潮騒
沈みかけの太陽は今にも地平線を焼き尽くしそうだ。隣の彼女は人工物の芸術に息を詰めて魅入るが、俺は一息毎に塩辛い空気が自身の肺を満たすものだから、思わず涙腺を潤ませてしまった。
あの太陽になりたい。だなんて、ただぼんやりと俺が呟いたその言葉に彼女は、海になりたい。だなんて返してみせた。鳴り止まない潮騒が俺の鼓膜を震わせる中、彼女の穏やかな声まで俺の鼓膜と身体を震わせるんだから、堪らない。俺の帰る場所で在りたいだなんて言って笑った。
砂浜に四肢を投げ出した身体へと俺は銃口を向けて、目を瞑る。閉ざした視界で際立ったのは聴覚だ。弾けるようなその音より、ただ、潮騒が耳障りだった。
「こんにちはお嬢さん。君の好みを一つずつ事細かに俺に教えてくれ!」
人込みを縫うようにして通りを抜けた俺は、その先で歩みを進めていた目当ての女の腕を掴んで引き止めるように声を上げた。添えられていた写真より幾分短く揃えられていた後ろ髪。それで晒されるようになった首筋に黒子を一つ見つけて俺は口角を吊り上げる。ベネ。
女は俺が声を掛けたことで、いや、腕を掴んだことで歩みをぴたりと止め、自身の腕を掴んでいる人物つまり俺へと振り返った。途端に見開かれる目に、瞳が宝石の様に煌くものだから、俺は内心罠に掛かった獣を見る目で女を見返す。
「メローネ……?」
「……え?」
ところが銃で撃たれたのは目の前の哀れな獣なんかじゃなかったんだ。俺さ。俺は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で女の目を見下ろす。一夜でも抱いた女だっただろうか。いや、違う。身に覚えの無い事は多々在るが、それでも違う。多分。
俺がその女の瞳の中から自身の記憶を四苦八苦して引き摺りだそうとしているのに気付いたのか、女が答え合わせだと口を開いた。
「。……覚えてない?」
名前を聞いて思い出すというなら、標的の情報を書かれた書類を目にした時点で何か思い出している。つまり、俺は目の前の女の名前を聞いても、まったく何一つ脳裏に浮かべることが出来なかったんだ。
俺が片眉を吊り上げているものだからか、女は人差し指を自身の下唇へと当てて、僅かに思慮に耽っていた。そうして薄く開いていた唇から海、潮騒、メローネ。と、単語が幾つか漏れる。その言葉が俺の鼓膜へと滑り込んだ瞬間。俺はアッと声を上げた。の唇が囁いたその単語は、俺の記憶を閉じ込めた箱の鍵に成り得たらしい。その箱は今の今まで深く深くに沈んで埋もれ、形を顰めていたというに、浮かび上がるとやたらと鮮明に脳裏へと拡がる記憶。目の前の彼女は、あの頃より大人びて綺麗になっていた。昔だって綺麗で可愛い子だったんだが、少しだけ幼さを残した大人の女の顔で彼女が悪戯に微笑む。
「思い出した?」
「よく、……俺だって気付いたな」
俺は一寸も思い出せなかったというのに。そりゃあ俺だって、整形したわけでもなければ、暗殺任務の為に変装をしているというわけでもないが、あの頃の面影を残していたとしても、パッと見で分かるものだろうか。彼女のその指先で良く引っ張られていた髪は、あの頃は肩に着くか着かないかの長さが基本だったし、何より本来のものとは掛け離れた色に染めてしまっている。片目を隠すようなアイマスクだって記憶に無いだろうに。
「分かるよ」
それなのに、目の前の彼女は頬を緩ませて言う。
きめ細かな白い肌。その頬が朱に色付けば、その色は林檎を彷彿させる。童話に出てきた白雪姫なんかを、あの頃の俺は彼女に重ねていたはずだ。彼女の微笑みは今も、一つも変わることなく俺の目前へと晒されて、俺は自分のすべき事を忘れたように呆然と立ち尽してしまった。
だから、安っぽい香りを放つ紅茶のカップを見下ろして、俺はハッと我に返ることになった。自分の右手の指先が、カップの取っ手を引っ提げるようにして持ち上げている。視線をティーカップから対面の席へと向けると、其処には俺と同じように紅茶を口元へと運んでいるの姿があった。俺の肩の代わりに、カップの中の紅茶が跳ねた。
俺は何を暢気にお茶なんてしているのだろう。暗殺の標的は、目の前で穏やかに紅茶を啜っているというのに、ひとっつもそういう気が起きない。致死性の薬が入った小瓶だって懐に住んでいるし、此処で使うには物騒な銃の一丁ぐらいも腰の辺りに忍んでいる。いや、比喩表現じゃあなくて、本物の銃のことさ。
