京の市中を離れ離れてとある山の草や茂みを分け入って、げこりげこりとひとつずつ響くは蛙の鳴き声、小さな山鳴りの合間にも響くようで。
さて、我が身よりも丈のある茂みからがさりと顔を出した妖怪、それは荒川蛙と呼ばれる蛙妖怪であった。矢に射られた見目の冠がずれているのも直さず、額に浮かぶ汗と葉っぱを浅葱色の袂で拭った彼は上がる息の合間にまたげこりと鳴いて今度ばかりは悪態も吐く。
「あの陰陽師は蛙使いが荒いゲロ……玉藻前様も大概だゲロが、ただのアマガエルをわざわざ式神派遣に出すなんてどうかしてるゲロ……、うぅ暑い、本当に、この服暑いゲロ……」
ただの雨蛙と本人、本蛙だろうか兎も角、己で言うものの着物を羽織り二足で立ってちょっこり歩いているその姿をただの雨蛙だなんて誰が言えるだろうか。そうともあるから陰陽師、今一時は荒川蛙の契約者となっている彼の人、安倍晴明も此度の任に荒川蛙を就かせたのであろう。
「俺なんかより荒川の主を寄越したら良かったゲロ! それかあの陰陽師本人が赴いたら良いゲロよ! 今度ばかりは訴えて……、いや……もし荒川の主となんて一緒にされたら生きた心地がしないゲロ……や、やめといてやるゲロ……」
想像して浮いた冷や汗、少しだけ涼しくなった思いけれどもやはり暑い。帯の結び目に差していた扇子を抜き取りぱたぱたと自身を扇ぎながら、荒川蛙は高く伸びる木々の合間の先の空を見仰いだ。皮肉にも雲ひとつ無い晴天で、生い茂る葉の間をくぐり抜けてきた陽光が蛙の目にも眩しい。
水が、欲しいゲロ。求める雨粒のようにもぽつりと呟いた。
ぱたぱた扇ぎ空を見上げたままにふらりと歩みだした足は地表へと出で生える木の根っこに奪われそうになるが、転げるか転げぬかのところで堪えてはまた一歩と歩みだすようであった。
──なんでも其の辺りの妖怪達の動きが怪しいらしい。
酷くはっきりしない内容を告げられた事を荒川蛙は思いだしていた。周辺調査及び問題があった場合は解決をとアマガエルになんか言うなと思いながら、もうひとつの方だと両面仏蛙と共に行ってもらうことにと続いた為に思わず前のめりに了承してしまったこともまた、思いだした。
「うぐぐ、悪い奴らじゃないゲロが……あいつらがいるとハラハラさせられるゲロ。はぁ、いつぞやの事を思いだしたら余計に具合が悪くなってきたゲロ……、げろり?」
ぴたりと止まり、顔先を前へ向けて、いいや少し斜めにするように。澄ませた荒川蛙の耳に、さぁさぁと心地が良さそうな音が聞こえてきた。
「待て、これは……川、川だ! この先に川があるゲロよ!」
もろ手を上げるようにして音の方へぴゃっと飛びだし、放り落としてしまった扇子を拾い帰ってから、仕切り直しとばかりに荒川蛙は音の方へと走りだした。
さらさら、きらきら。まだ荒川蛙の目には映らぬ穏やかに流るる川にぽろろと陽光はいっそ真珠のようにも粒に輝く。
そうだ、そうだ、この先にとばかりにその茂みに頭から突っ込もうとした先、荒川蛙の耳には川のせせらぎばかりでなく言い争うような声が聞こえてきた。それは、男女の声色であった。
「な、なんだゲロ……喧嘩なら他所でやって欲しいゲロよ、俺は水が欲しいんだゲロ……」
苛立ちながらそう言うものの、先ほどまでの勢いは形を顰め蛙の足取りは茂みの手前で右へ左へ。そうして、迷ったすえに荒川蛙の指先は茂みに音立てぬように小さな穴を開け、覗いてみせた蛙の眼差しの先には確か、一方的にも言い争う男女の姿が在った。
それはけれども、人同士のいさかいではないもので。
げ、げこぉおおおっ!
