桜に待つ
審神者は目前にそびえる城門を見仰いだ。奥に見えるは城、通称は本丸。此処は見仰ぐ審神者が今日より着任する本丸である。
審神者――識別名、柊。彼は凛として閉ざされている城門を見仰いだままにうっそりと溜息を吐く。心中の思いのままに吐き出された息だ。新人審神者として新たな門出を晴れ晴れとした心持で迎えるなど到底無理な話、もし彼に本に新しい本丸が与えられていたとしたら心持も今と違っていたことだろう。即ち、彼が着任するこの本丸は新たなものではなく、言えばお古。彼は、前審神者の後釜であった。本丸を引き継ぎ、あまつさえ前審神者が顕現させた刀剣男士さえ引き継ぐ。柊審神者の心中はより鬱然と曇っていく。溜息は重い思い。
「審神者の、失踪か……」
呟き、それでも此処でやっていくしかないのだと到着を知らせに己の声を張り上げる。新たな審神者の到着に城門はやっと音を立てて開かれたのであった。
「すまないね、しゃんと出迎えるつもりだったのだけれど」
「いや、別に……待たされたわけでもないし、構わない」
審神者部屋で柊審神者が座り向かい合う顔は刀剣男士が一振り、歌仙兼定。歴代兼定でも随一と呼ばれる二代目、通称之定の――云々は省いて、柊審神者の目前にいる歌仙兼定は前審神者の初期刀であった歌仙兼定、その刀であった。
柊審神者は心臓のその脈打ちを速め、膝の上の手の心許無さと落ち着けることのできぬ尻の坐りの悪さに歌仙との視線を外したい思いであった。柊審神者も政府も前審神者の失踪の理由など知らないが、失踪したという事実だけはそこに横たわる。そうして彼自身が審神者という立場であることも事実だ、目前の刀剣男士は良い思いはしないだろう。正直、門前払いされるかと思っていたし、未だ最悪の流れ着任初日で殉職する可能性も残っているのではないか、と。
柊審神者とは裏腹、歌仙は他本丸で見る歌仙兼定同様に涼やかな顔付で互いの目下に墨の文字が浮く紙束を取り出して説明を始めている。
「この本丸での実績等は此方に、細かな所載は此方の方に」
とは言っても僕らは半年程本丸を出ていないから、腕が鈍っているとまでは言わないが考慮が必要だろうね。と、続ける歌仙の顔色を泳がせる視線のままに窺う柊審神者に、ふっと空気が零れるような音が部屋に響いた。その音にまで柊審神者は己の肩を跳ねさせるようにして、泳がせていた視線を止めた。歌仙は小さく笑っている。
「そんなに緊張されてはやる背が無いな。きみは今日から此処の主なんだろう」
「あ、……まあ、そうかな……?」
「そうかな、ではなくそうだろう。少し肩の力を抜いたらどうだい? 気負いし過ぎて倒れられても、困るんでね」
忙しく瞬きを繰り返す柊審神者の脈打ちを宥めるように静かに、それでいて穏やかに言う歌仙。それで暫く、柊審神者は落ち着きを取り戻して一つ息を吐いた。その表情は最悪の事態の可能性を拭い去ったものである。後に、彼は頭を垂れた。
「これから、よろしく頼む」
「おやおや、主ともあろう者が従者に頭を垂れてはいけないな」
どうにか上手くやれていけそうだ、と柊審神者は思った。
三月、経った。柊審神者がこの本丸に着任してからだ。審神者としての日々の繰り返しも板に付き、それでも忙しさに殺されかかっている柊審神者は今日も紙の束を前に筆を滑らせようとして叶わず頭を抱えている。その様を平然とした様子で見る歌仙が一言筆の止まりを告げれば、彼は筆に墨を含ませるだけ含ませ、やはり叶わず硯に筆先を転がせた。
紙束を文机の上滑らせてその場に頬突きへこたれる。近侍の歌仙を見やれば彼は庭先へと視線を向けている。風流で赴きあるものを好むものなと柊審神者も庭の景観へと目をやった。春はそこにある。
「春の景趣か……」
呟きに、歌仙の目が柊審神者を見た。
「桃の花木なんだな」
見やる庭に植わるそれは立派に幹を太らせ、葉を茂らせ、咲き誇る花を幾数も付けている。
「ああ、可憐な花だ。雅なものだよ」
「うんうん、雅だ。あー、……花見がしたい」
「主、紙の山を片付けて言おうか」
「あー、あー……しかし花見と言えば桜だよなあ。桃しかないなあ」
「そうだね、此処には桃しかないね」
庭先に吹いた風に桃の花の香を孕んだ風が審神者部屋にも運ばれる。その風に前髪を遊ばれる歌仙に目を向けた柊審神者は、彼の悲しげな微笑を見た。そんな気がしたが、風に舞った幾数もの紙にその表情も直ぐに忘れてしまった。
花笑みの季節の一日のこと。
時は流れる。宵、柊審神者は厠の帰り道であった。花冷え肌寒いと衣の二の腕辺りを両の手で擦りながら、温かな布団を求めて足早に寝間に戻るその途中。
