首絞めパラドックス
今宵は月が見えぬらしい。灯されぬままの部屋は濃い闇に包まれて目に全貌を写しはしない、少なくとも人間の目には。夜に強くも弱くも無い打刀、へし切長谷部の目には闇の中に薄ぼんやりとした形が捉えられる。耳にはひゅぅ、ひゅぅ、という心許無い音。音を目に見えるものにするなら、そう、糸だ。張り詰めた細い糸のような、今にも切れそうな覚束ない糸。完全に奪われずとも衰えた視覚、その分というように冴えた聴覚に触覚。長谷部の耳は心許無い音をじっと聞いている。音は、審神者のものだ。審神者の喉、薄く開かれた唇からの隙間風。
「主……」
そっと呼びかけながら、細心の注意を払いながら、長谷部は手によりと力を込める。それは審神者の首を絞めている彼自身の手だ。謀反でもなんでもない、ただひとつの審神者からの主命。それで長谷部は主の首をよりと絞めていく。
主の肌は自身の指にしっとりとやわく馴染む。やわらかな肉、己の身のものとはまったく違う女人のもの。力いっぱい絞めて肉に肉を埋めようとひとつにはなれない、そうと知っている。肉と肉は、肉と肉でしかない。それに主はただの肉塊になりたいのではない。ただ首を絞めて欲しいだけだ。俺に、首を絞めて欲しいだけだ。
親指でぐっと気道を押さえつけ、空気の通り道を苛む。しかし長谷部はそれを直ぐに止めた。苛むべきは気道ではない、こちらの頚動脈だ。そう言わんばかりに指の腹はそちらを苛むように沈んでいく。
長谷部が跨いだ審神者の体は布団の上に横たわっている。彼の指の腹が彼女の肌に沈む、それに合わせるように小震いするその四肢。数秒、衣擦れの音をさせながら滑る。ずるずると音、悶え。息が詰まった、それは長谷部自身。より息苦しいのは彼の眼差しに見下ろされている審神者であろう。けれど、長谷部は己の指が審神者の首に埋もれていく度に苦しみを覚えていた。掠めた感情、跳ねた喉に審神者の足先。音を聞かせた。
「っ、失礼を致しました……」
咄嗟、長谷部は自身の手を審神者の首から遠ざける。首絞めの痕を眼下にする。今宵のものだけでないそれが主の肌に重なっていると、その眼差しを細めた。
「っ、ぁ、……は、せべ…………」
掠れて己の名を呼ぶそれは叱咤ではない。いや、ある意味は叱咤だ。首を絞め過ぎたことを叱るではない、この手を首より離してしまったことへの訴え。ひゅぅひゅぅと鼓膜を震わせる音が、またと俺の手を主の首を絞めるに促す。
夜は、どれほどに長いのだろうか。
審神者は首絞めの痕を隠さない。そこにあるそれは、自身を着飾る一種の装具であるかのように扱うもの。赤黒いそれが浮いた肌。主命と言えどそれを付けたのが己の手だと思うと長谷部の眉根はどうしても寄ってしまった。僅か下した腕の先、人差し指が違う意味を以ってぴくりと小跳ねしていようと、それは彼にも彼以外にも気付かれぬ。少なくとも、今は。
ただに穏やかな午後、温い陽光に審神者の白肌は眩いばかり。
「何故主はあのようなことを俺に……」
「まったくもって雅でない面持ちじゃないか、へし切」
その声音、歌仙兼定。この本丸の主である審神者の初期刀である、刀剣男士のもの。長谷部は彼の紡いだ言の葉に眉根の溝を深めては鋭く言葉を返す。
「ではお前には主の肌に浮いたあれが雅なものに見えるのか」
「あぁ、見えるとも。彼女が自身そう望み、行動を以って得たものだ。自身の手で欲しいものを得たというに、それが何故雅でないと言えるんだい?……失礼。彼女の自身の手というより、きみの手だったか」
半ば忌々しいといった視線、歌仙にやったそれを消して遠く審神者の姿を長谷部は見入った。夜は長いというに、どうして朝も昼も短いのだろうか。
夜は幾度も訪れる、そうすれば審神者と長谷部の情事も幾度と繰り返される。情事――情愛と言い表していいのか長谷部には分からない。けれでも、そう、いつしか自身艶としたものに感じていたのだ。自身は主の首を絞めるその行為に興奮している、欲情している。
