本に記すことない本の話
手元の本へと落とした視線のままにその頬には睫毛の影が落ちている。上唇と下唇をぴったりと隙間無く引き結んでいる彼――とは違って、対面する席に腰掛ける女は忙しなく唇を開き続け猫撫で声で取り留めの無い、言ってしまえば聞くに堪えない話を流し続けていた。
緩やかな瞬きの先にある彼の左手だけで支えられた本はパタン、という音を立てて閉じられる。途端、ぴたりと口を閉じた女の嘘っぽく垂れる線の描かれた目が見る先では漸く薄らと開けた唇で音を漏らした。
「ありがとう、面会の終わりだ」
言ったそのままに腰を上げ姿勢の良い立ち姿を見せた彼は女が突き出した唇などには目もくれず返した踵で面会室を後にする。面会相手と会話に華を咲かすことが無かった彼の目的はこの後にこそある。
は左手に持つ堅表紙の本へと人差し指を差し入れ、そして落とした視線で確認しやすいように指の本数を増やし見開いた。本へと視線をやりながら彼が背を預けたのは通路の壁で、また彼が耳を傾けていたのは硬質な床を踏み上がる靴音だ。小さいながらも段々と聞こえ易くなるそれは相手との詰まる距離を表している。待ち人が漸く曲がり角から姿を見せた時、彼は本に視線をやったままに唇を開く。
「お疲れ様、ミュッチャー・ミューラー。今日も素敵だ」
カツンッ、と鳴った靴音は通路の低い天井に響く。寄せられた眉のまま煩わしいと細められた視線、睨むようなそれが自身を刺すものだから、は本から顔を上げて彼女ミューミューへと吊り上げた唇を見せる他無かった。愉快だと弧を描く彼の唇とは裏腹、ミューミューの唇は不機嫌なままに歪められている。
は笑みの形を作らない彼女の唇が開くのを今か今かと待ち侘びる。彼が望むからでは決して無いが、開かれたミューミューの唇は音を漏らした。それは暴言罵倒ではない。にしたらそれですら満足出来るものだったが。
「何処で本名を……」
「方法は、知っているだろう? 呼び名も年齢も、君が主任看守であることだって全て読み得た知識なのだから」
忌々しいとばかりの声色で囁かれる疑問には嬉々として答えを彼女の耳元へと寄せた唇で紡いでやった。緩く編み込まれ一束となり肩甲骨辺りで揺れる白縁の髪。ミューミューはのそれを握り込む様に掴み、下方へと勢い良く引き降ろした。その力のままに、彼は彼女へと喉を晒すようにして低い天を仰いだ。の喉仏が震える。彼が笑っているからだ。
頼り無く通路を薄暗く照らす電灯へと視線をやったままに細められるの目は笑みを浮かべるそれと反対方向に弧を描く。ぱちっと弾けるようにして一度だけ点滅した電灯が面白かったわけでは勿論ない。
「鬱陶しい」
「長髪は嫌いだったかな? いや、答えなくても別にいい。君がその手を離してくれれば本が教えてくれる。解放したくないかい? 答えを得てしまうから。いいやそれでも君は俺を突き飛ばしたくなったはずだ。どちらでもいい、どちらでもいいさミューミュー。君が選んだなら」
「それなら選択させて貰おうか。、拳銃の弾丸は好きか?」
喉元へと押し付けられる銃口の冷たさ。はそれを何とせず仰ぐ天に笑みを浮かべてみせた。純粋でいて無邪気、容姿に似合わない笑顔。
「嗚呼、好きさ。一発でも二発でも、望むままにブチ込むんだ。だけども俺は拳銃の弾丸以上に君が好きだ。好きだよミューミュー!」
「ッ気色悪い奴め……!」
ミューミューが手を離すと同時に銃把での喉元を殴り払った為に彼は壁へと背中を衝突させた。左手を空けることだけはせぬままに右手で自身の喉を擦り小さく咳き込んだは、冷めた目で遠くを見ながら歪めた唇で呟いた。彼の耳はどうでもいい靴音を一つ確認していた。
「楽しい時間は何時もあっという間だ。……じゃあ、監獄へと連れて行ってもらえますか看守サン?」
小さく響いた舌打ちと靴音が重なったようにも聞こえた。
それから数日経った後の話だ。この間とは違う女との面会を終えたはその場所が待ち合わせ場所でもあるように前回、前々回と何時もと同じ場所――通路の壁へと背を預けて本へと視線を落としていた。彼の指先はトントンと紙面を叩く。僅かに吊り上がっている唇から、彼の待ち遠しさが分かる。ミューミューという存在は勿論だが、その他にも待ち望むものがあるらしい。
