回り灯籠


 心臓は鼓動を刻むことを止めたらしかった。とすれば、今こうして走馬灯の様な記憶を巡る行為は、既に死後の行動なのかもしれない。敗れて消えていった仲間達への手向けに、ボスであった男の命を差し出したいというに、指一本動いちゃくれねえ。
 仰ぐ視界は額縁の中の画の様に一定だ。風が無いのか、雲一つとして流れちゃこない。憎くて堪らない男は、既にこの場を後にしたらしい。それが数分前のことか、それとも数時間前のことか、はたまた数秒前のことなのかは分からない。
 身体中に無数に空いた穴から血が垂れるのを、感じる。だがそれもまやかしなのかもしれない。どう考えても、俺は即死の傷を負ったのだから、前頭葉は役に立たない。だのに、霞むこと無い意識はどういうことだ。
 ソルベ。ジェラート。ホルマジオ。イルーゾォ。ペッシ。プロシュート。メローネ。ギアッチョ。一言だって発することの出来ない口で、彼等の名を呟いたつもりになった。物理的にぽっかり空いた胸中で、。一人の女の名も呟いた。結局、俺は何も出来なかった。と、謝罪の念を込めて。



 、彼女に関する初めの記憶といえば、獣のように地に身体を伏せる俺を見下ろす無感動な目だ。後から思えば、俺を地へと抑えつけるあの見えない力の正体は彼女のスタンド能力のものだったのだろう。しかしその当時の俺は、スタンドのことなど何一つ微塵も知らない餓鬼だった。漆黒の念に身を焦がし、四年で身に付けたその術で復讐を遂げたばかりの、迷い子のような餓鬼だったのだ。
 しとしと降る雨粒が体温を奪うのも丈の長いコートが地を擦るのも構わずに、彼女はしゃがみ込んで俺の顔を覗き込んだ。唇は孤を描きされど目は笑っていなくて、それでも俺の頭を無遠慮に撫でるその手は温かく、余計に俺を混乱させた。そして結果を言えばつまり俺は何故か、拾われた。

 気付いたら見知らぬ天井を仰いで白いシーツの上へと身体を横たえていたから、焦ったものだ。慌てて上半身を起こして室内を見渡せば光景のひとつひとつどれもが勿論見覚え無く。考えろ、観察しろ、みえてくるものがあるはずだと、意識を浮上させたばかりで役に立ちそうにない脳を必死に回転させた。結局まともな行動を取るのに随分と時間を経たせたものだが。きょろきょろいうよりはぎょろぎょろと、食い入るように室内を見回して漸く気が向いたのが灯りだ。薄く開いた扉の隙間から伸びる灯りの線に目が釘付けになった。俺は足音、気配を出来る限り消し、見知らぬ部屋から無音で出た。身に帯びていたナイフが無くなっていた為、部屋にあったペーパーナイフを拝借して。今であればなんておざなりなんだとは思うが、つまりその時の俺というのはその程度だったのだろう。
 意識を失う前に見た姿が、後姿となって台所に在った。勿論後背なんて見たことは無かった。それでも何故か、それが同一人物だと確信していた。彼女は振り返って、椅子へ座るように促す言葉を吐く。ペーパーナイフ片手に呆然と立ち尽す男の滑稽なこと。俺は言われるままに、席に着いた。明らかに女の方が力量が上だと感じたからだ。それも、比にならないような、上だ。
「やっぱり、スープが良いと思ったんだ。中途半端な野菜達が冷蔵庫にたむろっていたからね。ミネストローネは好きか?」
 そうやって問いながらも有無を言わさぬように、彼女は俺にスプーンを押し付けた。ペーパーナイフで飯が食えるかとその時唯一の俺の武器は取り上げられた。いやスプーンでだって眼球を穿り出すことはできるが、そういうことが言いたいんじゃない。直ぐに目前に並々とミネストローネが注がれた皿が置かれる。湯気を上げるそれを見たら、寸前まで麻痺していたかのように何も嗅ぎ取れなかった嗅覚が異常に効くようになった気分だった。加熱されたトマトの酸味の匂い、それが鼻先を撫でているようだった。腹も空いていたらしい。内臓が僅かに蠢いたような感覚がした。対面する席に、女も同じ様にミネストローネ入りの皿を置いて座った。そして促される。
「食べなさい」
 結果、俺は食った。無我夢中という言葉そのままに。
 その時の記憶を掬い上げれば、今でもあのミネストローネの味が舌の上に拡がるようだ。が唯一まともに作れる料理だった。
 別に、胃袋を掴まれたわけじゃあない。それでも、俺はその女の家に居付いた。。出会って三日目に教えられた女の名だ。出会って四日目。その日の夜、ニンニクの焦げた嫌な臭いを纏う肉を切り分けながら、俺は自身の名を告げた。リゾット。は俺の名をその直ぐ後に呼んだ。不味いな。彼女の視線は皿の上の肉に注がれていた。まったくだ。俺は同意した。