小気味良く廊下を叩く彼の足音はぴたりと止まった。彼はその歩みを途端止め、その目を細めるようにして遠目見たのだ。
歌仙が、庭石に腰掛け宵の月を仰ぎ見ているのを。
遠目であるから彼の表情までは窺えないが、あれもまた風流云々なのだろうなと柊審神者は位置は違えど同じ様に宵の空に浮かぶ月を見仰ぐ。今夜の月は満月か、いや満ちていると言うには少しばかり足りないかと見た。
柊審神者の視界の中の月は雲に隠れもしないのにその身を僅か隠そうとする。月光に眩いがそれは目を覚めさせるものではなく、彼に眠りを促すものだ。そうして柊審神者は瞼のその重さに寝間に戻る足を思い出し、歩みを取り戻した。
それだけの、宵であった。
やはり時は流れて、宵。その日の柊審神者は戦況結果を纏める書類の整理に随分と時間を要した。それ故か深夜を大きく過ぎていて眠いはずであるのに目が冴えていけない。寝具に身を横たえても時計の針がちくたくちくたくと鼓膜を震わせるばかりに、うたた寝の淵にさえ腰掛けられない。これはいけないと、布団を出た彼はその身そのままに厨に向かう。酒を舐めるぐらいでも頂こう、そうすれば眠くなるのではないかと思ったのだ。
と、こんな宵が前にあったなと柊審神者は遠目思う、歌仙だ。今宵は庭石へと座り込んで月を仰ぎ見るその姿ではないが、庭先へ下りてその奥へと歩んで行く姿だ。月夜の散歩とはまた赴き有るものだなと柊審神者はその背ばかりを見送ってから、厨へと足を進めた。
酒を舐めて眠ることのできた宵の話。
そうして月日は、柊審神者がこの本丸に着任してから半年を経たせていた。
第一部隊の帰城が直ぐであるとの知らせにその場所で帰りを待つ柊審神者は、庭先を見たり空を見たりあちこちを見たりして月日が経つのは早いものだと感慨深い思い吐息を零した。己が着任してから一振りとて刀剣男子を失っておらぬし、時間遡行軍との戦況は平行としたものだがそれでも歴史修正の手をよりと及ばせるを許してはいない。こうして時は流れていくのだろうと、柊審神者は心持本丸を遠目見た。
と、第一部隊の帰城のようだ。柊審神者が端末を僅か操作して、過去の戦場から本丸へと送り戻す門が開かれた。帰城を告げる刀達一振り一振りに労いの言葉をかけながら、その体に負傷の痕がないかを彼は見やる。四振りが彼を後にし、五振り目に姿を見せたのは此度の部隊長でもある歌仙、彼であった。
柊審神者は歌仙のその姿を見てぎょっとした。
「かせっ、歌仙お前……!」
血塗れたその姿はいっそ染まっていない場所を探す方が困難な程であった。
「手入れっ! 手入れ部屋!」
「…………ぁあ、返り血だよ」
わずかぼぅっとした間に柊審神者の言葉に自身の姿を見た歌仙は全てが返り血であって、怪我は一つも無いと頭を振った。慌てて柊審神者は端末を操作して彼の言葉が確かであること確認したがそれでも、愁いを拭うように二度を尋ね歌仙の首を振らせる。
「結果報告は後でもいいかい。先に戦支度を解いてくるよ」
「あ、あぁ、……勿論」
柊審神者の頷きを見た歌仙は血濡れた外套を翻すようにしてその場を去って行く。その背を見ながら柊審神者は未だ呆然としている。内番の当たりによっては着物の汚れがどうとかごねるがこれはいいのかと、いや戦場でのそれには勿論のこと適用されないのか。いやしかしあれはなんでも、と。
「……一年、だから……」
「! ぁあ、小夜。……一年?」
「あの人が、いなくなってから……」
小夜の言葉に柊審神者はそのいなくなったという人物が前の審神者であると思い当たり、歌仙の血塗れの姿に思いを馳せた。そうして思った、彼の愁いは一年程度では到底拭えないものなのだと。鉄のような残り香が柊審神者の鼻先を撫でては、やり場のない背を撫でていた。
今宵は確か月は満ちている。その宵、柊審神者は何となく眠れなかった。布団の中ぐずるように身を転がしては瞼を閉ざしてみるのだが、目は直ぐに暗闇に浮かぶ部屋の輪郭を追うことになる。仕方ない、とこれまた何となくその身を起こし布団を出てしまう。夜の本丸でも歩こうかと抜け出した布団をままに彼は部屋を出たのであった。
やはり、このような宵には彼の姿があるのだ。柊審神者は庭先に下りようとする歌仙の姿を見た。今宵は彼に話しかけてみようと思ったのは眠れない夜故というよりは多分、血に濡れた彼の姿が片隅に思い出されたからだ。
それで少し近付いて、柊審神者は足を止めた。思えば、宵の庭に出る歌仙の表情を見たのはこの時が初めてであった。月の青白い光に浮かぶ彼の表情は迷い子のように心許無いものでもあり、心を失くしたままに何かを望むようでもあり、憤りの行き場の無いままに喉よ裂けよと声を荒らげそうでもあった。感情を綯い交ぜに泣き出しそうにも見えた。
