オルテンシアには棘が無い


 ハァだとかフゥだとか吐いた溜息はなにも窓硝子を打つ耳障りな雨粒だけに向けたもんじゃァない。宙に放り投げては舞った後に重力に従い落ちてくるナイフを手に取りながらも一向に経たない時間だとか、尻の下に感じるやたら硬いベッドの昨夜の寝苦しさに対する憂鬱だとか、盗聴機のアチラ側から無遠慮に流れてくる安っぽい男と女の恋愛劇だとか、兎にも角にも吐き出した溜息と湿気混じりの空気が地球の重力をちっとばかり重くしているようで悪い悪いと思いながらもその循環を繰り返している。
 汚れが染み付いて見様によっては斑模様に見える壁紙へとやっていた行き場のない視線を瞼を閉じることで遮った。仕事なのでしょーがない。どうせなら放棄したいが聴覚を遮ることは出来ない。耳は報告書に書き込む為、或いは暗殺決行の為に必要になる単語を聞き漏らさないように傾けたまま、オレは脳裏にはまったく別のことを思い浮かべることにした。くるりと振り向いた『――アンネっ、君は最高だよ』ことによりふわりと翻ったスカートの端だとか、こちらを向い『ぁあ、もッと! もッと強くッ!!』た彼女の浮かべた笑顔だとか。脳裏に描いただ『はっ、はっ……!』けだというのに彼女、の髪間からふんわりと香る甘い匂いが鼻先を撫でた気がする。とソルベとオレの『そうじゃない!……ああっ、いい!』三人で行ったカフェで食べたレモンパイの酸味とか、彼女の唇の横に付いて『そうだっ! その感じだっ!』たクリームだとか、それを自身の舌先で舐め取った『う、』ことだとか。の部屋に差し込む夕焼けだとか、それに対してカーテンも引かずに始めたセ『いい!』ックスだとか。ァあ、堪え『もッと強く打ってくれ!』る。最後にとあったのは、を抱いたのは――「ミネストローネとクラムチャウダー」ソルベのご帰還だ。
「ミネストローネ。事が進まない」
 押し上げた瞼の視界では二種類のカップスープを構えたソルベがこちらへと視線を寄越している。愛しの彼女、の手料理を恋しく思いながらも二択の内右手のそれを取って熱くもない内容物に溜息で息を吹きかけた。チープな酸味臭。所詮インスタント。どこか萎びた野菜もどきがトマト味の液体の海を泳いでいる。
「あーァ、の手料理が恋しくて恋しくて餓死するー」
「せめてその菓子のゴミを何処かに追いやってから言えよ」
の作ったクレームブリュレの表面割りたい。ところで――ソルベは紫陽花の花言葉って知ってる?」
 カップスープ片手に頬杖を突いたオレの脈絡もない問いにソルベはクラムチャウダー風の何かへと鼻を近付けながら答えを返してくる。「知ってるわけないだろ」そりゃそうだろうと聞いといて納得する。すんすんと嗅いだままに鼻にしわを寄せたソルベは続ける。花言葉の代わりに返ってきたのは――「紫陽花ってのは土壌の酸性度で色が変わるんだろ。酸性なら青でアルカリ性なら赤」――どうしようもなくどうでもいい豆知識で、ミネストローネもどきの中で泳いでる干からびた豆共の中に一員として放り込んでやりたくなるほどだった。
「この間――っつっても大分前だけど? この前会ったはその前、その前の前会ったよりもずっともっと良かったよなァ」
「もしかしてこの不気味な物体はアサリなのか……? つーか、粉っぽいな……」
 紫陽花の花言葉は『移り気』とか『心変わり』だとか。つまり、何が言いたいかというと、毎日会いたい通り越してずっと一緒にいたいのに数週間、酷い時は数ヶ月も間が開いてしまうとの逢瀬。それの間にのそれはオレらから離れてしまったんじゃないかってことで。心配性でいて話がぶっ飛び過ぎだって? だけどもしかし、会う度に彼女の服装の系統は変わり、仕草もそれに勤めている。浮気がどうとか嫉妬がどうとか言うなんてあれだが、会う度に魅力が増すを見ていて正直焦ったりもしている。何を終着点に気が焦っているかだなんて知らないが。