蛙は心中で悲鳴にも似た鳴き声を上げていた。荒川蛙が覗き見るその先にて声を荒らげる男、それはどう見ても人ではなく蛇の下半身をうねらせて、女の腕を掴む己の腕の鱗を逆立たせてはしゅぅしゅぅと舌先をちろちろ、今にも女を取って喰らってやろうとばかりなのである。
睨まれるどころか此方に気付かれてもいないというに荒川蛙の体はぴしりとも石に成ったように身動ぎひとつできないとなった。荒川蛙は蛙妖怪、蛙に蛇など、言わずもがな。蛇に睨まれた蛙状態にある荒川蛙の目はそれでも覗き穴を覗き込んだままであるので、蛙の眼差しの先で男女の争いはやはり途絶えることがないようだ。
嗚呼一体、あんな恐ろしいやつに抵抗している雌はどんなだゲロ。
好奇心は猫を殺すというが時は平安、彼は蛙であった。動かぬ身体でそれでも眼差しを泳がせた荒川蛙の目に映るは可憐白花色、白無垢で。嫁入りだゲロと胸中零した蛙の鳴き声を知らずも追うように、腕を引かれた女の頭から綿帽子が川原へとぱさりと落ちた。
げこ、り。
例えば、一目惚れとはそのように。
今度ばかりは身動ぐことも目を離すことができないでいるのも蛇に睨まれた為ではなかった。げこりげこりと心の臓がやかましく打つ速度で鳴き声を漏らし、その合間でほぅと荒川蛙は息吐いた。
仄かに青っ白いものの纏う白無垢の生地よりもうんときめ細かな肌その頬、目元に落ちるまつ毛の影に憩いを覚えては何よりも涼しげな眼、それが荒川蛙の心を離さなかった。
あのようにも美しい娘を嫁にもらうというのになんて乱暴にするんだゲロとむかっ腹、荒川蛙の水掻きのついた足は心許なげにぺたりという音を伴って地面を踏んだ。
蛙に蛇の妖怪など相手にできるものか、荒川蛙はまたひとつ抵抗した女の姿から視線を外せぬ儘それでも後退った。思いを拭い去るかのように幾度か首を振り、くるりと体の向きを変え、着物の中で浮いた汗が彼の背中を伝って流れる。
乾いた音が響いた、女の小さな悲鳴もひとつ。その頬を払われたのだろう。
汗粒が宙に弾け飛んだのは、荒川蛙が勢いに振り返りその場飛びだしたからだ。
「や、やめろゲロっ!」
蛙の跳躍を以ってふたりからほど近いところに降り立った荒川蛙が痞えながらも鳴き声を上げた。
突然に降ってきた第三者、それも蛙妖怪とあっては昼行性である為に丸い瞳孔をさらに丸くさせ、蛇妖怪の男はしばし呆気に取られたようである。それを見留めた荒川蛙は閉じた扇子の頭を男の方へと突きつけるようにもして威嚇した。その姿が男に取ってひとっつも恐るるものでないとはしても、お、俺は今は普通のアマガエルじゃあないゲロ、荒川蛙だゲロ荒川蛙だゲロと胸中自身を鼓舞繰り返す。
「ふ、ふん、死にたいのか……! そ、その娘を離すんだゲロっ!」
男はその腕を離し己の後ろ頭を掻いたようだった。
「あっちへ行くんだゲロ! 帰るんだゲロ!」
ぶん、ぶんと扇子を払ってみせて、荒川の主は如何様に相手を牽制するだろうかと倣ってみせようと必死思い出す。そんな小妖怪の姿に蛙はお前だろうとでも言うようにしゅぅしゅぅと舌先で嘲笑ってから、その蛇は己の下半身を鞭のようにうねらせた。
ぱちんと響く。
蹴鞠のようにもぽんと飛んだ一匹の蛙。けれどもその場から吹き飛んだのは蛇の男、其方もであった。
太陽のもと宙を舞う蛙の浅葱色と濃い墨色の袂、其処から覗いた御魂がきらりと光る。それは鏡姫などと名付けられたものだったか。
川岸に何度か跳ねた荒川蛙はそれでも転がったままではいられぬと袖を自身で踏みながらも立ち上がり前を見た。蛇の男は何が起きたのか分からぬままに地面に頬つけたらりと鼻血を垂らす。はたと、互いの視線が一致する。鱗がうねる、が。
