しぐれつつ
数度の瞬きを繰り返す。不明瞭な眼下の景色はその度に鮮明さを取り戻し、浅く吸っては吐く呼吸の繰り返しに身の内にあるであろう肺が、臓器が、機能していることを知る。体の線に沿うようにして下ろしている自身の腕の先、人差し指がぴくりと跳ね上がるようにして動く。その指も含めて、拳を握り込んだ。そうしてから、力を抜いた。脚は既にしゃんとして己の体を支えていた。
意思を以て動かすことのできる四肢が此処に在った。血の通った人の身。意識があろうと、刀でしかなかった頃の己には得られるはずもなかった血肉だ。ただただ意識だけを持っていたその時分、それとの差異が目に映る物影を二重にしたような気がした。ほんの僅かな間。
今の世に人の身を以て在り始め、十を数えて余り有り。何処をと見ていたわけではない視線で確かに地を捉え、伏し目を見開くようゆるりと正面へと向く。視界に捉えたのは男が一人、女が一人。此方が意思を以て向けた視線を知ってか、男は半歩踏み出した足で女をその背へと庇うようにして隠していた。どうと言うことはないが。
紅い、花。ゆらりと。視界の中で揺れた花が椿で、それが着物の柄だと暫し遅れて認識した。睫毛を揺らすように瞬きを繰り返す。部屋の中の空気もまた、揺れている。
「この本丸の、審神者だ」
その言葉は僅か、苦虫を噛み潰すように発せられたような気がした。音に自身の鼓膜が震える感覚を覚えながら、言葉を発した男一人を見るようにして、そうか、彼が此処の審神者か。と、心中に浮かべたまま己の名を告げるに今は存在する声帯を震わせた。
「――僕は歌仙兼定」
告げて、自身の意識が一層に鮮明になるのを感じた。審神者という立場の人間の力で人の血肉を与えられているということ、織り紡がれた歴史を改変せんとする者達と、その業から歴史を守ろうと抗う者達。争いの軌跡、世の理。踏鞴を踏まずとも僅かに覚えた目眩、それにこめかみへと指先を当てた。
小さく、息を吐く。
脳内を巡った膨大な情報はどれも歌仙兼定という刀に宿った付喪神の、それも本霊であるそれの知識だ。この身に、分霊であるこの身に有する知識は与えられたものでしかない。自身が歌仙兼定であるということも、嘘偽りのことではないのだが。
そうして、僕は、言葉を紡ぎ始めた審神者へと意識を傾けた。
本霊からの情報の譲渡があることを知って踏まえていたのか、審神者――主が口にしたのは大まかな説明のみであった。
左右へと忙しないその視線。主のそれは確か苛立ちを孕んでいるし、組んだ懐手の指先は神経質に何度も跳ねていた。だが何が気に障っているかなど、今し方顕現された身では察せられるはずもない。
懐手を解いた主の部屋の外へと向けて発した名と、控えるようにして在った神気のその気配。それが顕現された刀の付喪神、今では刀剣男士と呼ばれる自身と同じ存在のものであるとは分かっていた。
「案内は山姥切がする。後のこと……初陣等は追って決める」
そう言い捨てるようにして踵を返した主は、背に隠していた女人の腕を取り足早に部屋から去る。行くその姿、椿が揺れた。僅かに此方を窺うようにして振り返った瞳と、自身の視線が交わったようにも、感じた。
「俺は山姥切国広だ」
「――あぁ、僕は歌仙兼定。どうぞよろしく」
主と入れ代わるようにして姿を現し、名を告げた曰く山姥切国広。その声色と目には見えぬが跳ねたような神気、それらに寸の間呆気に取られた。が、告げられた名で把握する。同じように自身の名を告げ返す、さすれば相手はこくりと頷くようにした。物が名を与えられることは当たり前のことではない。故に、人が思う以上に名に価値を見出す。それだから、と。
本霊から分霊への知識の譲渡、それだけでは把握し切れないこともある。個々の本丸の現状など、本霊の把握下ではないからだ。だからこの本丸で顕現されている刀剣男士の顔触れを初めとし、その錬度や主な部隊編成、時間遡行軍との戦況と情報は続いた。
そうして一通りの説明を終え、山姥切国広は溜息にも似た息を押し出し、呟くように「……本丸内を案内する」と言ってその場から踵を返した。勿論、その背を追った。
部屋の外へと出れば庭先には季節を孕んだような微風があり、それに自身の髪が流されるように揺れた。
「ああ……心地いいね」
揺れた前髪に手を添えるようにしながら、柔らかな日差しを仰ぐ。
人の身を与えられたことで得られるものは、きっとこの両の手では数え切れないことだろう。刀として振るわれていた頃の主、彼のように花を人を日々を愛でることが出来るだろう。そうしたこれからを思い脈打つ鼓動ですら、僕は慈しめる。
「――それで、あんたの部屋はここだ」
「うん、庭先の景観が素晴らしいね。歌を詠むに十二分だ」
「それと、……この本丸には離れがある」
「?」
僅かに言い澱んだ言葉だ。その意図を推し量ろうと視線を山姥切国広へと向ければ、その目は庭のずっと奥を見ているようだった。思うに、その先に件の離れが在るのだろう。
「離れに刀剣男士が近寄ることは禁じられている」
「それは、主の側にいた女人と関係あることなのかい?」
「……あの人は主の奥方だ」
「あぁ、……それで」
山姥切国広の向けた視線の先へと、同じようにして自身のものを向けた。その先に存在するであろう離れ、此処からは見えず。
見えぬものへと目を向けながら瞬きを繰り返す。そうすれば今生の主と奥方に、元主の忠興とその奥方であるガラシャ夫人、その人らの姿が浮かび重なる。そうして思う、主は奥方のことを酷く愛しているのだろうと。
「奥方が姿を見せるのは、新たな刀剣男士を顕現させる時のみ。だろう?」
忠興は、奥方の姿を盗み見た不届き者を斬り捨てた。
「……態々忌いに触れるつもりか」
「まさか。そんな無粋、文系名刀の一分が立たないからね」
ほろほろと零れるような春の陽、それを庭先に見る。此処に庭師はいない。そうだろう、忠興。と、胸中で今は亡き主に語りかけてみても返事は当たり前にない。ただこの胸は、ふわりとした春風にくすぐられるだけであった。
青眼に構えた本性。手の内に在るそれが自身であり、己を振るう腕も確かに自身である。それが妙な心持ちでありながらも、戦場にみる刀の本道に気持ちが昂った。本性が僕の猛りに共鳴するかのように打ち震えているようにさえ感じるが、切っ先の睨みを外すをしない。その首、貰い受けると。
目前には時間遡行軍が壱の打刀。それも僕と同じようにその本性の切っ先を向けてくるが、相手のものは僅かぶれている。その呼吸につられ、揺られるように。
――戦場を、一陣の風が駆け抜ける。剣気が膨れ、弾けた。
どちらともない砂利の音。
刃唸りが左の耳元を掠める。
無防備なその首は差し出しているつもりか。
ほんの下げた切っ先を、振り仰ぐ。
真上に昇った太陽と、斬り離し上げた打刀の頭が一瞬だけ丁度と重なる。完全な逆光に首はただの黒い玉に見え、それはまるで毬のようであった。
どしゃりと、音は重い。
土砂の上へと跳ねる首を見守るでなく他を窺えば、既に一群を退け終えたのが分かった。なればと抜き身を払い、刀身を鞘へと収める。そうしてから自身を見やると、着物が血で汚れていのが分かった。赤黒いそれのどれもが自身のものではなく、浴びた返り血であるということも分かっている。
鼻持ちならぬ臭気、刀であった頃にはこうもそれに眉は寄らなかった。そもそも、眉もなければ鼻もない。と、地へと払い退けた相手の体液と共に、返り血は残り香さえも残さず消えた。躯が消えると同じに、それはまるでその存在など一分も無かったとばかりに。
触れると、僕の着物はさらりと乾いている。
左頬に僅かな熱。それを感じ、指をやるとぬるりと皮膚に伝う。陽にかざすようにして見た自身の指先、それは己の血に濡れている。
「ふむ、……掠ったか」
朱殷、その色が瞬きの間に消えることはなかった。
耳の裏側に響く心音。すぅと吸い込んだのは朝の冷たい空気で、数度の瞬きの合間に仰ぎ見ているのは間違いなく自室の天井だ。
起こした半身でおもむろに左の頬へと指をもっていき、濡れた感触も無ければ生傷の一つも無いと確認した。痕さえ残っていないだろうと分かる、鏡面を覗き込むでもなく。それもそうだ、人の身を与えられていると言えど、この身の傷は致命傷でさえなければ手入れ一つで完治してしまうのだから。
あの一戦の高揚も、今は夢幻になりて。
障子越しに外を見やった。幾分、早く目が覚めてしまったようだ。しかし早く覚めたのなら覚めたで結構と、静やかな空気の中それに沿うようにして身支度を整えた。
「ああ、……霧が出ているのか」
今日の本丸は深い霧に覆われているようだ。廊下へと出た際に霧が出ていることを知り、今日の任への当たり障りを思い少しばかり眉根が寄ってしまった。憂鬱である。
しかし内番着へと着替え終わり、何とはなしに障子を開けて庭を見ている内に悪くないなとも思えてきた。深い霧の中、庭の木々のうっすらと浮かぶ影。その中を散策するのも趣があるかもしれない。そう思えば確か、それは風流であるとより思えてくる。だからこれは丁度良い。まずはすぐそこの雛罌粟をと庭先へ降り、ゆるりと歩を進めた。
心は弾んでいた。
夜に一段と香る沈丁花の今はひっそりとした香を辿り、蕾に浮いた珠露が地へと零れるのを見届ける。浮いた薄紅の影を見やり、名が分からずともその素晴らしさは分かると歌を詠んだ。
内番着の表面がじんわりと濡れているのを感ずるが、霧中を歩くというのはまるで夢の中を闊歩しているようで存外悪くない。眠るという行為も、そうして夢をみるということも、人の身を得て初めて経験出来るようになった希有なものだ。悪くない。
薄ぼんやりと見える紫の枝垂れ。
「藤、か……」
枝垂れの中を歩み見る。その歩みを次第により緩やかなものに変え、そうして花中に佇む。香を肺に満たし、暫し瞼を閉ざした。これは良い、と。
「…………おや」
人の気配を霧中に感じ、閉ざしていた瞼を開ける。
