空にまんまるお月さまが居座り明るいものの宵も更けに更けた夜、京の夜でございました。
 何とも心地が良いと鼻歌交じりに千鳥足で其処行くのは装いを着崩した酔っ払いの男で、前見頃合わせの間から手を差し込んでは己の腹をぼりぼりと。酒を流し込みはしたものの満たされてはいないと掻いたその手、腹を摩ってみては首を振る。そうしますと男の鼻先をなんとも言えない好いかおりがくすぐるのでございました。それは決して美味い肴や酒の匂いではございませんが、鼻腔をくすぐり口内にもほの甘く感じるようなそのかおりはやはり、なんとも言えない好いかおりでございます。
 右へ左へと当て所ないものであった酔っ払いの足取りは、そのかおりに手招かれるようにも京の通りを歩み始めるのでございました。
 此方へ、此方へとほの甘いかおりはとある貴族の屋敷へと男を手招きます。物騒なことに門は開きっぱなし番もおらずであったようで、まるで我が家にでも戻り帰ったように男は、敷地内へと歩み行ったのでありました。
 勝手知ったる我が家では御座いませんので酔っ払いの目はきょろきょろと、鼻はくんくん、顔先あっちへ向けてみてはこっちへ向け、そうして自身を誘ったかおりは此方だ此方だと庭園を奥へ奥へと進みます。
 ──もし、もしそこのお方。
 庭の奥先へしばし進んだ時で御座いました、ゆったりと囁かれるような声が酔っ払いの耳にも聞こえたのは。
 やや、これは屋敷の者に見つかったと肝を冷やした男が振り返っても其処には人っ子一人おらず、あれま梟の鳴き声でも聞き間違えたかと後ろ頭をぼりぼりと。
 もし、もしそこのお方。
 やはりそれは鳥の鳴き声などではなく人の声だ、それもほの甘いかおりを纏うようなご婦人の声だと後ろ頭を掻いた手を男は自身の服にこすりつけたのでございました。これは確かに見つかった、けれどもどうも屋敷のご婦人はお怒りになっていないとその声色に、仕舞いには男はいい気になってしまったもんで。
「なんです、なんです、お貴族さま」
 だなんて言って、自身の両の手のてらを揉むようにもしてその声がどこから聞こえるかふらふらと探し出したのでございます。
 此方、此方で御座います。此方、此方へ。
 ほの甘いかおりと声に、男は庭園の奥へ奥へと手招かれます。
 そうして庭園の先に在りましたのは花木、その花木は沈丁花というものでございました。
「なんだい、なんだい。お隠れにならないでくださいよお貴族さま」
 花木のその凛とした佇まいを知ろうともせず、くるりとその花木をひと回り。そちらに隠れ忍んだ声の方がいるものかと。けれどもやはり、人なんておりませんで。
 呆気に取られたようにも数度またたきをした男の顔はなかなかに間抜けなさまでございましたが、それを指差し見て笑う人間はいないもので夜の空にぷかぷか浮かぶお月様がそれらを見下ろしておりました。
 ──お尋ねしたい、ことが。
 やはりご婦人はおりませぬ、ならばいったいその声は何処から。
 男の耳元その声は、さわりと揺れる沈丁花の、その花から。
 今度こそ男は酔いも覚めたとばかりにワッと叫んでは躓きながらも走り去ったのでございました。
 そうして後には、夜にゆたかにもかおる沈丁花が在るばかり。



 昨夜の雨に量は増し、ドドゥと平時より激しい水流の音を聴かせておりますその川は荒川と申しました。京より遥か東の地に流れ、いずれ海原と合流するその大河でございます。そうして川のほとりを白扇子片手ゆるりと扇ぎながら歩むその水族のひとりが此の川の主、荒川の主と呼ばれるお方でありました。
 僅かに寄せられた眉、細められた目で思案されますのは、どうにもこの先荒川のほとりが騒がしいということでございます。それは昨夜の雨で川が氾濫したというものではございません、其処に荒川の主がおりますなら意図せず荒川が氾濫することなどありますでしょうか。
 さて、川のほとりをしばし荒川の主が歩んだ頃合いでございましょうか、彼の耳に確かに少しばかりの騒がしさが聞こえてきたのは。
 川岸に、鮒に沢蟹の小妖怪がてんやわんやと騒ぎます。
「これを食べると精がつくのではないか!」
「大妖怪になれるのではないか!」
 ぱくぱく、ちょきちょき。そこどけそこどけ、おれが喰う。水底色の眼差しが自身らを見ていることなど露知らず、鰭で打たれては泡を噴き、泡に転んでは鱗を跳ばし。
 火事と喧嘩は江戸の華などと申しますは今この時勢では無いことで、ぱちんと閉じられた扇子が鳴きましては小競り合いをしていた小妖怪たちも無い肩を跳ね上げるようにしてそれを中断するのでございました。
「やや、お前はあいや貴方様は!」
「ややこれは、諍いなどではなくいつもの掛け合いで御座います!」
 自身の住まう川の主がおりますと分かると先ほどの小競り合いも何処へやら、無い肩を寄せ合うようにもして腰を折るのでございます。そうして川の主からのひと睨みにひと払い、ぴゃっと連れ立ち逃げゆくのでありました。
 大した理由など無かったかと、仄かに眼差しを降ろしました荒川の主のまなこの中にぽっかりと白い塊が浮かびます。それは小妖怪たちが喧嘩していたその場に在りました。
 その白い塊というのは小さな花の集まりで、白い花首が川岸に引っかかるようにもして流れ着いておりました。けれども、その白い花を眼差しにします川の主のそのまなこには、確かとしたものが映ることでありましょう。ぼんやりと浮かぶはその白い花を心の臓にしますように人の形が。白い花を心の臓にした女が、荒川の岸辺に流れ着いていたのでございます。
「成り立ての妖か」
