幸福論
真っ赤なパンプスが踏み締める地面には、また色合いの違った赤がぶちまけられている。成人男性の大凡平均的な量の全てが、スタンド能力によって抗う事も許されずに、体外へと引き摺り出されたのだ。粘着質でどす黒いそれで出来た溜まりに伏せる身体は、見るに醜い。
カツッ、カツッ、と地を打つ音を立て、血を撥ねさせるパンプスで距離を詰めたは、そのまま俯いた男の身体を蹴った。仰向けになる男。血が抜けた顔は彼自身の血で濡れているが、判別は出来るだろう。
カシャッと響くのは場違いだろうか。一枚撮った写真は、今回の条件内に含まれている。そしてそれが終えた今、任務は無事完了した事を告げているのだから、彼女は返り血の付いたコートを翻し踵を返した。アジトへと帰る為だ。
『幸せになりたかっただけなのに……ッ!』
顔を青褪めさせた男が言った言葉。最期の言葉は滑稽だった。
男にとって、幸せになる為に麻薬の売買は必要な工程だったのだろう。しかし、無知は罪である。侵してはならない領域でそれを行ってしまったのだから、彼に与えられた死は、逃れられぬ事象であった。
死んだ男の幸福論について談義する気もないが、少しばかり幸福ひいては人生については考察してみたくもなった。つまり、幸福論を求める。
自身のコートから返り血を引き剥がしながら、彼女はポケットの中の携帯電話を手に取った。血が血に混じりあっていくのを背後に、番号を手早く押して鳴り響くコール音に耳を近付ける。随分と待たされるが、行為の最中でなければ何れ相手は電話へと出てくれる。
『Pronto(もしもし)』
「今から行くね」
そして彼女は相手の返事も聞かずに通話を終了させた。役目の終えたそれを元あった場所へと押し込んで、地を打つ音を裏路地へと響かせながら、彼等のアパートへと向かうのだ。
は突如自身の視界を遮るように被せられたそれに、ソファの上で僅かに身体を硬直させた。間髪入れずにそれの上から頭を押さえ込まれて、前後左右へと激しく揺さぶられる。やってくれるなら、もう少し優しくして欲しいと彼女は思った。
上等な華の香りと僅かに混じるドルチェのような甘い香り。スンスンと鼻を鳴らして嗅げば、香るそれは普段彼等から香るものとまったく同じで、香水ではなく洗髪剤の匂いだったのかと、彼女は頷いてしまった。
「ソルベの下手糞! それじゃァ、の髪が痛んじまうッ!」
コトリ、とソファテーブルへと置かれたマグカップを、バスタオルの隙間から確認した彼女はまた鼻をスンスンと鳴らす。ミルクに、僅かな蜂蜜の香り。ジェラートが持って来たホットミルクが、マグカップの中から湯気を上げていた。
細かいことは苦手だ。と、バスタオルを除きながら彼女の頭上でソルベが言う。ボサボサになった髪は随分水気が拭われたが、それでもジェラートのお気には召さなかったようで、彼は直ぐにドライヤーとヘアブラシを手に彼女へと駆け寄っていた。
「任務後ふらりと来るだなんて、なんかあったか?」
の右側に腰を沈めたソルベが問う。彼女は自身の髪に当たる温風と、髪を梳かれるその感覚に目を細めている。そして忘れていたとばかりにマグカップへと手を伸ばして、それを両手で包み込むようにして持ち口元へと運んだ。少し、熱かった。猫舌の為にちろりと舌先を出して彼女は眉を八の字に顰める。
「ね、幸せ?」
自身には熱過ぎるホットミルクへと息を拭き掛けながら、彼女は聞いた。ソルベは煙草を銜えようとしていた動作を瞬間だけ止め、ジェラートも同じ様に髪を梳く手をその間に止めていた。瞬きをするよりも刹那の間に、張り詰めた空気。が、直ぐに何時もの空気がやってきて、二人も変わらぬ動作を続ける。
「ジェラートがいるしな」
「ソルベがいるからね」
二人は目を合わせて唇を吊り上げた。それをちら、ちら、と視線で確認したは一度ホットミルクへと息を吹きかけ、一口飲んだ。ホッ、と肩の力が抜ける。
の整え終えた髪を一通り見て、満足したジェラートはドライヤーとヘアブラシをソファテーブルの片隅に置いて、彼女の左側へと座った。はソルベとジェラートの間に挟まれて、二口目のホットミルクを啜る。温められているミルクに、僅かに加わっている蜂蜜の香りが、昂っていた彼女の精神を静めていく。