しかし実に言葉を発してから、しまったと胸内口にした。だが胸内反面、離れに近寄るのは禁じられているが奥方に会うのを禁じられていたわけでもなかったと、この霧のようにぼんやりと感じていた。暗黙の了解とは知り得ていたが。
「誰か、いるのですか……?」
耳に心地いい声。小さな音ながら、奥方の声を聞いたのはこれが初めてであった。存在を問われた手前、言を発さず踵を返すというのも無礼に当たる。僅か言い訳染みているかと思いながらも、その気配の方へと足先を向けた。
「此処に」
霧に浮かぶ影。一度歩を止め、声をかけ、僅か頭を垂れるようにしながら目で捉えられるであろう距離へと踏み出した。
「あぁ、……歌仙だったのですね」
上げた視線で見た奥方は、誰がいたのか把握できたからか安堵を共に唇の結びを緩めていた。静やかなその笑みは好ましいが一つ、目に付いたものに些か面食らう。
「その御召し物で此方へ? 羽織の一つも無く? 霧で濡れるのは好ましくないでしょう」
僕と同じよう霧に着物をじんわりと濡らしているその姿、且つ薄着に見え思わずと口が出る。僕の言葉を聞き仄かぼんやりとしたままに、奥方は幾分に色の濃くなっているであろう自身の着物を見ていた。そうしてから僕を見る。こてん、と小首が傾げられた。
「……歌仙も、似たようなものでは?」
「っ僕と奥方では違うだろう」
「はあ……?」
「……女人が体を冷やすのは感心しないと言ったんだ! きみね、手入れ一つでどうとなる身と同等にするだなんて何を考えているんだ? 慎み以前に――」
はあ、と零された音と共に分かりませんと顔に書いているようなものであったから、思わず出た口は一つと言わず次を次をと引き連れてくる。
そうしてその合間、鈴を転がしたような控えめで可憐な笑い声。鼓膜を震わすその声に、自身が声を荒らげてしまっていたと気付いてハッとなった。
「……無礼な物言い、主の奥方に失礼を」
「いいえ、構いません。そうしてどうか、普段通りに。先の方が好ましいです」
半歩下がるようにしながら垂れた頭に、制止の声がかかる。顔を上げれば、笑みを深めるようにして頷く奥方の表情が窺えた。だから僕は、促すその表情に背筋をしゃんと戻しては自身の前髪を指先に遊ばせた。照れ隠しでは、ないのだ。
藤の花弁より滑り零れた珠露が、どちらともない合間に落つる。
「此処での生活にはもう慣れましたか? 不便は、ないですか?」
「慣れぬこと知らぬことも未だ有る。けれど、日々を生きる毎に新たなことに触れるのは楽しいよ」
「新たなこと」
「僕は和歌が好きでね、先人の言の葉の意を感ずることができるのが嬉しいんだ。自ら筆を取り歌を詠める、この体に不便はないさ」
「そう、……良かった」
その笑み。奥方がまるで自身のことのように穏やかに笑むものだから、言葉を紡ぐ僕の口は些かしどろもどろとなりそうで、そうはならずとも地面が柔らかくなったような気もした。
それから、暫し互いに口を噤んで藤を見ていたがその沈黙の時間も穏やかなもので。
珠露に肩を打たれ、何とはなしに奥方を窺い見れば同じようにして僕を見るその顔と向き合った。
ふ、とその唇が空気の珠を零すように笑んだ。
「……何だい?」
「いえ、まるで歌仙が藤の花の化身のようで」
そうして笑むものだから、合わせた顔のままでは何だか胸がこそばゆい。背けるようにした顔で遠くの藤を見るようにした、薄ぼんやりと見える紫の枝垂れの美しいこと、と。何度か心中で呟き頷きながら。それでも胸はこそばゆいから堪らない。
少し、距離を取らねば。仄か、紅色が差す頬をしかと見られているのだろうと思う。ああしかし、歩を下げてしまっては些か分かりやすいと、唇までもむず痒い思いで言の葉を紡ぐ。
「花ではなく刀だ、僕は」
「そうですね、藤ではなく歌仙兼定です。それでも藤を背にしているあなたを見ていると、やはり藤の花の化身のよう。綺麗で、趣があります」
「きみは……」
横目で見る、枝垂れた紫を後背にしているのはお互い様で。小首を傾げて此方を仰ぎ見る奥方こそが、藤の花の化身というに相応しい。そう見ると、後れ毛のかかる白い首筋に目が惹かれる。
嗚呼と、いつぞや自身が口にした言葉に心中で首を振った。
「僕はそろそろ戻るよ。趣はあるが、程ほどにして奥方も戻った方がいい」
「体を冷やしてはなりませんからね」
「ああそうだ。主も心配するよ」
「そう、ですね。……歌仙」
「何だい」
「刀であろうと、手入れ一つでどうとなろうと、同じですよ。私も歌仙も」
花神は笑んだ。
その意に触れて、脈打ったこの胸は。
「歌仙、この霧の中に出ていたのですか……? 着物が、濡れて」
「ああ、庭先に少しね。お小夜は遠征かい?」
戻り、廊下を暫し歩むと旅装束に身を包んだお小夜と出くわした。彼の仰ぎ見てくるその目は、僕の濡れた着物を見て僅かと見開かれている。僕がそうしたことを好まないとお小夜は知っているからだろう、僕の問いかけにこくりと頷いた彼はやはりと、濡れた着物を疑問そうに見てくる。
僕は庭先、いや霧に浮かんだ藤の花を思い出しては心のままに唇を開いた。
「霧も、存外悪くなかったよ」
お小夜は、僕の顔を見て何故だか呆気に取られていた。だけれど僕はそうとは知らず、あの頬の緩みこそ花笑みと表するに相応しいのだろうなと、心に頷いては瞼を閉ざしていた。
藤の枝垂れる季節のことだ。
計算ごとは苦手だ。此度の出陣で得た資源、それの帳簿への明記を自室にて漸くと済ませた。疲労感のままに僕はふぅと息を吐く。帳簿から目を上げれば、庭先から障子を抜け漏れてくる日差しが眩しい。数度の瞬き後に首を傾けるようにして筋を伸ばす。そのまま手の平を頬に、見えぬ障子越しの庭先の景色を見やる。
帳簿付けの為の筆であったら今日は、もう手には取りたくない。筆を取るならそれ即ち、歌を詠む為に。短刀達の部屋の前には野花を植え集めた花壇があり、先日開花を迎えたそれの一つが素晴らしいことを秋田から聞いたものだ。なればそれを見に行かんと腰を上げた。帳簿の上の墨、それは未だ乾いていないのだから。
そうして、僕は奥方の姿を目にする。
野花に歌の二つを詠み終え自室へと戻る途中、離れへと戻るらしいその姿は主のほんの少し後ろを行くもので。その主の足早さから、新たな刀剣男士が顕現されたことが伺えた。主からその場で説明されたことはないが、新しくやってきた者に妻を見せるため、一種の牽制であるとその場に彼女を置くのであろうと思う。
「おや……?」
主が出てそうもしない内に姿を見せたのは山姥切国広。初期刀である彼の任の内の一つ、新たな者への説明はどうしたのだろうかと僅かに疑問を覚えた。が、それも直ぐに掻き消える。先に本丸内の案内でも頼まれたのだろうと考え半ばに移した視線、その先で振り返った奥方と目があったような気がしたからだ。
そして、確かにあったのだろう。彼女は僅かに目を細め、唇の端を少しだけ持ち上げるようにして僕に笑いかけたのだから。不意打ち驚く僕に、聞こえてくるわけがない彼女の笑い声が聞こえた。それはあの霧中での声が僕の鼓膜を震わせたのだ。
「……ふむ、稀有な事だ」
後に天下五剣である三日月宗近殿として知るのだが、彼が呟いたその言葉は何に対してのものだったのか、今は知らず。僕は知らず。
趣のある傘を買った。その数日の後だ、なんとも都合良く雨天になったのは。雨足も丁度良く、傘を差しての散策にお誂え向きだ。だからと構えた傘と共に庭先へと下りる。弾かれる雨の音に、肺を満たす冷たい雨の空気。そうだな、雨に濡れる牡丹を見に行こう。雨が上がった後のその姿も良いものだが、最中の姿もまた格別なことだろう。
牡丹の側には、僕と同じように傘を差した先客がいた。それにまさかと思う。離れは、此処とは逆の方向に在るではないか。その小さく心許無い後ろ姿、僕の傘の杖を握る手には自然と力が込められていた。雨は僕の頬を打たない、それだからと視線をその後背へと向けたままに、歩を進めることができずにいるのだ僕は。
だけれど弾かれる雨粒の音に気付いたのか、体の向きを変えるようにして奥方は振り返ってしまった。
互いの視線が一致し、暫し無言の時が流れる。と、ゆるりと己の指先を口元へと持っていった彼女は、それに寄り添わせるように言葉を紡いで僕に聞かせた。
「秘密ですよ」
立てた人差し指が一本、悪戯な笑みを口辺に漂わせたそれ。奥方の表情に僕は、肩の力を抜く他ない。息を、吐くしかない。
「……今日は、しゃんと暖かくしているようだ」
「ええ、誰かさんに怒られてしまうもの」
その場から少し左に寄った彼女は牡丹へと向き直る。その意を汲んで、仄かたじろぎながらも彼女の横へと並ぶように歩を進めた。僕の鼻先を撫でる、雨の香りでも牡丹の香りでもない柔らかな香り。思うものがあったがそれでも、心臓の脈打ちに知らぬ存ぜぬを貫く。そうせねば、彼女と同じように牡丹を眺めることに努めるに難しい。
いつかの誤魔化しだ、今日もと見やれば幾数もの珠露を浮かべた牡丹の美しいこと。艶やかに雫を地へと零してはそれでも、花の紅色は濡れにじむことがない。嗚呼、誠に雅なことだ。そうは感ずる、だがしかしと、胸内でさえ言の葉を紡ぎそうになる僕だ。
見れば傘下より差し出された彼女の手、その指は雨に濡れる牡丹の花弁にそっと触れた。つぅと流れた珠露に濡れた指先が、雨に濡れる花弁と同じように水滴で光っている。牡丹の大輪の前により際立つ女人の指。白魚のような、というのはこのことだ。どこか雨の音を遠くにし、牡丹に遊ぶその指へと惹かれるように僕は魅入っていた。
「――っ」
軽い衝撃、されど意識を近くに引き戻すには十分なもの。それは無意識に縮めてしまった距離、互いの傘が打つかった為のもので。反射、傘を引いた僕に降り注ぐ雨はこの身の羽織へと滲み、着物の肩をも濡らした。雨の冷たさは、丁度良いのかもしれないが。
「歌仙の牡丹にも、雨粒が」