彼の鼓膜を叩く靴音。待ち人が角を曲がって姿を現す。本に視線をやったままの挨拶。何時もと同じ。少しばかり違うのは、思わず息を詰めて目を見張ったミューミュー、彼女のその反応だろうか。空気や音で彼女の反応に触れたといえば得たものに対して素直に唇を吊り上げている。
「お、まえ……」
「嗚呼ミューミュー、そうも見られると何処か気恥ずかしい。叶うならどうか感想を君の唇から聞きたいよ、読み取る前に」
顔を上げて小首を傾げたにさらりと彼の髪が揺れる。ミューミューは、それに視線をやっていた。何時も通りであればの肩甲骨の辺りで揺れている白縁。何時も通りでないから、ざっくばらんに切られたそれは束にならずに肩口辺りで揺れている。
「七不思議には入らないだろうけれど、以前は切られない為に金を払ったというのに切ってもらうにも金がいるらしい。だから自分でやってはみたけれど、どうやら俺にその才はないようだ」
「……金など、どうにでも出来ただろうに」
どうにも見慣れないといった様子で白縁を視界に入れるミューミューのその口振りには竦めた肩を見せる。二人の上空、ぱちぱちと弾ける人工物の光。
「電灯、代えた方がいいんじゃないか?」
またとある日の話。は本を読んでいた。いや、彼のスタンド能力のものではない。彼がいる其処は図書館で、彼が手にしているのもまたそこに在る書物である。窓際へと椅子を運び活字の世界へと思考を飛ばしていた彼の持つ紙面へと落とされる影。
「」
その声に名を呼ばれたは、急激に引き上げられた意識とその事実に驚愕の色をその顔へと浮かべた。何時も、感情の起伏が見えない表情か余裕綽々の笑みまたは演技染みた悲痛な面持ち等そのようなものしか見せていなかったために彼女はほぅ、と目を細めてその事実を口にした。
「なんだ、おまえでもそんな顔をするんだな」
「いやまさかミューミューから会いに来てくれるとは……ありがとう嬉しいよ」
「……別に会いたくて来たわけじゃない」
何時も通りの笑みを浮かべ直したにミューミューが浮かべた表情は苦虫を噛み潰したよう。
「おまえ、看守のモルテードを知ってるか」
彼女の問い掛けに彼は読み掛けの本へと栞も挟むこともなく、そのままに閉じて目を笑ませた。彼の答えはそれだ。が座っているために見下げることになるその目を見ながらミューミューは静かに息を押し出し、そして続きの言葉を吐いた。
「死んだこともか」
「ミューミュー、看守のモルテードは殺されたんだ。勿論、死んだともいえるけれど」
「それは、……本で得た情報か?」
「いいや、本を使わずに得た情報さ」
本の背表紙へと指を滑らせは横目で窓枠の中に描かれている風景へと視線を向けた。上唇と下唇をくっ付けているのは両方で、引き結び下方へと下げて厳しい表情を作っているのはミューミューだ。猫の背でも撫でるように背表紙へと指を往復させるが唇を開いたのはさして遅いことでもない。
「君にしては遠回しだミュッチャー・ミューラー。確認してしまえばいい。おまえが殺ったのかって、そう聞けば答えを得ることが出来るだろう?」
「おまえ、看守殺しがどれほどのものか分かっているのか……?」
「読まずとも知ってるよ。ただあれは俺の手で殺すべきであってそうしたかったんだ。何がどうしてそうなったのかなんて、聞くも愚問だろう」
「……おまえは馬鹿だな」
「知らなかったのかい? 恋は人を馬鹿にするものなんだ」
そうして、今日は二人で通りに出掛けるには充分過ぎる程に良い天気だ。なんて言って笑ったにミューミューは頭痛を覚える。こめかみに指の腹を当てて今にも唸り声を上げそうな彼女の様子を笑った彼は、室内デートの方が君の好みだったかなんてことを聞きながら席を立った。今日の図書館の利用時間はもう終いだ。
「……、髪が伸びたな」
「何だい君の為に切った時のことが恋しいのかい?また切ろうか、そうしようか」
結われていないでも肩甲骨辺りで揺れるその髪を掻き掴んだ彼女のそれと引っ張りに首は嫌な音を立てて彼は喉を天へと晒した。