「獣を拾ったんだ。構いっきりになりたい気持ちが、分かるだろう? 大丈夫。お前なら、大丈夫だ。私が言うんだ。出来るだろう?……そう、良い子だ」
 は通話先の相手へと説くように話しかけていた。俺は部屋に入っていいものかと迷いそれでも既に開いている扉を拳で打って、視線を貰うことにした。用件を言い終えていたらしい彼女が携帯電話をベッドの上へと放り出しているのを逸らした視界の端で確認する。振り返ったが唇を吊り上げて、言う。
「今日はリゾットの故郷の味を、知りたい」
 一日三食。それの準備、即ち料理という仕事は俺の役目になっていた。の作る料理は不味い。水で流し込んでも舌に絡み付いて離れなければ、腹痛を伴う物もあった。だから、そのことには俺もホッと胸を撫で下ろしていた。ただ、初日に食べたミネストローネだけは別で、もう一度と言わず何度も食べたいと思っていた。
 一年。俺が彼女の家に居付いていた期間だ。短いようで長く、長いようで短い。気付けば俺は彼女に惹かれていた。それでも、いや、だからこそ、俺はその道を再度歩み始めたのだろう。立ち止まっていた、その道を。

「……はぁ? パッショーネに入っただって?」
 彼女のスプーンから掬った細切れの野菜達がトマトスープに混じり皿へと帰った。赤い汁が僅かに彼女の服へと飛び散る。染み抜きはそう難しいことじゃあない。その日は俺の要望で、例の唯一美味いミネストローネが食卓に並んだ日だった。
「リゾット、お前意味が分かってるのか?」
「分かってるさ」
「待て、……何処に配属された?」
「……暗殺、チームだ」
 確かにが纏うそれが堅気のものでは無いことを、俺は感じていた。それでも、暗殺チームだなんて、物騒な所に身を置いてしまったことを口にするのは気が引ける。現に彼女はテーブルに肘を着いて両手で頭を抱え込んでしまった。そんな彼女の様子を盗み見しながら口内へと運んだミネストローネは、トマトの酸味をやたらと強く感じた。
 俺は言い訳染みたことでも言おうとしたのだろう。の旋毛を見ながら唇を薄く開けて。それでも、俺は何も言うことが出来なかった。それは言葉を発する前に、彼女が勢い良く立ち上がったからだ。椅子が勢いのままに倒れて、床に打つかる。テーブル上のグラスに注がれたワインの水面に波が出来た。
 はソファの上へと無造作に置いていた携帯電話を掴み取る。ボタンが力強く押し込まれ、壊れるんじゃあないかと俺は思った。ミシミシと、悲鳴の様な嫌な音を立てていたこともあって。
「ベッラ! 新入りの情報を送って来なかったな!」
 通話先の相手が何か言い返しているようだが彼女はそれには聞く耳も立てず、一方的に言葉を投げ続けて十分後、漸く黙った。その十分間の会話とも呼べないそれを聞きながら、俺は彼女、の、今まで知りえなかった正体を知ることになったのだ。
 パッショーネ、暗殺チーム所属、且つそこに在る人間を纏め上げる人物。即ちリーダー。俺は、目の前にいるのが自分の上に立つ者であることを知ったのだ。いや、出会った頃から彼女は俺の上に、いたわけではあるが。

