったが。
 ある日のことだ、私がその文箱を見つけたのは。それにはどうやら術がかけられていたようで、私が一つ触れた際に弾けた光を覚えている。先生によるもの、私以外の目に触れぬよう残されたもの。文箱にはやはり文が一通入っており、それは私へ当てたものだった。簡潔であった先の文とは裏腹、その文は先生の心そのものであった。私への謝罪から始まったそれはやがて先生の心の葛藤を語り、残酷な事実を私の知る所に曝け出してくる。
 先生は恋に身を焦がし、終にはその身を焼き尽くしてしまったのだ。彼を恋うていたのだ。私は先生が自身の命を絶った訳を知り、またもう一つの事実に慄いた。梅を見る彼のその顔の意味が分かってしまったのだ。彼もまた先生のことを思っていた、いや、未だに思っているということを。その事実に、私は暫し言葉を心を失くした。この胸の痛みを、知った。
 先生の残した文は文箱の中、私の文机の上にあった。先生の心の葛藤を知らぬと捨て置くこともできず、ただただ時間だけを経たせていた。いっそ文が呪いであった、その文が私に悟らせたのだから。梅を見やる彼を見るのが辛い、何故などとは心にも思えない私がそこにいた。
 月日が経った、胸の痛みは増すばかりだ。でも一番の痛みはその日に私を襲った。少し席を外し審神者部屋に戻った私の視界が捉えたのは畳の上に転がった文箱と、文を手に体を戦慄かせている彼の姿であった。先生の心が彼に晒されてしまったのだ。
 飛びかかるようにして彼の手から文を奪い去った。私はそれを取られまいと文を手に身を縮めた。彼は、文を取り返そうとはしない。何故なら彼は既に全てを読み悟っていたのだから。私はその青褪めた顔と震える唇を様子を見るにやった視線で見た。僕の言葉がきみをと、僕の過ちがきみをと、音を震わせていた。僕が、僕が、きみを、と震えた唇は最後ぽつりと、殺したと呟いた。途端着物を翻した彼に私は縋った。咄嗟、であった。歌仙さん、と哀願その名を呼びながら。だが彼はままに私を払い、この身は畳の上に放られた。
 転がり、体を起こした私が見たものは彼の最期、血を吐くように喉を唸らせながら自身の本性を庭石に叩きつけるその姿だった。

 この地は残酷だと思うでしょう、とても。思いは確か此処に在るはずなのに、噛み合わない。本当に呪われた地のようだ、此処は。……そんな辛そうな顔は似合わないよ、歌仙。
「……きみが庭石に向ける視線の意が分かったものでね」
 ……そう。…………彼が折れる瞬間は、今でも夢に見る。あの喉の唸りも、岩と打つかる刀の音も、宙に舞う刀の破片も、崩れる彼の体も、未だ目の前の事実であるように。ああ、悪夢だ。終わることの無い夢だ。
「きみは……」
 ああ、残酷だ。ああ、悪夢だ。だから、私は終わらせたい。
「……ああ、知ったよ」
 それは了承を得たということ? ああ、良かった。主命と言っても歌仙が聞いてくれるか分からないと思っていたから。良かった、だから話はこれで終わり。終わらせたい、だから歌仙、分かって。
「……きみは残酷だ。この地の、なんと呪わしいことか……」
 そう、……残酷だから、…………さようなら、歌仙。……私の近侍。

 さあ……私の首を斬って下さい、歌仙さん。