彼女の舌は嘘を吐かない
事に依ると、それは嘘を吐かれるよりも話を煩わしいものに変えるかもしれない。
彼、ペッシが此処暗殺チームへと加入してから早一ヶ月。されど彼は知らなかった。アジトに身を置く人数が彼の認識とは違うことを。九人、彼は己も含めて九人であると思っていた。一月の間、教育係のプロシュートに付いてアジトを空ける日数も少なくは無かったがそれでもペッシがアジトで過ごした時間が無いわけでなく、確かに彼の視界に入ったことがある人物は八人、それで全てであった。勿論、彼が加入してから或いはその前より長期の任務に就き不在を決め込んでいた者はいない。確かに存在していて、只単に誰一人としてその名前を口にしなかっただけ。別にアジト内にて禁句になっていたわけでもないが偶々発せられなかった、彼女の名前。
だからペッシは、二月目に入ってから直ぐに顔を合わることになった彼女に酷く驚いて見せたのだ。、その初となる対面時には知り得なかった彼女の名前。色素の薄い髪色や肌色が彼女自身が纏う空気をより冷たいものにし、青白い顔色の為に唇の赤がより一層に目を引いた。彼女はその赤い唇を薄く開いて呟くように、小さく言葉を漏らして問い掛けた。いや、それは疑問を投げ掛けたものではなく単なる確認のように彼の鼓膜には響いた。
「貴方が新入りね」
自身の鼓膜を震わせたその言葉に喉へと詰まった空気と共に返事をしようとしたペッシ。彼のそれを遮るように、またその場に在る重たく冷たい空気を払うような声色を聞かせたのは、の肩を抱くようにして彼女の横に立っていたジェラートだ。ペッシはからきし駄目だというわけでもなかったが、頗る勘が冴えるというわけでもなかった。己の名を彼女の耳元へと寄せた唇で囁き教えてやるその様子と、元よりだが其処に在ったの吊り上がっている目尻、眉根に在る溝。息の詰まる空気は横っ面を叩かれたというのに依然として其処にある。いや寧ろ、その重苦しさを増したような。ペッシがその場から逃げるように立ち去るのも無理もない。自身の見せた背中に向けられているであろう視線。彼は背筋を這う嫌なものを感じながら早く、早くと遁走した。
「ぁア? 何だの事を知らなかったのか?」
数日後、ペッシは自身が目撃した女についてを兄貴分のプロシュートへと問うていた。そこでペッシは初めて彼女の名前がであること、自身が加入する前から彼女が此処へと身を置いていたこと、またその後一ヶ月間もずっとアジト内にいたことを知る。気付かなかった、その存在を視界に入れたことがあっただろうか。無い、気がするがまさかそんなと自信もない。ペッシの様子に目を向けたプロシュートは唇で挟んだ煙草へと火を灯しつつに言った。
「あいつは大方部屋にいる。今の今まで会わねえのも有り得ンだよ」
吸って、吐いた煙へと視線をくれてやることないプロシュートの言葉にペッシは図体が大きいばかりで身を隠すようにその身体を縮こませた。彼は脳裏に先日の空気の冷たさを思い出してはぶるりと身震いするのだ。プロシュートは丸まった彼の背筋をただ叱咤した。
数日経っての二月目内、ペッシがの姿を目にしたのは全く僅かの三日だ。それも時間にすれば五分いかないだろう。目にしたのはリビング、キッチン、そして廊下だ。以後、ペッシは三つの疑問を覚えることとなる。一つ目、はアジト外へは一歩足りとも足を踏み出していないのではないか。彼の漏らした疑問に答えたのはメローネだった。暇そうに突いた頬杖で自身のスタンド、ベイビィ・フェイス本体の画面を覗き込んでいたままに言ってやった。
「期間が彼女の一生の内だってならそんなわけないだろって笑って否定する。だがな、確かにはお前が此処に来て以後は出てないな」
ペッシは難しい顔をして二つ目の疑問を零した。任務がどうなっているのか、だ。これもまたメローネは答えをくれてやった。