「……おいしい」
「ジェラート様お手製だからなァ」
「……自分で作っても、これにならない」
三口目を啜り、口内へと広がる味を瞼を閉じて呟くように言ったを、ジェラートは可笑しそうに笑った。彼女の眉根に出来ていた皺はソルベの指先に押されている。
「だったら、また来な。作ってやるから」
「うん、また来る。なんだったら、明日も来る」
「おいおい、俺のジェラートを独り占めすんなよ」
そう言いながらの髪を乱すように掻き撫でてソルベも笑った。彼女も口元を緩めて笑った。ジェラートだけ、折角整えた彼女の髪が乱れたことにムッと、唇を突き出して、ソルベの頭を叩いていた。それから、彼も二人に釣られるように笑った。
入手困難であったが、独自の経路を以って漸く己の手中に納まった古書。それから顔を上げ、鼻腔を掠めた香りの発生源へと視線を向けたのはイルーゾォだ。自身の腰を静めるソファの背後を通り過ぎたを見て、彼は香りを一回スン、と嗅いだ。イルーゾォが脳裏に浮かべた感想を、言葉は少し違えど音声にして発したのは、別のソファに寝転がっているホルマジオ。
「、ソルベとジェラートの匂いがするぜ?」
朝早くに趣味のギャンブルで大負けしたホルマジオは、暇を持て余していた。それとあって、面白くなりそうな事は些細な事でも引っ張り出して突付きたい。
ソファを通り過ぎて数歩後に投げられた言葉。それに歩みを止めたは、ソファへと寝転ぶホルマジオへと視線をやった。感じる視線を辿れば、イルーゾォも自身を見ているではないか。一人は唇を吊り上げている。何一つ面白いことはないのに。と、彼女は軽く苦笑いをしながら言った。
「ジェラートお勧めのシャンプー貰ったの。上等な」
「あぁ、それで」
納得するイルーゾォが二度頷く向こうで、ホルマジオは心底つまらないといった顔を見せる。期待に添えなくてすいませんね。と、は笑った。そして手前にいるイルーゾォの手元の本を不意に視線が捉えて、目を見開く。まるで子供のように目を輝かせる彼女に、イルーゾォはそういえばまだ言ってなかった。と、胸中で呟く。彼女も、彼の手中に収まる古書を切望していた人間の一人であったのだ。
「それ!」
「見終わったら貸すよ」
「イルーゾォ愛してる!」
「ばっ、止めろよ!」
は感激の為にイルーゾォへと駆け寄り、ぎゅうっと両腕で抱き締めた。彼女の行動に彼が声を上げる。ホルマジオは寝転がったままイルーゾォの慌て様を視界に入れて笑った。ソファへと座ったままに抱き締められた彼は、後頭部へと感じる柔らかな感触に顔を赤くしている。
「おー、おー、幸せそうな顔してんなあ?」
ホルマジオがイルーゾォを茶化して、彼からキッと睨まれている。赤面でそんな目をされても怖くもなんとも無い。そこいらの猫の睨みの方が効くぜ? とばかりに、ホルマジオは笑う。
自身の腕の中で足掻くイルーゾォを漸く開放してやったが、ホルマジオを指差した。いや、良く見れば指は彼ではなく、彼の直ぐ側に落ちている物体を差している。
「ホルマジオ、の?」
彼女の指の差す方を辿ったホルマジオは、身を起こしそれを手に取った。それは先日の戦利品の一部のチョコラータだ。彼女の視線が釘付けになっている菓子を、ホルマジオは親指で弾いた。それは垂直に空中へと跳び、やがて重力に従い落ちて彼の手中へと戻る。にやり。彼は唇を吊り上げる。
「、賭けだ」
「大負けして来たくせに」
「これで勝利の女神とヨリを戻すんだよ。んでもって大勝、俺は幸せいっぱいだ」
彼の台詞を彼女は鼻で笑った。イルーゾォが呆れた顔で賭けの内容を尋ねる。それにホルマジオは自身のポケットへと手を突っ込んで、取り出したのは何の変哲も無いコイン。大方、今朝負けてきた店の物である。それが何処の店なのかは近くで見れば分かるだろうが、離れて立っているには確認出来ない。ホルマジオはどちらの面が表か決めて、翳して見せた。
「自身満々なくせに二択の賭けかよ」
「うっせえよ」
ピンッと弾かれて、先程のチョコラータ同様に垂直に空中へと跳ぶコイン。菓子と違ってクルクルと回りつつ、落ちる。やがてホルマジオの片手がそれをもう片手の甲へと隠す。勿論イカサマは無しだ。二択のそれから、深く考えることも無く彼女は裏を選択して口に出した。スッ、と除かれる彼の片手。彼の手の甲へと鎮座するコインが見せる面。