「ふっ、深き闇の水流……!」
半身を捻った後に前方へと踏みだした片足力込め、扇子で水をめいっぱいに掬い取るかのようにお天道さまへと振り上げる。
黒色妖力で魚形に凝縮された水の塊が男を宙へと放りだし、天から地へと帰ってきたそれで丸呑みをするようにも水圧を叩きつけた。何所ぞの骨が折れたような嫌な音も響いたか。
「まっ、まだ歯向かう気か!……ゲロ!」
死んではいないが、蛇が蛙に負かされるなどなんと恥ずかしいとばかりに尻尾を巻かずにくねらせて逃げていくその姿、荒川蛙は内心でとてもほっとした。その安堵はくらりともした。
「あ、あれ、おかしいゲロ……朧車様に乗ってるみたいに、世界が揺れて……」
蛇の一打を反したものの、荒川蛙とて無傷ではなかったのだ。
「む、むむ……そこの、娘、大事はないか……ふ、げろぉ?」
それにやはり、暑かった。
くらりふらりと蹈鞴を踏んで、極め付けとばかりにその場にぱたり。
霞む視界とうつろな頭、自身を膝に寝かせて心配そうに覗き込む娘の、頬に触れてきた手のひらが蛙の温度にも似てひんやり心地好いなと思ったけれども荒川蛙の意識はそればっかりに、あとは気を失ってしまったのであった。
さて、とある式神派遣の日から幾らか経ったその日、安倍晴明は自身の庭院に訪れたその人の姿の妙齢の女に怪訝な眼差しを向けていた。
紋付袴の男も傘持ちの侍女も居らず、ただひとりその身に白花色の白無垢を装い腰折り、さらりと結われていない髪が或るいは天女の羽衣であるかのようにも女の体に添い流れ揺れる。青っ白い頬、この季節の照りつける太陽は眩しすぎるというようにも仄かに伏せた眼差し影つくりながら、薄く紅の引かれた上唇と下唇の間に隙間をあけて、静かに。
「先日、此方の蛙妖怪さまに助けられたもので御座います。お名前を頂戴すること敵わず、けれども他の妖さまにどちらの方かお尋ねすることはできておりましたゆえ、お礼に参った次第に御座います」
「蛙妖怪、か」
はい、と一度短く答えた娘の唇は結ばれて、その後は反物でも織るかのように言の葉を紡いでいった。
──矢に射られた冠をお召しであんなちいさな体、肩に担ぐようにも竜胆色の毛皮を首元巻いて、浅葱色のお着物には波の文様、帯はたっぷりとした結びにて。跳躍は其処いらの蛙さまと比べるまでもなく強かなもので、蛇と対峙したというのに逸らされぬ眼差しや、扇子振るい水流を使役するさまなど惚れ惚れと、それに……我が身構わず私の安否を心配されたそのお優しい心、そうです、そのような蛙さまにお礼申し上げたいと。
「いや、ふむ……なるほど先の月に確か、蛇妖怪の諍いがあった。そうしてその蛙式神は荒川蛙のことだろう」
晴明はこれは何ともと言い難いとばかりの表情であったが、娘といえば乞うたその存在の名を知ることができたことに折っていた腰を勢いに戻すようにし、両の手の指先を合わせて自身の唇の前へ寄り添わせる。
「荒川、蛙さま……」
命の恩蛙の名前でも紡ぐように、小さくとも大切に声音にするのだ。
「お前は、」
「私、先の蛇に嫁ぐところで御座いました。……けれども私はそのようなこと望んでおりませんでした、荒々しく此方の腕を掴んでくる鱗の浮いた腕も、威嚇するようにしゅぅしゅぅと鳴き荒らげてくる口も私、恐ろしくて……。私は、やさしい殿方に嫁ぎとう御座いました……」
自身の頬に片手の平、ほぅと息吐くその表情。話を聞くにつれまさかまさかと思っていた晴明もここでようやっとそのまさかを尋ねることにしたようであった。
「お前は、荒川蛙に嫁ぐつもりで来たのか?」
「……そう、あれば好いと」