彼女の指先が僕の胸元へと伸ばされて、それに思わず引こうとした体を心中にて叱咤した。庭の牡丹と同じように、僕の胸元の牡丹を撫でる彼女の指先。そうして辿り、雨に濡れた箇所に触れふと零される笑み。手拭い――いやハンカチというのだったか、それを懐から取り出した彼女は僕の肩先にその布地を触れるに優しく押し当てた。僕はそれを遠慮するべきだと思いながらも口を噤むことしかできぬ。
「歌仙の髪、毛先の方へと色が濃いのね」
指先にハンカチをやわく握り込んだまま、彼女は僕の前髪にそっと触れた。咄嗟、その指を布地ごと自身の手の内に握り込んで胸を内で跳ねさせるが、触れた彼女の手を放しはしない己がいる。
「……ごめんなさい、不躾だったわ」
「いや、少し驚いただけだ。……すまないね」
女人の手、いや奥方の手は此方が心配になるほどにか細く、やわく、その肌のきめ細かさは共に握り込んだ布地の比ではなく指の腹に心地いい。男の身を持つ自身との差に、ほぅと息吐き淡い感動が心にあることに気付いた。
「……、歌仙?」
笑んで訊ねるは、僕の手の内にある彼女自身の手のことで。
「僕は花ではないが、お気に召されたのなら」
ゆるりと放せばそれが、彼女の熱を名残惜しく思う自身がいるということであった。下ろした手、空いた手の平がひんやりと心許無く思えたのも、また。
「歌仙兼定、刀の神様。美しい刀に宿る神様はやはり、美しいのね」
指に僕の髪を遊ぶ彼女の楽しげな口辺につられ、僕もままに笑みを一つ。僕は同じに、笑えているのだろうか。
雨は小雨、それでも止まぬ。僕の傘下に入った彼女が濡れることはない。伸ばせば触れることが叶うのか。叶えどもそれは上辺、手で触れ得るものにだけだ。その心に触れることは叶わないのだろう。蝋燭の炎のように僕の心が揺れていることを知り得るか、きみは。
ああ、僕はこの人のことを好いている。
花ではなく刀だと言ったこの口は、胸に満ちた思いの行き所のなさにほぅ、と溜息にも似た吐息を零した。己の中に庭師が在るのをしかと感じる。
芽生えていた思い、息の詰めるような愛しさは言うに言われぬ。
幾日を経た。万屋で買ったそれを懐に、歩みながらも僕は考えている。牡丹が刺繍されたそれを贈るだなんて、浅はかだろうか。身を焦がす思いを、先の日を、何も残さず過ぎ去ったものにしたくはないと。きみの中で在り続けて欲しいと願ってしまう、この僕は。
「あんたが、俺を探していると」
「やあ。頼みごとがしたくて探していたんだ」
「頼みごと……? 俺にか」
「ああ、きみにしか頼めないものでね」
辺りに僕ら以外誰もいないのを確かめて、懐からハンカチを取り出した。それを見やる僕の眼差しは自然、穏やかなものになってしまっていると自分でも分かる。ああどうかと、呪いを込めんばかりの心持で指の腹に包みを撫でる。
「奥方に借りたものなんだが、それを返したくてね」
山姥切国広だけが離れに入ることを許されているから、この頼みごとは彼にしか出来ない。そういった意を伝えたが彼は、僕の差し出したそれに怪訝そうな目を向けていた。無理もない、それをいつ借りたのかという疑問もあればそれ以前に、僕の差し出したそれは返す借り物には見えぬ包みに覆われていたから。
察するに容易いだろう、僕の言葉の偽りは。
「……いいだろう」
それでも、彼は僕の差し出したそれを受け取ってくれた。僕の託す指先に応じるかのように、至極大切に預かり受けてくれたものだ。
彼の纏っている白い布は直ぐにと翻る。その背を暫し、見送った。
そうしてから、息を吐く。何時であろうと思い出してしまう奥方の声音が、僕の耳をくすぐる。彼女に忘れられることを思うと、枝から落ちてしまった熟柿みたいに潰れてしまいそうだ、この胸は。
「奥方も、あんたに借りたものを返すと」
頼みごとの後日。山姥切国広は僕が自室にて一人であることを確認するとそれだけを言い、この手の内に何かを押し付けるようにしてから足早に去ってしまった。彼の忙しなさに目を瞬かせながらも言い残された言葉を脳内で繰り返す。理解は、遅れてやって来た。
それはいつぞやの自分と同じ、貸したつもりもないもので。どこか乾いた口内と、緊張する指先で解いた包み、現れたものはハンカチ。それを目にした僕は身を折るようにして、その布地に額を押し付けていた。嗚呼、と。
引き結んでおられぬ唇。頬へ胸へと熱を上げるよりとない幸福感。それが、藤の刺繍のされたハンカチと共に僕の手の中にあった。
「明後日、主は明朝より出かける。近侍として俺もだ。帰城の時間は大体になるが――」
自室にて筆を取っていた穏やかな午後。入るぞ、そう言うなり部屋へと足を踏み込ませ途端僕の目前に座った山姥切国広。一体何用だと筆を構えたままに目を向けた後に言われたのが、先の言葉だ。帰城時間まで大体のものを告げてくるそれに、筆の背を指先で撫でながらも露草色の眼へと疑問を投げる。
「態々知らせに来たのかい? どうせ、明日には皆に知らされることだろう」
出陣や遠征の部隊編成、居城組でも内番の振り分けと、それらの為に主が本丸を出る予定の折は先日より知らされることだ。僕が知っているのだから、初期刀であるきみは勿論のこと知っているだろうと言葉尻に乗せると、山姥切国広は言い難そうにここで僕から視線を逸らした。
「そうだな、出陣や遠征にも関わることだ。皆に知らされる。……が、あんたには先に言っておこうと思った」
筆に含ませていた墨が紙の上にぽとりと零れ落ち、染みを作る。言外に仄めかされた意が理解出来るものだから、墨の染みを見つめながら息を吐いた。
「そう、かい」
この心、一片も漏らさずに秘すとしたものでない。彼に頼みごとをした時点でそうである。だから僕の言葉が僅かに切れた意は、仄めかされた故だ。僕を見る露草色に陰りは見当たらない。
「……僕は」
「いや、……明後日、主と俺はいない。……だが奥方は離れにいる。それだけだ」
筆を置き、緩ませた唇での言葉は遮られる。言い終え、勢い良く立ち上がった彼は左右に一度視線を泳がせてから来た時と同じように突拍子も無く部屋を出て行く。その振動に、筆が文机の上を転がり落ちた。畳を小さく汚した墨へ視線をやるも、考えるは万に一つで。忙しないことだ、なんて小言を言う余裕も有りはしなかった。
「…………参ったね」
感情をない混ぜにした声色だと自分でも分かった。
「何れ菖蒲か杜若」
目前に見るそれが菖蒲であることは分かっている。分からないのは、いや分かるが区別しようと思っていないものは口には出さずにだんまりと。
花は人の心も知らずに美しく咲き誇る。苦い笑いを口辺に漂わせ、そうしてから己の片手でそれを隠すようにして覆った。人の心もなにも、生まれてこの方刀であったな僕は、と。笑い出したいような、泣きたいような、怒りたいような、そんな心持であった。
「菖蒲には毒があるんですよ、歌仙」
「雅を解さぬ言葉だな……ご機嫌麗しゅう、奥の人」
背にかかる声に振り返ればそこにいるのは愛しい人で、彼女が在るのなら菖蒲と杜若の双方に劣を付けるしかないと、そう思いながら僕はその軽口に返事を返す。
あの日の彼女と同じように、僕はその場から少し左に寄って菖蒲へと向き直る。視線だけは菖蒲へと向けた。意識。彼女が僕の隣に並んだことに胸を高鳴らせた。この鼓動の音は些か大きいが、彼女に聞こえてしまってはいないだろうか。伝わってはいないだろうか、身を焦がすこの熱は。知れればいいと思ってしまう、僕は。
「菖蒲は、離れの側にしか咲いていない」
「えぇ、だから菖蒲を見に来られたのでしょう」
「あぁ、そうだね」
言い訳一つ、盗み見た彼女の横顔。紅の惹かれた唇はまるでそこに咲く一輪の花のようだ。彼女の少し笑んだ口辺に裏腹、僕は自身のものを引き結ぶ。彼女に気付かれぬままに腹の底へと落ちていく熱の塊、それを如何様にして区切れば良いのだろうか。
上唇と下唇が今は無い隙間を作り彼女に問いたがっていた。それは好む花の名前や移ろう季節のこと。贈った物のこと、贈られた物のこと。その目に映る菖蒲に何を思うのか、僕をどう思っているのか。何に一つも問わぬ唇で、彼女が応じてくれるのを待っている。
「こちらへ、歌仙。この近くにしかない花々が他にもあるんです」
奥方は容易く僕の手を取ってしまう。その手に引かれ歩み出す僕は、気持ちの行き所と共に迷い子のようだ。
「歌仙は外来の花も知っているのですか?」
「いや、姿形だけで名はあまり知らないな」
これはモントブレチア、別名を姫檜扇水仙。あそこに見える山吹色と橙色の並んだものはガザビア、と。彼女は僕の手を引くままに花の名を教えてくれる。どれも美しく素晴らしい。だが彼女に勝るものは一つとしてないなと、花を見ゆる合間にその横顔を窺った。
その紅が、妙に僕の胸内へと引っ掛かる。
「この花はアネモネ。別名は牡丹一花、……歌仙の胸元のそれと代えてしまいましょうか。歌仙、牡丹を頂戴な」
「いいよ、僕の牡丹はきみにやろう。それは僕にくれるかい?」
「ええ、髪簪にしてあげる」
「冗談だろう、まさか」
くすくす笑う奥方の声は花弁を滑り撫でた。刀ではなく花であったなら、もっと穏やかに彼女を思い続けることができたのだろうか。いつぞや言われた藤の花となりきみに会いたい。浅はかで愚かな願いだ、僕の。刀剣男士に対する死は僕達にとっては本性である刀の破壊でしかなく、その先に生命の流転は待っていない。ただ、分かつ元へと戻るだけ。そうして僕が僕である意識など無くなってしまうのだろう。きみも、忘れ去ってしまうだろう。互い。
「あの、歌仙……花を活けてくれませんか? 私の部屋に一つ。……今なら、私だけしかいませんから」
ぼんやりと思考を彷徨わせていた僕の頬を、彼女の言葉が打った。そうではない、彼女はそうといった意味で言ったわけではないのだ、僕に。と、胸中自身に捲くし立てながらも心は期待していた。自身の顔に熱が集まるのを感じながら彼女を見る。だからと僕の口は酸素を求める魚のようで、はしたないと苦し紛れに軽口説くことは叶わなかった。