 暗殺チームのアジト。そこでソファに腰を沈めるを、見つめる。多分、俺は思い詰めた様な怖い顔をしていたのだろう。それを茶化す様に彼女は口を開いた。
「そんなに構えなくても、獲って喰いやしないよ。ただ、ベッラは獲って喰う気でいるから、気を付けるんだな」
 は、彼女自身の腕に絡む女の腕を見ながら言った。その腕の持ち主は、腰の下まで長いブロンドを揺らしながら、真っ赤なルージュのひかれた唇で可笑しそうに笑っている。の右手側のその女とは別に、左手側には赤毛の男もいた。眉、瞼、頬、と左顔面に一線で描かれた傷が印象的な男だった。
「いやだ、あたしはリーダー一筋ですよぉ」
「おい坊主、ベラドンナには惚れるなよー。ブツがぶら下がった別嬪がいいなら、別だけどな!」
「リーダー、グリチネが私刑を望んでる。イイデショ?」
「喧嘩なら、他所で済ませてこい。殴り合いでも、刺し合いでも、スタンド無しで。男同士らしく、な?」
 訂正。と腕を絡ませる奴は男であった。部屋から出て行く二人の男を見送った後、は変わらず吊り上げた唇で囁くように、俺に言う。
「ようこそ、暗殺チームへ」
 多分、皮肉だったのだろう。

 暗殺チームに身を置いた俺を、はそれまで以上に甲斐甲斐しく世話してくれた。得たばかりのスタンド能力を行使するにあたっての心得。彼女がこれまでに身に付けてきた暗殺術の全て。飛び出たナイフワークの才能を持つ俺を褒める反面、致命的な射的の腕前を彼女は笑った。それでも、熱心に教え込まれたことで、申し分ない技術を身に付ける事が出来た。血や鉄の生臭さ、死んだばかりだというのに鼻につく死体の臭い。そればかりだというのに、悪くない。縋り付きたくなる日常を、俺はその時得ていた。

「それは男からの贈り物か?」
 ただその身を飾る一つのネックレスを視線で差しながら、俺は問うた。チェーンの長いそれのチャームは、丁度彼女の豊かな胸の谷間で、存在を主張していた。その側では、俺が付けたばかりの鬱血痕が幾つか存在している。は自身の側頭部を支えていた片手を除き、両腕を首の後ろへと回した。カチャリ。金属が音を立てる。彼女の手で外されたロケットペンダントが、俺の目前へと差し出された。見てみれば良い。口で言わずとも、そういうことだった。
 開閉式になった其処をカチリと開けると、写真が入っていた。そこで目の前の彼女は、笑っていた。世界の暗い箇所なんて何一つ知らないといった、純粋無垢な笑顔で。その横には男がいて、その頬はのそれとくっ付いていた。俺は頭の芯が痺れて、身体がカッと熱くなるのを感じた。終わったばかりだったというのに、を強く引き寄せ、何か言おうとして開いた彼女の唇を自身のそれで塞ぐ。有無を言わせず無遠慮に、獣の様に彼女を抱いた。何度も、何度も、彼女の中に精を吐き出した。その時のと俺の関係は別に恋人同士ではなかったがそれでも、俺は耐え難い感情のままに彼女へと自身を埋める他無かったのだ。
 半ば気絶するように意識を失ったが、翌日浴び終えたシャワーの後で言った。
「私と弟は母が違ったんだ。あまり似ていないだろう?」
 つまり、そういうことだった。
 頭を抱え込む俺を、は腰に手を当て仁王立ちで笑った。ちらりと視線をやると、釦を留めていないブラウスの間から無数の鬱血痕が覗く。勿論、どれも俺が付けたものだった。
「言ってなかったが、私が就く前のリーダーは、彼だ」
 彼女はサイドテーブルの上のネックレスを一視して言った。昨夜俺が投げ捨てたそれは、何時の間にか拾われて其処に置かれたらしい。俺は自身の頭を抱え込むのを止めて、真っ直ぐにを見る。彼女の吐いたその言葉の意味を、瞬時に理解したからだ。彼女の角膜は、常時の量の涙しか覆わせていなかった。寧ろ、泣きそうな顔をしていたのは俺の方だったらしい。彼女は、ベッドの端に腰掛けた俺の眉間に唇を落とした。
「私は、奴を赦さない」
 彼女が憎悪の眼差しを向ける対象に俺が気付いたのは、もう暫く後だった。正体は、彼女も俺も、寸での所で掴めなかった、が。