だから、そんな歌仙がふらふらと庭奥へと歩み出したのに柊審神者はその背を追ったのだ。とてもじゃないが、声はかけられなかった。けれどそのままに放って寝間に戻るなども彼にはできなかった。
柊審神者は彼の行く先へ離れた距離のままに着いて行った。自身の存在に気付く素振りも無い歌仙の様子に、さらに心中渦巻かせながら。
敷地内といえど、城外は広い。本丸の裏手には山があり、そこもまた敷地内といえる。その裏山へ距離を開けたままの二人で分け入る。山道は少し険しいが、確か何度と踏み入った跡であろう道ができている。木々の合間を漏れた月光が湿った地面を照らしていた。
やはり、刀剣男士と生粋の人間である柊審神者の運動能力には差がある。柊審神者は暫し足を止めて呼吸を整えている内に歌仙の姿を見失ってしまった。まずい、と彼は前へ顔を向けて、暫し後ろへも顔を向けた。数秒考えた後、前へと向き直る。行くしか、あるまい。道は前へ続いているのだし、暫し歩いても歌仙の姿が見当たらないのなら引き戻せばいいだけだ。月明かりの下、帰り道は見えていることだし。そうして柊審神者は前へと歩み出した。
暫く歩いた。それは本当は僅かな時間であったかもしれないし、随分と長い間であったかもしれない。兎に角、柊審神者は歩き続けそうして山道は終わりを迎え、開けた場所に出たのだ。
柊審神者は息を呑む。満月はまるで夢幻のように後背に大きく見えた。彼の見る先にあるそれは、満開の花を付けた花木であった。
瞬きを数度、よく見れば花木は柊審神者もよく知る桜の木であった。それがそうと咄嗟気付かなかったのは、その花が知るよりも濃い花弁の色をしているからだろうか。赤に染まらずとも、薄紅よりも鮮やかに見えるそれは、月の仕業だろうかと、彼は足を歩ませる。
そうして桜の木へと距離を縮めた柊審神者は気付いた、そこに在る歌仙の姿に。
歌仙は、土の上に直に座るような性分ではない。それでも、手の平に散った花弁と葉の折り重なった大地を撫で、片頬を桜の木の幹に預けるその姿は彼で間違いなかった。
多分、そこで柊審神者は近侍の名を無意識に呟いていた。だから、閉ざしていた瞼をうっすらと開けた歌仙の目が審神者を捉えたのだ。
「ああ、……審神者か……」
この時、歌仙は彼のことを確か審神者と呼称した。主、とは言わなかった。
「何を、しているんだ。こんな夜更けに」
風流には違いないが、と軽口を言ったものの表情を釣り合わせぬ柊審神者。そんな審神者の姿を見ても歌仙はどうとせず、おもむろに瞼を閉ざしてしまった。零れ桜の合間、そのままに歌仙は言う。
「この下にはね、彼女が眠っているんだ」
柊審神者には、風に舞い散る桜が目眩にも思えた。
「彼女……?」
「ああ。……きみは後任だろう」
その言葉に前任の審神者がそこにいることを彼は知った。そこに、いる。いや埋まっていると。
「まっ、前の審神者は失踪したんじゃ……!」
「そうは、なっているね」
それでも彼女は此処に眠っているのだけれどね、と手の平を撫でさせ片頬を摺り寄せる歌仙に柊審神者は脈打ちの痛い心臓のままに言の葉を紡ぐ。
「っお前が、……その……前の、審神者を……」
「殺したのかって?」
言い澱む柊審神者の言葉を歌仙は拾い、瞼を閉ざしたままに答えを寄越した。
「どうだろうね。殺したといえば確かそうだが、そう言ってはそうではないと泣きそうな顔で縋って来そうなものだから。僕の主は」
愛いものだろう。そう言って、歌仙は小さく笑った。その顔はこの半年の間見てきた中で一等に彼の本当の表情であったように、柊審神者は思う。彼は今、確かその人のことを思って笑ったのだろう。
沈黙の時が二人の間に流れた。
歌仙の口辺に浮かんでいる笑みに柊審神者の心臓も平時の脈打ちをいつの間にか取り戻した頃だ、強く吹いた風に零れ桜が勢いよく宵の空へ舞い上がったのは。その中、彼自身の唇で紡がれた歌仙の言葉は柊審神者にだけ聞かせるものではなかった。
「彼女は言ったんだ……待っていて欲しいと、また逢いに来ると。……僕は……きみがこの世に生まれいずるのを待たねばならない……、待つのだ」
だから、よろしくたのむよ。時間遡行軍や検非違使に討たれるわけにはいかないんでね。そう笑いかけた歌仙の瞳の蒼さに、柊審神者はただただ頷くことしかできなかった。
懐に遠征の帰路で買った簪を一つに本丸へと戻った。遠征先からの帰城を先に告げる報は疾うに着いていることだろうから、自身がこうして庭先を歩む内にきみの姿はやってくることだろう。道行にきみの姿はまだないが、その姿を思い描いてはまだかまだかと胸を温める。