「のスタンド能力の仕様上、外に出ることが出来ないといった事実は仕事に手を出すのに支障無い」
答えを俯いたままに息と呑み込んだペッシにメローネは興味尽きたとばかりにエンタキーを弾き上げてからソファより腰を上げた。その足がキッチンへと向かうのはきっと喉でも潤す為だろう。
カラカラの喉とぐるぐると回る思考回路の中でペッシは三つ目の疑問を口にしなかった。メローネの言葉、"外に出ることが出来ない"というものと自身がその目に映してきた事柄。最初の対面を含めて四回。その僅かでいて全てが彼女独りではなかった事。――の側には必ずソルベかジェラート、或いは二人揃っての姿がある。ペッシは音として発せぬままに形作った。彼女、は、ソルベとジェラートに軟禁されているのではないか。
ぽたりと、ペッシのこめかみから垂れ落ちた汗が膝上で握りこまれている彼自身の拳の上に弾けた。思い出すのは四度の間の彼等の空気。彼等に愛される一方で冷淡な彼女の様子。向けられるそれに同等のものを返す事無く、寧ろ二人のことを嫌うような、憎悪や殺意さえ抱いているのだろうと思える、様子。疑問は、彼の喉を締め付けて呼吸を困難にさせた。それでも、ペッシがその疑問を口にすることはない。只の事実、彼がその疑問を音として口に出すことは無いのだ。キレている男達だと教えられている二人にそのような言葉を吐けるわけがなかった。
実に彼女は弱く、それでもその舌が嘘を吐くことはなかった。
背筋を下から上へと這い上がった感覚とは裏腹、背骨を撫で下ろすような悪寒。それで遂にはその唇から拒絶の言葉を吐いてしまった。彼女はハッと目を見開いてからその言葉を吐いた自身を戒めるように手で口元を隠し、そしてギュッと瞼を閉ざした。追いやられた涙は珠となり彼女の頬へと滑る。震える睫毛。また彼女の身体そのものも小刻みに震える身震いを見せている。誰にか。それは二人で、ソルベとジェラートその人らだ。
違う。違う、と否定の言葉を吐くの口元の手を除いたのはソルベで、彼女の言葉を呑み込んだのはジェラートだ。くちゅくちゅと水音が響く室内に満ちる仄かに甘い香りは脳神経を痺れさせるようだ。それを意識する余裕をは持ち合わせてはいなかったが、確かに彼女の肺はそれに満たされている。今は、ジェラートと分かち合ったそれだが。
離した唇の後、の目をジッと覗き込んで確認したジェラートが身を引く。その動作の為に彼女の中のそれもずるりと抜き出され、否が応でも嬌声を漏らす他彼女に出来ることはなかった。緊張の為に絞まった喉でも零れさせてしまうそれがまた漏れる。埋もれていたそれが両方抜き出された為だ。一度息を詰め、短く数度にわたり吐き出したは自身の背の肌に触れているソルベの肌の熱と心音に薄く目を細め、そして唇を引き結ぶ。薄く開いた唇が発するのは何か。
「私、――」
何かを言うとして開かれた彼女の唇はジェラートの指で遮られ、彼の彼女を見る目はその言葉を吐くことを良しとしてはいなかった。の見るジェラートの眼球はちろりと動いて己の後ろに位置するソルベへと向けられているらしかった。浅い呼吸と波間を漂うように鮮明とは程遠い思考回路。は常時の顔色の悪さを情事のために僅かに血色良くさせていた。それでもまだ彼女が纏う空気は冷たく、その肌は病的に青白い。
室内には三人分の静かな呼吸音と時を刻む小さな音だけが響いていた。身を捩った分の時折軋むベッドの音は場を損なうものには成りえない。甘い香りと、肌と肌が重なった分に分け合う体温は意識を酷く曖昧にさせる。身体はもう震えてはいなかった。
きっちりと衣服を着込んだ三人、内一人ジェラートが時計へと向けた視線で仕事の時間を告げる。ベッド縁へと腰掛けていた、の隣へと座りこの数時間後には使用することとなるだろう自身の得物を点検していたソルベがそれに答えた。は伏せていた視線を数字へと向けて音にせず形だけでそれを確認した。得物を仕舞い終えたソルベの手がの髪をぐしゃりと撫でる。少しばかり力の強いそれに目を細めた彼女に向けて笑ってみせたのはジェラートで、彼もまた一本のナイフを手の内で遊んでから懐へと仕舞い込んだ。
