しらしらと輝く星と満ち月のために明るい濡れ縁、其処に座り杯を傾ける二人のどちらともない手の内の酒の水面が静かに揺らいだだろうか。
小さく、けれども水面にうまれた波紋のようにも響いてきた音は来訪、或いは帰ってきたことを知らせるもの。此方の庭院の主が今日も今日とて足繁くと。
ひとり、帝釈天の背の白蓮が夜風にさわさわとやわく揺れた。
ひとり、荒川の主の片手の白扇子がぱちりと静かに鳴いた。
「あの子が帰ってきたようだ、今日はもう帰ってこないものと思っていたけれど」
「思ってもいないことを言う、その顔で」
「そうだろうか、一日とて絶えず求めてきていることを側で見てきたものだから難しいな」
笑みの形で零された言葉、何はとも言えぬ感情の儘に一度唇を引き結んでから、ぐいと杯の中をひと息に呑み下した荒川の主の姿に帝釈天も唇に酒を濡らした。
「あなたのことだ、荒川の主」
「敢えて言うな」
閉じた扇子の頭が濡れ縁を打つ。
幾分更けた夜のしじまに似合わぬ音立つ足の運びは揺られ弾かれるような蛙の声も伴って聞こえてきた、まだ見えぬ其方に顔先を向けてやはり、帝釈天は微笑ましいといったようにも笑った。
「ふふ、殊勝なことだ」
顔先を向けずともゆらゆらとやってくるその存在との距離は分かっている、印を付けられるのが陰陽師だけだと思わぬことだとひとつ荒川の主が瞬いてから、そうして夜の静けさなど疾く無かったとばかりに声が響いた。もちろんそれは此の庭院の陰陽師、彼らの契約者たる彼女のものだ。それに、両腕で抱き潰すようにも運ばれてきた荒川蛙のぐったりとした鳴き声も、ひとつ。
「お酒飲んでる! 荒川の主と帝釈天まっまが! お酒飲んでる!」
帝釈天はそれに「おや」と思い、儘に口にしていた。
「あなたも既に飲んでいるのかな」
「友達とお喋りしながら、いっぱい! でもいいな二人ともお酒飲んでる!」
「喧しい、座れ」
端的に放たれた言葉に反発することなくすとんと座した彼女を見ながら、ずいぶんと酔いが回っているなと帝釈天は思う。この子はその横の川の主が場にいる時は彼に対し敬称を付けるもので、自身へもまたそうだ。いや、自身に対しては感情が昂った時に母を意味する敬称を付けるな、と。
「あ、暑いげろ……」
荒川蛙が彼女の腕の中でぽろりと零す、その訴えを追うようにも汗粒がぽろりと零れて濡れ縁をぶった。いやそれは汗ではなく水の粒であったようだ、荒川蛙もその蛙を抱き抱えた契約者もしっとりと濡れているようだから。きっと、池に逃げ込んだ荒川蛙を迷うことなく追い抱き上げたのだろう。
もう一度抱え直すようにも荒川蛙をぎゅっとした彼女に、げこっと鳴き声が漏れる。それらをちらっと見た荒川の主の手の平は興無しとでも言いたげを装い空を軽く払った。
葉や花やの上に乗った雨露たちがいっぺんにも風に飛ばされるような音、ざざぁと、ひとりと一匹を濡らす水は逃げるようであった。彼女から逃げた水は蛇にも似た蛟の姿で、荒川蛙から逃げた水は蛙の姿で、みっつの眼差しの先でぱくりと蛟が蛙を呑み込んでからそこには何も無かったというように水の溜まりもつくらず、消える。
それにきゃっきゃっと手を叩きいっそ童女のようにも喜んだ契約者。けれども解放されてその膝に落ち跳ねた荒川蛙は鳴き声も忘れたように口を開いて先の光景に慄いていた。蛙には悪いことだが、何とも微笑ましいなと帝釈天はゆるむ口元に折った指を寄せ隠す。それを見留めた荒川の主の眉根が僅かに寄った。
「あっ、お酒、飲む」
逸れた気が戻ってきたと眼差しは徳利に落とされあとに迷い子のようにもふらついた。さすがに徳利から直接飲むようにまでは酩酊していないようだ、ぎりぎりではあるだろうが。その唇はぐらすが無いと呟いていた。
嗚呼、杯を求めているのか。と帝釈天が自身の杯の側面に指先をほんの弾かせたが、それよりも先に荒川の主から押し付けられるようにも杯をもらい唇を寄せていた。その喉はこくりこくりと音を鳴らし、頬をゆるめて美味だと笑う。
月が無くなったなどと少しばかり風情なことを言うがそれは杯の水面に月が浮かばぬ、水面が無い、すなわち酒が無くなったまだ飲みたいという訴えで。浅葱色の装い袂を指先で控えめに引っ張っている姿や荒川の主その存在に酌をさせているという姿のどれも明日には覚えていないのだろうと、さすがに二日酔いと呼ばれるそれになってしまうのは可哀想だと帝釈天は唇を開こうとして、それを遮るようにも新たに注がれた杯の中の液体は彼女の手によって荒川蛙の口へ喉へと流れ込む。果たして蛙が酒を飲んでも良いものだろうかと困り眉、おやとなったのは蛙と天人。
契約者は美味しいね、美味しいね、そう独り言つ。
ふらふらゆらゆらと舟を漕ぎ。あらまぽとりと手から離れた杯を荒川蛙は自身の頭上で両手受け止め、くらりと濡れ縁にぶつかりにいった体を荒川の主の手が掬い取る。
そうして、荒川の主の片膝にゆるされ頬寄せ眠っているなど知りもしないのだ。
「み、水だったげろ……」
蛙の呟きに、ふっと帝釈天は笑った。
「妬けてしまうな」
「何だと」
今は水底の色のはずの眼差しの色が金色めいてぎらりと光ったようにも思えた、或いは唸ったようにも。
「何だか娘を奪われた母君の心持ちだ」
「……父ではないのか」
けれども続いた帝釈天のその言葉に呆れたとばかり、水面は平時の静けさを取り戻すようだ。
「私は母だ。この子が望む限り、そう在ろう」
徐に帝釈天の掌の空に咲いた白蓮は散り、花びらのひとつが眠る契約者の髪を撫でるようにも降りていった。
庭先の池に恐々と逃げゆく荒川蛙のそろりそろりとした足取りのようにも、夜がまた更けていくようであった。