「、は」
中途半端に言葉を発した俺に、彼女の飲んでいる紅茶が穏やかに波立つ。俺の言葉は、彼女の名前になる音が発したままに喉に引っ付いてるみたいで頼り無いものだった。呼び辛い。呼んでいいのか分からないしまた、呼ぶとさらに殺り辛くなるということが俺には分かり切っていたんだが、それでも、多分、俺は呼びたかった。
「は、海、見れたのか?」
他人が聞いてもありふれたものしか感じ取れないであろう俺の台詞に、目の前の彼女は目を細め、僅かに口角を吊り上げて笑んだ。そして一度頷く。つまり、経験済みを表す答えだ。俺が瞬きを一度した後に、彼女は唇を薄く開いて発音する。でも――。
「……でも、全然違ったの」
「違った?」
「うん。きっと、メローネの所為ね」
「俺の?」
一人で見た或いは俺じゃない誰かと見た海は、味気無いものだったのだろうか。塩分過多のただの液体の集まりにしか過ぎなかったのだろうか。じゃあ――。
「俺と、もう一度見に行こうか」
だなんて言ってしまったが、良かったのだろうか。
え? と、目を僅かに見開いたのぽかんと半開いた唇が、カップの淵から少し距離を置いたままに子音を漏らした。その様に俺は言い訳染みたことをいうべきだったのかも知れないが、ほんの少し突き出した唇で空気を噴出して笑ってしまう。
「メローネ、この近くに住んでるの?」
「いいや。でも、暫く此処に滞在するからさ。は、一人で住んでるのか?」
質問の答えは本当は既に知っているのだが、俺の質問に彼女は律儀に答えてくれた。
「うん、そうだよ」
「恋人は?」
「いないよ。いるわけないでしょ?」
「そんなまさか。此処はイタリアじゃないのかもしれない。寧ろ此処に男は住んでいないのかい? それとも、ゲイばっかり?」
「もう、メローネったら」
「彼氏がいないってなら、暫く俺に寝る場所を提供してくれないか? 空っぽのバスタブでもソファの真下でも良いからさ。なんだったら添い寝しても良いがね」
「バスルームで寝るだなんてゴメンだわ。ソファなら、どうにかメローネを寝かし付けられるかも?」
懐の中で錠剤が硝子瓶に当たって嘲笑う。ターゲットに接近するのは何も悪いことじゃあない。結局は誇示付けにしかならない言い訳を胸中で呟いて、俺は不味い紅茶を一息に飲み干した。それは何故だかしょっぱくて不思議な味がした。
おれはその時、床に座り込んだまま絵を描いていた。そこにシスターがやって来て、おれの名前を呼ぶ。深海から引き上げられたかのように絵を描く作業から意識を浮上させ、おれの名を呼んだシスターへと視線を向けた。
彼女は目尻の皺を深くしていつも以上に笑んでいたんだが、その彼女の背後、腰の少しばかり下の辺りに隠れるようにして顔だけを出してこちらを覗く女の子がいた。見た感じはおれより年下。人見知りなのか、食い込んだ指先でシスターの服に皺を深く刻ませている。
僅かに開けていた窓から潜り込んで来た風が、カーテンと女の子の前髪を揺らした。それが掠める瞳は深い蒼色をしていて、おれは今の今まで自身が描いていた絵を見下ろして、比べてしまった。まるで、まるで彼女のひとみは――。
「海みたいだ」
こちらを窺う様に顔を出した女の子は、ぱちぱちと睫毛を打つからせながら、果実を思わせる色の唇を開いた。
「うみって、なあに?」
女の子の名前は。その時はその女の子の唇が自身の名を紹介することはなかったが、シスターが女の子の名を呼んでおれに言ったんだ。彼女は、今日から皆のお友達よ。仲良くしてあげてねってね。そうか、この子も孤児か。おれは、僅かにクレヨンで汚れた指先を服の袖に擦りつけた後、立ち上がり、隠れる女の子を覗き込んで手を差し出した。
「君に海を見せてあげる」
また風が穏やかに吹き、揺れる画用紙。紙が立てた擦れる音は、塩水の水溜りが造る潮騒には似ても似付かない。
初夏の、始まりだった。
柔らかな朝日をシーツの中、丸めた身体のままに受けるおれはまるで飴玉のようだ。カーテンの間から差し込むそれがおれの身体全体へと当たっているのだろう。まるで母親に抱き締められているかのように、暖かい。それだから、放っておかなかったのだろうか。おれの身体をゆさゆさと揺さぶり起こそうとするその手は、おれが溶け切ってしまう前に意識を浮上させたかったらしい。