風に零れた桃の花に飾られた地面を歩くは浮ついた心のままに。それもそうだろう、僅かな間とはいえ愛しい者と離れていたのだから、顔を合わせるのが心底嬉しいに決まっている。僕の身に縋るその熱や土産を渡した際に綻ぶその頬を思えば、自身の頬もまた緩むものだ。
ほら、やはりきみの足音が庭先を歩む内に聞こえてきた。ただ、それのあまりの忙しさに自身の口元に苦い笑いが浮かぶの感ずる。直ぐ、視界に見えたその姿は和装だというのに爛漫に駆けて来るその姿だ。
「主、そんなに忙しないのは関心しないな」
「歌仙さんおかえりなさい! あのね、っ!」
僕の本の目の先で躓き浮いたその体をさっと抱きとめる。愛しい者がこうして自身の腕の中に飛び込んでくるのは喜ばしいことこの上ないが、己の目の無い内に何かあってはと思うとやはりこの忙しなさは関心しないなと小言を零すしかない。この忙しなさも含めてきみが愛しいのだけれど、と付け足してきみが紅差すその頬を見るのも忘れはしないが。
「きみは直ぐにこうして躓いてしまうのだから、用心しないか」
「でも、歌仙さんが抱きとめてくれたから……」
大丈夫、ときみが笑む。愛しいばかりだ、きみを。
「きみはまったく……」
少し乱れたきみの髪を直すように手梳き、薄紅の花弁を指先に取る。
「それで、何をそう急いていたんだい? こうも花弁で飾り付けて」
指の腹で挟んで撫でた心地よさ、未だそこに幾数ある花弁に口付けるようにきみの髪に唇を寄せた。見やれば花弁はどうやら桜のもののようで、おや、桜だねとそのままに言葉を零す。春の景趣に彩られたこの本丸に桜の木は植わっていなかったはずだがと思いながら。
「そう、桜! 桜が咲いてたの……! 歌仙さん、歌仙さんも見に行こう! お花見だよ!」
「花見か、風流だな。……しかし、その桜はどこにあったんだい?」
問えば、先までの爛漫さを身の内にしまい込んだようにきみはだんまりとしてしまった。ああこれは、と思う僕の閉じた唇に自身の唇を閉ざしたまま問いかけに答えないのは耐えられなかったのだろうきみは、僕の着物を指先に握り込むようにして小さく言った。裏山、と。きみの顔を覗き込み、一つの単語に含まれた別の意を得る。
「きみ、その顔……一人で行ったな」
「ううん、……本当はそんな奥に行くつもりはなくて直ぐのつもりで」
「奥、奥と言ったね。きみね、一人で行くものではないよ。僕に声をかけるか、いない時であればせめて誰でもいいから共を連れてくれ」
きみの身に何かあったらと思うと僕は出陣も遠征もできなくなってしまうと、僕の心配を分かってくれと、その身をより抱き込めば僕の胸元に顔を埋めて僅か苦しそうに謝るきみがいる。分かった分かったと繰り返すその口に本当に分かっているのだろうねと言葉を重ね、何かが痛いと言うその言葉に懐に仕舞ったままであった土産を思い出しそれかときみと身を離す。
「約束できるね」
「うん、約束する」
「それなら、これをやろう。出先できみに似合う簪を見つけてね。……ほら。奇遇だが、これも桜を題材にしたものだ」
目前に差し出した簪にきみの頬の綻ぶ様は、思い描いていたものより尚のこと僕の心を喜ばせる。この愛しさ心のままに文に綴ろうと、言の葉に乗せようと、全てを表すことはできないだろう。
きみの簪を挿し代えて、どうだろうと問う形のままのきみのその唇に自分のものを寄せた。頬の紅は桜の花でも桃の花でもないなと、唇が互いの吐息に撫ぜられる距離のままにきみを笑う。
穏やかな時間が互いに寄り添っている今は、僕は刀剣男士であることを忘れきみは審神者であることを忘れる。ただの男と女であった、愛し愛される。
「主、ただいま」
「おかえりなさい、私の歌仙さん」
きみの唇はやわいなともう幾数に口付けて。
「ふむ……随分と立派な桜木だ」
「桜の神様が宿ってそうだよね。さ、早く早く!」
「あっ、きみはまたそう走って……! 桜は逃げるものではないのだから、そう急くものではないっ!」
約束通り、二度目の桜を見に行くのには僕に声がかけられた。
僕の手を取り駆けるその姿は相も変わらず忙しないが、手は繋いでいるし僕にどうとでもできると歩んだ山道。歩き、開けた場所へ出れば確か見る先には桜の木。その花笑みは随分と立派なものだ。それを僕が言うや否や、繋いでいた僕の手を抜け出したきみの小さな手はその心のままに暫し駆けた。それに慌てて声を上げた僕をきみはくるりと体見返り、腕を広げてはどうだと自慢気で。その様子に僕はきみの全てを許したくなる。許している、ようなものだが。