果てさてどうしたものかと彼の陰陽師も思案顔、閉じた扇子で己の手の平を数度打ちながら呟いただろうか。荒川蛙、蛙に、嫁入りか。
「嫁さんだゲロ!」
その些細な雷のような鳴き声は晴明の足元から上げられた。見ればそこには藍色の風神蛙をおんぶ紐でおぶった朱色の雷神蛙、合わせて両面仏蛙と呼ばれる二匹の蛙。
げろ、げろと鳴き声を上げながら、今度は娘を見上げてひと鳴き。
「お前! 荒川蛙の嫁になるゲロか!」
「ゲロ? 俺にも見せろゲロ! どんなだゲロ」
「白くて細いヤツだゲロ!」
雷神と風神を真似た蛙が鳴き声を交わす。げろっ、げろっ、見えないゲロとおぶられた蛙の主張も知らずのようで、右へ左へ首を大きく振るようにも誰かを探した蛙が躓くようにもして駆けだした。
「荒川蛙! お前、白くて細いヤツがお前の嫁さんになるって来てるゲロ!」
「は、また何を見間違えて聞き間違えたゲロか。確かに俺は荒川蛙だゲロが」
目の良くない両面仏蛙が珍しく見間違えなかったのは扇子を扇ぎながら暑い暑いとぺたぺた歩いていてきた荒川蛙、確かその蛙で間違いないようで。
「あっほんとだゲロ、白くて細いヤツだゲロ!」
雷神蛙が荒川蛙の方を向いているならおんぶの風神蛙は反対側に、見せろ見せろといった蛙の目のちょいとばかり先には荒川蛙はまだ気付いておらぬ娘の姿。
「あれが荒川蛙の嫁さんだゲロか!」
「嫌味かゲロ。俺はどうせ独り身のアマガエルおじさんだゲ……こぉ!」
眉間か頬か、浮く汗を浅葱色の袂で拭いながら独り言の響きで言う荒川蛙の鳴き声が痞え驚いたのはやはり、両面仏が指差したその先にあの日の娘がその姿で立っていたからであろう。
「白くて細いゲロあいつ!」
「おっ、お前指差すなだゲロ! 白くて細いのの何が悪いんだゲロ……!」
荒川蛙は焦るようにも両面仏蛙のように目が悪くなったのではないかと瞬き、変なところはないかと帯のむすびめひっぱり、慌てて駆けだそうとしてそうしてその足を突っ張らせた。
いつぞやは失態を見せたゲロ、ここは、荒川の主みたいに偉そういや堂々とした姿を見せるゲロ!
そのようにも意気込む蛙であるもので、荒川蛙は仰々しく扇子を仰ぎながらも大股で歩み近寄るようであった。やはり足音はぺたり、ぺたりと響いていたが。
さて惚れた相手をげろぉと胸中見上げた荒川蛙、晴明は広げた扇子で口元を隠しながら事の流れを見守り、流れた事というのがその女の白無垢の袖や羽衣めいた髪とも言うべきか。
「荒川蛙さま、荒川蛙さま、あの日救っていただいたこと、忘れもしません感謝の言葉も尽きません。そんな恩蛙さまにお頼み申しますのも憚りますがどうか、どうかお聞き願えませんでしょうか」
支えを失ったようにもその場に崩れ座し、荒川蛙よりも低く頭を垂れ三つ指をついて乞うた姿は蛙の足先眼差しの先に。
帰り帰されましても、蛙に負かされた蛇の嫁にするのも醜聞が悪い、そんな娘が帰ってきたのもおんなじだ。お前など死んだも同然だ、そうだ此処の娘は死んだのだと告げられて参りました。同情を煽るものでは御座いません、いっそよろしいことで御座います。けれども、けれどもどうか、その慈悲深き御心を以ってこのような私を、私を嫁に迎え入れてはいただけませんでしょうか。
「──荒川蛙さま、私、あなたさまをお慕い申し上げております」
「げっ、」
げこり。鳴き声ひとつが落ちた地面に扇子もぽとり。誰それのように娘の前に立つぞと意気込んでいたのもまるで御伽噺にされるような遠い昔、ただの雨蛙に戻ったとでもいうように手足を地面へと突いた荒川蛙、地へとつけられた額の為に覗き込むことのできぬ娘の顔を覗き込むようにもして慌て、水掻きのついた手の平でぺたぺた地面を叩くのだ。