 呟くようにも落とされた言葉が体を揺らしたともいうように、岸辺に縋る指先がぴくりといたしました。ふるると震えた睫毛が意識の浮上を表しましたら、そのまなこが覗くのもそう遅いことではございません。荒川の主のまなこの色を深い水の底から掬い取ったような色としましては、目を覚ましたその女のまなこの色は水面にぽろろと揺らめく陽光の珠の色とでも申しましょうか。心の臓に咲く花にも似た色の眼差しは、幾度か睫毛瞬きに遮られながらもゆったりと自身の側に在るものへと向けられることです。それはもちろん、荒川の主、そのお方にございます。
 ぱしゃりと鳴ったのは上体半身を起こした為に装いの袂が荒川から引き上げられた為でございます。水の珠が数滴、川に帰ると僅かな水音を聞かせていましたがそれに関心を向けることは互いにありやしませんでした。
「──ここは、此処は京に御座いましょうか」
 少しばかり出だしの掠れ、その声音は尋ねの中身ではありましたが、女と言いますと自身の半身が浸かった川面を見てはそのままに海原へと向かい流れゆく荒川を眩しいものでも目にするように見ておりました。
「此の地が京であるものか」
 返答のその声に女の目は男の目を見上げます。自身とは比べるべくもない大妖だとは分かったもののそればかり、自身が何処に在るか分からぬように何も分からないとただ、その眼を見上げ覗き込むばかりでございます。
「身投げでもしたか、妖が」
 分からないことばかりではございましたがその答えは存じておりました。女は決して、死ぬために身を投げたことではございませんでしたので。
 仄かに色づいた花びらのような唇に微かに隙間、音を紡ぎ始めることでございます。
 ──知りたいことが御座います、それは恋というもので御座います。私の葉を揺らし時に蜜を啜って戯れる鶯が言ったのです。「お前という花は恋を知らぬまま散る寂しい奴だ、恋も番も知らず添い遂げず、お貴族様の庭園で、ひっそり散っていくのだ寂しい奴だ」それは悔しいやら悲しいやらでは御座いません、なにしろ鶯がそのようにも言う恋というものを存じ上げませんでしたら。ゆえ、知ろうと思いました。人にお尋ねしようともしましたが皆さま、驚き逃げ去ってしまうので御座います。確かに、花と人はよくよくお喋りをすることは無いのでしょうが……。それで、庭園にも呼び込まれていた些細な小川、その上まで枝を伸ばした折考えたのです。恋を、探しにいってみようと。ぽきりと、その枝から花首を水面へと落とし流れ流れて。初めは良う御座いました、けれど、ぽつりぽつりと雨が花びらを打ち初ち始めまして、どうにも流れが早く成り始めまして。どしゃぶりに降られたことは御座いますけれどあのようにも、もみくちゃになるのは水の中に在って唯一と申しますか、お天道さまがどちらにあるかも分からなくなるような。
「──そうして気づいたら、此方に」
 ゆったりと、それでも流れる水が如く己の身の上を話した女はやはり、男の肩越しにも在る川、その大河のさまが興味深いと見つめるのでございました。
「京からずいぶんと離れたのでしょうか。このようにも果ての無い小川、鶯にも聞いたことが御座いません」
 なんと間抜けな、呆れたようにも扇子は荒川の主のその手の平を軽く打つことです。荒川を小川などと言うそれも、眼差しの先で自身が人の形を得ていることに今気付いたとばかりに己の指先を見ては瞼をぱちぱちと瞬かせている姿も、呆れに荒川の主の目を細めさせるのでございます。
「甲武信ヶ岳に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に流れ、大里群寄居町で関東平野に到達す。熊谷にて南南東に向きを変え、川越にて入間川と合流。埼玉より再び東に向きを変え、やがて隈田川が分離し、その後江戸湾に注ぐ──その川が、京より遥か東に流れる川、此の荒川である」
 いくら苛烈に流されようと京から荒川まで花が辿り着くものか、知らずに特異な水流に迷い呑み込まれたのだろう。そうと押し測ってはいたがそこまで言ってやる必要も無しと、そこで口を閉じたことでございました。
「荒川……、貴方さまはこの川の妖の方で御座いましょうか?」
 無知とは恐い、けれども無知それゆえに無垢にも尋ねられるのでありましょう。形を得たばかりのその花木の妖は知らぬのです、そこにおわすが荒川を守り司る主であることなど。
「荒川、さま?」
 返答は無かったもののそうであるのだろうとそう呼びかけて、それでも呼びかけの意味ひとつも忘れたと自身の片手の平指先をぴしゃんと荒川に浸からせてから、そのままでは掬い取れぬとしても引き上げては水の露が水面へと帰っていくのが物珍しいとまじまじと見ておりました。
「私の在った庭園はずいぶんと狭い世であったことで、いえ、広う御座いましたけれど、このようにも果ての無い小川、いいえ荒川、垣根も門も無く、塀も境も果ても無いような嗚呼なんて、世は遥かに広く心を弾ませるものでしょうか。まるで水を得た花で御座います」
 荒川の果てを見入ると眼差し、陽光にきらりと輝いた水面が眩しかったのか時折少しばかり眉を寄せながら。
 荒川の果てを知ろうとする女の姿言葉に、荒川の主の心に僅かに過ぎったことがございました。海の果てを知ろうとした、あの日のことでございます。答えを求め、地を天を冥府を、あらゆるを訪れ最後辿り着いた海、その記憶でございます。