「お前は兎も角俺が餓死しそうだ」
「舌出せよ。角砂糖でも積み上げてやろうか?」
「ジェラート、流石に角砂糖は菓子に入らない。持ち歩くの止めろ」
「拒否する。ソルベは角砂糖のことを何も分かっちゃいない。そもそも角砂糖ってのは――あ、ァあ! 喋った!」
「お、吐いたか?」
「あーあーあーァ、長いこと嘔吐ってる十分でしょ」
 向こう側から流れてくる雑音と漸くおさらばだとオレは硬いベッドから尻を上げた。



「開いた期間、連絡無しで、部屋に訪問。なんつーか……」
 咥えた煙草のフィルターを噛み潰しながら遠くへと視線を向けるソルベの背を突っ突いて運転席へと押しやる自身の機嫌は上昇中であるといえる。何なら鼻歌だって歌ってやるとばかりにもう一突きすると振り向いてからの視線がオレへと向けられた。何か言いたいといった様子のその目。
「なんだよソルベ、言いたいことあんなら言えって。運転代わって欲しいなら代わるけど?」
「いいや、……ない」
 例えばこれが所謂昼の時間帯にやるテレビのドラマだったらそりゃあ、お決まりの展開が待っているんだろう。合鍵を使って静かに入ってみたら自分のじゃない靴が彼女の靴と並んでランデブーしてたり、覗き込んだ部屋の先彼女の笑顔を始めに視界に入れるつもりが誰だお前って感じの野郎の見たくもない尻が一発目に入ってきたり? おいおい呻くなそれは何発目だっつって、溶け切らない砂糖みてぇなどろどろが待ってたり?

「ジェラート!に、ソルベも!」
 訪問者の姿を確かめもせずに鍵を外すなってソルベが煩いほどに言ってんのに聞きもせずにやはりすんなり扉を開けたが驚きに見開いた目は丸い。彼女の驚きに合わせるように揺れた毛先は前回より短く、唇に乗せたグロスは艶やかだ。ちらりとやった視線の先の淡く染まった爪や香水の花に似た甘い香り。やはり、会う度に魅力を増しているに思いを募らせる一方で胃に重く来るこれは苛立ちで。グロスが自分の唇にも付くだとか玄関先だとか気にすることもなくの腰を抱き寄せてその唇に噛み付くように口付けてやった。
「此処で押し倒すなよ、俺がまだ屋外だ」
 ソルベがなんか言ってる。希望を聞いてやらないこともないと視線をへとやってみても瞼を固く閉じて睫毛を震わせている彼女に余裕は一片も無いらしい。
 ちゅっちゅ、だなんて幼稚なリップ音。の唇を啄ばみながらそのやわい身体を弄る。ニット越しのそれにも上唇と下唇の間に隙間を開けたの口内へと自身の舌を入れて無防備な彼女の舌を追い立てる。熱の伴った吐息を零しながらの声は待って、待って、だなんて言っているらしかった。彼女の腰を抱き社交ダンスの一部のようにその背を反らせて口付けを深くする。
 ソルベの視線に見守られたまま、の舌先を一度吸って唇と顔を離した。蕩けた目と顔のままに宙を見つめる彼女の視線。委ねられた身体をそのまま横抱きに向かうのは何処にしようか。ベッドもバスタブも脳裏に浮かんだが幾つ目かにその姿を晒したソファを思ってリビングへと己の足を向けた。
 溶けた思考でも驚きの表情は浮かべられるらしい。床の硬質さを背に感じながらの戸惑いの視線にの言葉。
「ジェラート、その……」
「嫌なの?」