「頭を上げるゲロ! やめてくれだゲロ……! いっそ俺が頼み込んででも嫁に来て欲しいゲロ! いや、いや、頼むゲロ、嫁に来て欲しいだゲロ! 蛙だって一目惚れするゲロ、俺はだってあの日、げこり……!」
その言葉に顔を上げた娘の目というと呆気にも取られたもので、はたと遅れてふたり、一致した視線に互いぽっと頬を血色に染めたりすることであった。
さて、まるでそこには人なんていないかのようであったが確かに側で事の成り行きを見ていた男が在る、安倍晴明である。契りを見守ってしまったなどと思いつつ、唇を開く。
「いや荒川蛙お前は、」
「黙るゲロ陰陽師!」
ぴしぃと音でもするように晴明を指差した荒川蛙は自身立ち上がりながら娘を立たせ、その装いに付いた土汚れをぱたぺたと払い拭いながら続けて言った。
「俺はこの娘と夫婦になると決めたゲロ! このっ……、名前、まだ知らなかったゲロ……兎も角式神の婚姻にまで陰陽師が口を出すのはどうかと思うゲロ!」
げろっげろっ、と鳴き言い立てる荒川蛙の落とした扇子を拾い、所在無さげ困り眉で晴明の様子を伺い見る娘に彼はふぅむと。
「まあ、お前がそれでいいのなら確かに、そこまで口にする必要もなかろう」
「えっ本当にいいのか」
そも此の蛙が言うように式神の婚姻にまで陰陽師が口出しすることなどない、それが守るべき京の安寧に関わらぬ限りは。
荒川蛙は自身が鳴き立てたとはいえ思いの外にあっさり許されたものだから呆気に取られたものの、はっと気づき直したように娘と陰陽師を交互に見、両手を上げた後に式神同士の戦いに勝利した時のようにぺたぺたたと足運び音頭、くるりと回って喜びを表したようであった。
「結納、結納だゲロ!」
もうそこには蛙自身と娘しかおらぬようだ、白無垢姿を仰ぎ見ながらほぅとげろぉと、噛み締めるようにも鳴く。
「そうだ虹みたいに綺麗な石を持ってるゲロそれを贈るゲロ! いやその前に庭先をいっしょに歩くだゲロ? げげろ、手、手を繋いでもいいか……?」
控えめがちに尋ねる荒川蛙に娘は頬を赤らめるようにして、俯きながらもはい荒川蛙さまと頷いたようで。
稀有なことだと、庭先の池のほとりへと歩みだしたその姿に晴明は呟いたのであった。
白無垢娘に紋付袴──ではなく浅葱色羽織蛙、その身ひとつで嫁入りにきた娘とひとめ娘に惚れ惚れ蛙との祝義は早かった。短い合間にもそこいらの人間の男女と変わらぬような、いやそこいらの人間の男女それも若いふたりよりも初なさまで仲睦まじく過ごしたものだが。
さておき。けろけろと鳴く蛙式神同僚たちを始めとした妖怪たちに見守られ祝いの式。晴れて夫婦となったふたり、その姿をしばし離れたところから成程と狐面の下頷くは大妖、玉藻前、その者だ。停められたおんぼろな牛車、いや妖怪朧車に寄りかかるようにしながら自身の足元にぽんとぶつかったものに狐面越しに眼差し落とした。
げげろ、目が悪いためか祝いの酒にか、ふらふらつんつん跳び歩いてきた両面仏蛙が尻餅を突く。
「こんなところに壁があったゲロ」
「祝いの場で怪我するものではない」
「壁……その声……玉藻前様だゲロ!」
「声が大きい」
しぃと指先を唇の前にして制する玉藻前のその指の本数もよく見えなかったものの、蛙は自身の口を水掻きのついた手で覆い隠すようにも慌てるようだ。
「も、申し訳ないだゲロ……玉藻前様、白くて細いヤツが荒川蛙に嫁ぎに来たのを知ってたんだゲロか?」
白くて細いヤツ、と殆ど色と形状しか見えないでも遠くの荒川蛙の嫁っ子を振り返り見た雷神蛙に風神蛙が玉藻前を見上げる形となり玉藻前様だゲロとひと鳴き。