「ホルマジオ、溜息吐くと幸せが逃げるよ」
「くっそ、嬉しそうな顔しやがって」
「チョコ、ちょーだいな。不運なホルマジオさん」
ホルマジオの親指はチョコラータを彼女へと向けて弾いた。それは放物線を描いて彼女の手中へと収まる。彼女の指先が包みを剥がして口内へと放り込んだそれは、直ぐに舌の上で溶けて無くなってしまった。
「可哀相なホルマジオには、チェーナの要望を聞いてあげましょう」
「え、ずりぃ!」
「不幸中の幸いだなあ」
ホルマジオが料理名をへと告げる。彼はそれのついでとばかりに賭けに使ったコインを彼女へと向けて弾いた。彼女は受け取ったコインを無造作にポケットへと放り込んで、元々行こうとしていたキッチンへと向かった。献立は少しばかり変わってしまったが。
カツンッ、とポケットから零れ出たそれは床に打つかった。それが立てた音には、同じ場所から取り出した携帯電話を片手に移動する発生源へと視線を合わせる。床へと打つかった後、具合が良かったのかそれはコロコロと転がり、やがてカツンッと小さな音を立てて上等な靴に衝突し、伸びる移動距離に終止符を打った。コインは、表を上にしてパタリと倒れてしまったのだ。
先日ホルマジオから貰ったコインの存在を、今の今まで彼女は忘れていたようだ。パンツのポケットの中にずっといたコインは、洗濯機でガラゴロ回される中でも、ずっと其処にいた。風に揺られて水気を抜かれる時も、アイロンで皺を伸ばされる時も、彼女が携帯電話を其処へと滑り込ませる際にも、其処にいた。そして取り出す際に零れ出たらしい。
「賭け事に興味あったか?」
自身の靴に打つかったコインを身を屈めて拾い上げ、それの表と裏を見たプロシュートは、へと聞いた。彼の指先で遊ばれるコインを一視した彼女は、肩を竦めた後、貰ったものであることを告げる。あぁ、ホルマジオか。と、呟くように言うと同時に彼の親指で弾かれたコインが放物線を描いて、彼女の元へと帰って行く。受け取ったそれをは、同じポケット内へと滑り込ませ、一度頷いた。今度は忘れない。という確認だろう。
「なんだかペッシ、幸せそうね」
幾分遅れてリビングにやって来たペッシへと視線をやった後、彼女はプロシュートへと言った。ペッシはリビングの入り口で、似合わない薔薇の花束を胸に抱えて照れ臭そうに身じろぐ。
「このマンモーニが。少しばかり微笑まれたぐらいで舞い上がりやがって」
つい先程までコインを弄んでいた指先で、取り出した煙草を挟んでプロシュートが言う。その言葉から連想し思い浮かんだままに彼女も言った。
「あぁ、この間言ってた子。その薔薇は今から渡しに行くの?」
「渡しそびれたもんだ。情けねぇ。それでも男か」
「勇気がいるんだよ。プロシュートには分からないよ。ねー、ペッシ?」
ペッシは困ったような笑みを中途半端に浮かべて返した。そんな風に言うだって、彼にしてみたらプロシュートと同等であったからだ。兄貴の横に立っていても見劣ることは無く、それどころかお似合いに見える。そう思ったペッシは同意を求める彼女に、何とも返せない。代わりと言ってはなんだが、自身が抱える花束の今後についてを口にした。
「コレ、リビングにでも飾るよ……」
そう言ったペッシをプロシュートの長い足が蹴るのは早かった。数枚の深紅の花弁を宙へと舞わせたプロシュート。飴と鞭。それの鞭が撓ったのだ。彼は床へと尻を突いたペッシを逃がさない。花束を間に挟んだまま互いの額を合わせて、有り難いお言葉つまり飴をやる。
一分もしない説教が済んだプロシュートは、ペッシの抱く花束から花弁の欠けていない一輪をスッと抜き取った。それは何と無しに二人のやり取りを見守っていたの目前へと差し出される。
「え、いらないよ」
そう言ったに、プロシュートは片眉を上げる。今度は彼女に対して説教を始めるかと思われたが、彼はすんなりと差し出したものを己の手元へと戻した。そして揺れる花弁をほんの少しの茎を残して折る。彼はそれを指先で掴んだままに、彼女との僅かな距離を詰めた。
彼の動向を視線で見守るを他所に、プロシュートは彼女の右耳の辺りの髪の流れを耳へと掛けるように梳いた。と、同時に差し込まれるそれ。