 自身の言葉尻がムッとしているのは分かっているし、の視線が開いたまま外の景色を見せる窓に向けられたのも分かる。それでも知らん振りして、彼女の上に覆い被さるようにしてその首筋に自身の顔を寄せた。鼻先で撫で上げるようにしてからぺろりと舐める。どうやらソルベがカーテンを閉めたようだった。

 ねだるような響きの濡れた息を零しながらの視線はずいぶんと長い間彷徨っている。それもそうだろう、執拗といえる程に続けている愛撫での頭の中はぐちゃぐちゃなのだろうし所謂中もぐちゃぐちゃだ。そこには触ってやらないでもどかしいばかりの刺激しか与えてないから、は目尻に溜めた涙を泳がせた視線の途中で零してみせた。彼女の視線の途中にはソファに座ったままに煙草を吸いながらも視線を逸らさないソルベも捕らえたのだろうか。溢れた蜜の要因はそれかはたまたオレが吹きかけた息の所為か。また一つ零れたの嬌声が鼓膜を擽り熱くする。
「……んん、ぁ、……あっ、ぅ……」
「物欲しそう」
「っは、ぁ……ん」
 濡れた眼球を覗き込みながら言うとその視線は確かにオレを見つめ返してくる。口ほどに物を言うそれが訴えてくる。込み上げてくる笑みに逆らわず、自身の口辺を吊り上げながら問いかけた。
「なァ欲しい? 本当に? もう、……我慢出来ないの、?」
 瞬き一回に零れる涙。紅潮した頬のままの彼女の恐る恐るといった様子の頷き。それを見守った後にオレはサッと身体を起こして何事もなかったかのようにソファに腰を沈めた。僅かに開いた隙間の先からのソルベの視線。煙草の灰がソファに腰を沈めた際に僅かに落ちた気がした。
「じゃァ、おいで。……うん? 床は嫌だって目で言ったろ。あ、オレは暫く手を出さないからね」
 何かを言おうとして隙間を開けた唇は何を言うでもなく閉じられた。ん、と鼻から抜けるような音だけだ。半身を起こしてラグに突いた右手のままに視線だけを彷徨わせたの伏せた睫毛の影。衣服の乱れ一片も無く平然とソファに座り込む男二人と一糸纏わず情欲に濡れる女一人。零れる吐息にの熱がより増したのを解した。
 もじもじとしながらも衣服を纏ったままのオレの膝の上へと跨った。すました顔のままでそれを見守るが、衣服越しにのそこへと擦り寄っている自身を思えば笑える。
「ねぇ、ちょっとそのまま腰を揺らしてみせてよ」
 素直にオレの言葉のまま腰を揺らしたに出た鼻で笑うような声は所詮はオレ自身の嬌声で。懇願するような彼女の視線に自身の視線を絡めながら、欲しいんでしょ? と、問う。少し腰を上げたがその合間へと伸ばした手を見届けることなく閉じた瞼で煙草の煙混じりの空気を吸い込んで肺を満たした。の香りも混じって舌の上に甘く痺れる。の柔らかな手の平が既に勃ち上がっていたものを二度扱いた。濡れた吐息が零れ落ちてくる。性器同士が触れた瞬間に覚えた悪戯心そのままに油断していたの耳朶を食んだ。
「ひッ、……! じぇ、らーとっ!」
「手は出してない」
 驚いた彼女と共にの濡れたそこを舐め上げるように滑った部位。もうしないよと両の手の平を見せながら降伏の形を取る。衣服越しのオレの胸板に手を突いて少しずつ、少し前のオレへの仕返しとばかりに少しずつ事を進めるにもどかしい疼きが腰と直接そこに走る。根元まで飲み込まれたオレか、それとも貫かれたか、どちらが降伏する側だか分からない。見せていた手の平を何処に置こうかと思いつつ、からの口付けを受け取る。深くはならない触れて離れるそれが何度も与えられる。幼げでありながらその度にきゅぅと締め付けてくるから可愛いなァと思いながら彼女に合わせてその頬を包むように降伏の後を取った。
「気持ちイイ?」
「んっ、……気持ちいい……」