そんな僕の様をきょとんとした顔付きで見る奥方は、自身の言葉に何も思っていない。が、遅れ気付いたのだろうか頬を紅潮させた。その頬の紅さは季節外れだが、紅葉を思い出すものだ。
「っち、違っ、違います! そういう意味で言ったわけでは……!」
「っぁ、ああ、そうだろうねえ……!」
互い、しどろもどろに語尾を掠れさせた。相手とは別の方向へと目を泳がせるを続けるに、未だと手は繋いだままなのだ。それで二人の間に言の葉が消えて数秒、後にどちらともなく笑い声を零した。
彼女との時間はこんなにも僕を人に近づけるのかと、与えられた感覚を慈しむ。この心、きみが知り得ればいいと思ってしまう僕だ。だからこの唇はこうにも結びを緩めてしまう。きみのそれは花の名を僕に教えるに開かれるが、僕は儘に告げるを厭わなくなってしまった。
「ラベンダーは知っているかしら。これで紫蘇科なんですよ」
「ふむ、分からないものだ。……きみよ、僕は菖蒲を乞うていない」
「……、歌仙?」
「ああ、あれに見えるは知っている。ライラック、だろう?」
「ええ、和名は紫丁香花…………私も、花を愛でるにあなたの手を取ったわけではないのよ、歌仙」
その指先が、僕の手の甲をやわく撫でた。そうしてその声音は。
「……菖蒲だ」
「菖蒲?」
「きみも毒を孕んでいるのではないか。この身、心の臓の辺りが痛い。その唇、声に僕の名を呼ばれると」
自身の胸元の布地を指先に握り込んだ。やはりその下の心の臓が痛い。痛いのだと、彼女の目を見て泣きそうでさえあった。
「離れには……すまないが、行けない。行ってしまえば僕は、きっと……」
嗚呼、僕の命など絶えてしまえばいいのだ。きみへの思いの為に死ぬるなら本望であると、僕の思いはそれほどまでに燃えている。きみは、知らないだろうが。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね 人ゆえに 人こそ知らね 燃ゆる思ひを」
「――花やあらぬ 藤や昔の藤ならぬ 菖蒲も知らぬ 人の恋しき」
目を見張るようにして驚いた、返歌を詠まれるとはまさか思わず。
彼女は布地を握り込んだ僕の指先へと触れ、解くようにしてその手に取った。僕の両の手を取ったままに、傾げた小首で微笑むのだ。返歌の意は、目を瞬かせる毎に僕の胸の内へと染みわたる。それは彼女の声色で、やわく。
――花は昔のままの花でしょう。藤は昔のままの藤ではないのですか。菖蒲は知らないでしょう。あなたのことがこんなにも恋しいことを。
きみは、僕が知らず知らず己の内に芽生えを秘めていた時から知っていたのか。そうして、僕の思いに応じてくれると。
「……冗談だと言っても聞かないよ」
「冗談でなければ世迷言でもないわ。欲しいのは、牡丹ではないのよ歌仙」
取られたままの手を取り返すようにして自身の方へと引けば、小さく驚きの声を上げたのはきみだ。手は離れてしまったが、引寄せたままにその体を自身の腕の中に収めることができた。
あの雨の日の柔らかな香り、それもまた僕の腕の中にある。
「きみが愛しい、……僕だけのものにしてしまいたい」
「歌仙……」
この腕の中で他の誰でもない僕の名を呼ぶきみは、無い距離をさらに埋めるよう胸元へと頬を寄り添わせてくる。それだからとより深く抱き締めた。今この時は、僕のものであると思いながら。
止まってしまえと思えど、時は流るる。留まることなど知らぬと。
「あぁ、歌仙……牡丹が……」
「おや、しまったね……」
名残惜しい気持ちばかりで互いの体を離す。すると彼女は頬を寄せていた辺りに目をやり、そうして申し訳なさそうに言った。見ると胸元、牡丹の花弁は形を崩している。花に気をやってはいなかったので仕方が無いと外してしまう。手拭いに包み懐にでも仕舞おうかと思っていた僕の目下、それはそっと差し出された両の手の平。
「何だい?」
「ごめんなさい、欲しくないわけではないの」
「崩れ、髪簪には向かないものだ」
「あら、……アネモネでお揃いにしてくれるの?」
「ふふ、辞退しておくよ」
手渡した牡丹に彼女は優しげな眼差しを向けた。
「……今の、アネモネのような色も良いものだ。だがね、きみにはその牡丹のような色が映える。僕は、そうであると嬉しい」
「?」
「紅だよ」
微笑んで、きみはその手の牡丹に唇を寄せた。いじらしく、悩ましい。僕の心はいたく打たれてばかりだ。
関ヶ原行の遠征より戻れば同じに、此度京都市中に向かった第一部隊の事を小夜から聞いた。重傷を負う者はおらぬ、だがそれに近い中傷の者が三口。蛍丸、鶴丸国永、山姥切国広と連なった名に眉を顰める。そんな僕を見てお小夜も俯き加減に小さく首を振った。
「……編成が変わったんです」
「それにしてもどうして……手入れは終わってるのかい?」
「山姥切国広はまだ手入れ部屋で……自身は後でいいからと。……蛍丸も、鶴丸も、錬度は高いけれど……夜戦には慣れてなかったんです。だから、庇ったそれで槍の一突きを受けて…………歌仙、あの人はどうしたのでしょう……?」
「……戦況はより切迫したものになっているからね、主も急いているのだろう」
小夜に言った言葉裏腹、己の心中では疑念が渦巻く。確かに戦況はより切迫したものになっているのが、ここ最近の主の采配には些か思うものがある。それは悋気の念を孕んだ故とは言わぬ、一寸も無いとは言い切れないが。多分、この指の腹は鯉口を切りたがっている。ならぬ、僕一振りの定めでないのであれば。
「失礼するよ」
思考も途中、僕は手入れ部屋へと踏み入った。
「……あんたか。……完治には、もう少しかかりそうだ」
山姥切国広の、己の本性を見ていた眼差しが此方を向く。彼の体には目に見える傷がまだそこに在り、呟くように僕へと言葉を返しては再度、本性へと目を向けて損傷具合を見やる。その視線を追った僕もまたその損傷具合に確か、まだ時間がかかるだろうと頷いた。
「だが大事無くて良かったよ」
「写しは血に汚れてるぐらいが丁度良いさ」
「きみはまたそれかい」
常時の言葉だ。第一部隊の部隊長が何を言っているのだと言えば、初期刀で長くいるからその分の錬度だ。それが無ければどうせ写し相応だと、そう言って過少評価ばかりを口にする。それでも彼がその実に誇りを持っていると知っているから、写しだ何だとのいつもの言葉二口目は聞き流した。
僕の口からは遠征先のことを、山姥切国広の口からは出陣先のことと互いに情報を交換していた時だ、足早な足音が耳に届いたのは。その鼓膜に響く音の方へと山姥切国広と共に目を向け、少しの後に現れた姿は主であった。
「――山姥切、は、まだか……しょうがない歌仙、近侍を」
未だ損傷している刀を目の後に、移した視線僕を見た主は言った。
「顕現させる」
その言葉と幾つかを僕へと命じた主は来た時と同じようにして足早に踵を返して行く。
僕は山姥切国広と目を合わせ暫し無言の後に、拝命したままに手入れ部屋を後にした。
それで命じられたようにその部屋の前に控えた僕に暫く、やって来た主に斜め後ろに奥方、彼女の姿があった。地面を見るような伏し目が何とはなしに上がり、僕の姿を捉えた彼女の息を呑むような音が聞こえた。ただし、その音を捉えられたのは僕だけだろう。このような時は刀剣男士としての五感がありがたい。
互い、平静を保つ。
主と奥方が部屋へと入るのを表、平然と見届けた。しかし奥方の横顔を窺ってしまったのは、しょうがないことだろう。その姿が扉に閉ざされてから誰とも知らず笑んでいた、そのこともまた。
「油揚げだそうだ、小狐丸殿の所望は」
「昼餉に青菜と油揚げの炒め煮があるよ。うーん、でも、もっと立派なものを出したいよね」
「夕餉の主食を稲荷寿司にするかい?」
厨にて、昼餉の準備を終えた光忠に小狐丸殿の要望を伝えた。夕餉の食事当番は自身も入る為にと案を出す。それならば追加の買出しが必要だと言う光忠に、言い出した僕が行こう。そういえば確かそろそろ買い足しが必要なものがあっただろうとも続けた。それが何であったかは喉元まで出かけたが出ず。しかしそうそうあれだねと言いつつ他に要るものが浮かびに浮かび、紙に一覧を書き出した光忠を見て暫し閉口した。
文字を記す音に足音が交じる。音に視線を向けると山姥切国広が来たところであった。
「もう大丈夫なのかい?」
「あぁ、支障無い。昼餉は……」
「主と奥方のだね? 少し待っててね」
主と奥方の二人は刀剣男士とは別の場で食事を取る。大概は離れで、配膳は山姥切国広の任であった。用意された膳の内、片方を見てから彼は光忠を見た。
「光忠、すまないがあんたは主の分を運んでくれるか。昼餉は審神者部屋で取るそうだ。俺は奥方の分を離れへ運ぶ必要がある」
「ああ、分かったよ」
そうか、今日は二人別々に食事を取るのかと主の分の膳を運んで行く光忠の背中を見送った。
「……配膳の任を代わることはできない。これは俺の仕事だからな」
光忠がいなくなり十を数えたぐらいの頃だろうか、山姥切国広が静かに言ったのは。目を向けると彼は厨の出口に向けた視線のままに言ったようだった。そして、ゆるりと此方を向いた彼の目は真っ直ぐに僕を見ている。
「――だが配膳だけだ、俺の仕事は。その膳に何か乗っていようと運ぶだろうさ」
暫し、言葉を失くした。
「……感謝するよ」
「礼を言われる謂れは無いな。配膳は俺の仕事だと言っただろう」
「それでも、どうやって渡そうか悩んでいたからね。助かるよ」
「……早くしろ。昼餉が冷める」
再びの感謝に彼は顔を背けた。白布を引き下げ照れを隠すそれに、僕は口辺に笑みを漂わせながらも懐から簪を取り出す。黒漆塗りの中に浮かぶ花を指の腹で撫で、膳の上へと思いを共にそっと置く。
「……菖蒲か」