桜の木の下、零れ桜を浴びるようにして二人で見仰ぐ。世界がきみと僕とそれだけであるようであった。
「桜の雨、すごく綺麗……」
感嘆とし、きみは僕を見る。そしてやわらかに笑む。先まで雅であると見ていた桜がきみを前に急に霞むようであった。
「でも、歌仙さんの方が綺麗」
「綺麗と言われてもね」
「じゃあ、可愛い。……ふふ。歌仙さん、桜の髪飾りをいっぱい付けてる」
きみの指先が僕の髪を撫でて、少しの花弁が僕の目前を舞い落ちる。そんな零れ桜を見やるきみもまた髪飾りを付けているというに。
「桜なら、きみも沢山付けているだろう」
「じゃあ、お揃いだね」
僕の髪から取った桜の花弁を指先に遊ばせるきみに、僕も同じ様にその髪から桜の花弁を取る。それに唇を寄せればやわく僕の鼻先を撫ぜる花の香。心地いい。僕のその様を見るきみもまた僕と同じに桜の花弁に唇を寄せ、そうしてから照れたように恥じらい顔を俯けるものだから、花を見に来たのだからそう顔を俯けないでくれと頬に手を当て此方を向かせた。きみはその紅差す頬を愛しそうに僕の手の平に摺り寄せるものだから、桜以上に僕を惹き付けるその唇に自分のものを重ねた。
「花ならね、一番に桜が好き」
「そうかい、では僕も一等好きな花は桜だ」
「それでね、全ての中でなら歌仙さんが一番に好き。一等に、好きです」
「恐悦至極」
「歌仙さんは……?」
「おやおや、それを知らないとでも?」
「……知らないよ」
「では教えてやろうか、……零れ桜に埋もれてしまうほどに」
本の少しだけを冗談に、桜の木にその背を押し付けて言えばきみは僕の背に腕をそっと回すものだから、してやられるのはいつも僕の方であると堪らずにその唇を食むような口吸いをする。花の香ではなくきみの香ばかりが僕の鼻先だけではなく心を撫ぜていく。きみは、僕だけの花だ。
月を見ようと、きみは僕を誘った。
僕に用意した酒杯に口を付けてみては苦い酒は飲めないと唇を尖らせるきみを笑いながら、月を見る。なんとも見惚れる月夜である。満ちた月は深い宵色の空に凛として在り、それを見仰ぐきみのその瞳の中にも在るものだから、見ている月はきみの瞳の中の月である。そうした月見は趣有る。
きみの手より返って来た酒杯に口付け、酒を喉奥へ流し込んでほぅと息吐く。僅か残った酒の水面に浮く月もこれまた見事である。残る酒を煽った僕にきみは月を呑んだと言って喜ぶものだから、きみにも月をやろうと酒に濡れた唇を寄り添い合わせた。
「月の味はどうだい」
「……分かるわけがないよ」
「それなら、もう一度?」
返事の代わりに僕の袖を引くきみのいじらしさは酒以上に胸を焼くと、月の味をもう一度分かち合った。分かるか、分からぬと戯れを繰り返し、舌を絡めてはきみの身を押し倒していく。
月を見ないのかときみが問う、月を見ていると僕が答える。月が見ていると僕が笑う、月は見ていないときみが恥らう。
きみの身が冷えてはいけないから此処での戯れはこれまでだとその体を抱き起こした。きみの体を横に抱く僕の首に回されたその腕と寄り添う熱。それに宵はこれで終わりではないことを告げるときみは期待するかのように潤んだ目で僕を見るものだから、夜は長いというがそれでも足らぬと寝間に戻る足を僕は速めた。
叶うなら永久の中をきみと歩みたい。花は散り、形有るものはいずれ壊れてしまうことを僕もきみも知っている。それ故に儚く美しいのだとしても、永遠に縋る指先を伸ばさずにはいられない。空を掻くのだ、幾度と僕らの指先は。
きみはいずれ、僕を置いて逝ってしまうだろう。もしかしたらそれは僕が先かも知れぬ。だから僕は、永久とはいかずとも生を終えるまできみと共にありたいと願う。せめて、せめてこれだけは叶えてくれと。
生もすがら願っているというに、残酷ではないか。これでは、あまりにも。
その泣き声は悲痛な叫びそのものであった。
縋り付き僕の着物を濡らすきみの涙に、鋼の身には無かった心の臓が握り込まれたように痛む。自身の手の平の皮膚を破り、食い込む爪先。握り込んだ拳をどうにか心抑え解き、きみの背を撫で下ろした。何度と、撫で下ろした。しかしその度にきみは泣き濡れた声で僕の名を呼ぶものだから、その体を抱き込むことしか僕にはできなかった。
霊力が、足りぬらしい。
それは審神者である以上必要なもので、刀剣男士を顕現させるにも顕現させ続けるのにも必要だ。だからそれが枯渇することは、審神者であることの終わりを告げるもので。審神者の身に宿っている霊力というものは確か使えば減るものではあるがそれでもその身で育まれ補われるもの。自殺行為と言えるほどに短期間に大量消費してしまえば補われる前に枯渇してしまうだろうが、そうはしなかったきみの身の霊力が枯渇しかけているそれは、病であった。
