手の首の血管はそれがまるで其処に流るる川のひとつでもあるように、幾重の小川に別たれつつも皮膚の下に渡っていた。それは荒川の主の、そうしてその人ならざる腕を人でしかない手で支えている契約者の眼差しの先で。
ひとつ、ふたつ、瞬く。それは契約者たる彼女の眼差しがその当人の瞼に遮られる為に。唇は、僅かに隙間を開けては隙間風にも似た心許なくも確かに存在する音を伴って細々と零している。音を、独り言つ。
荒川の主は他所の式神のことのような眼差しを向けていた、己の四肢のひとつを何処までも赦してやろうと契約者に預けながらも、彼女のまなこの球体面に映り込んでいるそれについては我が身のことながらに、如何でもよいとばかりのことである。
「嗚呼どうも、別の装いのそれが悪さをしているのかも……。色合いは違うけれど、箇所は違うけれど、まるで珊瑚が生えているかのようなんだもの……」
自身の考えを荒川の主、彼に聞かせているような言葉ながらも、それはただ己の中で憶測を紡いでいるに他ならない。契約者のまなこは彼の手首から植物のようにも生え、枝を別ち延びるそれにばかり向いている。
確か、それは彼女の言葉の通り珊瑚のようでもあった。またしてそれは彼女が異なると言うように珊瑚色と表される色合いではなかったものの。
「ううん……、申し訳ない、きっと、何か、私の力量不足ゆえにこんな異常が現れているに違いない。抑圧に成ってしまうのかしらん……、今現在のお姿に、影響が出るなんてそんな……」
そうして、呻き声を伴った不器用で歪な声色の謝罪の声は何度目かの「ごめんなさい……」を零してあたりに漂わせた。
契約者の零した吐息を追うようにも鳴ったのは扇子の閉じられたぱちりともいう音だ、荒川の主の、契約者を見下げる眼差しの音に伴う、一種の興じ、その音だ。
「痴れ者め」
そう唇にしながら閉じた扇子の頭で契約者の顎先をぐいと上げ、顔先と顔先を、眼差しと眼差しを一致させた荒川の主はやはりと、その目を僅かに細め、色を川の深いところから掬い取ったもののようにも深める。それはなんにひとつも、悪いことではない意味合いを孕んでいる。統べる者の唇の端もまた、眼差しに映す彼女の口辺のように仄かにつりあがっているのだから。
小さく呻いた、契約者たる彼女の喉は扇子の頭に突き上げられながらも唾を呑み込み下し、耐えられぬというようにも戦慄いた。
「謝罪など、聞くに堪えぬ。まして、この程度のことで波のひとつ荒立てると思っていると」
契約者の指の先が跳ねる、それは荒川の主の片手を取っていた為に、その指の腹は彼の皮膚の表面を僅かにも叩いただろうか。
嗚呼、これは挑発だ。そうして、赦し、受容、或いは、波間の些細ないとまに告解の猶予を与えられたようにも。
彼女の唇の端は震えている、喉は音を零したがっている、眼は涙を零すだろうか。そうして、やはり、えへらと笑った。
──きっとそれらは、確認という行為でもあった。ゆえ。
「すごく、すき」
扇子の頭に突き立てられた先の唇は舌足らずにもそう言った、確かに、そう言った。そうして。
「みて、だって、珊瑚の朱色じゃあないけれどこれってほんと、その眼差しの色そのものなんだもの。肌の血管の、葉脈めいたそれの延長線から延びるものでなくって、眼の、嗚呼、川の深いところと浅いところの境界線みたいな、そうしてもっと複雑な、色合いの、そんな結晶なんだもの。珊瑚色を好まないってことではなくて、異なるから、余計に、私だけの、私だけのあなただってそんな、みたいだもの。分かる? 私はわからないけれど、分かるよ、ただ、そう、唇を寄せたいかも。……冗談です」
泳いだ、眼差し。逃げられる川面がそちらに在るともいうように。果たしてけれども、契約者、彼女が逃げるすべ、そんなもの疾うに在りはせぬ。水槽にぼちゃんと落とされたときを知らぬか、分からぬようにだったか兎も角、見えぬ透明な壁にぶつかり泳いでみせただけだ。いや、彼女は実には逃げようとはしていないものではあった。ただ、こつんこつんと水槽をぶってみせて己の存在を知らせるような、愚かで無垢で、単純で。
さて、掬われ囲われの存在は、喘ぐだろう。空気が足らないのだ。ぱきりと鳴ったのは、互いの合間に囚われた結晶であるが、その断面幾つかが見上げる鏡面に映るは番の唇合わせ、それを隠すようにも浅葱色の装いはまた、互いの合間にくしゃりと衣擦れの音を隠した。