「プロシュートに愛される女性は幸せだろうね」
指先で撫でた薔薇の花弁は心地好い。が自身へと飾られた華に触れながら言えば、プロシュートからはこう、返って来た。
「おめーはずっと幸せだってことだな」
勿論、本気のそれじゃあない。
「まずはペッシが一人前になること。そうしたら、プロシュートは幸せ、かな?」
「どうだろうな。マンモーナも、此処にいるからな」
がプロシュートの横っ腹を小突いた。彼女の髪に挿された薔薇の花弁が揺れるのを見ながら、なんだかペッシは頬が緩むのだが、尻を突いたままの彼にやがて再度鞭が撓ることだろう。
読書に集中したいなら、自室が一番それに適した場所であろう。何故なら施錠する事が出来るからだ。中には、それをドアノブどころか扉までも巻き添えで破壊する奴もいるが。兎も角、自室であれば比較的静かに読書出来る。また、アジト内に限らないのであれば、殆ど帰っていないアパート。其処なら急な任務が入らない限りは、時間の概念以外に邪魔者はいない。それでが今、何処にいるかと言えば、読書に不適切であることに定評のある、アジトのリビングであった。
綴られる物語の半分よりは少し手前、一枚の栞が文字を遮っている。それを除き、中断された物語の世界へと再び浸ろうとしたの肩口に、顎を乗せて邪魔をする者は言わずもがな、メローネである。彼女の指先から栞を取り上げた彼は、彼女の耳元で声を荒らげる。
「うっわ、が奥ゆかしーぞ!」
失礼な物言いだ。彼は栞を後方へと翳している。ただの栞だったら、彼もただの紙切れに食い付きはしなかっただろう。残念ながら、と言うべきか、その時彼女が使っていた栞は変哲も無い紙切れではなかった。
「アァ?」
メローネが栞を翳した先で、ギロリと視線を上げたのはギアッチョだ。彼の目が栞を捉える。メローネが言った"奥床しい"がどの部分にあるのか考えた彼は、直ぐにそれが何なのか分かったようだ。でも納得は出来なかったのかもしれない。何時もの調子でキレ始めたのだから。
「何の花弁だそりゃ? つーかよォ……押し花っつーが、それじゃあよォ、押し花弁じゃあねえーか? いや、そもそも押し花なんて名前が納得いかねえ……クソッ!「で、手作り?」クソッ!」
「折角貰ったから押し花にしてみたの」
「やり方はイルーゾォあたりに教えてもらったんだろ」
「あたり」
ぶつくさ言いながらキレるギアッチョを無視して二人は会話を続けている。彼に話しを振ったメローネさえ、構うことが無い。メローネはの持つ本の活字へとチラリと目をやって、嫌そうに舌を出して見せた。それに彼女は片眉を上げる。が、それまでだ。別に彼がそれを好いていようが、嫌っていようが、どちらでも問題は無いのだから。
「小難しいものなんて、必要ないさ」
彼女の手から本を奪い取り、それをポイッと無造作に放り投げたメローネは、彼女の太股の上へと自身の頭を預けた。栞を挟む隙を与えなかったそれは壁に打つかり、床へと落ちる。本の持ち主がイルーゾォであることを知っていてやったのだろう。この男は。はメローネを見下げて溜息を吐いた。
「あー、ベリッシモ幸せー。な? 難しいことなんて、ひとっつも無い!」
「ディ・モールト邪魔だよメローネ」
メローネはを見上げながら笑い声を上げた。そこでギアッチョは二人が自身の話しを聞いていないことに気付き、メローネが現在進行形で行っている事について声を荒らげる。
「メローネ、テメェ何やってんだッ!」
「膝枕だよ。ひ、ざ、ま、く、ら。羨ましいならそう言えよ! あんただって幸せに浸りたいだろ?」
メローネの唇が、ギアッチョに向けて挑発的に歪められた。それに彼は顔を真っ赤にさせて、まだ上限があったらしい声をさらに荒らげる。喧しい。
「だァアアア! メローネぶっ殺す!」
そういってスタンドを発現させるギアッチョ。彼の怒りが上がる度に、部屋の温度は下がるというのに、彼が否定していないことに気付いているメローネは、けたけた可笑しそうに笑った。その直ぐ上で、は、寒さでカタカタ歯を鳴らす。他所でやれと紡いだ唇の血の気は、既に失せた。
