戯言


 静かな宵に一つ、戯言はいかがで御座いましょうか。

 草木も眠る丑三つ刻と言いましょうか、正午には人並み溢れる通りも、その時間帯にはひっそりと静まり返っておりました。道に寄り添うように並ぶ馴染みの老舗もぴしゃりと鉄の幕を下ろして、灯りは一つも灯しておいででない。眠るような街並みを照らすのは、ぽつぽつと在る街灯で御座いますが、それらも大変心許無く点いたり消えたり点灯を繰り返すばかり。
 それを見上げて、ほとほと困ったという風に胃の中に溜まった空気を口より押し出したのは、、彼女でありました。彼女は冷え込む夜には少しばかり頼り無い襟巻きへと唇を押し付けて、もう一度溜息を吐くのです。彼女の俯いた瞳が人通りの無い通りを右から左へと見たと思うと、今度は左から右へ、何かを確認するように泳ぐのでありました。皆様は、お考えになりませんでしょうか。人っ子一人姿無い其処に何者か、目に見えない何者かがいないものか、と。
 ぴゅうと吹いた僅かな風にはひゃっと首を引っ込めました。襟巻きの隙間から冷ややかな風が彼女の首を撫でたためか、それとも別の何かが彼女を驚かせたのか。は自身の左手で己の頬を擦るように撫で、左手を握り締めました。
「もうっ」
 静かな通りに響かないにしても上がったのは、彼女のそんな声で御座います。
 は椿の華を思わせる様な色合いの靴を履いておりました。それで煉瓦畳みの通りを踏みつけて彼女が歩けば、かつん、かつん、と音が鳴るのです。かつん、かつん。鳴るのです。何時かに来た喫茶店の前で彼女はその歩みを不意に止めました。そうすると、彼女の足音も止まるでしょう。勿論、そうで御座いましょう。可笑しいこと等、ひとっつも無いのではありませんか。
 おかしい。そう胸の内で呟いた彼女と貴女様方の意味合いは、違っていますでしょうか。皆様の耳には、彼女の足音の他に誰かの足音が聞こえたのではありませんか。いいえ、その様なこと、あってはならないのです。何故なら、足音も気配も、ひとっつも無いはずなのですから。
「……そろそろ、帰りましょうか」
 そうは言うものの、彼女の足取りは遅くまた止まりがちのもので御座いまして、消えかかった街灯とがそれを見下ろしておりました。彼女は一度見上げて、それから踏み出した足の下で靴音が鳴り響いて、それが帰宅を告げますでしょう。咄嗟の行動だったためか、彼女が進めた歩に音がずれたので御座いました。いいえ、音がずれるなどそんな不可解なことがありましょうか。嗚呼、その時ばかりは、足音が確かに在ったので御座います。
 は鍵穴へと鍵を差し込み、それを左へと回しました。そうすると手元からかちゃりと開錠される音が零れ、引き開けると出来る隙間に彼女は身を滑り込ませるように押し込みます。大きな動作で開けたためか、出来ていた隙間は比例するように大きく、また閉まる速度はゆっくりで御座いました。
 室内は先程まで歩いていた外に比べて暖かい。彼女はほぅと息を吐くと同時に襟巻きを外しながら、居間へと歩み始めました。背後ではかちゃりと鍵の閉まる音が小さく鳴りましたが、彼女は既に歩き出していたばかりに、そちらを振り向きは致しません。
 居間の中央でぽつんと立ち尽す彼女は、言葉を零してしまったかのように呟きました。
「変。やっぱり変よ」
 そうして彼女は、自身が今し方潜ったばかりの扉を、振り返るのです。そうして、同じ言葉を口内で噛み砕くように、仰ったので御座いました。しかし彼女の視線の先はただ扉があるだけで、彼女の呟きに言葉を返した声は、彼女の直ぐ側から聞こえるので御座います。彼女の右耳を掠めるその声は姿の無いまま、仰いました。
「…………変か?」
 室内へと小さく響いたのは、男の声で御座いました。の向けた視線の先ですぅっと、姿を現したその男の名はリゾット・ネエロ。彼女の、恋人でありました。
「だって、慎重過ぎるわ。ちぃっともでぇとって感じじゃあない」
「警戒するに越したことは無いだろう」
「手を握る感触があったとしても、透明人間とでぇとだなんて、実感が湧かないじゃあない」
 そうそう、男の方は暗殺者だなんておっかない職に就いておりまして、それ故リゾットは、言った通りに何事に対しても警戒をしておりました。自身のそれの為に愛しい女の身に何かあったら堪ったもんじゃあない。そう思い、暗殺者である己と彼女が共にいる所を目撃されることは、避けていたので御座います。それこそ、恋人同士で街に出かけるにしても、己の姿を不可視にするだなんて策を練って。彼女が人っ子一人見つけられなくても姿は現さず、彼女は溜息を吐くばかり。彼女自身の右手と彼の左手が繋がっていたとしても、隣の男は気配も無ければ足音も無い。さすが一流の暗殺者だ、なんて言ってやらないとばかりに彼女は顔を背けたので御座いました。今夜とて、足音を一つ鳴らしてしまったくせに、と。
 あぁなんだ。ほらぁ話でも何でもなかったんじゃあないか。そう言われますでしょうか。
「機嫌を直せ。可愛い顔が台無しだ」
 彼を知る者が聞いたら、それこそ背筋を嫌な物が這う感覚を味わいますでしょうに。リゾットたる男がそんな言葉を吐くだなんて、それこそほらぁじゃあないか。ぞっとする。
 何とまあこんな幼稚なほらぁ話があったものでしょうか。彼女も彼も、気分を良くしてか互いの唇を近付け始める始末。とんだほらぁで御座います。
 静やかな宵に相応しくない、馬鹿馬鹿しい話しで御座いましたでしょう。お耳汚し失礼致しました。それでは皆様、今夜は此処いらでお開き、どうもご退屈様。