菖蒲の開花時期より幾分遅れたものであるからだろう、僅か声色に疑問のそれが乗っていたのは。僕はそれを笑んでいたが。
「それとよければ……牡丹が美しいと、伝えて欲しい」
「言伝なんて俺の仕事じゃないが……いいだろう」
「ふふ、すまないね」
三度目の感謝には眉を顰めた視線を寄越された。笑み、横顔を窺った奥方の紅の色を思い出し温かくなる胸に満ちた心地になる。小さく息を吐き、山姥切国広の目を真っ直ぐに見返して僕は言った。
「きみは、知っているのだろう」
何を、とは言わぬ問いかけに彼は首を振ることもなければ頷くこともない。答えはそこにあったが、何も言わぬままに膳を抱えた彼は踵を返す。数歩進み、その場に立ち止まったままに背中で言った。
「……あんたが来てからの奥方は、良く笑う」
しかし、僕の為に悲しませることもあるだろうと思うと胸が痛い。今は、きみが菖蒲に僕を何度と思ってくれることを願う。
「演練に奥方が?」
「ああ、同道する」
「おや……珍しいね。初めてのことでないのかい?」
「そうだな、無かったことだ」
玉鋼の残数を記していた帳簿から顔を上げて山姥切国広に問い返したのは、翌週に予定されている演練についてだ。資材置き場の戸口に立つ彼は、刀装作りに用いる分の資材を傍らに置いて僕の問いに頷き答える。聞き間違いかとも思ったが確か、次の演練に奥方は同道するらしい。それはかつて無かったことではないかと続けて問えば、それも肯定された。
庭先では季節を外れ、鶯が鳴いている。乱鶯だ。
冷却水の残数を調べつつ物思いに耽っていれば、予定されている隊の編成に僕も入っていることを告げられる。それに僕は残数を数え直すこととなった。
「今剣に三日月宗近、鶴丸国永、石切丸」
「もう一口はきみかい?」
「ああ」
「ふむ。刀装の拵えはその為かな」
「それもあるな」
まともに言葉を交わしているようで、それでも僕の心中は穏やかではなかった。やはり好いた者の前では良い姿でいたいものだ、翌週の演練はいつにもまして気が入りそうである。
刀装作りの資材を抱え直した山姥切国広は一度天を見るように視線を上げ、口辺に僅か笑みを漂わせていた。
「ヘマはできないな」
「……皆の足を引っ張るわけにはいかないからね」
ああそうだろうと踵を返した彼の声色に浮いたそれ、僕は苦虫を噛み潰す。
「それと……木炭の残数、計算が間違っているぞ」
「そういうのは早く言ってくれないかなっ」
去っていくその後ろ姿、揺れている肩に声を上げた。
「せめて雅に散れ!」
逆袈裟に蜻蛉切を斬った構えの僕に、今剣と相対する五虎退の構えた銃兵が鉄砲筒を向けている。それが火を噴く前に放たれた鉄砲玉は今剣の構えた刀装によるものだ。三、四、五、一体が逃れた。
「っ」
一発が僕の横腹を掠り、僅か遅れて熱を孕む。だがそれに気をやる間を得ないと正した構え、血が滲む感覚も後にこの首を狙った太刀の一筋を防いだ。ばちりと跳んだ小輝きは火花の爆ぜり、せめぎ合うは互いの本性。袖を振り払うようにして互い後方へと身を引く。向かい合う剣気、獅子王の首に坐する鵺が威嚇に牙を剥く。
空を穿つように響く鉄砲音を皮切り、相手の首を獲らんと地を蹴り本性を振るうは鏡合わせだ。一度、二度、刀は打つかり合い硬質な音を上げる。三度目、僕のそれは軌道を変え衝突を避けた。
「後ろだぜ?」
瞬時防ぐよう構えていたがそれでも、鶴丸殿の太刀は確かと獅子王を捉えていた。歯噛みの音、足裏からの砂利の音は霞むかのようにして聴覚に消えていく。
「あははっ! うえですよ!」
離れ、五虎退の虚を突いた今剣の声が聞こえる。それを耳に、向かい合っていた鶴丸殿と視線を一致させると同じ頃合寸に体制を低くした。
「我が刃は岩をも断つ!」
先まで在った場所を石切丸殿がその本性で薙いだ。鶴丸殿と互い、その刃風を見るように本性を構えると同時目をやる。鯰尾籐四郎、骨喰籐四郎の二口が大太刀の一線をその身に受けて後方へと退く。ままに受けた鯰尾籐四郎が刃傷の為に場を辞し、その場片膝を突きながらも構えを見せた骨喰籐四郎へは白布が翻っていた。
「斬る」
山姥切国広の本性が刃唸りを聞かせる。最高錬度を以って振るわれたその一線、耐えることなど叶わない。
そうして目を向けた時、三日月殿の前に相手の三日月宗近が場を辞する所であった。
まるで舞うかのような流れの動き、それで血を振るった三日月殿が本性を鞘に収めた音だけが戦場に静やか響く。戦場に立つは六口皆同じ隊の者だ。つまり、一戦を終えた。
「ぼくらのかちですねー」
「はっはっはっ、よきかなよきかな」
「おくがたによいところ、みせられましたね!」
皆が一口二口を交わして瞬き一寸に場が陽炎のように揺らぎ、次に己たちが立っていたのは屋内であった。技術の進歩、原理は聞かされても未だ分からないが、刀を振るう演練の場より戻ったということだ。だから、横腹に疼いた僅かな熱も陽炎のように消えている。そういう場であると知ってはいるが摩訶不思議なものだ、首を斬り落とされようとそれも陽炎となるらしいから。
主に細かな報告をする山姥切国広。僕の見やる先には主の後方に控えた奥方がこの顔、横腹と順に目を向けてほっと息を吐いたのが窺えた。それに僕はふと笑みを零してしまう。と、視線を感じ見れば石切丸殿がどこか優しげな目を僕に向けていたものだから、緩む頬を叱咤し表情を引き締めることとなった。
「つぎのいくさもがんばりましょうね!」
「ああ、勝たねばね」
今剣の言葉に頷き返す。
僕の揺るぎ無い意思のままに本性の刃は冴える。此度の演練の全てで勝利を収めた自軍。皆より多くの誉れを得た僕は主より労いの言葉を一つ頂戴したが、胸に響かぬ。何よりも、愛しい人のその眼差しだけが一等に心を喜ばせた。
音は無くともこの唇に思いを乗せて、僕ら忍ばせては愛を育む。
秋の宵、月光に浮かぶ紅葉も情緒有るものだ。本丸にいる刀剣男士皆に振舞われた酒に自ずと今宵は酒盛りとなっていた。空瓶を次よ次よと転がしていく次郎太刀殿に背筋崩さず静かに飲む太郎太刀殿。見目は幼い短刀達も刀の齢相応に各々飲んでいたが、その器の身の幼さ故か早に床に着いた。その他の刀も各々酌み交わしたり一人で飲んだりだ。
僕は、大広間の喧騒を抜けて中庭にいる。酒の水面に浮かぶ月、伏し目に傾けた杯で唇を濡らす。酒杯は濡れた底をつやと見せるが、宵空を仰げば月は未だそこにあると。
「ふむ、良い月夜だなあ歌仙」
「ああ、今宵の月は二つ三つと忙しいことだろうね」
あれに見えるは満ち月だがなと笑い、同じよう杯を傾ける三日月殿。空いたその杯に次を注ぎ、注ぎ返されたそれに唇を付ける。
「逢瀬に本に良いのは月が隠れた夜だろうが、物語に読まれるは今宵だろうな。やぁ若いというものは良いものだ」
三日月殿の言葉に、酒は忙しげに喉を流れていった。酒盛りの場にいない主。いるであろう場所は離れでそこには奥方の姿もあると分かる故、口内に残った酒の味は先よりも苦いものに感じた。空いた杯に自分で次を足し一息に飲む。口直しには苦過ぎる。杯を持つ指先の肌が常時より紅いのは紅葉の映り影だと言い訳、一層に酒で唇を濡らした。
「白々と照る満ち月に明るい宵。眠るには些か勿体無いだろうが如何せん、遅寝はジジイにはちと堪える」
己の分の酒杯を片手ちょいと立ってそう行った三日月殿は常時通りで、これで僕よりも飲んでいるのだから平安生まれというのは凄いものだ、いや天下五剣故かとほろ酔いの頭で考える。僕の酒杯を最後に満たして去る背、その宵の空色を何とはなしに見送った。
最後の酒を数口に分け飲んで一息、少し心許無い足取り熱を持った体を仄か揺らすようにして自室へと僕は戻った。しかし体が熱いから、今宵の月が見事であるからと誰にするのか言い訳し、部屋の前の廊下へと歩み出る。仰ぎ見ると、満ち月は此処からでも確かと見えるのだ。月は在りとて彼女が在らぬと首を振る。酔いが回っていることは疾うに理解していた。
だから、そこに見た彼女の影は酔いの夢幻である。しかし幻であろうと彼女を失うのは嫌だと思うままに庭先へと足は下り、土に足裏を汚そうと構わぬと早に歩んでその体へと腕を伸ばしていた。
夢へと僕は触れる。終ぞ幻はこの腕の中に抱くことができた。嗚呼、と漏らしたままにその旋毛へと口付ける。波間に揺れるような心地の僕こそが夢幻のようであった。
「歌仙、酔っているのですか?」
「あぁ……」
「履物をお忘れですよ、歌仙」
「きみの幻はやわくあたたかい。泡沫いなくなってしまう気かい?」
腕の中、身じろいだきみが上目僕の頬へと手の平触れた。ひんやりと心地いい。先まで温かいと言っていたのに、と小さな笑いが零れそうであった。
「では、共に泡沫のようにいなくなってくれますか?」
「ああ、きみが望むなら。……きみの言の葉を叶えたい」
「じゃあ歌仙、私を見て。夢幻でないと私をしゃんと抱いて。私は、ここにいますよ。貴方を愛おしむ為に」
ひんやりとした指の腹が僕の目尻を滑り撫でた。心地いいと瞼を閉じれば、ぺちぺちと頬をやわく叩く彼女の揃えた指先。少し、強めにぺちりと叩かれ名を呼ばれた。歌仙、と。
「…………本当に?」
「本当でないなら、帰ってしまいましょうか?」
「……ああ、すまない。酔いが過ぎた」
「ええ、そうでしょう。でも歌仙、可愛いわ」
「……よしてくれ」
ふぅと息吐き、確かと腕の中の体を抱き直す。本当のきみであろうと、帰らねばならないのだろう。夜は長いと言えど。
「今宵、帰さないと僕が言ったらきみはどうするんだ」
これが返事だと僕の胸元に寄り添うのに、醒めぬ酔いのままであったら危うかったと目を庭の花に向けて彼女の背を撫で下ろした。
月光の元に二人息づき、静かに時が流るるのを感じて止まぬ。
「きみを帰さねばなるまい」
「……ええ。歌仙、気を付けて。庭石を枕にしては駄目よ」
「此度だけだ、酔いが過ぎたのは。……それにきみも気を付けねば」