二人揃っての任務で一週間程帰らない。というのを既に聞いていたはベッドの上から、ソルベが扉を開けそこからジェラートが廊下へと足を踏み出すのを見ていた。ソルベもまた踏み出した足でその身体を部屋の外へと出す。眉尻を下げた二人の視線を見返しながらは何かを言おうとして、そして唇を閉じてその行動を止めた。ぱたん、と閉じた扉が立てた音は物悲しく部屋に響く。小さな音であったはずなのに。
少しばかり待ってから、ベッド縁から腰を上げたはその足を窓際へと運んだ。日差しを遮り景色を遮っていたカーテンを引き、眩さに目を細めて、瞬く。そして見下げた情景の中に在るソルベとジェラートの姿を見つめ、瞼を閉ざした。胸の前で組まれた右手と左手の指はまるで許しを乞うようだ。彼女が開けた目で見た景色に既に彼等の姿は無く、はちらりと眩いばかりの太陽へと目を向けて眉を寄せた。歪めた口角で吐いた侮蔑はそれに届かずきっと重力に抗えぬままに自身の身体へと落ちてくるだろう。いや、寧ろそれはその身体を貫きさえするかもしれない。拒絶するように引かれたカーテンは室内の甘い香りを僅かに揺らした。
――を知る者も知らぬ者も無力感を味わうだろう。所詮それらを変える術を人は持っていないのだ。
迷える"子羊"とは程遠い風体で身体を縮込ませてそのドアノブへと触れるか触れまいかで悩んでいるのはペッシだ。挙動不審という言葉が嵌るに過ぎるその様へと嫌らしく笑ませた目を向けているのは彼、メローネで、またその彼は片手に持った紙の束から音が騒々しく立つように態とらしく振ってみせた。跳ねるペッシの肩と心臓。漸く己の存在に気付いてもらえたメローネはペッシが慌てて手を遠ざけたドアノブへと詰め寄り、そしてそれを握り込んだ。後はそれをちょいと回して押し開けるだけだ。それなのにメローネはペッシの顔を下から覗き込むようにして観察する。息を詰めるペッシはメローネの言いたいことなど一つも分からぬといった具合で最小限の呼吸を努めていた。だからメローネは、態々開いた唇でゆっくりと言葉を紡いでやったのだ。
「に用があるんだが、お前も入るか?」
ペッシの返答など聞かずにメローネはその扉を開けてしまったが。
軽い挨拶の言葉を吐きながら部屋へと足を踏み入れたメローネに釣られるようにペッシもまたその空間へと足を踏み入れた。ベッドの縁へと腰掛けていたの冷たい視線がメローネへと向けられている。ペッシはびくりと身体を震わせた。
「メローネ、また確認も無しに入ってきて……」
「悪い悪い、でもこれが必要だろ? 次の仕事分の。顔写真に正しく氏名生年月日その他諸々の情報付きの只の紙の束とは言い難いこれが、さ」
「確かにその紙が必要になるわ。でも次は無いからね」
一触即発のその様子をびくびくと見守るペッシはそのやり取りが何時も同じで、幾度も繰り返されてきたものだとは知らない。メローネから視線を外したは今気付いたとばかりにペッシへと視線を置いて僅かに上唇と下唇の間へと隙間を作った。
「思春期でいて初心な餓鬼みたいに扉の前に張り込んでたんだぜ、こいつ」
メローネの吊り上がった唇とこいつと向けられてくる指にペッシの視線は床のラグへと向き、また顔は血流の良くなった為に赤味を増した。一つだけぽつりと在る椅子へと座り込んで足を組んだメローネは只の世間話、それもどうしようもなく変哲も無いありふれた世間話をと始めてしまった。大方喋るのはメローネで、は彼の言葉に頷いたり小さな返答を返すのみだが。