 ぱしゃんと少しばかり大きく響いた水飛沫の音に意識を戻された荒川の主の眼差しの先にあったのは、きっと立ちあがろうとしたがそのままにふらりと川面に崩れ落ちた女のその姿でございました。髪先から荒川の水が滴り落ちるのも構わずもう一度と女は今度こそ立ち上がり、男を見、川面を見、そうしてほとりを陸地の方へと歩みだすのでありました。
「何処へ行く」
「京でなくても構いやしません、鶯が翼を持つように私にも今や人の脚がありましたら」
 とはいえ恋というものが何処へあるのかも分からぬように得たばかりの足でふらふらと歩みだしたその姿、後ろ背を、荒川の主は僅か考えるようにして眼差しにしておりました。
 ぴちゃんと小さく跳ねた魚は水の珠、女の髪装いを濡らしていた荒川の水でございました。軽く扇子の頭を払うようなその手の仕草にて女から水気を払った荒川の主のその足元、砂利の踏み締められる音が僅かに音立てます。
 ふらふらと数歩進んでから乾いている髪や装い、伴う歩みに振り返り小さな会釈を女は。
 濡れ鼠を連れ立つのも、諍いの所以に成りかねないものを放置するわけにもいかぬと、女の旋毛を見下げる荒川の主の眼差しにございました。
 数歩の後に既に先ゆくのは荒川の主、女はその背を追い見る形と成っておりました。して、歩みは一度止まりてしかしながらその背のままにて問いかけ。
「花よ、名を何と言う」
「……沈丁花、と」
 川と花、荒川の主と沈丁花が荒川のほとりを連れ立つのでございました。

 京に勝らんとも荒川の周辺陸地一帯に栄える営みもまた見事なものでございます。それらもまた悠々と流れる荒川のもたらした恩恵に他なりません。人と妖怪、人の姿に化けたものではございますがそれらが入りまじりわきたつ通りにおふたりの姿はございました。
 沈丁花は見目殆ど人の女でございますからそのままに、荒川の主はきっと人の方から見ると尾鰭などを持たぬ人の姿にございます。けれども川の主そのお方に特別な風格が在ることは間違いなくまた、伴うその娘がどこか世間擦れの空気を纏っているのは否めやございません。
「して、如何様にして探すつもりだ」
 恋、などと。
「如何様に……人は人に恋するもので御座いましょう。ですから、私もまた私と同じ花を探すが道理で御座いましょうか。沈丁花は、この地に在りましょうか」
 通りを右へ左へ見る眼差しは同じ花木を探すものでは御座いませんでした。
 沈丁花のその様子と言いますと目に映るものの全てが初めて見たもののような、いやその通りに彼女にとってはその殆どが初めてその眼差しの先にしたもので、表情の変化こそ乏しいものの微か眼を見開くようにしてみたり細めてみたり、時折には僅か離れて横にいる荒川の主そのお方の反応はどのようなものかしらんと確かめたりしていたことでありました。
 童子のように騒がしくすることがないのは好ましいものの、顔には出さずとも少しばかり扱いに困っていたのは確か、彼は自身が子供の扱いが旨いとは一片たりとも思っておりませんでしたから。まぁどうにも、妖の形を得たばかりと申しましても沈丁花のその見目は童女などと言いようがございませんでしたが。
「ずいぶんと、賑やかで御座いますね」
 耳元を指先で僅かに摩りながら呟くようなその言葉、荒川の主はその目の中に感情を読もうとしたもののやはり、此の花は少しばかり感情の表しに乏しいと自身の目を細めることでございます。
「忌み嫌うか」
「いいえ、いいえ、京もまた賑やかで御座いました。塀の向こう側から聞こえてくるそれに想像を巡らせていたことで御座います、庭園から」
 沈丁花はそう天高くといきませんので、その光景をこうして目にするとなんと申しますかこれは、これは。感嘆の言葉は、ほぅとため息にも似た吐息となって沈丁花の唇に触れ降りていったことでございました。
「荒川さまは此方にお住まいなのでしょうか?」
 彼女の眼差しに映る荒川の主の姿といいますと大妖のそれでございますが、逆を言えば常日頃から人の姿を保ち、此処で暮らすのも何一つ問題などない妖力を持つのであろうとした言葉でありました。
「いいや此処一帯の水族が住まうは荒川の川中であり、我もまたそうだ」
「川中、水の中……」
 指の第一の折り目を自身の下唇に添えて静かに呟いたそれに荒川の主はちらりとした視線を向け、何処ぞの川や荒川の水流に巻き込まれた時のことを思い出しているのだろうなとしたことです。
「きっと、良う晴れた日でございましたら水面に反射するお天道さまの輝きが素晴らしいのでしょうね。私は水面の上からしか目にしておりませんが、荒川さまはそれを水の中から天を見上げるようにも眼差しにできますのでしょう」
 それはなんて素晴らしいことでしょう。ええ水の中、どしゃぶりでありませんでしたらきっと、良うございます……。
 やはり少しばかり悪い記憶となっているのであろう沈丁花の表情と言いますと、確かにその光景を眼差しにできるのは喜ばしいと僅かに緩んでみてはどしゃぶりのそれで眉が少しばかり寄ってみたり。言葉が伴わなければ分かりづらい些細な感情の表現ではございましたが、そのようにも通りへ視線向けながらも川中に思いを馳せておりました。
 此の、何処ぞの庭園の中でしか生きてこなかった娘が我らが住まう其処を目にしたら。頬の流れに逆さに沿うようにも昇るあぶくや、小さな魚の群れに翻弄されるようにも渦巻かれ、葉を揺らすようにも水流に鼻先をくすぐられ水族の営み生きるそこを目にしたらこの娘は、もう僅かにも表情を分かりやすく変えるものだろうか。
「如何致しました、荒川さま」
「如何様にもせぬ」
 煽がれた白扇子よりの涼やかな風がおふたりにそよそよと。