何を、と問い返そうとした彼女の唇へ自分のそれを重ねた。一度、二度は触れるだけに三度目、しっとりとして吸いつくような心地に堪らず食むようにして。僕は一等の愛しさをきみに捧げた。
満ち月を背負った夜が更けぬ内に。
膝の上、揃えた自身の手へと目をやったままに。音は耳の裏側に響く己の心音、障子越しに聞こうる筆を滑らせる音。審神者部屋の前にて座る僕は今日この日、近侍として主の側に控えている。
「――明日の近侍が僕になっている」
「……第一部隊は厚樫山へ出陣、部隊長が三日月。他第四部隊まで遠征で、俺は第二部隊か。……本丸に残るは数口の短刀」
「……急な、変更だ」
「嫌な按排だな……歌仙」
用心しろ、と意を孕んだ山姥切国広の眼差しが脳裏に思い出される。背筋崩さず目を瞬かせる間に心向けるは彼女だけだ、僕の身は如何様にされど構わない。僕の思いは知り得る所に出てしまったのだろう、きっと。なれば相応の刑を処するが統べる者の役割か。
何を命じられるわけでもなく時は経つ。穏やか静やかと流れているようで張り詰めているその中、廊下を歩む足音に自身の心臓が跳ねるのを感じた。その音の持ち主が誰であるか分かっていたから。
僕と彼女の視線が交わった。
奥方の足音が部屋の前で止まったのは、中にいる主にも分かったことだろう。
「入れ」
入室を促す主の声、それに戸惑う視線が僕から障子の先へと向けられた。躊躇う気配それでも、彼女は静々とその声の元へ身を進めるしかなく。開けた障子戸の間からは紙面に筆を滑らせる主の姿、横目で見ていたそれは閉じる障子戸に直ぐに見えぬものに。
控えているこの時間は先と比べられぬ程に心苦しいものである。彼女の身にとってはひたすら事なかれと祈る、それだけの時だ。
鼓膜を包む緊張と言う名の壁。ことりと鳴るは筆の音。手を休めた、音だ。
「歌仙、そこにいるか」
主の問い掛け。それに平時の声色言葉を返すと衣擦れの音がした。それは主が立ち上がった音。畳の上、歩む音。
「お疲れでしょう、茶でも用意しましょうか?」
彼女の声、僕はこの胸が痛い。この身に刀の切っ先など埋められていないというに、酷く痛い。主の返事はないが用意しようとしたのだろう、今度の衣擦れの音は彼女のものだろうから。
それが、次に発せられた主の一声の為に止まった。
「――脱げ」
空気の張り詰める音というのは聴覚で捉えられるものなのか。耳鳴りさえ覚え、この体死んでしまえと言わんばかりの胸の締め付け。反射立ち上がろうとした脚を着物を握り締めることで制した。
「え……?」
困惑した彼女の声は酷く心許無く響いた。それに反するように主の声は鋭く、刃であるかのようだ。
「脱げと言った」
「でもあなた」
彼女の声を遮るように、畳へと踏み込む音。袖を振る音。響いた音は、畳の上へと縺れ合うもの。自身の目は、障子の先を見開いて。見えぬ先に彼女を組み敷いた主の姿を見た。
「やっ、っやめて……!」
懇願する彼女の声、乾いた音は肌を打った音。音に弱いそれは彼女が主の頬を平手払ったものであろうか。その抵抗を思って爪は着物越しに己の肉を抉るように掻いた。
『 』
鼓膜を震わせた音に本性まで戦慄く。
「っ俺に逆らうな!」
言い捨てるようなそれは名と、命令で。主はまさか彼女の真名を発したのか、この場で。驚き、そして抑えることもなく嫌悪に眉を顰めた。刀剣男士に名を教えることが禁じられていることを知って、この場に僕がいることを知っての愚行か。思えば頭が熱く燃え判断を失いかける。何故、彼女のことを一等にしない。その愚考の為に彼女の身に何があろうと厭わないとばかりのその発言、僕の瞋恚はこの胸にいつまでもある烙印のようで。
それが主人に仕える者としての無礼であろうと、僕は手をかけ障子戸を僅か押し開けていた。それでも、忠告に留めんとこの瞬間はまだ理性による雁字搦めで耐えていた。ぎりりとした手であろうと。
主は、組み敷いた奥方の首を絞めようとしていた。彼女の細く白い首に巻きつかんとするその指は忌まわしい蛇のようで。
「っ、ぁ! 」
主の指先が彼女の肌に埋もれるように沈んでいくその時、音に声になってはいないが確かに聴いた。僕を呼ぶその音を聴いた。自身の首を絞めるその指を享受するように四肢を投げ出しているそれは、目前の男に生を受け渡しているというに。彼女は僕を求めた。
僕だけを求めた、きみは。
水もたまらず内に解したそれに、自身の体は瞬時に動いていた。
只の人間の首を刎ねるのはより容易い。勢い、僕の開け放った障子戸の音に咄嗟顔を上げた男。踏み出した片膝を立てるようにしてその場本性を薙ぐ、この歌仙兼定の斬れ味を篤と味わえと。
その首は呆気なく僕に差し出された。
胴と斬り離したそれは奥の襖へと打つかり弾かれるようにして畳の上へ。首は数度跳ね転がった先、柱に当たるようにして止まる。その顔に浮かぶものが無念か苦悶か見えぬし興味無い。故に首が跳ねる間に、彼女の四肢を跨って残るその胴を袖を振り払うようにして退けた。思い出したかのように噴き出された血で畳を汚しながら、やがて首の無い死体が彼女から離れたその場に沈む。断面から浮く泡、醜悪である。
切っ先を下げた本性から滴る血が畳みを打つ。
歌仙兼定は三十七人目の人を斬ったのだなと、漠然と思う。
人の血肉は、目を向けていても消えることがない。懐紙で本性の刀身を拭い、血油に汚れたそれを胴の方へと捨てた。
そうして深い呼吸を一つに、時が歩みの速度を思い出したかのようであった。部屋の中、彼女の静かな呼吸の音が僕の鼓膜を震わせているのに気付く。彼女は虚ろ気な眼を仰いだ天井へと向けているだけだ。僕は側にしゃがみ、その背中に腕を回すようにして彼女の上体を起こした。襖に跳んだ血飛沫、転がる首、胴、彼女の視線は順に辿る。そうしてから最後、僕を見た。
彼女の頬に僅かに付着した血、懐から出したハンカチをその頬にそっと押し当てるようにして拭き取った。言葉無くその行為を続ける間、縫い藤が目に入った僕はそこで小さな笑みを零したと思う。それに彼女の瞳が揺れた。と、彼女は僕の首に腕を回すようにして抱き付いてきた。それは縋るようにという表現が合っている。ぱさりと畳の上に落ちたハンカチを暫し見てから、僕は緩やかに彼女の背に腕を回す。
彼女は僕の腕の中に在った。
「歌仙……」
彼女の吐息が肌に熱い。あの満ち月の宵と同じに背を撫で下ろすが、今はもう違うのだなと思う。僕のきみでありながらいずれ誰のものでもないきみへ。審神者を殺めた僕は神火の前に熔かされ、そして僅かな資材になるのであろう。元の物言わぬ塊だ、其処に在るのは。花を人を日々を愛で、彼女に恋焦がれ愛し愛されたこの身のなんと幸福なことだろうか。だからそんな最期であろうと悔いは無い。と、言えば己を偽ったことになる。いずれ彼女が人として生終えるその時まで側に在りたいと思うことは、罪であろうか。欲することが罪ならば、この身は疾うに足掻けぬほどに罪を重ねているというに。それでも咎を背負うは僕だ、きみよ。
「歌仙」
上目僕を見て名を呼んだ彼女は牡丹色の紅を引いている。頬に手を添えるようにして親指の腹で色に触れ、後に指先を彼女の後ろ髪の間に差し込みながら互い顔を寄せた。どちらともなく唇を相手のものに重ね、吸い、食む。熱に身震いするように震えた睫毛、彼女はその下の瞳でちらりと横目見たようだった。それが胴か、首か、どちらかまでは視線を追えなかったが。
どちらのものか分からず濡れ光る唇が艶かしい、そうと思いながら彼女と身を離す。立ち上がった僕の行き先を辿る彼女の視線を感じながら、乾き切っていない血溜まりの中の胴を着物の襟元を引き上げるようにして片手に持ち、もう片手で転がる首を拾い上げた。歩み、無作法ではあるが仕方無しと奥の間に繋がる襖を足で開け、その先へと両の手のものを放り去る。手で閉めた襖の音はいつも通りのものであった。
元の通りに戻るまで、彼女は僕の挙動を視線で追っていた。追われるままに彼女の頬に触れたくなり、しかしこの手は汚れているだろうかとこのまま彼女へ触れるに躊躇した。忌々しいと眉が寄る。
僕の動きを見ていた彼女は笑んだ。そうして、僕がしたように懐から出したハンカチで僕の手を拭った。彼女の手で僕は清められていく。その手を僕は取り、自身の口元へ。落ちたハンカチに目をやらぬ彼女が見るその先で己の唇を寄せた。
目下、彼女の薬指にある装飾具。その意味を知っている僕の見る内に彼女はもう片手でそれを抜き去った。袖振り、それが襖へと打つかり何処かへと跳ねっ返り転がっていく。
「……いいのかい?」
「それを聞くの?……いいのよ。この指も、心も、歌仙のものなんだもの」
いいのよ。彼女はもう一度、そう言った。
薬指に唇を寄せながら、この指に僕も贈りたいと思う。叶わぬと言えど。
「歌仙、もう一度抱き締めて欲しい。もう一度、口付けて」
「恐悦至極、だが一度では止められないな」
その身を抱き寄せ熱を分かち合う。先に言った通り、何度と彼女の唇を食み吐息を混じり合わせた。深く深くと彼女を喰らおうとする僕を受け入れる彼女の体が、いつしか僕の肩越しに天を仰ぐ。僕と彼女の間に牡丹が花弁を崩す音をさせた。構わぬままに唇を食む僕と、胸元押し潰した牡丹のそれに悩ましげな吐息を零したのはきみで。
「……困ったね……きみが欲しくて堪らない」
潤み目、紅潮した頬、きみは返事と僕の名を呼んだ。
白く細い首筋を辿るように唇で触れる。鎖骨の辺りの僅かな窪みを舌先で突き、浮く彼女の喉元を上目にそのままその場所へと吸い付いた。薄い皮膚の上に紅く残ったそれは一輪の花のようだ。指の腹で撫で、己が咲かせた花に覚える高揚感に自身の口辺には笑みが漂っている。だからと優しげな笑みを浮かべた彼女が後ろ髪を梳くようにして僕を撫でるが、童ではないのだと示してやるように口を吸い、横腹の皮膚を直に撫で上げた。零される吐息さえ僕は呑み込んだ。