部屋へと数歩足を踏み入れた場所で下を向いたまま一向に動作を見せぬペッシへと視線を向けて数秒考えたは、彼へと座るように促す言葉を吐いた。彼女の促すそこはソファで、大きさから見るに三人掛けのもの。ペッシは息を呑み、そして小さく吐き出したのは二酸化炭素と共に確認だ。
「……――を、聞いてもいいかい」
主語を聞き取ることが出来なかったは首を傾げてその項を伝えた。ペッシを見る視線はメローネのものも混じっていた。
「その、……ソルベとジェラートの、こと」
「ソルベと、ジェラートのこと。……二人のことについて、私に何を話すことを求めているの?」
「えっ、……その、……」
「ペッシはさあ、ソルベとジェラートがあんたに何をしたのか知りたいんじゃないか。なあそうだろ、ペッシ?」
ペッシの代わりとばかりに言葉を吐いたメローネはソファの前のテーブルへと紙の束を放り出した。それを見て小さく溜息を吐いたは視線をペッシへと戻してからもう一度、座ってはどうかと促した。ペッシは困惑したままに突っ立ったままであった。彼女はそれをジッと見て、そして視線を外した。彼女の向けた視線の先はカーテンで遮られたまま外の景色の見えぬ窓だ。
時計の秒針が一周した。小さく呼吸をしていたが言葉を発したのは秒針が天を真っ直ぐに指した時だった。
「……ソルベは私の家族を殺したわ。私には血の繋がった、姉や妹はいなかったけれど。確かに血縁関係にあった母と父はソルベの手で殺された」
淡々とした声色で紡がれたその内容にペッシは只さえ辛いばかりの呼吸で息を呑む。呑まれた空気の歪な音に視線をペッシへとやったは彼の様子に目を細める。不安気に揺れる彼の目に見返される、その二人へと視線をやり足を組み替えながら続きを促したのは残りの彼、メローネ。
「ジェラートは?」
「ジェラートは、」
「あんたを閉じ込めた、だろ?」
「……促しておいて言葉を取るの」
「だがこれもまた事実」
「そうね、事実だわ」
ペッシは己の鼓膜から脳味噌へと飛び込むその内容に顔色を悪くして尚二人の会話に耳を向けてしまう。事実だと繰り返し言うその唇へと視線を向けた彼は彼女の青白い肌で一際映える赤に身震いした。は、ペッシの挙動を視界に納めて、三度目の言葉を吐いた。
「ねえ、ソファにでも座ったら?」
堰を切ったように首を左右へと勢い良く、それは音が鳴りそうに、ぶんぶんと振ったペッシ。彼は何か言おうと唇を開き、それでも言えぬとばかりに閉じた。そこからは早い。身を返したペッシは扉が壁に打つかる程に開け、そして出て行った。跳ね返った扉が中途半端に廊下を見せている。
呆然としていると、こうもなるだろうといった表情を浮かべるメローネ。扉を閉めに立ち上がったのは後者だ。丁寧過ぎるほどに音を立てず閉め、そして振り返った彼が問い掛けた。
「なあ、死についてどう思う?」
は眉を寄せた。そして数秒の後に自身の答えを教える。
「救いか、……報い、ではない?」
「そ、……じゃあ、あんたは救って欲しかった?」
「……これもまた救いよ。……メローネ、あまり難しい質問は止して」
に向けて笑ってみせたメローネは返した踵で椅子へと座り直し、また足を組む。その爪先を揺らしながら彼は話を続ける。
「俺とあんたは似てる。同じ、じゃないか?」
「同じじゃないわ」
「何所が」
「少なくとも、性別が違うじゃない」
「成る程確かに、娼婦と男娼じゃ同じじゃない。だがそういうことを言いたいんじゃないだがな」
ふらりと立ち上がったは窓際へとその身を寄せる。窓枠の中の景色を広げるように寄せたカーテンで、どんよりと曇った空が彼女の視界で見て取れた。分厚い雨雲だ、今朝は眩しい程の快晴であったというのに。
メローネは窓硝子へと手の平を添えるを視線で見守り、そして言葉を待った。彼女は振り返ることなく背中で彼へと言った。
「私は、……メローネみたいにショウカ出来てないもの。……能力に昇華することも、過去として消化することもないまま」
「……籠の鳥は保護されているのか、それとも――」