審神者着任期間中に霊力が枯渇する病、奇病だ。確か前例がなかったわけではないがそれでも、僕ときみとの間にその例がくるなど予想だにしない。
そうして、数少ない前例の全てで審神者が辿った道を知らぬわけでもなかった。だから、きみは、僕は。
心が落ち着いた状態を覚えていない、息苦しかった。きみの目に映らぬ時は僕とてこの身を折り慟哭した。喉も裂けよと人の言葉でない音を吐き出しながら、きみ以外の全てを呪った。呪いを吐き出し続けた。それでも、事実は何一つとして変わらなかった。
去らなければならなかった、きみは。
審神者であり続けられないのであれば本丸に置いておけぬなどと政府は言った。そう言った男の首を斬り落としてしまいたかった。それでもそうしなかったのは、去らねばならない自身のことよりときみが僕らのことを思って唇を開いたからだ。政府の男はただただ平淡な声色で言った、本丸も刀剣男士もいずれ後任の審神者を手配すると。鯉口を切りたがっている指先を抑えるのに堪えた。僕の歯は自身の唇を噛み破り血を流させていた。
末端であろうと神の名の下にきみを隠してしまいたかった。それでも、できなかった。きみの名は疾うに知っている、その唇で紡いできみが教えてくれたから。隠せないのはただ僕が分霊であるからだ。刀、歌仙兼定の付喪神、その大元である本霊であればあるいは。僕には、僕にはきみを隠すことができない。意思が有り声が有り体も有る。だがそれだけだ、僕は。今生の別れという事実だけがそこにあった。
猶予はあっという間に過ぎ去った。きみの身の内に宿る小さな炎。それが燻り消えてしまうには未だ時があるというに、何故きみは去らねばならないというのか。分かっている、きみの霊力が枯渇するその瞬間までを許せば手足となる僕らがままに消えてしまうからだと。知ったことか、そんな事情。そう吐き捨ててやりたいが、許されない。
明日の朝、君は此処から、僕から去ってしまう。行かないでくれと縋り、行きたくないと縋られる。この熱を分かつのも最後となってしまうなんて。
「僕の身を創るものできみが助かるのであれば……この身など、全てきみにくれてやりたい……」
きみを見下ろす僕の胸は熱いものに満たされ、それはやがて目頭まで迫った。滴と成りて零れたそれはきみの柔肌の上にぽたぽたと落ちて流れていく。きみを濡らす僕の温い涙は堰を切った雨空のように次々と珠露を降らせて止まない。きみの目に僕の泣き顔など映してはならないと思っていたのに、どうとあっても止めることはできなかった。苦しくて、胸が痛くて、どうしようもない。きみの胸元に額を押し当てるように身を折り縋れば喉は詰まってしゃくりまで上げそうであった。
「っ……、かせんさん……歌仙さんっ……!」
その背を浮かせるようにしてきみは僕の頭を抱き抱えた。何度も名を呼び僕を撫ぜるようなその声が、余計に苦しい。辛いのは僕よりもきみではないか。今もより心泣かせているは、きみではないか。
「僕は、……僕はっ……! きみに何もしてやれないっ……!」
詰まる喉を無理に開くようにして、僕の名を呼ぶきみの名を呼ぶ。
「っそんなことない……! 歌仙さんが、歌仙さんがいたから私は……歌仙さんっ……」
顔を上げればきみの両目も大粒の涙を零し始めていて、白く滲んだ視界に互いの顔がよく見えない。僕はきみの、きみは僕の涙を手に拭い、もう合わせることもできなくなる顔を見合った。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま唇を合わせ、泣き濡れた声を分かつ。このままに互いの分かつ目が無くなってしまえばいいとより身を寄せて、それでも同一となることのない二つの個体であると頬を涙が伝った。
きみの体を揺する僕も、僕に揺すられるきみも、現を忘れようとしてそれすらできない。高まっているはずの熱が心には底冷えているのは時が迫るからに他ならない。此処を去ったきみはやがて何処の誰とも知らない男の下へ行ってしまうのか。いや、僕だけを思って生きてくれるとしても最期、そこに僕はいない。最期どころ明日からきみと共にいることができないではないか、僕は。
「っ僕の、僕の名を呼んでくれ……!」
「ぁ、……かせっ、かせん……! かせんさん……! あっ、ぁあっ……!」
「主っ、僕の主……! 僕のきみ、きみは……ぁ、くっ……!」
「ひっ、ぁ……! やっ、かせんさんっ……はなれたくないっ……! かせんさん、かせんさんっ……!」