 昨夜の雨の後の快晴でございましたので、お天道様はそれはもう良く降り注いでおりました。荒川の主は傍らに歩む花の横顔を眼差し、今は透けて見えぬものではございますが川岸にて見下ろしたその心の臓の花の色を思い出すのでございました。川岸に縋りつき倒れていた時の顔色といえば病的に青っ白いものでございましたが今は幾分良く見えるものでございます。
 けれども確か、数刻も無い前に此れは荒川に半身を浸しながら意識を失っていた。
「喉が乾く、其処の茶屋の世話になる」
「荒川さまあの、鶯とも違う鳴き声を上げる涼やかな、あれは一体何で御座いましょうか」
「後にしろ、あれは風鈴だ」
 一時陽光を遮るに、店の中へと荒川の主は思いましたけれど沈丁花の眼差しは斜め向かいの店、軒先に連なり鳴る風鈴に向いておりまして。自身の後を着いては来てはいるもののと呆れ混じりの吐息、店先の腰掛けにて茶を頼むのでございました。
「まるで水の珠の一瞬を閉じ込めたもののようで御座いますね、それで耳に心地好い鳴き声を聴かせて、ほんに不思議なもので御座います」
 水の珠の一瞬、なれば水中のあぶくもそうであろうか或いは海を漂う水海月。
 荒川の主は風鈴を一瞥、運ばれ置かれた盆から茶の碗を手に取り、幾分に眼差しを降ろした後にそれを沈丁花へと押しつけたのでございました。
「日差しに倒れられては面倒だ、飲むがいい」
 茶の碗は両手で受け取られ沈丁花の胸元の前にございます。
 荒川の主が手にしたそれから立ち昇る湯気や、彼がそれに口づけ少量ずつ飲み下すのを眼差しに彼女もまた、喉を潤すのでございました。温い茶を、少しずつ。
 茶屋にて暫しの休息を取ったおふたりの後はやはり、御拾いでございました。
 本来の目的は如何なものだったか見失っていやしないかとした沈丁花の様子ではありましたがひとつも残っておらぬというわけではないようで、連れ立ち歩くその途中、不意に立ち止まり其の場に腰を折っておりました。
 垂れた前髪を片耳に掛けつつ頬に睫毛の影を落としながら伺うは、中央の程に山吹色を彩った紫紺の花にございます。
「もし、もし、紫紺の君。ご機嫌よう、沈丁花と申します」
 静かで落ち着いた声ゆえ、通りを行く人々も花に話しかける娘の姿など気にされてはいないようでありました。沈丁花のその様子に眼差しを向けているのは荒川の主、そのお方のみでございます。草花に眼そのものがないとしましたら。
「あやめ、菖蒲さまで御座いますね。ええ此処いら一帯ご家族さまで、なるほど華やかに御座います」
 群れ咲く紫紺の花はどうやら菖蒲で、自身の在った庭園には植わっていなかったとその形彩に沈丁花も眼差しをやるのでございました。
「私、私と同じ花を探しておりましていいえ、人の姿はしておりません。もしかしたら人の姿の沈丁花も他に在るやしれませんが、そうとありましたら見つけ出すのは難しいもので御座いますね確かに……」
 下唇に指の折り目少しばかり眉を困らせたように寄せて、次には自身の胸元に揃えた指先を。
「ええ、ええお見えでしょうか、そうですね此の辺りに在りますその白い花で御座います沈丁花は。……ご存じありませんか。いいえお気を落とさず、まだ此の地も遥かに広う御座いますから」
 荒川の主に花の声は聞こえないものの、沈丁花の声相槌にこの辺りその花は咲いていないかと暫し辺りに眼差しを向けたことでございました。
 背の筋をしゃんと戻した沈丁花がその荒川の主の眼をまじまじと見ておりました。
「何だ」
「菖蒲さまの花びらで色水を作りましたらきっと、荒川さまのまなこの色に御座いますね」
「……それは、花を前にして酷な話ではないのか」
「なにゆえ、誰かの目を楽しませるは花の本望ですわ」
「そのようなものか」
「そのようなもので御座います」
 頷くようにも風に菖蒲の花首が揺れるのでございました。
 さて、その場に植わった花が言うものの此処いらに探す沈丁花が在りませんでしたらどうしたものかと思案、おふたりはまた通りを歩み始め着くは荒川の主そのお方が贔屓にしております舶来の品を取り扱う店にございます。やはり商売というのは情報が命にございまして、店主がその存在を知っているものではないかと。
「店主、沈丁花という花を知っているか。此処らでなくても構わん、それが在るかだ」
「花で、御座いますか」
 荒川の主の半分ほどの背丈の店主の頭部に沈丁花は目をやります、そこには丸っこい耳がふたつくっついておりまして、降ろした視線その先にはふっくらとした毛の尾が時折風を孕むようにして僅かに膨らんでおりました。
「いいえ正しく申しますと花木で御座います」
 それは狸、人に化けた妖狸でございますがその店主の毛の尾に眼差しを向け、荒川の主の首元の毛の襟巻きに眼差しをやった沈丁花が申しました。
「……沈丁花という花木を」
「沈丁花……、聞いたこともありませんな」
「そうで、御座いますか」
 少し残念そうにしたものの、彼女の興味は店主のその返答より今度は並ぶ商いの品に向いているようでございました。
 浅い水辺色をした蜻蛉玉に、深い水底色の結び紐垂れた白扇子。それが沈丁花の眼差しを奪い、指の腹が触れるか触れぬかでその形を辿らせておりました。
「嗚呼それは外つ国よりやってきた上等な品で御座いますよお連れ様、さぁさお手に」
 閉じた扇子片手にもう片手で垂れる結びの紐を手の内にしますと、その左の手の平の上にひとつの川が流れたようだと思わせます。
「ご婦人は荒川の主様の……?」
「客人、のようなものだ」
 荒川の主へと見上げ振り返った店主の言葉に、手の平の上の川が跳ね流れました。
「……荒川の、主、さま?」