見下ろす彼女の体、前を肌蹴させた着物。僕の視線に彼女は目尻の赤をより鮮やかにした。名称は知らないが、胸の膨らみを覆う月白の上等な糸で織り紡がれた装身具。その仄か上の方に唇を落とし、輪郭を指で辿ってからそのまま触れるだけ手の下彼女の鼓動を感じた。見慣れぬものだから、それを無理に取り払ってよいものか顔に出さずとも悩む。彼女が痛がってはいけないと、越しにやわく押し触れ考えている僕の手に彼女の手が重なった。
見やるその目は羞恥で潤んでいた。彼女の手が導くままに辿り、背の側での引っ掛かりが指先に触れる。潤む目を覗き込めば僅か頷くようで、指先解すれば胸元仄か浮いた月白。肩にかかる紐も肩口から抜くようにして取り払い、確か僕の目に晒された膨らみに触れればぴくりと彼女の身体が震えた。片側をやわやわと揉みしだきながらもう片方に唇を寄せる僕に、彼女は熱い息を零しているようだ。彼女の胸元を滑り落つる自身の息もまた、熱いものなのだろう。
「っん、……は、ぁ……」
「声を、我慢しないでくれ」
悩ましげに眉を寄せ、自身の曲げた指を唇に切なく耐えるその姿は此方をより一層と煽ってくる。それも良いものだがきみの声が聞きたいと願った。胸の先端を弄り片側を舌先舐めればくぐもった声が漏らされる。それでも尚耐える彼女にそんな姿もいじらしいがと悪戯心を半分、舌先を添わせていたその箇所を仄か力を込めた指で挟んだ。
「あっ……! っや、ん、ぁあっ」
ぐりぐりと指先弄れば僕の鼓膜をその甘い声が震わせるものだから、手はそのままに胸元に顔を寄せ膨らみを吸って痕を付けた。紅い、花。この花を知るは僕だけだ。
「っぁ!……歌仙っ」
その目は乞うている。その目元を指の腹で撫でながら、片方の手を胸元から腹へと滑り下ろす。肌と布地の境、其処で止まる由もない。自身の手は思う儘にその先へと潜り込む。
「凄く濡れている」
「……前戯なんて、今までなかったもの」
「いけない子だね、この場で別の男の話を出すなんて。僕は欲深いというに、どうしてやろうか……」
布地を取り払った僕に、内腿を合わせる形だけの抵抗を見せる彼女。構わないよとその合わせに手を差し込ませる。手は容易に彼女の秘するところに触れることが出来た。陰部の突起を指の腹押し潰すようにすれば漏れる彼女の嬌声、それを口吸いにて互いの口内で分かつ。濡れそぼった蜜口の周りを辿る指先を時折中へと滑り込ませ、潤みと共に浅い内の壁を擦る。彼女の嬌声が甘いと舌先絡ませればとぷんと蜜が溢れたようであった。
根元まで差し入れた指で中を擦ったりいつまでも溢れる液を掻き出すようにして解す、その時折に肉芽を弾いたり押し潰せば彼女はその先を強請るような声を漏らす。緊張するような太股の震えは、近い一度目の限界を僕へと伝えているようだった。
「ひっ……! 歌仙っ、だめ……ぁ、んっ!」
「何が駄目なんだい」
「ぃっ、イッちゃう……! あっ、やぁっ……!」
「達してしまった方が良い、一度」
手休みを求める彼女は震えるその手を僕の手に重ねようとする。それだからと一際彼女が甘い声を上げた箇所をぐりりと刺激すれば、その手は僕に触れる前に指先を跳ねさせた。その小跳ねを見やり、執拗に良いとするその箇所を刺激しながら中を掻き乱す。さすれば彼女の手は僕を止めるよりも、自身の嬌声を我慢しようと甲を唇に押し当てていた。それでも濡れた喘ぎの声は僕の耳を楽しませる。可愛いものだ、とその手の平に口付け中を抉った。
「ひ、ぁっ…………!!」
小さな悲鳴にも似た音で喉を鳴らし、彼女は僕の指をきゅぅと締め付けた。その胎のうねりさえ僕は愛しい。
くたりと自身の手の甲で眼差しを隠す彼女を見ながら指を抜くと、それにさえ彼女の体は跳ねて肉は僕を追い縋る。見やる僕の指は彼女の蜜にてらてらと濡れ光っていた。
「……歌仙、手馴れてるわ……」
「そういうわけではないが、見知らぬものでもないんでね」
「……?」
指の間から此方を覗く彼女の視線の先、自身の指を舐めて見せれば羞恥に声を詰まらせ視線は瞬く間に手の甲に遮られた。その姿が愛しいままに笑ってしまう。機嫌を損ねてはいけないと、問い掛けていた視線に答えはやろう。
「忠興と奥方はね、それは仲睦まじかったものだ」
「……、あぁ……」
「おやおや、恥ずかしがることもないだろう? 可愛らしい人だ、きみは」
「…………歌仙は、意地悪ね」
「はは、そうだね」
言葉を交わす間自身の装い全てを取り払い、そうして人の身一つとなった僕の肌を彼女が見る。自身の肉慾をきみへと晒し、この身の猛りにその表情に陰りが表れてしまわないかと不安になる僕だ。
「……そう見ないでおくれ。声色に裏腹、余裕無い己をきみに見留められると不甲斐ないものでね」
潤み目見やり、互いの視線は一致する。
嗚呼、花笑みだ。花神のそれだ。
彼女の瞳は僕を藤の花の化身と映し、唇には戯れごとを零させる。
「やはり歌仙は綺麗ね。……あぁ、でも愛おしくて何だか可愛くも見えるわ」
「……きみ、そんなこと言えなくするぞ」
からかいに勤しむ唇を指の腹で撫で、彼女の片方の膝裏をやった手のままに抱え上げた。触れ合った熱、中に押し挿れず入り口を辿る僕に彼女は言葉無く乞うている。僕とて、焦れているが。
「言って良い言葉は分かるだろう……? きみの言の葉を叶えてやろう」
「んっ、歌仙…………」
頂戴、と乞うたそれはあの牡丹を欲した悪戯な声色と違い淫らで切なげだ。堪らず、肉を掻き分け押し挿る僕を彼女は強張らせた体で締め付ける。儘に食まれるそれに欲されるままに与えてやりたいがしかし未だ早いと口を吸う。彼女の体の強張りを鎮めて緩んだ先によりと腰を進めた。
呼吸に合わせた胎の内の締め付け。彼女の下唇を食んでその場、自身を埋めきったことを告げる。また心地よいとその唇に零せば、苦しげに短く息吐く彼女はそれでも微笑み僕の名を呼んだ。歌仙、と呼んだそれで自ずから唇を重ねてくる。より深くなるそれに僕の口内で甘く吐息を零しながら。
労わるようゆるゆると揺れ動かす律動でさえ、くちゅくちゅと粘着質な水音は響く。淫靡な音は彼女にも聞こえているのであろう。滴らせる蜜に羞恥、しかし熱を上げよりと溢れさせるしかない。
「っあ!」
ちゅぷんっ、と一際響いた水音に彼女が声を上げた。指で乱した際により善がった箇所を突いたのだ。ゆるゆるとした突き上げでもそれ毎に上擦った声を上げるものだからと攻め立ててしまう。きゅぅきゅぅとした肉食みが僕に知らせる、きみのその悦びを。強請るような響きの水音も、食む肉の収縮も、その甘やかな嬌声も、僕の背筋や腰元を這う痺れとなって自身の欲深さを露わにしていく。
だからといずれに、緩やかとは言い難く彼女を揺らしていた。
「っきみは随分と、感じやすいのだろうね」
「っふ、ぅ、しら、ないっ……! こんな、ぁあ! かせっ、かせん、が、初めてっ、だもの……んぁ!」
「きみはっ……!」
「ひぅ、っん! ぁ、っぁあ!」
がつがつと腰を打ち付けるに普段の矜持は遠く片隅に放っている。彼女の奥を嬲り続けるこの身が獣であったかのようだ。繋がるそこから溢れ零れる液には自身の耐え切れぬ分も混ざり合っているのであろう。彼女を貫く自身の凶暴な見目に些か眉を寄せるも、それ以上にこの身へと伝う快感に僕の眉は寄っている。
「っぅ、ぁ、……っ!」
「んあっ!!」
痺れに揺らぎ、零れた自身の喘ぎの声を取り繕うように彼女を強く穿った。甘く鳴く、その声が僕を喜ばせる。笑み声さえ零してしまいそうになると腰を打ち付け続けた。
「あっ! っん、はぁっ……! いっ、ぁ!」
息も絶え絶えなその声に寄り添うよう体を屈めて喘ぎを自身の口内に呑み込む。ぐるりと中を広げるように腰を動かしては彼女の嬌声を求めてより深くする。解放した唇、詰めた距離のままに吐息を互い触れさせた。熱く、欲に濡れたそれはどちらのものか分からずしかし、混じれば互いに心地いいばかりであると相手の唇を撫ぜ続ける。
繰り返す抽挿は互いを攻め合って、それは委ね合うことでもあった。僕をきみへ、きみを僕へ。どちらとて悦ばしいと。
ぐちゅぐちゅと掻き撫ぜる水音、彼女の抑えが利かぬ声は途絶えない。僕の息遣いさえ荒いものだ。
「っめ、だめっ、かせっ……んぁ!」
「はっ、困った願いだ……っやめて、しまおうか?」
「ちがっ、ぁあ! んんっ、ああ!」
僕の問い掛けと良い所を掠めるそれにいやいやと首を振る彼女。止めるわけがないだろうと答えの代わりに執拗に突き上げ、また擦り上げた。いやだいやだと言うそれが嫌い嫌いも好きの内というやつだろうか、なれば好むそれをやらねばならぬと狙い定めて腰を突き出す。
肉の打ちつけ、息を呑むのは互いに。
息の詰めるような愛しさを共に快楽に呼吸を乱す。
間隔の短くなってきたその収縮。きみのそれを知りつつも抜き差しを緩めず、寧ろ激しく攻め立てた。より奥へ、深くへと。
肌と肌の打つかりに、ぱちゅんっなどと水音が潰れた。
「っぁ、っっっ!」
「くっ……!」
感極まったと言わんばかりに彼女の胎はうねり、僕を食む。
達する彼女の雄を締め上げるその収縮にぐっと耐えた僕は、余韻どころか未だ達し続けているその体を抱き起こし体位を変えた。向かい合う座位は、絶頂を迎え快楽に濡れたその瞳さえじっくりと覗き込むことができる。
「やぁ! もっ、ぁ、だめ! だめっ、だからぁ……!」
「っ、すまない」
細い腰を掴み、自身を抜かせるかのようにその上半身を浮かせて寸に根元まで呑み込ませるに落とす。先の体位より奥を突上げているのも、その為に彼女が息も絶え絶えなのも分かっている。分かってはいるが、止められはしなかった。自身の欲の為、儘にきみを扱う僕を許せとは言えない。だからと胎内を抉るように腰を揺する合間、すまないともう一度零した。
「ひぅ……! やっ、だぁ!……こん、なっ、わたし……っ! かせっ、……きら、わないで……!」
「嫌うだなんてっ、そんなわけが、ないだろう……!」
「こ、んぁ……! こんなっ、……わた、し……きれいじゃ、ぁあっ……ない……っ!」