「……起きる。起きるよ、だから」
。彼女の名を呼びながら、おれはまだ眠気の残る自身の瞼を曲げた人差し指で擦った。僅かにぼやけるおれの視界で目一杯に頬を綻ばせる彼女は、俺の起床をお待ちかねの様子で、シーツへと両の手の平を突いている。
「メローネ、おはよう!」
「おはよう。……まだ眠いけど」
は何故だかおれに懐いた。おれはシスターに頼まれたからなのかそれとも、親鳥が歩けば後ろを着いていく雛鳥の様な彼女の姿に思うものがあったのかしらないが兎に角、自身に懐いて縋って来るその指先を無碍に扱うことは出来なかった。
その日は伸ばされた彼女の右手を自身の左手で取って絡め、庭内へと足を運んだ。おれの反対の手にはスケッチブック。色鉛筆が入ったケースはが持って。
おれとの二人が並んで背を預けて座っても充分に余る幹を持った、庭内でも一番長く生きてきたであろう樹の下で、二人で絵を描いて穏やかな時間を過ごした。二人でと言っても、もっぱらおればかりが絵を描いていたが。彼女はおれの手元を頬を緩ませたままに覗き込むばかり。彼女の視線がむず痒い思いでも、おれは白い紙に目に映る以外のものを写し続けた。少し離れた所で遊ぶ他の子供達を見ているようで、描いたのは虎や豹だったりする。虹色に反射されたシャボンが絵の中で舞い上がったのは、隣の彼女から香る石鹸の香りの所為だったのかもしれない。
「メローネは絵が上手だね」
「絵が上手くたって、なんにもならないけどな」
「絵描きさんにならないの?」
「なれないよ」
「なれるよ」
は本当におれが絵描きなんてものになれると思っているようだった。絵描きだなんて職種の人間になる気は一切無かったが、何気ない日々の合間に彼女の隣で絵を描いて穏やかに生きていけるなら、それが素晴らしいことに思えて仕方なかった。シャボンは絵の中でぱちぱちと弾ける。
絵筆を透明な水の中に浸けると、乗せていた青がゆらゆらと水の中に溶け出しやがて、透明な水を淡い青色に変えた。パレットの上の先程より濃い青を筆に取り、絵を色付け、また水で筆を洗う。画用紙に海を描いているはずが、絵筆を洗うための水を海にしているような気分になった。おれの隣では、水に人差し指を差し込み掻き混ぜている。
「メローネの頭の中に入りたい」
「は少しでか過ぎる。おれの頭が破裂しちまう」
「そう意味じゃないもん。……じゃあ、メローネの描く絵の中に入りたい」
「うーん、……それも困るな」
「なんで?」
「俺の隣にいて欲しいから、かな」
絵の具が溶け出した水が床へと撥ねた。波間の岩辺に当たって弾けた様なそれは、がピンッと指を跳ねさせた所為で打ち上げられたものだ。床を少しだけ濡らした彼女は、赤の絵の具は使っていないというのにその頬が朱に染まっていて、白雪姫を思い浮かべた。おれは絵筆を適当な場所へと預けて、指が汚れていないことを確認してから彼女の頬へとそのままに滑らせた。彼女の肌は皇かで、白雪姫だなんて思い浮かべたそれがなんら可笑しいものでもないように感じる。
「っ海!」
「海?」
「見に行きたい!」
「……随分話を逸らすのが下手だなあ」
「うっ、海見たいんだもん!」
「ふーん、海」
「しおさい!」
「潮騒。、……泳げる?」
指先で彼女の髪を遊ぶおれに、は頭の中で海を思い描いているらしかった。海面に日光を反射させる様にきらきらと眩い彼女の瞳に、俺の姿が映りこんでいる。不思議な気分だ。彼女の思い描く海に、おれはいる。
その日描いた波打ち際の絵をは欲しがった。薄暗く彼女の思い描く海の理想には程遠いそれにおれは渋ってしまったが、彼女はこれがどうしても欲しかったらしい。それならばと絵を差し出したおれに、彼女は頬を綻ばせてありがとうを言う。鼓膜を擽るその言葉が照れくさかったんだと思う。おれはの頬に自身の唇を寄せた。二人して林檎の様に頬を真っ赤に染めて、照れ隠しにも何にもならないままに視線を打つけ合い、どちらともなく互いの唇を重ねた。
夏の、終わりのことだった。
が俺に此処へ滞在する理由を尋ねたものだから、俺は自身も良く知った街を何も知らない風にして観光と称した。其処の角を曲がった所にはチームメンバーで良く利用する美味い珈琲を飲めるバールがある事を知っているし、反対の通りへ少し行った先の分かり辛い小道の先に在る雑貨屋はなかなかに心躍る小物を揃えている。観光客が当たり前の様に足を運ぶ場所なんて、飽きるほどだ。それでも、彼女に手を引かれて回るそのどれもが新鮮で輝いて見えた。ありきたりな言葉だろうけど、さ。