「僕とて、僕とてきみをっ……!」
この背を焼く熱のままに、全てが燃えてしまえばいいのだ。宵の空をも焼き尽くすように燃え上がり、ただの思い合う男と女であればと。
きみの仰け反らせた喉が白く浮く、それは僕の目を釘付けに。きみのより深くを穿ちながら僕は身を折り、その首筋に歯を立てた。薄く皮膚を破り、散った赤が僕の唇に紅を差す。血の微かな香に鼻先を擦り寄り添わせながらきみを揺すり、きみの、きみを、と心燻らせる。噛み痕を舐れば血の味が舌先に苦い。とても、苦かった。
「っふ、ぅ、……僕はきみを……! きみをっ……!」
その首を斬ってしまいと思った。さすればきみは僕の腕の中で生を終える。そんな身勝手な燻り、自身の唇を噛んで言の葉に紡ぐを止めた。
けれど、きみは言った。言ったのだ、僕に。
「っは、ぁ……! 斬って……! わたしを、かせんさんっ……! いやっ、かせんさんのいない世界なんて……! 私の首を、全てを、あげるから……! っわたしを最期までかせんさんのものでいさせて……!」
「っきみは……! 僕に、くれると……!」
「あ、あ! っひ、ぅ……!」
喘ぎの合間に僕に言う。桜、あの桜の下に眠らせてくれと。そうして待っていてくれと。僕が待つのであれば、必ず逢いに来ると、きみはその唇言ったのだ。
「は、っぁあ……! んっ、んっ、ぁ! かせんさっ、かせんさんっ……!」
その首、仰け反らせてきみが僕の名で乞う。零れた涙が地を打ったような音で、水音が弾けた。
「……っぅ、ぁあああっ……!!」
僕の本性は僕の意のままに手に現れる。
きみの名を紡ぎ、僕の名を紡がれ、愛と悲鳴と血反吐を吐くように喉に音唸らせた僕は――。
そうして僕はきみを殺したのだ、愛しいきみを。
桜の木は何一つ変わらずそこに在る。
指と爪の間に入った土砂もそのままにその場所を手の平撫で、片耳を付け、頬でも触れる。この下にきみは眠っている。きみのいるそこは寒くはないか、悲しくはないか。土砂にばかり抱かれて泣いてはいないか、きみは。僕がいないと眠れないと縋っていた手は土ばかりを握り込んでいるのか。
きみを抱いたままに僕も土に眠れば良かったと思う。だが、朽ちてしまってはきみが逢いに来た時に僕がいないと泣いてしまうだろうから、置いてけぼりにしてしまうから。
だから、僕は待とう。日が出るだろう、そして沈むだろう。それから日が出るだろう、そうしてまた沈むだろう。鮮やかな赤の日が東から西へ、東から西へと落ちて行く中、僕は待とう。百年と言わず、五百、千と、きみに逢えるその日を待とう。待つが、できるだけ早く逢いに来て欲しい。僕は気が長い方ではないから。きみが愛しい思いに、胸が今にも潰れてしまいそうであるから。
きみのいない日々が耳鳴りを響かせるようにして始まり、終わりは未だ来ない。
僕は眠れずに朝を迎えることが多くなった。政府には審神者がいないからと出陣も遠征も許されずまた僕自身、意味を見出せずに出向く気もなかった。他の刀剣男士も心虚ろ気に時を過ごし、長く長くに一日を終える。きみがいた頃は時の流れの早さに目を見張っていたというに、今はこんなにも時の歩みが遅いのだ。きみはいつ逢いに来てくれるのだと空を仰いでは日が出ては沈み行くのを見ている。
僕の顔色の悪さに心配気な顔を向けてくる皆に唇弧を描いてみるが、どう取り繕っても上手くいくわけがなかった。刀剣男士としての任務というものがもうないので、僕は眠れぬままの夜が明ければ桜の木の下へと向かい、長い時を経たせては夜更けに戻るを繰り返している。きみを待つことを続けている。きみがいない毎日はただただ苦痛であった。早く逢いたい。
きみのいない夜は眠れずまた長い。寝具に横たえた自身の冷たさに震えてさえしまいそうだ。僕の吐く息は自身の指先を温めるもせず行き先を失くしたままに部屋に溶けていく。部屋の宵影は深い闇、あまりに広くまた僕が独りであることを心底に刻ませる。凍え死んでしまいそうだ、死んでしまいたい。そう思うもきみを待つこの身を朽ちさせるわけにはいけないと宵を渡る。
きみが桜の木の下に眠ってから三月、日々の流れは時折に歩みを止めているのではないか。
夜、やはり眠れない。凍えてしまいそうな体を寝具より起こしてふらふらと部屋を出れば、満ち月の青々とした光が庭先の草花を照らし浮かばせている。満月は人を狂わせると言った先人は、それが刀にも当て嵌まることを知っていただろうか。裸足のままに庭土を踏み、砂利の音を足裏に僕は追った。月をだろうか、あの日の記憶だろうか、きみの幻だろうか、ふらふらと、僕はまるで夢遊病患者であった。