 それは窺うような声色にございました。
「此処におわすは荒川一帯を守護なさる荒川の主さまに他なりませんぞ」
 扇子は開くと随分と大きく沈丁花のその顔を隠してしまうのには十二分。けれども彼女の動揺、羞恥に隠れきっていない耳先の血色の彩りはよう見えるものでございました。
「店主、此の扇子を頂こう」
 それはきっと荒川の主の気を良くさせたことにございます。

 背の高い草、葦の大群落の足元や向こうに荒川はやはり悠々と流れ、その水面は静かに黄昏色に染まりつつありました。通りを離れ、葦の群れ生えるほとりを穏やかな歩みでゆく荒川の主と沈丁花の横顔にかかる色も夕焼けの色になりつつあることにございます。
 不意に歩みをとめた沈丁花の眼差しは荒川に浮かび遠くに見える小舟に向いておりました。それに同じように立ち止まった荒川の主の眼差しが向き、その唇を開かせます。
「舟に乗っていたなら、お主も無事に川を渡れただろうな。笹の舟でなかったのなら」
 それは彼にしては珍しい戯れの言葉でありました。
「でしたら私は笹の舟に乗りましたでしょうね。此の荒川の姿を知ることができやしませんでしたならやはり、私は笹の舟に揺られましょう」
 もみくちゃは、困りますけれど。
 ふっ、と零れる息が笑う声でございました。何方とでもないものでございます。
「……きっと、沈丁花という花木はこの地には在りはしないことでしょう」
 静かに、それは思い出したとでもいうような声色でございました。
「私、遠い異国の地から来たはずです。そう、船や波に揺られて、荷として暗いところに在りましたから何も分かりやしませんでしたが」
 眼差しの先にした小舟とは違うもっと大きな船、それで異なる土地よりひとりやってきたのなら此の地に先も後も未だ無いものならきっと、沈丁花という存在は幾ら探しても途方もない事。
「まったく今更なことを言う。ではどうするつもりだ、其処な蛙でも相手にしてみるか」
 同じ花木を探し連れ立ったことなどもう徒労にも成らぬとした声色でございました、荒川の主の。それでもひとつからかってみるとした彼のその投げかけに鳴き声を上げた其処な蛙に眼差しをやった沈丁花にございます。そうしてそのままにはたと気付いたとばかりに表情を変えたものですから当の冗談、提案を投げた荒川の主の方が暫し奇妙なものを見るような顔をしたものです。
「まぁそうです、そうです、荒川さまの言う通りです」
「よせ、間に受けてどうするつもりだ」
「鶯が鶯に、沈丁花が沈丁花だけにというわけでは御座いませんでしょう?」
「なんだと」
 果たして、彼が少しばかり焦りを見せたのは何方に対してでございましたでしょうか。荒川の主のまなこの中には沈丁花の姿が泳いでおりますし、沈丁花のまなこの中にもやはり荒川の主の姿が泳いでおりました。
 荒川の水面には小魚がぴちゃんと跳ねたようでございます。
「果ての分からぬ荒川の流れも、人と妖のまじる賑やかな通りも、涼やかな風鈴の鳴き声や貴方さまから頂戴した扇子も、私の心を弾ませました。今は在る心の臓を脈打たせました。これが、これらが鶯の言う恋ではありませんでしょうか。きっと今は葉脈の中に流れる水ではなくこの肌の下に流れる血潮でしょうか、それをざわざわとさせるようなこの、これらが。この地に在るひとつひとつに、私は恋を知ったのではないのでしょうか」
 思うものがあったことではございますが、荒川の主の唇が今日一日に思いを馳せている沈丁花に対して遮る何かを告げることはございませんでした。それが此の娘が得た答えであるなら、今はそれで良い。余計なことを告げるとその唇の緩やかな傾斜、それが消えてしまうのではないかと。わざわざ此の娘のその笑みを消すこともあるまいと、ただ自身のまなこの中に沈丁花の姿を泳がせておりました。
「荒川さま、荒川さまの心の臓は何に脈打つので御座いましょうか」
 その言葉、沈丁花の姿を泳がせながら荒川の主の眼差しの先には過ぎ去ったあの日の情景、海の果てがございました。
「お主は、海の果てを見たことがあるか」
 荒川を果てのない小川と称した娘は海さえ知らぬであろう、なれば海の果てなど知る由もなし。
 徐に外された互いの眼差し、ゆるやかに煽がれた荒川の主の白扇子が生み出すは風ではなく水流、それもまた荒川の波でございました。そうして傍に流れた川の波間より跳ねいでるその黒と金の大魚の姿が沈丁花の目を僅かに見開かせます。大魚は川の主が伴う娘の姿に尾鰭を波間僅かに叩きつけることでございましたが、その頭は心得たとでもいうように垂れさせられたものでございます。
 川の波間が彼の歩みを遮ることなどありやしません。そうして荒川の主の履き物の底が大魚の鱗を踏み締めました、その背に乗ったのです。それらを眼差しにしながらも沈丁花は戸惑っておりました。
「それでは笹の舟にさえ乗り込めぬだろうな」
 そう言って差し出された荒川の主の手は、おずおずと伸ばされた沈丁花の手が重なるや否やで大魚の上にその体を引き上げるのでございました。
 ふたりを背にしても大した荷でもないと大魚はその体、鰭をうねらせたものですが却ってそれが沈丁花の均衡を奪うことになりまして、荒川の主のその手から自身の手が離れた瞬間にはその大魚の背に両の手でしゃがみ座り込むような姿勢となっておりました。その姿を少し笑う荒川の主に、振り返るにもそれもまた体制を崩すきっかけになりやしないかと首だけで振り返りかけた沈丁花でございます。彼女は暫し自身の両の手を見下ろし、そうして初めての魚の鱗のさわりに、手のひらの下のそれにほぅと一息、撫でり撫でり。