「じろじろ見るものではない。しかし白くて細い奴、か」
ふっと笑った。長く生きてきてまだこうもおもしろいことが在る、そうひとり呟いて、どれ祝い言のひとつやふたつくれてやろうと、荒川蛙たちの方へと歩みだすのであった。
さて祝儀、その夜である。
「少し飲み過ぎたゲロ、酒呑蛙が繰り返し溢れるほどに酒を注いできた所為だゲロ。蛙も鳥に成れるんだゲロね……千鳥足だゲロ」
荒川蛙はげこりげこりと鳴きながら、蛙の身には大きいひとつの布団にいそいそと潜り込んで自身の横をぽんぽんと水掻きのある手で叩く。
「早く寝るゲロ。明日は俺の好きなところに連れ立っていくゲロ、お前にも好きになって欲しいゲロ……あの池の水は冷たくって澄んでいて、一等に好きなところだゲロ……」
あっ、お前と出会った川も好きゲロ水の冷たさは分からなかったゲロが、思い出深い川となったゲロよ。としみじみ、天井にその光景がひろがっているとばかりに見上げた蛙はその儘にふわぁと欠伸をひとつ。思いの外夜も更けたともう一度、布団は水掻きの手でぽんぽんと叩かれた。
けれどもどうしたことかはたまたそうあるのが正しいとも言わんばかりに娘はその場に立ったまま。
蜜蝋に灯した火の薄ぼんやりとした灯りに浮かぶ娘の姿がなるほど、いつぞやも両面仏蛙が言っていたように白くて細いという表現を思い返させる。俯きはしなかった荒川蛙のやらぬ眼差しの先、寝屋の片隅これまた薄ぼんやりとした娘の影が灯りのようにもゆらゆらり。
しゅるりと、音が。
布団に潜り込まぬ娘におやと荒川蛙が眼差しを向けた先、娘自身の手で抜かれた帯その腰帯が蛙のまなこの中でもはらりと舞ってくねりくねりと、降り積もる寝屋の薄影とひとつになりまして。
げこりとも鳴き声が聞こえてきませんで娘は、帯を抜いてくつろげやすくなった寝衣の前身ごろに手、もう花は蕾から花ひらくとでもいうように。
そこでようやっと意識が帰ってきたとばかりに荒川蛙は反射、その両目を自身の手で覆い隠すのであった。水掻きのついた手では指の合間からということもないようで。
「げ、げろぉ! なんで寝巻きをぬ、脱ぐゲロか! 池の水はまだゲロよ! 暑かったか……!」
慌てる荒川蛙、夫となった蛙のその様子に僅か傾くように小首を逸らした娘の肩からさらりと髪が肌の上を流れる。
「だって荒川蛙さま……番と成ってはこれから幾日、交わりますでしょう……?」
これには蛙も驚きの声を上げた。そんなことを夫婦がするであろうそれを、今の今まで自身忘れていたことにも。驚きの合間に跳ね水掻きの端っこから見えた娘の肌にあわあわと動じながら、ぺたぱた己の顔をその手ではたく。
「そんな、そんなこと……! 嗚呼お前、丸見えゲロ! まる……げろ?」
娘の寝衣はまだ肩先にかかってはいるものの、くつろげられた前の身ごろに見えるものは見えるもの。例えば抱き上げられた際に後ろ頭に感じていた乳房のまろみのそのさまに狼狽えながらも雄の宿命とも言うべきか、視線下ろした荒川蛙の鳴き声がもう一度、けろり。
臍が、無いゲロ。
「あれ……、人間も臍って無かったゲロか?」
娘の傾げた小首と鏡合わせでもするような荒川蛙の姿とその言葉に、娘は白くて細い指を己の薄い腹に沿わせ、確かにその凹みも凸も何も無いなだらかな下腹に眼差しを落とす。
「臍、で御座いますか……。嗚呼、人間は臍が御座いますね」
蛇とも違って。
静かに言った娘の荒川蛙と一致させた眼差しそのまなこ、瞳孔は縦に切れ長、金色のお月様のようにもきんらりと光ったこと。
互い、夜の静けさを真似るようにしばし黙っただろうか。