「メローネ」
「あー、ごめん。黙るよ」
振り返ったの少しばかり吊り上がっている目尻へと視線を向けてメローネは謝罪の言葉を吐いた。そして彼は彼女の背後に窺える曇天をちらりと見て、口角を吊り上げる。足を組み替えながら。
「外に出られないあんたに教えてやるよ。今日は午後からどしゃぶりらしい。あと、ソルベとジェラートのお帰りも、午後の予定だ」
彼がジッと寄せる視線の先で彼女の眉がぴくりと動く。メローネは笑い声を上げながら椅子から腰を上げた。そしてつい先程まで同じ空間にいた男、ペッシのことを思い出しながらまたその肩を揺らす。は彼の笑い声に鼓膜を震えさせながら視線を時計へとやっていた。腹を抱えるほどに笑った後、メローネは笑い声ではなく言葉を吐く為に唇を開き、そして彼女に言ってやった。
「ペッシの恐ろしいとばかりの様子、滑稽じゃなかったか?」
「……私が化け物にでも見えたんじゃない」
「化け物! 何、例えば吸血鬼だとか? ソルベとジェラートは専用の血液パック?」
「まさかだわ。……メローネと話すの、疲れる」
肩を僅かに落としてベッドへと歩みより、はそこへとまた腰掛けた。時を刻む時計の音を鼓膜へと招き入れ、彼女は目を瞑る。メローネは一つ鼻で笑ったのを彼女へ落とし、そして足を扉へと向けた。この部屋でと喋っているところに例の二人が帰ってくるのは少々ばつが悪い。流血騒ぎにならずとも――いや、下手したらなるのか? 兎に角、そういう方面の面倒は避けておくかと判断したメローネはその部屋を後にする。自身の手で閉めた扉に生まれた人間一人だけの閉鎖された空間。
「……過去は変えられないが、現在は人を変えることが出来るのか否か」
ぽつりと吐き出された呟きは心許無い電灯で照らされた廊下に冷たく響く。今度ばかりは鼻で笑うでなく、彼は溜息を吐いた。自身の体には甘い香りが僅かに移っている。きっと、感傷的になるのはそれのせいだと歩みを始めた彼は一度の瞬きの間に拭って口元へ常時の笑みを戻した。ぱちりと、電灯も瞬いた。
述懐するもせぬも同じ。時を毟り取るその手は非道なまでに残酷だ。
窓を打つ雨粒は強く、窓枠を震わせ音を立てる程に風もまた強かった。雨の河が流るる硝子窓などには目もくれず、いや、やる視線がなくは静かに細い吐息を押し出した。彼女の視線は彼女自身の目元を覆った手の内にある。ソルベ、その手の持ち主である彼は何を言うでもなく彼女を膝上に抱き、その視界を閉ざしていた。彼女の背中に響く彼の心音。天候とは裏腹な穏やかなもの。
を膝上に抱くソルベの背へと背中を預けるジェラートは徐に上げた顔で思い付くままに唇を開いた。
「あの日も、こんな悪天候だったよね」
きっとソルベの手の下で、彼女の眉はぴくりと動いていたはずだ。が重力に従うままにシーツへと下ろしていた手へと己の手を重ねたジェラートは背中はソルベへと預けたままで目を細める。彼の遠くを見るような視線は過去へと思いを馳せていた。
「あの時のお前の言葉、それに表情。今でも印象深い」
「それ、オレは見てないんだけどね」
少しばかり呼吸の乱れたの項へと唇を寄せたソルベがその場でそのままに言って思い浮かべた今より幼い彼女の姿。ソルベは呟くように過去の事柄をその唇から彼女の首元へと伝い落としていく。
「胸糞悪ぃ任務の一つだった。身の程を弁えねぇ娼館をまるまる一つってのは。……分別も付いてないような餓鬼までいた」
悪天候は極まり、遠くに稲妻の光が走る。閃光に浮いた三人の姿。各々が心内に浮かべるのはいったいなんだというのか。
「お前の、両親を殺した日」
建物が僅かに揺れるような感覚。どうやら雷は近場に落ちたらしい。唸るようなその音に肩を跳ね上げたはソルベの手の下でその瞳を涙で濡らした。まだ彼女の涙は粒となってその頬を滑り落ちぬ。
「終えたつもりが数が足りねぇと俺が手を掛けた家具にお前は隠れてたんだったな」