 その日の天候は、に拾われたあの日に酷く似ていた。しとしと降る雨粒が冷たく、体温を奪う。記憶の中では地に伏せていたのは俺だというのに、そこに俯いて身を伏せているのは、だった。何故だ。あんたは頭を垂れるべき人間じゃない。凛として前を見据えるべき人間だ。血反吐など吐かず、俺に辿るべき道の指示をくれ。俺はまた迷い子に戻ってしまう。
「ごめっ、ごめんよ……ッ! あァ……!!」
 間に血を吐き出しながらは喘ぐ。彼女の両目が大粒の涙を零すのを、その時俺は初めて見た。不謹慎で、その場面に相応しくないというのに、俺はのその姿を美しいと思ってしまった。本能のままに慟哭する女を見下ろして、俺は指一本も動かせぬままに立ち尽す。気管に入り込んだ血に噎せ込みながら呼ぶその名は、俺のものではなかった。去れ。彼女は俺の名を呼ばなかったが、一言だけ、そう言って視線を寄越した。やがて彼女の最期の息が、すぅっと肺から追い出されていく。そしてはいなくなった。其処に在るのは何の変哲も無い、女の死体だった。



 流石に意識が朦朧としてきた。しかし、充分であろう。もう直ぐ掻き消えるであろう意識は、随分と長持ちしてくれたものだ。
 ポツリ。水滴が一つ、俺の目尻へと落ち、ツゥと流れた。仰ぐサルディニアの空は憎らしいぐらい済んでいるというに、雨粒を降らせたらしい。
 もし、が最期に呼んだその名が、俺のものであったなら、何かが変わっていただろうか。分からない。分からないが、きっとその時の俺は、呼んで欲しかったのだ。そう、思う。
 。俺はもう直ぐ死んでしまう。いや、もう死んでいるのかもしれない。兎も角、俺はあんたのいる場所へと逝けるのだろうか。其処には馴染みの面子も揃っているのだろうか。あんたは、弟と会えたのだろうか。
 もしだなんて仮定の話は、馬鹿らしいが、其処であんたと会えたとしたら、俺はあんたの名を呼んでいいだろうか。そして呼び返して欲しい。、あんたを、愛していたんだ。



「ようこそ、リゾット」
 多分、彼女は泣いている。



 これは、俺がサルディニアの空を仰ぎながらも語れなかった、記憶の一部だ。何の変哲も無く、それでいて尊く、ありふれた幸せを孕む、日常だ。



 調理された魚が、白い皿の上に横たわっている。所謂白身魚のソテー。なの、だろう。照明の光を受け表面できらきらと輝くのは、ナイフの切っ先を逃れた鱗。パリパリどころかガリガリに焦げている皮。鋭利なフォークを無理やりにその身へと潜り込ませる。表面は殆どが炭化しているというのに、その身は血を滴らせるぐらいに生焼けだった。これは、ある意味、才能なのかもしれない……。
「リゾット。無理をする必要は無いよ」
 は、俺の目の前に鎮座する物体と同じ物を見下げて眉を寄せていた。失敗作だということは、彼女にも理解出来ていたらしい。対面する席に座った彼女の眉間の皺を見留めた後、俺は残念なできの白身魚のソテーを見下げた。悲しいほどに食欲をそそらないそれをギコギコとナイフで一口大に切り分け、フォークで一思いに刺す。切っ先を辿り流れた血の雫と、パラパラと剥がれた焦げの欠片が白い皿を汚した。口元へと運んだ。ハーブで隠しきれていない、いや寧ろ悪化している臭いが鼻腔を掠めた。それでも、俺はそれを口内へと放り込んだ。噛んだ。噛んだ。噛んだ。嘘だ。噛めずに、丸呑みした。
「……
「何だい」
「……不味い」
「知ってる」
 彼女は席を立ち、掛けてあったコートを羽織る。何時の間にか用意されていた俺の分も、投げて寄越してきた。拾われたその日に着ていた衣服は、気付いたら捨てられていた。
「外食しよう。異論は」
「無い」
 そして二人、テーブル上に生塵の乗った皿を置き去りにして、通りで話題のリストランテに行った。そこで食べたイサキの香草焼きは美味かった。多分、比較対象の所為だろう。は笑っていた。リゾット。何だ。お前は料理は出来るか? あんたよりはな。じゃあ、今度からお前が料理当番だ。異論は? 無い。だろうね。は、笑っていた。