「っ僕の腕の中で泳ぐきみは、一等に綺麗だ」
この言葉、嘘偽りの陰り一筋も無い。
欲深い僕を嫌うでなく、僕に嫌われることに涙を零したきみへの愛しさでこの身はもうどうにかなりそうだった。
「いいかいっ、僕は、きみのものだ」
「っぁ……かせっ、ん、……わたし、のっ、かせんっ……!」
「僕は、……っ」
「かせん……! わたし、は、っぁあ! わたしはっ、あなた、だけの……ひっ!」
その言葉、言うに言われぬ感情感覚が体を走り、走り抜けぬままのそれに彼女を抱き寄せ昂りの全てを打ち付け続けた。脳裏の片隅に火花が跳ぶ、綯い交ぜの喜怒哀楽が渦を巻く。
限界の頂を見やる僕を一際強く締め付けた彼女。僕の肌を僅かに叩いた水音。それに目をやると透明な液、潮が僕の腹と下生えを濡らしていた。目と鼻の先で、はくはくと酸素を求めるように快楽に声を失くしたきみがいる。僕をくれと、きみが強請る。
「ぁ、ぐぅっ……! っ、――!」
乞う締め付けに、もう耐えられぬ。
光が爆ぜるような錯覚。覚えた吐精感のままに彼女の最奥を突き上げ、そこに己の欲を強か吐き出した。
ああ、僕はこの人のことを好いている。恋しい、愛しいと。腕の中のきみの名を言の葉に、胸に満ちた愛しさは目頭まで迫り滴と成りて落ちた。この刃生の中で僕はそれ以上とない感情を育み、きみへと差し出すことができたのだ。なればこの身を差し出すは道理なのかもしれないと、納得しようとする僕がいた。
月は周りに蒼い光を纏いながら宵空に座っている。互いの身は清めた。その後に自身の部屋へと彼女を寝かせた僕は、満ち月を背負った夜をこの背に安らかな寝息を立てる彼女のその側に控え見守る。己の胸内も驚く程に安らかだ。自身のことではないかのように嗚呼僕はこの世での刃生を終えることを受け入れているのだなと、双眸を瞬かせた。きっと、そう思い込んでいないと僕は彼女の為に成り得ない。星月の無い闇夜のようなそれに身を澱ませては、きみのことを一等に考える己でいられなくなる。思えどこの刃で傷つけてしまうならそれは同じである、忌まわしき者と。
そろそろだろうか。したためた文は一夜を共にした男女の礼儀以上に思い焦がれて彼女へと残したもので、それを枕元に彼女を起こさぬよう静かにその場腰を上げる。最後、彼女の寝やる瞼に唇を寄せ、自室を後にした。きみよ、幸いであれと。
宵深くに本丸の全刀剣男士は戻り揃った。死に体を奥の間に転がしたままの審神者部屋。その部屋の前に座り控え、帰城した皆を迎える。僕の肩口室内を見やり僅か顔を強張らせるも、誰一刀も問わぬ。だが、僕は確か自身が審神者を殺めたことを告げ、言葉の最後、皆の前に腰折り頭を垂れた。
審神者のいなくなった本丸の刀剣男士は刀解するが定め。抜け殻となった本丸も捨て置かれる。それは刀の本道を絶つということ。故、僕は頭を垂れると同時に首を差し出している。僕の首を斬り落とす権利がどの刀にも有った。
その時を待つ僕の肩口に触れたのは、刀の抜き身ではなく手であった。
「刃生を終えるには些か、そうと向かぬ宵であろう?」
顔を上げ、見やる三日月殿は平時の笑みを口辺に漂わせていた。それを僕は唇を引き結んだままに見ることしかできない。
「やあ、明日も忙しいことだろう。寝るか」
三日月殿は何事もなかったと装いの裾を揺らし、自室へと戻って行く。他の刀剣も皆大なり小なり形の違う笑みを乗せた口辺去っていく。僕の首と胴は繋がったままに、そこには山姥切国広が最後残った。
「奥方の心は、安らかであったんだろう?」
それならば良かったんだろう、これで。そういう眼差し一つ、白布を翻し彼も場を去った。
僕は顔を俯かせ暫し、その場から動けはしなかった。
やわらかな朝の陽光に照らされ眠る彼女、僕は眠らぬまま宵越し時の許す限りその姿を心に焼き付かせた。神火に熔かされる刀のこの行為は意味の無いものかもしれぬ。それでも最期まで彼女に寄り添いたいと願う心は人のものだ。彼女は僕を人にしてくれた、かけがえの無い尊き存在であった。
そこに、管狐の気配が現れたのを知った。
「審神者殿はいらっしゃいますか、政府より新たな事案を申し付かっております」
彼女の頬を指で撫で、僕はその場立ち上がり廊下へと出た。閉ざした障子戸が別離であると、心中では唇を引き結び。
「審神者はいないよ」
見下ろし、そうと告げる僕にこんのすけが小首を傾げる。
「在宅の有無を問いはしましたが、いらっしゃるのはご存じです」
数拍、その意を解せずに言葉を失った。
「何を、言っているんだ」
「定型文というものです。それで審神者殿は」
「だから、審神者は」
「――こんのすけ、私は此処に」
部屋の内、彼女の声が静かに響いた。衣擦れの音。障子越しに近付いてきたそれと、仄かな間が空き開けられた障子戸に彼女の姿が僕の視界に映る。
「審神者殿、政府より連絡です。京都市中の――」
僕の着物は彼女には大きく、その胸元の布地を掴む手で寄せるその姿を見る。こんのすけがつらつら彼女へと、審神者へと伝える文章が僕の右耳から左耳へと抜けていく。
訳が分からない。審神者であった男は僕が斬った、斬り捨てた。こんのすけは言った、審神者は健在であると。そうして審神者を呼ぶ声に応えたのは彼女だ。彼女が、審神者として言の葉を紡ぐとは。
呆然としたままに、僕の唇は音を紡いでいた。
「きみが、審神者……?」
「歌仙、私は」
「歌仙兼定、彼女は間違いなくこの本丸の主である審神者殿ですよ」
「では、あの男は?」
「男……? ぁあ、審神者殿の夫君ですね。その者は審神者ではありません。刀剣男士を顕現させる能力がない為に、審神者としての資格を得ることが出来ていませんから。彼の人のご実家は言霊使いとしての家系で、中には審神者としての素質に恵まれた方もおりましたが、夫君には残念ながら」
こんのすけの説明に、あの男が口にした今は僕も知り得た彼女の名の意味を察する。
「…………あれは、彼女の名を口にした。それは、言霊使いに真名を握られていたということか」
「……それは、初耳で御座います。よくありませんね、真名は告げるべきではありませんでしょう。言霊使いなどには、特に」
僕とこんのすけが遮った彼女の声が、細々と過去を告げた。
「……幼い故の過ちでした。……それでも昔は、純粋な人だったと、思います。彼は家を継ぐより審神者になりたかった。それだけだった。だから……」
彼女の指先の肌が僅か込められた力に白く浮く。
審神者がいなくなったわけではないなら、この本丸の継続は確かだ。しかし――。
「こんのすけ、僕は人を殺めた」
刀解処分だろう。そう問えば隣、彼女が僕を見やり震える唇言葉を零した。
「刀解処分……?」
震え、あまりにも指先を強く握り込んでいるものだから、その手に自身の手を重ねて宥めた。一つも彼女の助けに成らずとも。
「ふむ……。独断で告げることが出来ません故、確認して参ります。暫しお時間を頂きます」
こんのすけのその場を辞する姿を見届けた。隣、彼女に向き合いその両の手を自身の手で包み聞く。
「きみは、僕の主なのか……?」
「……」
言葉無くとも彼女はこくりと小さく頷いた。その瞳は僕の身を思って不安に濡れ揺れているが、僕の心は喜びに打ち震えている。彼女の瞳を覗き込むままに互いの額を合わせ、僕はふと笑んでいた。
「そうか……」
「歌仙……?」
「そうか……そうか……! きみは僕の主……僕の、主……」
僕は最期、きみの刀でさえ在れる。願っても叶わぬと思っていたことが疾うに叶っていたと知って、最期の手向けに心震わせた。
「待たせました。歌仙兼定、此方の札を手に取って下さい」
決定に、時間はそうとかからなかったらしい。再度姿を現したこんのすけを二人で見やり、彼女と体を離した。
こんのすけと共に現れた札に呪いの気配を感じながら、それでも手の中拾い上げる。手中、熱を感じたと思ったらそれは紅葉色の炎、燃え上がり忽ち空と消えた。広げた手の平には何一つとして跡形無く、肌も焼かれていない。瞼の裏に燃ゆる炎の残像を僅か残して、消失したのみであった。
「暖色の炎ですね。穢れもないようですし、大丈夫でしょう」
「大丈夫、とは」
「こんのすけ……?」
「審神者に問題無く、刀剣男士にも過度の穢れが無いのですから、政府から口を出すことは特にはありません」
「では、歌仙は……」
「これまで通り、と言ってもよいものでしょうか。兎角、もし穢れの心配をなさっているなら多少払っておいては。穢れ払いのできる刀を実装していますでしょう? 此方では」
こんのすけの言葉、僕と彼女は顔を見合わせた。
「それと、審神者殿の真名を知り得たことに関しては政府に報告しておりません」
彼女より眼を離し、狐の視線と一致させてはその意を探る。
「歌仙兼定、あなたの神性を信じております。そしてこんのすけは心より、審神者殿の景福を願っておりますよ」
管狐はその眼差しを誠とし、その場に円を描いて駆けた。さすればその姿は掻き消えると。
事の終わりは呆気無くもあり、静寂は耳をくすぐる。
今日明日と続く、日々の繋がりを告げる穏やかな晩秋の陽光。それが眩しいものだと僅か目を細めて彼女の目を覗き込めば目尻に涙を乗せているものだから、指の腹それを拭って笑ってみせた。
「きみの名を呼んでもいいかい」
「二人だけの、時であれば」
「なれば、今」
「……呼んで、歌仙」
彼女の声の甘さに痺れるままに、音を唇に乗せ紡ぐ。何度と呼び、応じる彼女の声に鼓膜揺られ時折呼び返される自身の名に得も言われぬ喜び心に満ちた。
僕の胸元に頬を寄せるきみをよりと抱き寄せる。涙で頬を濡らすきみが愛おしくて、そのさまは美しい。何よりも、この腕の中の花は美しいのだ。空は気紛れに時雨で地を濡らしにじませるが、きみという花の色はにじむことがない。
この先、きみが歩むであろう道を共にし、その唇が紡ぐ言の葉を叶えたい。
時雨、契りに吐息を重ねた互いに落ちぬ。