楽しい時間っていうのは何をどうしてこんなに早く過ぎ去るものか。薄暗くなってきた景色に、は自身の住まうアパートへと向かい始めているらしかった。夜を出歩くのが物騒なことを身に染みて知っている俺はその手を引き止めるだなんてするつもりもなく、引かれるがままに彼女の背を追うしかない。
そうして観光に来たにしては荷物を全然持っていない俺を一片も疑わぬままに、彼女は自身の住居へと俺を招き入れた。それに加え、夜風に冷えたでしょ? だなんて言って先にシャワーを浴びる権利まで俺に与える始末。暗殺の対象だってのに、無用心過ぎる彼女にヒヤッとした。
はバスタブに浸かるらしい。そうして俺にもどうするか聞いてきて、それに頷けば幾つかの小袋を差し出された。どうやらそれらは入浴剤らしかった。伸ばした指先で掴んだのはいの一番に俺の視線を奪ったものだ。咲き誇る薔薇より、海をモチーフにしたそれを選んだのは自身の記憶に根強く残っている所為だろう。……シャボンにも惹かれたが。
白いバスタブに満たされた透明な湯に、選んだ小袋の封を切って傾けた。ザラザラと青く荒い結晶が、湯の中へと少しの飛沫を上げながら落ちていく。淡い青が透明へと拡がり、右腕を差し込んで何回か掻き混ぜれば青い粒子は直ぐに視覚で確認出来ないほどに液体へと溶け込んでしまった。淡い青に色付き塩分の加わったそれは何時かに描いた海を思わせる。両の手の平で器を作り掬い上げれば、俺の手の中に海が出来た。潮騒は聞こえてこないが、きっと舐めると海の味がするだろうと思った。さすがに、口にはしなかったけど。
僅かに水滴を滴らせながらリビングに戻った俺に、は少々声を荒げた。ちゃんと拭かないと風邪をひくだなんて母親のようなことを言った彼女に、俺は肩に掛けていたタオルを手渡しながら言う。じゃあ君が拭いてくれ、と。彼女は快く俺の手からタオルを受け取ってくれた。
「メローネ、髪、綺麗」
何故か切れ切れに単語を発したに、俺は自身の頬が緩むのを感じた。髪の水分を拭われている為に少しばかり揺れる頭と身体で、俺は彼女へと口を開く。
「ん。ありがと。……昔の方が、好き?」
だなんて聞いてしまったが、別に感傷的になっているわけじゃあない。そのはずだ。
は俺の質問に僅かばかり唇を突き出して考えているようだった。俺は揺られながら彼女の答えを待った。自身に似つかわしくない緩やかな時間の流れ方に、俺は胸中で嘲笑うしかない。皮肉めいたそれもこれも本心が何処へ行っちまったのか、本人といえど解らない。
「んー……どっちも好き、かな。とろっとした蜂蜜みたいな色で、美味しそう」
「食べてみる? その代わり、俺も食べるよ」
「何を?」
俺はジッと彼女の唇を見た後、意味有り気に自身の口角を吊り上げた。視線を逸らしたために彼女の赤くなったであろう顔は窺えなかったが、きっと林檎以上に赤いはずだ。俺の笑い声が空気を震わせた。
ところで俺はソファに座ったままに壁に掛けられていた絵にふと気付いた。そうして今の今まで誰かさんを笑っていた俺は、全人類皆が皆俺自身に人差し指を突付けて笑っているような気分に陥った。額縁に入れられ僅かに色あせたそれが何なのか分かった瞬間、俺は弾ける様な感情のままに身を屈め自身の頭を抱え込む他に許されなかったんだ。
「なんで、……」
「なんで?」
「なんで、あの絵を飾ってるんだ……!」
彼女の部屋には合わないだろうに。薄暗い海が、鳴り響かぬ潮騒を表したままに其処に在った。その絵を描いたのが誰であるのかだなんて、痛い程に分かっていたから、俺は顔に一層の血を巡らせるのだろう。頬が、熱い。
「だって、私の宝物だもん。覚えてる? 渋るメローネにどうしてもって言って貰ったこと」
「あぁ、……覚えてるよ。直ぐ後のことも、ね」
「あっ、……う……それは思い出さなくて、いいよ」
二人して顔を真っ赤にしてどうするというんだ。今この瞬間に彼女と視線を打つけたならどうなるか分かっていた俺は、無理やりに視線を窓硝子へと向けた。其処に見える暗い夜の景色に、頭を悩ませる。こんなの俺じゃないみたいだ。何時だって好き勝手に、自身さえ騙すような言動を繰り返していたというのに。