「まるで犬みたいだ」
 俺は眉を顰めた。ソファに座って本を読んでいたらしいは、自身の隣を手で叩いた。つまり、其処に座れと。別に反抗するつもりも無かった俺は、それに素直に従った。俺の体重でソファがその分沈むかどうかの瞬間に、は俺が首に掛けていたバスタオルを奪い取るように手に取った。俺はその時、シャワーを浴びたばかりだったんだ。自身の毛先に滴っていた水滴が、撥ねたのを感じた。その直ぐ後に、俺の視界はそのバスタオルで塞がれることになる。意外にも、繊細な手付きでは俺の髪の水分を拭っていった。
「リゾットの髪は綺麗だな」
「……あんたの――」
「うん?」
「髪の方が綺麗だと、……思う」
 バスタオルの隙間から、目を丸くする彼女の姿が確認出来た。そんなものを見てしまえば、自身が吐いてしまったその言葉に途轍もない羞恥を感じてしまう。俺は唇を真横に固く引き結んだ。
「お前もイタリアーノだったんだな」
 くすくす笑うの声が、耳に心地好かった。だから、固く引き結んだ唇が、ほんの僅か緩んでしまう。
「私はリゾットの髪、好きだ」
 薄く開いた自身の唇は、何を問う為に開かれたのだろうか。結局、何も発せずに閉ざしてしまったが、あの時、俺はきっと、好きの対象について問いたかったのだろう。髪だけなのか、と。

 深夜の室内を包む静寂。それを破らずとも、鼓膜は小さな震えを感じた。眠りに就く前の身体を起こした俺は、思わず部屋の扉へと視線を向けた。が部屋の前を横切る足音。それに鼓膜が震えたのだろう。俺はそれを訝しむ。彼女は、足音一つ立てない人物だったからだ。
 彼女はリビングの窓際に立って、月を見上げていた。欠けた月の光が彼女を白々と照らす。声を掛けることを躊躇う俺へと、彼女は振り返って言った。
「添い寝が必要か?」
「……要るのは、俺じゃあないだろ」
「おっと、反抗期だ」
 くすくす笑って窓際から離れたは、その足でキッチンへと向かった。俺はその後ろを着いて行く。彼女はグラスを二つと、良く冷えた白ワインのボトルを手に俺へと向き直る。
「今夜はアルコールに抱かれて眠るさ」
 物寂しい笑顔だ。

「雨が降るみたいだ」
 俺の隣で、空を仰いだが呟く様に言った。彼女に倣う様に俺も空を仰ぐが、澄んだ青が拡がる其処は雨粒を降り落とす素振りの一つも無い。だというのに、彼女は同じ言葉をもう一度吐く。空ではなく、俺を見上げて彼女は言った。
「走ろうか。いや、どうせ濡れるだろうが」
「降るか?」
「降るね」
 は、俺の手を取り少しばかり駆け出した。本当に降るのだろうか。脚を動かしながらも空を仰いだ俺の鼻頭に、何かが打つかる。それが雨粒だと俺が気付くと同時に、それらは堰を切ったように通りを行き交う人々を濡らし始めた。の言った通り、雨が降った。日照り雨というやつだ。二人、家まで駆けたが家の鍵を取り出す頃には濡れ鼠になっていた。
「びしょびしょだ」
 床に水溜りを作りながらも、多少はタオルで身体を拭いた。が俺を見る。
「シャワーを浴びてくるといい」
「……先に浴びろ」
「じゃあ、一緒に浴びようか」
 俺はギョッと目を見開いてを見た。彼女は丁度顔を拭いていたので、表情は確認出来なかった。タオルの下で彼女は悪戯に笑っているのだろう。そう思い、俺は視線を彼女から逸らしながら、返事のような言葉を吐く。
「……からかうな」
 そう。だなんて言ったはバスルームへと踵を返した。後ろ手に手をひらひらと振ったままに、言うのだ。
「誘惑のつもりだったんだが」
 水分を吸ったタオルをそこいらに放って、の背を追ったのは言うまでも無い。