 大魚の尾鰭が扇ぐ扇子のようにも波間にゆったりと泳ぎ始め、おふたりの体を荒川の水面の上をゆるやかに走る風が撫ぜ始めるのでございました。
 荒川を下る大魚の背、川のその波間に腕を伸ばし手を差し込みたい思いが沈丁花にはありましたが、きっとこれでは笹の舟であろうとその舟上から水面に落ち飛び込んでいたと思わせます。いいえそれが好いと、その唇に傾斜をゆるやかに作らせます。笹の舟では其の庭園から荒川へは真っ当な旅路で行きはしませんで。
 髪の結びが仄かに解かれ波間に泳ぐようにも流れました、後ろに在る荒川の主へと辿り着いたのかは振り返ることができませんで彼女には見えやしませんでしたが。
 心地好さに沈丁花は徐に目を閉じておりました。耳をくすぐる音や体を撫でるその感覚に、水の中に泳ぐというのはこのようなものかしらんと、いっそ彼女の装いの袂は水魚の鰭のようにも揺らめいておりました。
 清らかな水のにおい、その合間にまじりかおり始めたにおいがこれもまた沈丁花の鼻先をくすぐるようでございます。そのかおりを彼女は知りはしませんでしたが決して不快なものと感じ入ることはなく、ただその知らぬかおりは何かしらとまなこを再びと開かせるのでございました。
「このかおりは」
「嗚呼、潮のものだろう。そろそろ海原だ」
 その言葉に後ろの荒川の主が向けているだろう眼差しと同じように沈丁花もまた眼差しを前へ、より前へと向けるようでございました。彼女の目には荒川は絶えず何処までも流れ流れて続いているものでございます。
「此の荒川と海原に境は存在しないので御座いましょうか」
「そうだな、荒川はいずれ海原にまじり何処からが川で何処からが海であるか明確ではあるまい」
 こくりと、顎が小さく頷くのでありました。
 そうしておふたりが辿り着いた其処は、沈む夕日の空の色とそれを映す海面の色が繋がって目に見えるは夕暮れの色だけ、海の果てとするものでございました。空と海は繋がり境目などありやしません。果てとしながらも終わりなど無く、それは何方ともない始まりでございました。
 ふらつきながらも立ち上がった沈丁花はその光景を抱きとめるかのように両の腕を広げるのでございました。潮風もまた彼女の髪や袂に行き着いてはまた旅路に出るのです、其処に果てなど在りましょうか。
「嗚呼、荒川さま」
 体ごと荒川の主へと振り返った沈丁花は大魚の背から落ちんばかりに体制を崩したものですが、すぐに荒川の主の片腕がその体を支えたものですから波間に飛沫も柱も立たぬものでございます。
「果てと申しましても天とさえ境なく終いなどなく、或いは始まりにて、繋がっていく此れをなんと言い表しましょうか。そうしていずれ海にまじり何処からが川で何処からが海であるか確かでないのなら、海の果てでありながら荒川の果てでもあるのですね」
 浅葱の色に僅か溺れながらもそれをどうあっても彼に伝えねばならぬとしたさまの沈丁花と言いますと、感情の表しが乏しいなどともう言えぬものでございます。
「そうか、」
 穏やかで優しげなその眼差しが彼本来のものにございました。海の、荒川の果てにて沈丁花が得たひとつにございます。そうして、もうひとつ。今は穏やかに流れる荒川の水流が如くゆるやかにとくりとくりと心の臓は脈打っておりましたが、その安寧の心地でさえ恋のひとつであると沈丁花に気付かせるのでございました。
 荒川の主、此の方をお慕いしている、と。
 少しだけ眉を寄せ、目を閉じた沈丁花でございました。浅葱の色に沈み、そうしてゆるりと水面に上がるようにもその色から離れた彼女が荒川の主から背けた眼差しの先では夕の陽が沈みきるところにございます。
「そろそろと、宵が来るので御座いますね」
 黄昏の色はおふたりの眼差しの先にてその姿を眩ましたようにございました。
 暫し今しがたまで在った色を見るようにしていたおふたりでございましたが、その静寂を終いだとするようにも沈丁花の唇が開くのでございます。
「私、京に帰ろうと思います。鶯への土産話、ひとつやふたつに終えることがないでしょう。荒川の主さまには御徒労をおかけしまして、感謝が尽きぬ思いに御座います」
 花首を垂れさせるように頭を垂れた沈丁花の眼差しは伏せられ覗くことができぬものでございます。
「……京だな、送ってやろう」
 顔を上げた沈丁花の髪先が仄かに揺れるのでございました。
「荒川から京まで無事に帰られるものか、お主が」
「……では、もう暫しお世話に」

 海原より荒川本流に向けて川を上り、少しの時を立たせたものでございました。おふたりの間に言葉はなく互いの合間には宵が横たわっていたものにございましたが、別段それは重苦しいものではございませんでした。
 川を上る大魚の尾鰭がゆったりとその場に留まったのに、僅か目を伏せるようにして荒川の宵を感じ入っていた沈丁花がなにゆえだろうかと荒川の主にその眼差しを向けることでございます。
「ただ川を上るだけでは一晩で済むどころかだ。川中、特異な水流を利する」
「それは水中を、ということに御座いますか」
 少し慌てた沈丁花を荒川の主が唇で笑ったところでございましょうか、おふたりの姿がすっかり水の中へと消え去ってしまったのは。
 もしや花ではなく人の姿であったのなら水中でも何にひとつも支障がないので御座いましょうかなどと問う前にそのようにも水の中、勿論のこと慌てた沈丁花の唇があぶくを零しそうでございましたがその耳元に寄せられた荒川の主の顔先、唇は落ち着かせるようにも囁くのでございました。
「少し触れるぞ」