記憶の中で頬に口付けたのは確かに俺だった。それでも、この瞬間に俺の頬へ唇を寄せたのはだった。俺が俺を抑え付けていたのも知らないで、彼女は俺へと触れたから、俺だって本能のままに彼女の唇へと噛み付く他無かった。記憶と重なるが、記憶の中のそれらはこんなに求め合うものじゃなかったはずだ。俺との指先を絡め、重ねる其処では舌を絡める。互いに大人になったことを強く感じた。
苦しそうに息を漏らしだしたに、名残惜しいが指先も舌も離して解放した。彼女は瞳にとろりとした光を宿して息を整える。
「……」
俺が彼女の名を呼ぶと彼女は、弾かれたように立ち上がった。途切れたり何かに引っ掛けているようなその言葉はどうにも、おやすみと俺に言ったものなんだと思う。は慌てたように扉の向こうへと姿を消した。其処が寝室らしい。バタンッ! と二人の代わりに大きな音を上げた扉を呆然と見守った俺は、知らず知らずの内に入っていた両肩の力を抜いてソファへと身体を沈めた。タオルケット一枚も無いけれど、バスタブの中で眠るよりはマシだろう。消しに立ち上がることも億劫で、灯りは点けたままだ。眩しい。それを遮るように自身の片手の甲を瞼の上へと乗せた。肌から肌へ伝わる熱も、吐き出した息も、吃驚するぐらいに熱かった。
当たり前のように夜は更けて朝が来た。何度目かの朝を迎えようとおれはと寄り添う合う様に過ごしたし、彼女もおれの手を握り返してくれた。思えば、確かな愛の言葉を口にしたことはなかった。それでも、おれの気持ちは言葉にする以上に彼女と共に過ごす空間へと流れ出ていたらしいし、彼女のそれもそうだ。互いにそれを一息毎に肺に吸い込んで生きていた。幼い恋だと大人達は笑うかもしれないが、おれ達はおれ達なりに思い合っていたんだ。
秋の紅葉は誰かさんの手みたいだ。丁度良い花なんかが見つからなくて両の手の平いっぱいに集めたそれをへと翳して見せた後、二人の頭上へと舞い上げるように放って遊んだ。髪に引っかかったり乗ってしまったそれは花弁と違って格好は付かないが、悪くない。おれが笑い出せばも釣られる様に笑った。哲学者なんかは幸福とは何たるかを小難しく考え、探すのに一生を費やすんだろうが、おれはその時確かに幸せというものをの側にいることで見出すことが出来ていたんだ。
「メローネ!」
「、前を向いて歩かないと転ぶだろ」
「っ!」
「ほら、言ってる側から」
「メローネが支えてくれたから、だいじょーぶ!」
おれ達の世界は互いの存在で完結していたから、自身を見ていた他人の存在なんて一片も気付いていなかった。
シスターがおれの名を呼ぶ。おれだけの名を。ちょっと行って来るだなんて笑った頬は、その幾分後には引き攣った。里子に里親。世間的には喜ばしいことなんだろうけど、さ。
イタリアの冬は雨が多くなる。その日も、雨が降っていた。最後の日、だ。一週間程前から別れを知ってしまったはその日、朝から何処かへ姿を隠してしまっていた。おれだって、彼女との別れが辛くて、最後の言葉なんて何を言えば良いのかひとっつも分からなくて、どうすれば良いのか何が最善なのか、分からなくて。それに、最後に彼女の姿を見たら格好悪く泣いてしまうと分かっていたから、視線で彼女を探しながらも院内を駆けて探し回ることはしなかった。
そうしておれを迎え入れる気でいるらしい二人の人間がおれの手を取った。右手と左手、両方を取られちゃの手を引けはしない。そう脳を過ぎって、頭を振った。
「メ、メローネ……!」
漸くかくれんぼを止めたらしいの声がおれの鼓膜を震わせたが、おれは振り返らなかった。おれは今、酷い顔をしている。ぼろぼろと涙を流す格好悪い顔を見せるだなんて、出来なかった。
。土砂降りの雨だ。彼女の名前を最後に呟いたが、きっと雨音に紛れて消えてしまっただろう。
その後のおれのことなど、語るに足らない。おれを里子にした夫婦は、世間で言うところの良い両親だった。そう、だった。仮面を被っていた年月は長いのか、短いのか。血の繋がらない父が死んだのが俺が成人する頃で、薬を買い漁ったままに借金を拵えて死にやがった。同じく血の繋がらない母は、俺を娼館に売り付ける前に何を思ったか俺を組み敷いたんだが、その時俺はスタンド使いなんてものになって、そのままにギャングになったわけだ。ベイビィ・フェイスの能力故か暗殺チームなんて所へ回された俺が、のことを覚えていたのは何時までだろうか。記憶に蓋をしたのは何時頃だろうか。