その夜も長谷部は審神者の首を絞めながら夜衣の下、自身を昂らせていた。主には知らぬままの熱、首を絞める手の平から伝わりやしないかと冷え冷えとする。それと同時に知られることを思い背筋にはぞくぞくとした感覚が走る。それは悦に他ならぬ。
「ぁ、っ……!」
それは審神者が零した嬌声、まぐわいのそれめいた。けれども仄か、長谷部の零した熱い吐息は混じる。審神者の首を絞めるにその片腿を跨いでいた長谷部は、布地越しとはいえ彼女の肌に昂りを擦ることを叶えていた。
「っ!」
下唇に犬歯を立て、眉根は寄せて唐突に襲い来た悦を長谷部は耐え忍んだ。主の許し無く自身の欲をその身で拭うなどあってはならない。そうと理解しながらも肉体は、首を絞める際に擦ってしまうこれは仕方が無いことだと言い訳に儘に主へと縋ってしまう。掠れる理性に人の身の煩わしさ、長谷部は心中にて舌を打つ。
頬に熱が集まろうとも、表情には出さぬとした長谷部はハッと気付いた。審神者の、その眼差しに。寸に首を絞めるそれを緩めて主のその言葉紡ぎを待つ、長谷部の心臓は彼に鼓動を聞かせている。
審神者は言葉をその唇からまずは漏らさなかった。ただ、視線をくれてやっただけ。長谷部へと。じっと彼の表情を見た後、下方へと。
「っ……! しっ、失礼を……!」
明らか、長谷部の欲情は審神者に知れていた。その身退け、畳に額を擦りつける。そうせんとした長谷部の手を引いて止めたのは審神者だ。
「許してあげる」
とても落ち着いた声色、そう紡いだ。
「けれど許さない。両手を、この首から離すのは……」
長谷部の視線の先で笑んだ唇は彼に酷く扇情的に映った。
右手の手、五本の指を順に審神者の首へと触れさせ。左の手、五本の指を順に審神者の首へと触れさせ。徐々に力を込め、彼女の表情の艶を増す様をじっくりと長谷部は見る。薄く開かれた唇、漏れる吐息。食い入るように審神者の表情に見やり、許しに劣情を彼女へと擦りつける行為を始める。
首を絞めるそれを絶えず、擦りつける腰の動きも絶えず。絞めるそれの度合い、主の体が震えればそれは自身に与えられた愛撫であると。
背徳的行為は深まる夜と共に。
審神者の脚が小跳ねした。長谷部の指の腹がその首に埋まり過ぎた為に。熱の頂に抑えが緩み過ぎた。そう脳裏に掠めたような、掠めさえしていないような気も長谷部はした。
骨を折るか否かの、際どいそれ。
薄影に喉の鳴く音は響いた。それが鼓膜をふるわせてから漸く長谷部は自身が主の首を絞め過ぎていることに気付き、慌てて手を離したのだ。
「ぁっ……!」
手を離した。そうすれば主命通りとは言い難い。肌と肌は離れてしまった、なれば許しは与えられない。肌と肌が離れたなら、肌と布地も離れなければならぬ。長谷部のその雄、明らか昂りにびくっびくっと震えていようと。
歪な呼吸の音、繰り返し。審神者の開け放った口の端、垂れた唾液がてらりと濡れひかる。
「っあるじ、どうか、許しを……!」
触れていいのは首だけだ。長谷部は審神者の首元に許しを乞う撫ぜりを施しながら喘ぎのように呼吸、言葉を紡ぐ。何度と首をさするその手、熱。ぼんやりとしていた審神者の視線、長谷部を確かと捉えた。
「……もう一度、首を絞めてくれるなら」
戸惑いの無いそれで絞めるというのなら。
「何でも、許してあげる」
絞められてもいないのに、歪な呼吸の音も零したのは長谷部の喉であった。
夜は、どれほどに長いのだろうか。
温い温度は午後、本丸の縁側。そこに腰掛ける長谷部に茶の入った湯呑みを手渡したのは歌仙。彼は庭先に眼差しを向けてその目を細めてみせた。
「あぁ、雅だね」
「あぁ。なるほど、雅だな……」
「……僕は庭先の桃木を言ったんだが、ふむ……まぁ、よいことだね」
心は此処に在らず、視線の先に。長谷部はただ審神者を、審神者の首を見ていた。
「文字通り、自身の手で得たのだね。雅なことだ」
ひらりと舞い落ちた桜の花弁は茶の水面。