 サルディニアの空は高い。それを仰ぐ俺があの日語ることの出来なかった、記憶の一部。それは何の変哲も無く、それでいて尊く、ありふれた幸せを孕む、日常だ。


 尚も書類の活字を追うの視線に、俺は再度彼女を呼んだ。決して俺の声が小さく聞き取れないものであったわけでも、それほどまで彼女がその行為に没頭していたわけでも、無い。二度目の呼び掛けも反応の無いままかと思ったが、たっぷり空白を空けた彼女は、ゆっくりと文字溜まりから顔を上げたのだから。俺は、もう一度呼ぶ。
「リーダー」
「…………」
「?」
 視線を合わせながらも、彼女は寄せられていない眉のままに、思考に耽っている様子だった。その様に怪訝な表情を浮かべる俺に、彼女はハッとした様子で小さく頭を振る。
「あぁ、いや。なんでもない」
 そうは言うものの、俺は訝しむ視線を取り攫う事は出来ず、三度も呼び掛け尚も用件を言い出さない俺に、彼女は漸く、観念したように言った。
「お前にリーダー、なんて呼ばれるのは慣れないよ」
 名前で呼んでくれないか。そう言ったに、俺は困った。俺は確かに暗殺チームに所属していて、彼女は其処の者を纏め上げる人物。今までのように呼んでも、良いのだろうか、と。
「だが、……」
「ベッラやグリチネだって、名前で呼ぶことがある」
 呼びたくないわけでは、勿論無い。本人がそこまで言うのだ。呼ぶ他ないだろう。俺は薄く開いた唇で彼女の名を呼び、その後に部屋を訪れた用件を取って付けた様に言った。色気の無い仕事の会話。狙う人物の近辺状況と日取りを説明するその口は、思わず零れたという様に、何の脈絡も無くその言葉を吐いた。
「お前の声は心地好い」
 思わず見入ったは何ら変わらず、その口で殺害場所について指定してきた。俺の返事は、小石に躓いたように前のめりなものだった。それを笑う彼女の声が、好きだった。

 弾を込めて構えた。狙いは頭部へと定めている。銃声音。イヤーカバーのお陰で、鼓膜への衝撃は最小限だ。それの片側を持ち上げて、彼女へと呼び掛けた。

「駄目だ」
 はイヤーカバーをしたままで、首を振ってその意を示す。彼女の見据える先には、無傷のままの的がただただ其処に在る。では銃弾は何処へと消えたのか。人型の的の頭部を狙った。つもりだったので、その付近の壁をジッと凝視する俺に、が的の手前の床を指差した。其処に在る穴は、俺が拵えたばかりらしい。俺はカバーで再度自身の耳を塞いだ。構える。銃声音。カバーを外さないままに、彼女を呼ぶ。

「駄目だ」
 首を振られた。構える。銃声音。両耳からカバーを外して、彼女を見る。目は口ほどにものを言う。俺の視線は彼女へと、訴えかけていたらしかった。そもそも、そろりと片手が彼女へと伸びていたらしい。は俺の手の甲をピシャリッと叩いて、自身のカバーを外して首を振る。
「駄目だ。狙い通り撃てるまでは、お預けだ」
 残酷な言葉を容易く吐いた彼女は、もう聞かないとばかりに、カバーで両耳を塞いだ。それを見届けて俺は、倣う様にまた両耳を塞ぐ。狙い定め。構える。銃声音。あ。俺は胸中で間抜けに呟いた。が、傍らに立つは唇を吊り上げて嬉しそうだ。真っ直ぐに見据えた的には、漸くぽっかりと穴が空いていた。
「……
「リゾット、良し」
 彼女が漸く俺の名を呼んで、視線を合わせてくれた。ちらりと横目で見た的の頭部には穴。狙ったのは心臓。射撃の腕を磨くのは、次の機会で良いだろう。

 水音が響く。が向けた視線の先では、雨粒に濡れた窓硝子。
「雨が降っている、ようだ」
「……そうだな」
「お前を拾った日を、思いだすよ」
 しとしと降る雨粒が窓硝子に打つかり、流れる。そうだ、あの日は雨が降っていた。しとしと。降っていた。俺を見下ろす無感動な目の面影は、今は微塵も無い。涙を零したりしないが、彼女の角膜を覆う涙は、普段より僅かばかり多かった。血色の良くなった両頬に笑みを浮かべた彼女は、俺を見下ろす。
「出会えて、良かったと思う」
「俺もだ。……余裕そうだな」
 を見上げながら言い終わるか否かで突き上げた俺に、彼女はビクンッと身体を震わせた。あの日の俺には、こうして彼女を見上げる日が来るだなんて、思ってもいないことだろう。
「そんなわけないだろ……ッ」
 彼女の嬌声は麻薬のようだ。