「……必死に身を縮めてたわ。中に潜んでも、細い、光の線が私の体にかかってたの。……恐かったわ、喉は引き攣って悲鳴の一つも出さなかったけれど……」
思い出そうとせずとも浮かぶ過去が喉元を緩やかに、されど確かに絞めていく。の呼吸音の変化にジェラートが重ねた手の指で彼女の手の甲を撫でる。彼女の手は酷く冷たい。それでも、宿る体温は彼女が現在此処に生きていることを確かに訴えている。
「、俺らがしたことはお前にとっては間違いだったか……?」
「……メローネに聞かれたわ、死についてどう思うかって。私、救い或いは報いだって答えたわ。そして此処に在るものが救いであることも」
一際大きな雷鳴が鳴り響いた。ぴりぴりと肌が粟立つ。は静かに零すようにその言葉も漏らした。
「だから、私は報いを受けるの。死は救いと報い、両方であったのよ、……きっと」
覆い隠されたその下で瞼を閉ざした彼女に追いやられて涙はその頬へと滑る。塞いだ視界に鮮明となった聴覚は風雨の激しさをより一層感じた。それでも、部屋で息衝く三人分の存在が掻き消されることは無い。そこに在るものが変わった訳ではないというのに胸を掴まれたような息苦しさ。の愁いを含んだ微笑は物悲しさを強めるばかりで。
「、」
「謝らないで、ジェラート。……それに、選択を誤らないで」
太陽も、青く晴れ渡った空も未だ見えず。
彼等の言葉に深い黒の双眸の視線を上げたのはその二人が身を置くチームのリーダーであるリゾット・ネエロ、その人だ。彼は眉根を寄せて自身へ視線を寄越すソルベとジェラートへと同じように視線を返しながら、ソルベが言ったことを復唱して確かなのかと確認した。それに小さな頷きを見せたのはジェラートで、静かな空間、リゾットは自身の言葉がしかと彼らに届くように薄く開いた唇で言った。
「下手なことは考えるな」
リゾットの視線は鋭い。されどギラつく視線でそれへと返すジェラートが吊り上げた唇、しかし何時もとは違うその笑みを以て言う。
「復讐するは我にあり」
聖書の一節にある言葉。この文中にある"我"とは神のことであり、復讐はするな。復讐をするのは神に任せておけという意味である。その言葉一つを残して部屋を出て行った二人の既に無い背中を見るままにリゾットは椅子に座るそれをより深いものにした。彼の言った言葉、彼の返した言葉。復讐するは我にあり。ソルベもジェラートも、神だなんてもの欠片も信仰していない。彼等にとって宗教など、唾棄する存在。、彼女もまた信仰するものを持っていない。だが箱を作ったその存在を神だと言えるなら彼女にとっての神は、彼等の言った我とは。リゾットの押し出した吐息は重い。
それは皮肉なぐらい快晴の日、ソルベとジェラートが消息を絶つ数日前のやりとりであった。
べったりと、別離は恋人のように寄り添っているものだ。その日を運命と呼べばいいのか、それとも運命の日は疾うにやって来ていたのか。箱庭の中に住まう彼女にもその時は訪れる。
連絡が途絶え、消息が分からなくなってから捜していた者が見つかった場所は予想だにせぬ場所であった。行方を暗ましていた者はソルベとジェラート、初めに見つかったのはジェラート。発見者はホルマジオ。その場所は彼等が日々を過ごすのに二番目に頻度が高い、何の変哲も無い二人のアパート。事実がここまでであったなら、現実は非情であるなどといえない。
ホルマジオは胸に渦巻くものとは裏腹、酷く冷静に番号を押しリゾットへと連絡を取っていた。
「……二人のアパートだ。……いや、ジェラート一人だ。……あぁ、――ジェラート一人の、死体だ」
事実、事実を伝える彼はまたその事実を自身の胸中でも呟いていた。ジェラートという自身らも力量を良く知った人物が、個々の空間で死体となった体を晒しているという、事実。彼を殺した――直接手を下した者ではなく、彼が死ぬに至った人物。即ち、組織の頭――の奥底見えぬ力。自身らには一片も見えぬというに、相手は此方のことを何所まで把握しているというのか。