 荒川の主の手は容易に沈丁花の唇をその下に覆い隠してしまわれました。
 上唇と下唇の結びをといていた沈丁花のその喉や奥、肺にするりとも流れ込み染み込むようなその感覚。心の臓のあたりの装いをほんの僅か指先に手繰り寄せるかのようにもして目を細めた沈丁花の唇は、荒川の主のその掌の下で小さな音を零したようでございましたが、それは水のゆらめきに溶け消えたようにございました。
 離れた荒川の主の掌に縋るようにも沈丁花の唇から小さな空気のあぶくがふたつ、ひとつ。そうして彼女は気付けば水中であろうとこれ当たり前のように呼吸のそれをしていたことを知るのでございます。
 驚くようにも両の手の指先を揃えて自身の唇に添える沈丁花に戯れるようにも小魚が一匹すいと泳ぎまして、彼女の指先がそちらへと差し出されたのならまるでそれは鶯と戯れていたそれだとその頬を笑ませました。
 そうして大魚の尾鰭がまた揺らぎ始め、夜の静けさを伴っておりますが荒川の妖の住まうそこを時折に眼差しの先にしながらも泳ぎ進むのでございました。

 水族にのみ伝わる特異な水流を辿り泳いだのならば京に着くまでに夜が明けるということもございませんでした。深い夜の空には満ち月が未だお隠れにならずに其処に在ることにございます。そうして人っ子ひとりおりませぬ京の通りを歩むおふたりに月光のしらしらとした輝きが降り注いでおりました。
 ゆるりと歩んでおりましても何れ辿り着いてしまうもの。其の庭園の在る屋敷、門の前にて立ち止まり沈丁花は深く腰折りするりと髪は夜に流れるのでございます。
 沈丁花のその姿を眼差しに、荒川の主の唇は今宵の静寂のようにも引き結ばれておりました。
 ざりりとも鳴る音は踵を返した荒川の主の足元にございます。その夜により増します沈丁花の花のかおりが、返した踵の後にすたすたと歩きだした荒川の主の後ろ髪を引く思いであったのでございましょうか。最後に見た沈丁花は晴れ晴れにも頬を笑ませていたものですから、僅かにも色を深めたその自身の眼差しの水底色を知らぬ存ぜぬとしたことでございましょう。
 宵の空にしらしらと輝く月もただおふたりを見降ろすのみでございました。



 ぽったりと落ち染みたのは初夏ゆえの汗の玉粒ではなく筆先に留まり続けることを知らぬ墨にございました。そうして先を綴られることを待つ文の紙面に滲んで広がる墨の水溜まりに目を細め僅かに息吐くのは荒川の主、そのお方でございます。
 荒川とは異なる何処ぞの川を統治する妖に届ける謂わば業務の文でございまして、それをまた新しく綴り直し始めた荒川の主の姿に口ひげをゆらゆらとさせたのは使いの鯰の妖でございました。
「そろそろ初夏とはいえ、もう既に陽光は眩しく暑いものですなぁ」
 今は屋敷内にて見上げても見えぬとはいえ、その水面の先にぎらりともするお天道様に小さな目を向けるようにもして、夜行性ゆえ眠そうにもしぱしぱと。
「此処荒川の水は冷たく心地良いものですが、もう、衣替えのそれをせねばなりますまいなぁ」
 そうしてかぷりと欠伸のあぶくを昇らせた鯰に、いえ鯰の先の言葉にぴくりともなった荒川の主にございます。
「確かに、夏の拵えをせねばなるまい」
 そう一言、さらさらと文を綴り終えた荒川の主と言いますと、綴った文字にフッと息吹きかけ墨を瞬く間に乾かしたかと思うとそれを押し付けるようにも鯰へと渡し、出掛けの支度をし始めるようにございました。
「おや、出掛けで御座いますか」
「嗚呼」
 荒川の主の尾鰭が扇子でも扇ぐようにゆるりと泳いだことでございます。
「新たに拵えるなら、新たな反物が必要であろう」
 京に居る縁起の化け猫が卸すそれは此の夏に相応しい。
 そう言い含めたのは誰方に向けたものでございましょうか、あの花のかおりが今も鼻先を掠める心持ちであるのでしたら。

 京にございました、そうして荒川の主が今おります其処は沈丁花がおりました屋敷その庭園でありました。その眼差しの色が水の底、深く深くに染まるのはただ、その眼下に枯れた花木が横たわっているのみであるがゆえでございます。
 京に居る縁起の化け猫は沈丁花の、かおりのよい花木のことを存じておりましてそれがつい最近に枯れてしまったと嘆きの鳴き声を零し、荒川の主の手より反物を落とさせたことにございました。
 妖の気のひとつもなく、唯々枯れている花木を眼下に彼自身何と今更と気付き得たのでございます。
 どうして、折れた花首がもとの花木に戻れようか。
 くらりともしたその足元で小川がぴちゃりとも鳴ります。そうしてそれは殆ど無意識の事でございましたが、荒川の主はその小川、川の持つ記憶を視たのでございました。
 それは花枝からぽとりと落ちたその日のことや、あの日彼自身が帰した夜のその後のこと、小川の水面を水鏡に物思いに耽る姿やそうして、ふらりと、何処かへと歩みだしたその姿でございます。
 沈丁花の花木は枯れた、けれどもあの娘が枯れ失せたということではない。
 果たしてそれは荒川の主、そのお方の切望であったことやも知れませぬ。その小川に指先を、手を、袖を浸すようにもした荒川の主の横顔が言い表しようもなく差し迫ったものとありましたら。
 川は視る、川は繋がるものでございます。決して荒川の主となりますそのお方であっても容易くできることではございません、流れる川の記憶のあらゆるを得るという事は。
 激流のようにも皮膚の下の管の中を血と妖力が流れ、まなこの水底色の中にはちりちりと金色が弾けるようにして煌めくものでございました。
 そうして一際に弾けた金色が、其処に望む姿を得たことにございます。