月光の手繰りが無くとも山道を歩むに迷わない。枯葉や小枝、湿った土を踏み僕はただただ歩んだ。
やがて開けた場所に出て見やればそこに桜の木が在るのを僕は勿論のこと知っている。その下に眠る愛しい人のことも。
「明日の朝、きみは僕に逢いに来てくれるのか。それとも次の満ち月か。百年でも何年でも待とう。ただ確か、確か逢いに来てくれ」
その為に僕は朽ちずに待っているのだから。
零れ桜はまるで降る雪のようにも見えた。自然、僕は桜の木のその幹に寄りかかり片頬を寄せていた。手の平には桜の葉と散った花弁が折り重なった大地の感触。
とても、あたたかい。
きみはまだ逢いに来ないが、此処にいるのだ。僕らはまた寄り添い合えると教えてくれるこの熱が、僕の頬を伝って桜を濡らす。僕は花の香の中に在りはせぬきみの香りを見つけ、それに縋るように瞼を閉ざす。きみの熱を胸に、僕は夢にきみを抱くのだ。
――そうして、きみと僕は宵を越す。
日が出て、そして沈む。それからやはり日が出て、沈む。鮮やかな赤の日が東から西へ、東から西へと落ちて時を数えるが僕は計算ごとは苦手だから、月日が何年を僕らの間に確かと経たせたかは分かりかねる。それでも僕は朽ちずに待ち続けた。
きみが眠ってから数え切れない程に新たな審神者が入れ代わり立ち代りこの本丸にやって来てはやがて去った。戦死しかり審神者として最期を迎え、床に臥せっては病に息を引き取る。誰が定めたか寿命。数多の審神者がこの本丸を後にした。新たな審神者の近侍を努めたこともあった、隊に加わらぬこともあった。刀を振るった、振るわぬこともあった。上辺笑ったこともあった、心のままに咽び泣いたこともある。早く逢いに来てくれないか、僕の主はきみだけだ。きみだけが僕の全てで、僕を僕とする所以だ。
歌仙、歌仙ときみが呼ぶ。きみの声が心地いいんだと耳を傾けて笑う僕がいる。遠い日の、追憶。
閉ざしていただけの瞼を開き身を起こすと、僕の鼻先を撫でる桜とは違う花の香。見やれば僕の胸あたりまで来て留まっているのは真白な百合だ。ふっくらと弁開いたその百合から香るとそれを見やる僕の目の先で、空より桜の間を抜けた露がぽたりと百合を打った。揺れる百合の露の滴りを見ている内に、僕の目前へひらひらと舞い散ってきた桜の花弁を手の平に受ける。桜のそれに、唇を寄せた。僕は空を仰ぎ見て、そこには見えぬ暁の星に笑った。
「百年など、疾うに過ぎ去っている」
僕はきみを待つ、夢桜に寄り添いながら。
夢の中僕は、随分と僕を待たせたきみに言うのだ。未だ終わらぬ争いのことも、きみが眠ってしまった後の僕のことも全て。あの日贈った簪がきみに本当に似合っていたことも、きみに手入れされる仲間の刀にさえ悋気の念を孕んでしまった胸内のことも。伝えたがきみに僕の全てをくれてやりたいことも。伝えられたが僕にきみの全てをくれると言ったこと、きみも全てを教えてくれ。
夢の中のきみは姿ばかりで、香も声も熱も無い。僕はそれが恐い。きみを待つ僕が時の中できみを忘れてしまうのではないかと、それが恐い。僕の鼻先を撫で肺を満たしたきみの香を今でも覚えている。僕の鼓膜を震わせ頬を緩ませてくれた声を忘れてなどいない。僕に縋りつき、僕が縋った、きみが教えてくれた愛しい者の熱は今でも僕の肌に感覚を残して胸を焦がし続けている。
「僕はもう待てない。……嘘だ、僕は待ちたい。待つしかない。きみを待ちたい。そうして逢いたい。……きみに逢いたい」
花衣を纏ったきみをこの腕に掻き抱くのだ、と。
朝露が僕の肌を打った。目元に落ちたそれは肌を滑り落ちていくからまるで僕が流した涙のようだ。桜の木に寄り添うままに幾度目かの朝を迎えた僕の閉ざしたままの瞼を春の穏やかな陽光が温める。いくら分霊の付喪神といえど千年を過ぎれば大妖だと、僕は瞼を閉ざしたままに唇音無く笑う。長い時を僕は独り過ごし苦しんだのだ。
もう一滴と朝露が僕の肌を打つ。両目、滴を零す僕は泣いている。
花の香が僕の鼻先を撫で、きみの香が僕の心までをも撫でた。開けた視界はまるで、陽が水面に反射し揺らいでぽろぽろと崩れ輝くようで。
「ああ、……どれほどこの時を待ったことか」
咽ぼうとした喉を叱咤し縋る。香が有り、熱が有った。一時も忘れ得ぬきみのその名を紡げば呼び返してくれる声も有った。夢ではない、きみが僕に寄り添っていた。
随分と待たせたものだと笑ってやろうとして上手くいかず、逢いに来てくれてありがとうと泣いた。きみも泣き顔のまま笑って言うのだ。
「歌仙さん、ただいま」
「おかえり、僕の――」
僕ら、零れ桜に埋もれようか。