「あぁ、……ソルベを捜そう」
電話口へと重苦しい言葉を呟くホルマジオ。またジェラートの死をホルマジオより知らされたリゾットは、目を伏せてその後事実をチームメンバー等に伝えたがには伝えず、またその事実を彼女に伝えぬように言い添えた。顔色を曇らせたままにその意に沿う意思を見せる面持ち彼等へと視線をやったリゾットはその唇で言う。
「ソルベを捜そう」
継続して行方を捜すこととなった人物、彼もまた非情な現実の元に在った。存在していたというには、不完全ではあったが。
彼、ソルベが見つかったのはジェラートを発見してから数日経ってのことであった。それも最初は彼であると、いや、それが何であるかだなんてそこにいたものには分からなかった。郵便小包、奇妙で理解し難いそれ。一つ二つと届き、三つ目から合間を置かぬほどに届けられたそれは全部で三十六つ。それが何であるかだなんて、途中で気付いて、解ってしまった。それでも、解りたくはなかった。それが何であるかではなく誰であるかだなんて。輪切りの、ソルベ。
悲鳴を上げるようにその事実を口にしながら慄いたのはペッシで、階段の上り口の所に立ってただ事実を目下に置いているの存在に初めに気付いたのはイルーゾォ。続くように彼女に視線をやったギアッチョはペッシがジェラートの事実まで口にしたのをその鼓膜で捉えた。
彼等は聞いた、ソルベとジェラートの死を知った彼女の歪な笑い声を。
事実、ソルベとジェラートは死んだ。二人の死体は揃って同じ場所へと埋められた。これはその翌日の、事実。
の部屋、正しくはソルベとジェラートの部屋だったが、兎に角彼女が身を置いている部屋へと足を向けたのはペッシだった。彼はソルベとジェラートがいなくなった今、はこの先どうするのだろうかという疑問と二人の死に対しての重みを胸中へと抱え込みながらその扉を開いた。何時かに嗅いだ甘い香り。空気の動き、感じた風にどうやら窓が開いていること知る。俯き顔で開けたその扉、室内へと視線を上げた彼は絶句した。
ぶらりと揺れる彼女の四肢は白い。青白い。その事実を視界に納めたペッシは口元を押さえて踵を返した。、彼女の死を目の当たりにしそればかりであった彼には、彼の視界の端、ひらりと舞った紙には何が書かれているのか分からない。
事実、ソルベとジェラート、は死んだ。そこに確かに在ったものとは。
より事実を知る者は言うだろう。全ては定められていたのだと。
楽園を追われたものは何処へ行くのか。また目を背けたくなる現実から追われた者が見た其処は楽園と成り得るのか。その答えを出すのは聖者にも生者にも難しい。死者は語らず、当人のみぞ知る。
久しぶりだった、忍ぶことなく空の下を歩むというのは。一つも違いないようでいてやはり何処かが違う空の下、記憶に殆ど無い煉瓦畳の通りをはふらふらと歩いていた。その歩みは心許無く、足取りは行く先を知らぬようで数歩進んでは止まって左右を伺い、また歩み出すを繰り返している。辿り着くべき場所がどの方向、どれくらいの距離に在るのかなんて彼女には分からなかった。それでも彼女には辿り着く場所が有り、またそれが此処に在るというのも分かっていた。それがどうしてかは分からなかったが。
そして彼女のそれは確信となり事実となる。
「私は独りじゃ生きられない」
彼女の舌は嘘を吐かず淡々と事実を零す。の少しばかり吊り上がった目尻、それでも彼女は確かに笑みを浮かべていた。自身の手で死を手繰り寄せた彼女の瞳へと映った彼等は困ったような笑みを浮かべた。
「だって、ソルベとジェラートが私の全てで世界だもの」
只一つの事実。彼女は彼等を愛していたし、彼等もまた彼女を愛していた。揺ぎ無い事実がそこに在った。