翌朝、俺は自身の鼻腔を掠める匂いに目を覚ました。壁掛け時計の差す時刻を視界に入れてギョッとする。真っ直ぐ上を指すそれに、俺は深く寝入っていたことを知った。そもそも、彼女がキッチンへと立っていたことに驚いた。俺は彼女が歩いて直ぐ側を通り過ぎた気配の一つにも気付けなかったらしい。どれだけ心を許しているか、その二つが示していた。
身形を整えてから、俺は椅子に座っての後姿を見守った。彼女の身に着けているエプロンの蝶々結びなんかに頬杖を突きながら視線を送る。人差し指と親指でその帯の先を摘まんでシュッと引き抜いて解いてやりたい。だなんて、考えてるわけじゃあない。小指分くらいは考えてたけど。
時間が止まってしまえば良いのに。俺と以外の世界中を巻き込んで、時間が止まってしまえば。それか、俺達二人を置いてけぼりにしてくれていいってのに、残念ながら俺のスタンド能力はそんなんじゃあない。本当に、残念だ。
「メローネ、今日の予定は?」
「無い」
「観光に来たのに?」
「俺はを見るのに忙しいんだ。カルボナーラ?」
「うん。食べれる?」
「大好物さ! も含めて、ね」
照れている後姿も良いが要望が通ると言うなら、是非振り返ってその真っ赤に染まった頬を見せてくれれば良い。追い討ちを掛けるようにドルチェは勿論だよな! とその背に言葉を投げ掛けたが、そうしたら俺の分のカルボナーラがえらい目にあってしまった。ブラックペッパーの舌にクる刺激より、もっと違う場所に違う刺激が欲しいんだが、それを言っちゃあ展開が目に見えてるんで止めとく。賢明な判断のお陰で、食後とデートをする権利を頂くことが出来た。俺の脳味噌はなかなかに良い仕事をしたようだ。
休日らしいに手を引かれて、二人で石畳を踏み歩いた。昨夜僅かに降ったらしい雨でしっとりと濡れた其処に、場所によっては小さな水溜りが出来ている。それを見ながら思い出した。昔、海を知らなかったに海というのはでっかい水溜りのことで、さらに舐めるとしょっぱいんだという、なんともお粗末な説明をしたことを。勿論、一番初めの説明だったから態とおざなりに言ったんだ。それでも、彼女は俺の描いた海を見てはその目を輝かせていた。
「それで、この先には――」
「、前を向いて歩かないと転ぶだろ」
「っ!……だいじょーぶ!」
「俺が支えたから、だろ?」
はにかんで頬を赤らめたが笑う。きらきらと眩い彼女の瞳に俺の姿が映りこんでいて、俺は視線を彼女から逸らしてしまった。
其処にいるのは暗殺者とその標的だっていうのに、良く知った街並みはそんなこと御構い無しで常時の喧騒を響かせて不変の時を流していく。行き交う人々の足取りはせかせかと速い。それなのに、と俺の時間は緩やかに、穏やかに流れているように感じた。いや、時間が経つのは早いが、それでもだ。
は俺に滞在日数を尋ねなかった。俺もそれについては口にしなかった。溜まっているらしい有給休暇を消費して俺との時間を拵えたと笑う彼女に、じゃあ明日海に行こうと俺も笑い掛けた。自身の立場やとある期限なんて、無理矢理に頭の隅に追いやって。
季節外れの海岸に人気は無く、潮のにおいを含んだそよ風が耳を撫でると少し寒い。それでも細かな砂の粒子へと踏み込みながら、と波打ち際へと歩んだ。進む毎に波の音や海の匂いが増し、存在感を膨らませてゆく。
は睫毛で影を落としながら視線で海と砂浜の境界線を捉え、目を見開くようにして上げた視線で引いて寄せる波を、跳ねる飛沫を、遠くの地平線を、瞳いっぱいに映した。やはり海や太陽よりも、彼女の瞳はきらきらと眩く輝く。夢心地のままに薄く開いた彼女の唇から零れた言葉に、俺は彼女の表情を見たままに安堵の息を胸中で吐いた。何だこんなものか、と落胆されることを恐れていたからだ。それだから、綺麗だと呟いたに酷く安心したし、彼女の表情を窺っていた視線を海に向けて、俺自身もその景色に目を奪われた。塩分を含んだ只単にでかい水溜りだなんて形容したくせに、の隣で見るとこんなにも美しいだなんて、なんて単純な脳だろうか。
俺とは、時間を忘れたように鳴り響く潮騒に耳を傾けながらずっと、海の蒼を網膜に焼き付けていた。