頭蓋骨を鷲掴みぐらぐらと揺さぶられているかの様な頭痛。平熱を二度三度も上回る体温即ち発熱。鼻は詰まるし、くしゃみが出る。喉は痛むのに、さらに咳まで我慢出来ずに出てしまう。それらの症状に、は襲われていた。吐いた溜息は生温いし、視界が霞む。
「つまり、風邪だ」
ベッドへと横たわるへと、傍らに立ったリゾットが見下ろしながら、そう宣言した。その病症の為に涙目のは瞬きをしつつ、メローネとギアッチョのやり取りに巻き込まれた先日のことを思い出す。全快した暁には、血気盛んな奴等の血を抜いて落ち着けてやろうと、彼女は決意した。ら、また咳が出た。彼女の額の上に乗っていたタオルが、ずるりと落ちる。温くなっているそれをリゾットは拾い上げ、氷水に浸して固く絞った。そしてそれは再度同じ場所に戻される。
人間、身体が弱っている時は精神的にも弱くなるものである。全人類に共通することかどうかは定かではないが、少なくとも風邪に参っていたには、それが当て嵌まっていた。何とも情けない声色で、彼女は問う。
「……リーダー、幸福って何?」
見上げた彼女の目と、彼の見下ろす目が合う。通常より多い、角膜を覆う涙。の目を、リゾットは普段と変わらぬ双眸で見返しながら、薄っすらと唇を開き彼女の疑問へと答えた。
「……満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ」
「そんな、辞書的なことじゃあなくてっ、さぁ……」
は困ったように笑った。困りたいのはリゾットの方であろうに。
彼女の熱の為に紅潮している頬に、汗で濡れた毛先が張り付いている。随分弱っているな。と、リゾットは彼女の髪を梳くように指先を滑らせた。がくすぐったそうに身を捩る。
「じゃ、リーダーの幸せって、なに?」
「……そうだな」
一度言葉を区切ったリゾット。そうしないうちに彼は続きの言葉を紡いだ。
「お前に名前を呼ばれたら」
は噴出すように咳をした。リゾットは、噎せ込む彼女を平淡に見下ろしている。
「冗談だ」
「……それでッ、リゾットの幸せ、はッ!?」
痛む喉の奥から搾り出すように、批判の意味を込めて、彼女は呼んだ。キッと睨むような視線を受けても、リゾットの双眸は変わることなく彼女を見下ろし続けている。が質問の答えを切望している様を見て取った彼は、あっさりと言ってのけた。
「お前達と出会えたこと。かもしれないな」
「……」
「何だその目は」
「だって……」
「……まあいい。寝ろ。休んで早く治すことだな」
リゾットは視線を部屋の扉の方へと向ける。もその視線を追うように扉へと目を向けた。其処に何があるというのだろうか。
「皆、お前の全快を待ち望んでいる」
すると途端に、扉の向こうから騒がしい会話が響き始めた。熱に浮かされながらも、一つ一つの声を拾い上げたは、其処にメンバー全員がいることを知る。一際大きな声を上げるメローネ。いや、そんな彼にキレるギアッチョの方が煩いだろうか。どちらにせよ頭痛の酷い脳にそれらが響いて止まないが、それでも皆が其処に揃っているということが理解出来、またその事実が彼女の心中に流れ込み溶けていった。
「静かにしないか」
病人の部屋の前で、喧しい。そう扉の方へと言葉を投げ掛けたリゾットに、メローネの余計な一言が返って来る。
「リーダーが襲うとか、面白い展開を望んでるんだ! 俺達!」
「てめっ、巻き込むんじゃねえよ!」
「……メタリカを喰らいたい奴は、残れ」
ばたばたと暗殺者らしからぬ足音を上げながら一目散に皆逃げた。その途中で転けたらしいペッシを叱咤する、プロシュートの声が響いた。
「……満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ」
呟いたを、リゾットは再び見下ろした。彼女は口元を隠して、それでも笑んでいることが隠せぬままに言う。
「私、しあわせです」
その言葉にリゾットも僅かに笑んだ。それを見上げた彼女がぎょっと目を見張るものだから、照れ隠しなのか、彼は自身の片手で彼女の両目を覆うことでその視線を遮った。
辿り着いた答えに、彼女は彼の手の平の下で瞼を閉じる。平凡な日常にたっぷりと含まれている幸福を得るために、今は風邪を治すことが先決である。
脳裏にもう一度、自身の幸せを呟いて、彼女は眠った。おやすみ、。幸せな人よ。