 瞼を開けると、真っ直ぐに此方に向いたナイフの切っ先が確認出来た。右の眼球の僅かばかり上空にいるそれ。俺は一度瞬いて、それを持つ人物へと視線をやる。は満足そうに笑んでいた。その頚動脈には、彼女の持つものより刃渡りの広いナイフが添えられている。それを持つのは俺だ。彼女は唇を吊り上げる。
「問題無いな」
「……何がだ」
 彼女はナイフを俺の眼球から遠ざける。が片手に持ったナイフを見ながら、俺は自身の持っていたそれをサイドテーブルへと預けた。そして問う。彼女は笑うだけで俺の質問には答えない。その代わり、ナイフを床へと放り投げ、俺の頬を両手で包み込み、唇を重ねた。彼女の柔らかな唇がたった一度で離れようとするものだから、俺はの後頭部を押さえ込み何度も喰らった。
「……リゾット」
 唾液で艶かしく潤った唇が、俺の名を紡ぐ。はただ笑うだけで、言葉を続けなかった。その翌日、彼女は死んだ。




 あの時仰いだ空の青さを、今も覚えている。澄んだ空は何処までも高く、上限など無いようにさえ思えた。あんたの隣に逝けるなら、死んでしまうのも悪くない。そう思わせる青だった。
「リゾット、死後の世界は信じるか?」
 何を言っているんだ、こいつは。そう、思った。そのままに表情に浮かべてを見返すと彼女は肩を竦めた後、笑う。指先で空になったグラスを弾いて、悪戯な笑みを浮かべたが俺を横目に言う。
「生まれ変わりは?」
「信じるしか、ないんじゃないか?」
「信じてたか?」
「……さあな」
 たった一杯のワインで、酔ったわけでもあるまい。それでも俺へとしなだれかかるの頬は、仄かに朱に色付いている。俺は彼女のグラスに、二杯目のワインを注いだ。良く冷えた白のワインは、何時かの夜を思い出す。今、彼女は物寂しく笑んではいないが。
 俺は自身のグラスを空けた。がボトルに手を伸ばし、俺のグラスへと注ぐ。ラベルに綴られた産地を視線で読んだ彼女は目を細める。それは笑みだ。彼女が俺にも確認できるように翳して読み上げる。
「シチリア」
「……粋なもんだ」
 随分と融通が利くらしい。それなら、彼女の作ったミネストローネをまた食べたいものだ。そう思った俺へと彼女が、何を考えているんだ? と、問い掛ける。あんたの手料理についてだ。と、答えると、彼女は笑った。料理の腕前が一向に上がらないんだ。何故か自信満々に彼女は言った。やはり料理は俺の担当らしい。
「リゾット」
「……何だ」
「お前に会えて、良かったよ」
 そう言った孤を描く唇は、俺の頬に触れるように口付けた。その様子を見ていたらしい奴等が、茶化すように口笛を吹く。それを俺は、振り向かないままで手で払った。それでも喧しい数人には、剃刀を吐かせた。不思議なもんだ、スタンドまで使えるなんて。俺とチームメンバーのやり取りに、彼女は笑う。笑むその唇に、俺は自身のそれを重ねた。
「こうも幸せだと、生まれ変わる必要性を感じないな」
「……そうだな」
「ベッラとグリチネは相変わらず喧嘩していて、お前の従妹とうちの弟は笑い合ってる」
「こっちの面々も騒がしい」
「リーダーは大変だな」
「お互いに」
 互いの息が唇にかかる距離で密事の様に言って、どちらからともなく引き寄せられるかのようにまた唇を合わせた。そういえば、俺は彼女の唇が愛を囁くのを聞いたことが無かった。忙しなく絡む舌を解き、俺から愛を囁いた。

「何だい」
「愛してる」
「知ってる。……なんだ、不服そうじゃないか。ん?……あぁ、私も勿論お前を愛しているよ。リゾット、お前が私を思う以上に、私の方がお前を愛しているからな」
「俺の方がより愛しているに決まっているだろう。なんだったら、証明してやるが?」
 言うが早いか、俺は彼女を横抱きに自身の腕で支えた。は片手のグラスを器用に操り、ワインが零れるを防ぐ。が、彼女の指先はするりとグラスを離れて、両腕は俺の首へと回された。彼女が言う。
「あぁ、まるで天国だ」
 確かに、彼女は笑んでいる。