頭の隅へ追いやって忘れようとしても、それは確かにやって来る。暫く不通にしていたままに期限が迫っていたから、着信が入っていたようだ。不在着信を告げるそれを視界に入れて、はぁと溜息を吐く。分かっている。出来ませんでした、で終われるものではないということは。俺が殺らなければ、他の誰かが殺るだけだ。それだけ、なのだ。
呼び出し音の後に大丈夫、と呟いた自分の真意なんて、知らない。
眉を八の字にした俺を覗き込んでが言う。夕暮れの海も綺麗なんだろうな、と。彼女はそのままに俺の眉間の皺を押し伸ばすように人差し指を滑らせて笑った。俺はちらりと泳がせた視線の先で擬態したベイビィを見て、閉じた瞼と指先で只無機質な一丁の銃を確認した。
「ねえ、メローネ。描いて欲しいの。夕暮れの、海」
「見に行くんじゃあなくて? 描くのか?」
一通りの画材の前に俺は少しばかり困惑した。俺の肌の上を滑っていたの指先が、次は白い紙の表面を撫でるように滑る。それを見て、俺は彼女の為に夕暮れの海を描くことを決めた。
赤々と燃える太陽が、地平線を焼くかのように染め上げながら沈んでいく。潮騒が鳴り響く中、塩辛い風が吹いているはずだ。其処に彼女がいるなら、彼女の髪を撫で付けるように。引いては寄せる波が延々と続く、終わることの無い満ち引き。
「やっぱり、メローネは絵が上手だね」
「絵描きにはなれなかったけどな。……出来たけど、それもあの絵の横に飾る気か?」
「違うよ。……ありがとう、メローネ」
は俺が差し出した海の絵を受け取って、我が子を慈しむかのような目で沈む夕日を愛でた。そうして両の瞼を閉じ、呟くように、心残りは無いと言った。それを聞いた俺は思わず、横っ面を打たれたような表情を浮かべてしまう。の震える睫毛に、彼女が全て気付いていたことを俺は知る。唇を固く引き結んだ俺の手を彼女がとって、語り掛けるようにゆったりと唇を開いた。
「覚えてる? メローネの頭の中に入りたいって言ったこと」
「あぁ、覚えてる。無理だけどな」
「破裂しちゃうもんね? ねえ、その後のことも、覚えてる?」
俺は返事もしないでの頬へと自身の指先を滑らせた。指の腹で撫でつけ、行き場の無い思いを吐息と押し出す。自身の隣にいて欲しい。それは今だって変わらないというのに、それを叶えることがこんなにも難しいことだなんて。
「メローネ。もう一度、一緒に海を見て?」
は絵の中の海を撫でながら、笑った。
沈みかけの太陽は今にも地平線を焼き尽くしそうだ。隣の彼女は人工物の芸術に息を詰めて魅入るが、俺は一息毎に塩辛い空気が自身の肺を満たすものだから、思わず涙腺を潤ませてしまった。
あの太陽になりたい。だなんて、ただぼんやりと俺が呟いたその言葉に彼女は、海になりたい。だなんて返してみせた。鳴り止まない潮騒が俺の鼓膜を震わせる中、彼女の穏やかな声まで俺の鼓膜と身体を震わせるんだから、堪らない。俺の帰る場所で在りたいだなんて言って笑った。
砂浜に四肢を投げ出した身体へと俺は銃口を向けて、目を瞑る。閉ざした視界で際立ったのは聴覚だ。弾けるようなその音より、ただ、潮騒が耳障りだった。
リーダーがその黒い双眸で、俺の書いた報告書と添えている写真を見下げている。潮騒に似ても似つかない紙が立てた擦れる音が、アジトでの俺の自室にひっそりと響いた。期限ぎりぎりであったそれに説教染みたことを言われるかと思ったが、リーダーは特に何を言うでも無く報告書に目を通した後、大丈夫かと俺に尋ねた。それに俺は大丈夫だよ、と答えた。
そうか。と、短い言葉を呟くように言ったリーダーは踵を返して、自室へと戻るようだった。その脚がぴたりと止まり、視線は流れるように壁へと向いたので、俺はどうかした? と尋ねる。
「いや、……あの絵は」
リーダーがあの絵と差したそれは、夕暮れの海を描いたものだ。それに俺は目を細める。
「あれ、俺が描いたんだ。上手いもんだろ?」
「あぁ。……それに」
「それに?」
「潮騒が聞こえてきそうだ」
俺の描いた波打ち際を見てそういうリーダーに、俺は自身の口角を吊り上げて笑った。俺が笑ったもんだから、リーダーは訝しむ表情のままに俺を見てその視線で何だ、と問い掛けてくる。それだから、俺は答えになるのかは分からなかったが、言った。
「違う、違うよリーダー。潮騒は、聞こえるんだ」