話は終末、いや週末。ミューミューは彼女自身の自宅にいた。その頬の一部をガーゼで覆っていたり、彼女がマグカップを手に取った時に見えた手首にも包帯が巻かれていて、少しばかり鈍いその動作。ミューミューは自宅療養中であった。彼女は脱獄囚数名のことと自身のこれから、職を失う可能性や諸々を脳裏に浮かべて舌を打つ。そして吐き出した溜息。マグカップへと唇を付けながら彼女はリモコンを手に取った。テレビのものだ。プツッ、と小さな音と共に現れた映像がミューミューの視線の先にある。
珈琲で満たされたマグカップを彼女が落としてしまったのは癒え切ってはいなかった身体のためではない。テレビが流す、そのニュースのせいだ。"脱走"彼女の唇は音を作らずとも形作っていた。ニュースキャスターが連日の脱走話に対して苦言を漏らす。
耳の裏に自身の血液の流れる音が響きまた耳鳴りのようなものまで聞こえてきそうだ。しかし耳鳴りの代わりに聞こえてきたのは玄関扉を打つノック音で、ミューミューは嫌な予感がした。彼女はその予感のままに痛みが走っても早足になる脚を玄関へと向けた。彼女の心拍数は上昇する。頭が痛いのは精神的にかそれとも肉体的にか。
「――良かったミューミュー、思っていたより顔色が良さそうで、」
「おまえは馬鹿か!? ぁあクソッ!」
ノックした人物も、開けた扉の先にいた人物も脳裏に描いた予想通りの人物でいてその顔は確かに先程までテレビに映っていたそれだ。少しだけ乱れていた自身の髪を撫で付けながらミューミューの手によって扉が開かれるのを待っていたは、自身の視界に彼女を納めたことで満開の笑みを咲かせた。それとは反対に怒りを含んで唇を噛んだのはミューミューだ。彼女は彼が言葉を言い終わる前にその腕を掴み、家の中へと引っ張り込んで扉を勢い良く閉めた。怒号のような音に、荒々しい施錠音。
苛々とした様子でを自身の領域へと引き込んだミューミュー。は左右上下と視線を動かしながら彼女の空間を観察している。本では得ることが出来なかった情報だと眼球を動かしていた彼は放り投げられるような形でソファへと放たれた。
「積極的な君も素敵だよミューミュー」
「おまえが何を考えていのか分からない」
「そんなまさか。俺は君のことしか考えて無いから、分かるだろう?」
は流した視線の先に映る映像、ニュースで流されている自身の写真を嫌そうな顔で見た。
「もっと映りが良いものを選んで欲しかったもんだ」
「おまえはわたしが警察官だということを忘れてないか……」
「忘れるわけないだろう、君の情報を」
は床へとぶちまけられている珈琲と取っ手の取れたマグカップへと視線をちらりとやって、ミューミューの服の袖から窺える包帯へと視線をやった。寄る眉根。
「……今度の看守殺しは表沙汰になってるぞ」
「流石に隠蔽出来るほどの余裕を持ち合わせてなかったんだ。君のことが心配で心配で、他のことに手が付かなかった。……いや、嘘になるかな。看守を殺したわけだから? まあ、そういうことさ」
「……死刑囚だぞ」
「そうだね。連れ戻されたら死刑になるだろうさ。電気椅子首吊り薬殺銃殺どれだと思う? 多分、銃殺だろう」
「おまえ……」
「ミューミュー、何時の日かみたいに遠回しだ。君は本が使えないが問うてくれれば答えるから、言ってみたらどうだい?」
「わたしが電話一本かければお終いだぞ……」
「そうだね」
「平然として……」
「だって、それがないことを知ってるからさ」
「随分な自信だ……読み得たのか?」
「まさか。ミューミュー、君は随分と長い間俺を生かしてきたからね。俺の命は何時だって君の手の内に預けておいたわけだが、未だこうして呼吸してるんだから読まずとも答えは得てるさ。……時間を気にせず会話を楽しめるのは良いもんだ。答え合わせはせずとも正解の自信があるんだけれど、会話を続けるなら、そうだ珈琲でも入れようか?」
ソファから腰を上げたは何でもない日常のことのように珈琲豆は何処だと問うた。ミューミューは自身の眉間へと手の平を当てながら頭痛をやり過ごし、そうしながら質問へと答えを返してやった。頭痛の種が一つ減って、また増えた。プラスマイナスがゼロだと唸った彼女はキッチンへと立つ彼の姿を見て吐息を押し出す。ほんの僅かに吊り上がっているその唇を振り返って視界に入れたは彼女以上に唇を吊り上げた。
「愛してるよミューミュー、脱獄してしまうほどに」