いっしょ


 嗚呼、やってしまった。
 その時ぽっかりと和泉守の心中に浮かんだのはそのような言葉であった。或いは、じっくり十数秒を経たせるその間にじわじわと沸き上がってくる高揚感を伴った言葉、漸く事を成したという実際に唇を震わせて音にまでしたそれだ。
 いつかいつかはと思いつつ、いつまで経っても思うだけで行動に移すことはなかったそれは、本当にただ瞬間の意識と共に掬い取ってしまった。己の本性とも言える刀に触れたその寸秒も、鯉口を切った静やかな音が彼自身の鼓膜を微かに震えさせた折も、常人には見留められやしない刃唸りの標を空に描いた刹那も、ただただいつかいつかはと思うばかりであった、和泉守は。
 審神者の首がつくてんと畳に跳ね転がったその時には彼にとってのいつかが彼の殆ど知らぬ間に終わっていた、掬い取り終わっていた。彼の意識を審神者の意識を、或いは生命とも言える。
 最期の笑みを唇に浮かべたままの首。自身に向けられるその一等ともいえる笑みをその瞬間で永続に得たいばかりであったかもしれない、審神者の時間の先々この今以上の笑みを誰ぞ他者が見受けるかもと思うと居ても立っても居られないものがあったのかもしれない、笑みそれ自体が理由になり得たものでもなかったかもしれない。何が和泉守に審神者の首を斬らせるに至ったか確かな事は言えないのだ、なんといっても彼自身確かとしたところが分からないのだから。
 ただ結果として、和泉守は審神者を殺してしまったし彼の眼差しの先でその体は畳の上へと伏している。最初は勢いも良かった血の噴き出しも今はぴゅっぴゅっと小気味好く畳を汚しているばかり。
 和泉守は無造作に畳に伏した審神者の体をまるでその場でうたた寝に興じているような姿にし直すと徐に転がっている首を、審神者の首を手に持ち上げた。今や胴と離れ離れだがそれはもう壊れ物でも扱うかのように至極優しく。在るべき位置に戻してみれば、赤い線と仄かに断面がちらりちらりと眼差しに覗く以外は何ら変哲もないものに彼には思えた。勿論、端から見ればそのようなこと微塵も言えたものではない、何せそれは死体でありまたそれは畳の上の血の溜まりに遊んでいるようなものであるのだから。
 午睡の微睡みを楽しんでいるような審神者の様子をじぃと見ていた和泉守はまるでそうすることが当たり前であるかのようにその体と並んで横になる。未だ乾いていない血に装いが浅く沈む音、微かな隙間を詰めた折の溜まりを擦る音。
 畳の上に、或いは審神者の血の溜まりに広がった黒々とした和泉守の髪はつやりつやりと。彼はとても心地が好かった。それはと言うのも、彼は人の姿をしていたとしても姿ばかりで真には人ならざるものであるからだ。眼も歯も爪も髪も、腹を割れば姿は一応と見せる臓腑も、全ては見てくれだけ。どれもこれも自分は人間様ですよと嘯いているにすぎず、和泉守兼定の眼も歯も爪も髪もひっくるめてひとつの塊でしかない、刀剣男士などそのような塊でしかない。他の男士がいつぞや笑っていたものだ、所詮肉の塊のようなものだと。見てくれは爪の先から髪の先、けれども真実何処を取っても肉の塊。故に、髪と唇さえ紙一重どころかと艶の増した和泉守の黒髪は今この時も、審神者の血を啜っていた。
 舌の上に、それは本当は髪の上にであるかもしれないが兎も角、舌の上に広がる味は己の本性を清めてくれていた折に受けていた審神者の霊力そのものであり心地好いばかりだと思う彼のそれも無理がなかった。それで時刻は審神者がうたた寝ている通りの昼の微睡みで、和泉守がうつらうつらとしてしまうのも無理がない。
 ずち、と血の溜まりの音の後、距離を寄りと詰め終えた和泉守はその腕に審神者をぎゅぅと抱き締め、胸元に鼻先をもぐらせて腹いっぱいに深い呼吸をする。嗚呼これが幸せの香りなんだなとぽつねんと呟き、瞼の誘いに乗ってやることにした。僅かの身動ぎに自身の脇腹あたりに落ちてきた審神者の手の平がまるでやや子を寝かしつけるかのようなものに感じて、それが好ましいのかどうか何ともし難い感情が浮かんで、それでも確かとならずに微睡んでいく。
 そうか、俺はあんたと一緒になりたかったんだな。
 ぽちゃんと、呟いた。共に眠るは幸いだ、腕に掻き抱いて眠るは心地好い。死んだ人間は肉の塊だ、何処まで行っても同じであった。