俺は自身の鼓膜をも震わせる潮騒に瞼を閉ざした。足の裏に感じる細かな砂の粒や、呼吸をする度に肺を満たす塩辛い空気。引いては寄せる波が延々と続く、終わることの無い満ち引き。瞼の下に広がった海に、俺は閉ざしていた視界を開けた。
ぱちくり瞬きをして数秒の呆然後、辺りを警戒したリゾットはまさしく暗殺者の鑑だろう。それに引き換えメローネは唇を吊り上げるばかりで、警戒心の欠片も無い。
二人の鼓膜を震わせる波の音。そよ風と共に運ばれる潮風は塩辛く肺を満たし、舌の上まで広がるようだ。二人はタイミングは違えど、踏み締める足の下の砂の感覚に視線をやって、顔を上げた。そうして確かに其処に存在する海を視界全体で確認したのだ。
橙色の空を一度仰いたリゾットは、メローネへと説明を促す視線を流す。メローネは潮風を一息肺に吸い込み、溜息の様に静かにゆっくりと吐き出した。僅かに身動く彼に、砂の粒子同士が擦り合わさり音を立てるが、鳴り止むことない潮騒がそれを呑み込んだ。
「リーダー、俺はあんたに言わなくちゃいけないことがあるんだ。それと、本当は墓まで持っていくつもりだった秘密を、さ。――俺に墓穴が用意されているかなんて、知らないけどさ」
肩を竦めて見せたメローネは、己の足元へと視線向けて数秒の間を置き、片方の口角を吊り上げて言った。
「俺のベイビィさ、人型を取ることも出来るんだぜ?」
「つまり――」
「そうさ、死体を偽装出来る。……あんたならもう気付いただろうけど、それだけじゃあ駄目だってのも、分かってるんだろうな」
「あぁ、……生きていれば、何れは判明してしまうことだ」
「そう、そうだ。だから、俺は――いや、は決意したんだ。一生を此処で過ごすって」
メローネは足元の砂から目線を上げて、夕暮れに焼かれた地平線へと視線を定めた。赤の絵の具と黄色の絵の具を塗りたくり出来た、自身の指先から生まれた、偽物の太陽。、彼女の瞳の色に良く似た青で描いた海は黄昏時に染まっている。
「、彼女は俺の絵の中に入りたいって昔から言ってたんだ。でも、まさかだよな。最後のあの日に、俺は彼女のそれを知ったんだから。もし、彼女がそれを明かさなかったら、きっと……」
メローネはその先の言葉を紡がなかった。瞳に海を映し込みながら眩さに二度瞬きをして、視線をリゾットへと向ける。
「で、俺は始末されちゃうのかな?」
「……いや、されないだろう」
それを聞いたメローネは、笑った。つまり、リゾットは彼の明かしたそれを報告するつもりが毛頭無いことを彼へと示したのだから。メローネは、すう、はあ。と、呼吸をして常日頃からよくする悪戯な笑みを浮かべた。そうして口角を吊り上げたままに唇を開く。
「そう、そうだ。本題を言わなくちゃ、だな」
「……まだ何かあるのか」
「最初に言ったじゃないか。あんたに言わなくちゃいけないことがあるって。俺が死んだら、もし死体を回収できたらでいいんだけどさ、この絵も一緒に火葬してくれる?」
「それは……」
「おっかないなあ。無理心中じゃあないんだぜ? 彼女達てのお願いなんだ。…………頼むよ、リーダー」
短い沈黙の後にメローネは、リゾットへと真剣な様子で頭を下げた。彼は己の頭上で確かに相手が了承の為に頷いた気配を感じ、勢い良く顔を上げる。
ニッと笑ったメローネは足を取る砂浜も構わずにその場から駆け出した。彼が向かう波打ち際には座り込んだ小さな背中が在る。
メローネはまだ少しばかり離れた距離から、走る脚を止めぬままに、彼女へと向けて声を張り上げた。
「、愛してるー!」
それは鳴り止まぬ潮騒に紛れぬことなくの鼓膜を、心を、震わせた。彼女は片手を砂浜に突いて、彼へと振り返る。満面の笑みを浮かべたままに。
潮風が彼女の赤く色付いた頬を、髪を、撫で抜けた。
「私もずっと、ずっと前から愛してるー!」
そう言ってメローネの方へ身体を向けて彼女は立ち上がった。の肩越しに見える海は飛沫を跳ね上げ、夕焼けに照らされたままにきらきらと輝いているが、メローネにはそれ以上に彼女が眩かった。だからと誇示付けて、飛び込むように彼女を砂浜に押し倒し、砂で服が汚れようと彼女を抱き締めて何度も何度、愛を囁いたのだ。
はメローネと唇を重ねながら、閉じた瞼の下にも海を広げ睫毛を震わせた。しょっぱくて不思議な味の空気で肺を満たしながら、潮水と違うそれをぽろりと頬へ零す。
彼女は世界で一番綺麗な海を得た。