 その夜に確かと立ち、装いの袂を振った荒川の主の姿。些細な小川が立てようもない鉄砲水がドドゥっと夜の空に向かって昇ったのでありました。
 そうして、その水が元の小川に帰る頃には其処に残るは夜の静寂のみでございました。

 京から離れ東、それでも荒川にはほど遠い海の波打ち際、其処に沈丁花はひとり立ち尽くしておりました。
 夜の空と川と海が繋がり失われた境目をぼんやりと見極めようともするような眼差しに、ふっと零される寂しげな笑み。それを置き去りにするようにも後に踵を返し、波打ち際を背にするのでございます。
 潮騒は小さく響いておりましたが一際に響いた波の飛沫の音は沈丁花の歩みをとめ、振り返ることをさせるに至りました。そうして其処に在る姿はそのまなこを見開かせることも。
「……荒川さま?」
 沈丁花の眼差しの先に在るその姿は彼女の知る荒川の主のお姿ではございませんでした。
 精悍な顔に浮かぶ鱗や金色のまなこ、肌に描かれた波の刺青など、より川そのものの化身と成った姿など見知らぬものの沈丁花の唇が紡いだその名、その声色に穏やかに笑んだ目元は確かに、あの日の彼女が知り、得たものにございました。
 荒川の主の唇は僅か安堵に緩んだものの、それは一度引き結ばれるものにございました。
「少し、窶れたか」
 互いの合間に海の風が流れる距離ではあるものの、あの日荒川のほとりで出会ったその時よりも悪い顔色、窶れを眼差しの先に、やはり彼は唇を引き結んだのでございました。
 水面を踏み締め歩み寄る荒川の主の姿に沈丁花は暫し呆然としたものでございましたが、そのお姿が夢でも蜃気楼でないことにようやっと気付いたとでも言うように後退り、夜にその装いの袂が焦ったようにも泳いだのでございました。
「どうか、どうかお帰り下さいませ」
 戦慄くようにも自身の口元を装いの袂で隠しながら言うそれは、本心を隠そうとする姿に他ならないことでしょう。
「枯れた花木のひとつやふたつで御座います……」
 袂の下、唇は喉は震え、啜り泣くような響きさえございました。
「その唇を震わせる畏れはなにゆえだ」
 荒川の主の足が荒川へと帰るに踵を返すことはございません。前へ前へと歩み寄るそれにけれども沈丁花も後ろ後ろへと。
 互いの眼差しは、一致したものでございました。
「その眼は枯れることに畏れを抱いておらぬ。ではお主はいったい何を畏れている」
 距離は縮まってゆくものにございました。京と荒川ではなく其処に在るは沈丁花と荒川の主でございますから。
「ぁッ」
 小さな悲鳴は、砂に足を取られた沈丁花のものにございます。その体は倒れ込むことなどなく、荒川の主の腕の中にすくい取られたものでございました。
 自身の腕の中の花、青白い頬に指の腹を触れさせた荒川の主は、やはり窶れたなと僅かに目を伏せるように。無意識にも指の腹で沈丁花の頬を撫でた荒川の主でありました。そうして、微かにも跳ねた指先がゆえを知ってしまったと沈丁花にも分からせるのでございます。
「我の妖力を吸い上げているのか」
 活けられた花が水を吸い上げるが如く。
「……存じ上げられましたらお離し下さいますね、荒川さま」
 その声音は震えておりましたが確か、その音を零す沈丁花の唇の血色は幾分良くなっているのでございました
「なにゆえ枯れることを望む。恋を知らぬまま散るのを望まんがゆえに川に流れ、それを知ったのならもうそれで良いとするか。それではあまりに愚かだ」
「それもまた、恋で御座います」
 沈丁花のまなこはいっそ涙を零そうともするように水面が揺らいでおりました。その水面に荒川の主が自身の姿が泳いでいることを知り及んだ瞬間、沈丁花の腰を抱き頬に手を添えていなかったのなら彼はその片手で自身の口元を暫し隠し感情を忍んでいたやもしれません。それの意味合いは何も悪いことなど無いのでございますが、ひとつも。
「やはり、愚かだ。つまり此の荒川が花のひとつに枯れるとでも思っているのか」
 随分と侮られたものだ。
「枯れるものか、花も川も。……お主は、聡い花で在るな」
 するりと撫でられた沈丁花の頬は秋の彩りめいたもの、今にもふらりと倒れそうであった顔色ではなくなったようにございました。
「でも貴方は荒川の主で、私はただの花木で、」
「黙れ」
 ぴしゃりとも言い放った荒川の主でございましたが、続けの言葉は消え入りそうなものにございます。
「枯れ失ったやも知れぬと知った時、どれほどに……」
 伏せた眼差し後、確かと沈丁花にやった眼差し、腰を抱く腕の一層の強さは荒川の主自身改め決め定めたというようなものでございました。
「もう、帰すつもりは無い」
 沈丁花のまなこから追い立てられた涙の粒がその頬に小さな川を作ったようでございました。荒川の主の指の腹はその小川を拭ってから、ようやっと笑んだその花の唇に触れるのでございます。
「その唇はもう幾分、色付いたものだったな」
 まだ妖力が足りぬかと建前、如何なる意味か気付いた沈丁花の手の平が荒川の主の胸元を押しとどめるようにも。
「お、おまちください。沈丁花は花以外に毒を持ちますから、貴方さまの心の臓を煩わせるやもしれません。そんなことがあっては、」
「そうか、大事無い」
 もうおふたりの言の葉というのは、互いの合わさった口の中でございます。
 小さな潮騒の音や夜の静寂、互いの心の臓の音がまじりひとつに成った夜にございます。
 そうして後には、夜にゆたかにもかおる沈丁花が在るばかり。荒川の主、そのお方のかたわらに。
 そのような、ひとつの物語りでございました。