「げっこぉおおお!」
お前、蛇って言ったか! そう言いたかったものの、荒川蛙は驚きのままにぱくぱくと口を開き閉じするばかり。
「荒川蛙さまは臍が在った方がよろしかったのですね、今、つくりますから」
そう言って、自身の指先爪先を下腹に僅かに埋めて、薄く削ぐようにもして臍を拵えた姿に、荒川蛙は慄くようにも枕を抱いた。
「お、お前っ、俺を食うつもりだゲロかっ!」
「どうして、喰らうのは荒川蛙さまで御座いましょう……? もしや蛙の方は、雌が雄をお襲いに」
「ちがっ、違うゲロそういうことじゃないゲロ! お前が蛇で俺が蛙だという話だゲロ!」
きょとんと、それで、カッと刹那に夏の日差しにやられたように頬を血色色にした娘がそんなまさかと、今度は冬がやってきたというように青褪めた。
「私てっきり、荒川蛙さまは私が蛇だと知って助けてくださったものかと、嫁に迎えてくれたものかと、嫌だ私ったらなんて、なんて嫌な女なのかしら……!」
おや思っていたものとは違うぞ、と荒川蛙は枕を抱く腕の力を弱める。
しな垂れるようにもその場に崩れ落ち両の手で顔を覆い終いにはしくしく泣きだしてしまった娘のその様子は、甚だ、蛙を喰らってやろうという蛇のそれではないのだ。ほんにそれは、恋を失ったように泣くひとりの娘であったことだ。
枕がころり、びくびくとしながらもそろりそろりと娘へと近寄ったその蛙、荒川蛙の手がぺたりと娘の片腿に触れた。
「な、泣くのはやめるんだゲロ……驚いたゲロが、本当にとても、驚いたゲロが……お前のことが嫌いになったわけじゃ、ないゲロ……」
そろりと少しばかり下がった娘の手のひらに隠されていたその泣き顔、零れ落ちてきた涙の粒が染みるようであった。心にも、蛙の肌にも。
「俺はたしかにお前の見目に一目惚れをしたゲロが、お前そのものが好きだゲロ。虹みたいだけどただの石だゲロにそんなものにほんとうに嬉しそうにするところも、川のせせらぎの合間にわらべ唄を口遊んだり、俺の毛皮襟巻きなんかを抱きしめてうたたねていたところなんか可愛くって仕方ないゲロ」
他にも、他にも。
「と、取って食うわけじゃないゲロね……? そうなんだゲロね?」
大事なことを確認するように覗き込み尋ねる荒川蛙。
「蛙の嫁が蛇でなにが悪いんだゲロ、俺が驚いたから悪かったゲロが……。俺はお前を好いているゲロ、それじゃあ駄目か?」
娘の頬の涙を手で拭うとし、これでは上手くいかないと浅葱色の寝衣の袖でやわく拭ってそれで荒川蛙はほっと胸を撫で下ろした。その頬が、目元が、好いたその笑みへとゆるやかに変化していくようで。
「わたくし、私は荒川蛙さまをほんにお慕い申し上げておりますわ……!」
「げこぉっ!」
そう言い放つや否や、飛びかかるようにも蛙の体を抱きしめた娘のそれでぷぎゅりとも鳴き声が潰れた。
ぎゅぅぎゅぅと、互いの心臓の音はこれまで以上に近いもの。その音の合間にも荒川蛙はしんみりと思う、嗚呼やはり、彼女の肌は蛙の肌にも似てひんやりと心地好い。
そういえば、蛙も蛇も、同じ変温動物であった。などと誰かが頷いたようなそんな気がしたが時は平安、揺らいで消えてしまった蜜蝋の灯りのもやと共にそっといなくなるようであった。
京の市中を離れ離れてとある山の草や茂みを分け入って、げこりげこりと蛙が鳴いた。
「やっぱりあの陰陽師は蛙使いが荒いゲロ! 帰ったら水の球をぶつけてやりたいゲロ……!」
額の汗と葉っぱを浅葱色の袂で拭ってげこりと、くるりと、振り返る。
「そこに木の根っこがあるゲロ気を付けるゲロ! ほら、手をだすゲロ!」
「はい、お前さま」
蛙と蛇の番が仲睦まじく。