 僅かに腰を揺らして素直に言う。それはまだ性交での律動とは言えないが、気持ち良いのは事実なのでオレも気持ちイイよとと額を合わせ、吐息を混じり合わせながら言った。
 そういえば、事の始まりはどうしたんだと脳裏の端で誰かが言っている。ムッとしたまま唇を突き出して。捉えることの出来ない男の像を煙が形成して、こっちまでムッとして唇を突き出していた。なァ、誰かさんに抱かれるのも気持ちいイイわけ? と聞きかけた唇がぽかんと開いて、だけどもその前に零されるの言葉。
「でも……ジェラートが、してくれる方が、もっと気持ち、いっ……」
 あ、ずッるい。そう思うのとオレがの腰を抱いて突き上げたのはどちらが先か。多少在った余裕と理性のメーターが底を突いた。
「ひぁっ! あ、ん、アぅ、ッ! ぁあ!」
 嫌々をするように首を振る。膣内を抉るようにしてへと刺激を与えながらもオレ自身もその刺激をより得ようと無我夢中なもんだから、肌と肌が打つかる音やぐちゃぐちゃぐちゅぐちゅなんて粘着質な下品な音で室内がいっぱいになる。
 好き。可愛い。堪らない。。気持ちイイ。愛してる。可愛い。。馬鹿みたいにブツ切りに言いながら突き上げた。ヤバイぐらいに気持ちイイもんだから、より先にイッちまうかと思った。それでも先に音を上げたのはで、嬉しいことにオレの名前を口にしびくびくと子宮口を痙攣させながら達した。縋り抱きしめるように回されたの腕。その指がオレの髪まで握りしめてる。ちょっと痛い。でも多分おあいこ。
ッ……!」
 が達した後に三度抜き挿し、最後、深くに押しやったまま呻くように彼女の名前を呼びながらオレは射精した。未だ彼女の中を抉るようにしながらの吐精。びくっ、びくっと跳ねながら出されているであろう精液。多くないか、と何処か頭の隅で思って抜いた後に視線をやってみれば垂れてくるそれの量はやはり多い。あァー、だなんて意味はないがその理由が分かっている音を漏らした。
「お前ら可愛いな」
 ソルベの笑うような言葉を聞いた。



「え? 浮気?  誰が?私が……? え? どうして?」
「いやどうしてって……」
 ソルベが加わっての何度目かの性交を終えてのオレの告白に、はまったく意味が分からないとばかりに目を丸くしながら言った。その様にオレも罰が悪いと自身の頬を指先で掻きながら視線を部屋の隅になんて泳がせる。
「あー、……だってがさァ、すッごく可愛くなるもんだからさ。会う度に?」
「えっ!……ほんと?」
「あぁ、ジェラートが影も形もない相手に嫉妬するぐらいに魅力を増してるな」
「……何だよ、ソルベ。物知り顔でさ」
「唯の杞憂にお前の反応が面白かった」
「どうしよう、すごく嬉しい……! 会う度に二人のことがもっと好きになるから、私も、もっと二人に好きになって欲しくて……だから、素敵な人になれるように私も頑張ってるんだよ?」
 本当に喜びを隠せないといった様子で自身の頬を両の手で押さえて言う。事の真相が自分に良いものだと理解出来れば人間というのは現金なもので、肩口で揺れる髪だとか淡い桃色に色付けられた爪先だとか、来た当初には苛々していたの部分が愛しくて堪らなくなった。
 花に似た甘い香りに鼻先を撫でられながら思う。紫陽花は咲き始めから色を変えていく花だった。それが移り気だからとあんな花言葉を囁かれるらしいが、そうじゃない。そうじゃなくて、それはもっと美しくなるための試行錯誤なんだ。
「――ァあッ! くそッ! どうしようもなく愛してる! あとソルベは覚えとけよッ!」
「煙草一本分の間だけは覚えとく」
「私も愛してるよー」
 情事に肌は僅かに濡らしたは無邪気でいて、しめやかな雨に濡れた紫陽花のように美しく笑った。