Miss Jackson
午睡のまどろみはティーカップの中で揺れる紅茶の水面にぽろぽろと揺らいでいる。陽の輝かしさを傾けたカップ、喉奥に流し込んだ紅茶で束の間それを遮った青年はつぃとその双眸を細めた。青年、ディエゴは傍らの老婆がソーサーへとカップを預けた際のかちんっという仄かな陶磁器の音を聴いた。妻であるその女性が紅茶を飲んで僅かばかりに零した吐息の音を。そのような音を聴いていたいかと問われれば、態々聞いてくるような輩はいないが勿論まさかといいながら首を振る。その人物が自身の妻だとか言う立場に在ってもだ。愛を以て婚姻を結んだ気など彼の中にはさらさら無かった。だからつまり、その音を聴いていたのは確認に他ならない。老婆が紅茶をその喉奥に流し込んだという。
茶会、とは言っても招いた客人は二人だけで自身等を含めば四人という少人数でしかないものだがその今回の茶会がディエゴにとってどのような心持ちであるかといえば、言葉を二つ用いるとしたなら好ましいと好ましくないその二つで充分だ。それぞれの度合いは違うものだが、前者は客人の夫妻にあり後者はひとつを挙げるとすれば今も鼻先を擽る香りのそれにある。上等な茶葉ではあるが、少しばかり飽き飽きしていた。近頃は特に珈琲、それもブルーマウンテンを好んでいた為に紅茶よりそちらをと思うばかりだ。こてこてのアフタヌーンティーの席でそのようなことを口にする浅はかさなどディエゴには微塵も無かったことだが。
そもそも今回の茶会の名目というのが数日前に行われたレースでディエゴが優勝を果たしたそれであるということを彼自身にふと思い出すように浮かばせたのは、早く賛辞の言葉を贈りたいという感情を声音に浮かばせたままに老婆に招待頂き感謝致しますとお決まりの言葉を紡いでいる亭主だ。あからさまなチラチラと向けられる視線もまたディエゴにそうと知らせる。勿論、自身のレースの戦績をディエゴが忘れていたわけではないのだが、彼にとってそのレースは優勝して当然でそれ以外の結果など残しようがないというほどのものだったので賛辞の言葉など彼の心に届きようがない。くどければむしろ嫌味とさえ捉えていただろう。
「嗚呼、ディエゴくん、先日のレースも優勝おめでとう! やはりきみは素晴らしいよ!」
「ありがとう、そう言ってもらえて光栄な限りだ」
どうとも思わない賛辞の言葉であっても表情と声音を用意し返すそれを忘れない。もし手を差し出していれば両手でその手を包み込まんばかりの前のめりな勢いも顔をしかめたのは胸中だけだ。亭主が騎手ディエゴ・ブランドーのファンだということは幾度かの茶会の中で知っている、ディエゴ自身が参加したそれはうち二回だったが。また老婆との四ヶ月の結婚生活の中で既に四度目となる茶会の回数から老婆と夫妻との縁の深さを知っているいやそもそも、老婆と夫妻が親しげに言葉を交わすことからあからさまにあしらってはそちらの方が後の面倒だ。
しかしながら、どうせファンとしての好意を向けられるなら女性である方が好ましいとディエゴはちらりと忍ばせる視線を向けた。今の御時世資金や権限の多くを有しているのは勿論男であるからパトロンとしては便利であるが(とは言っても財産をたんまり蓄えている未亡人であれば男より便利な場合もある、何処の誰とは言わないが)二十歳の健全な肉体を持つ青年としてはそういう意味合いとして好ましいのは今や若干上半身を此方へと乗り出している亭主より当たり前に夫人の方であった。一回りほど年齢は離れていたがむしろそれが反って好い、鼓膜を引っ掻くような喧しさはなく僅かに憂いを感じさせるような淑やかさに色気がある。勿論歳を重ね続けた方が好いという意味でもなければ、憂鬱な面持ちばかりの女が好ましいわけではなかった。挙げたそれらと異なっていた部分があろうと、どうせそれらもまた好ましいと挙げていたようなものだ。この夫人を好ましいと思っていた、それだけだ。忍んだ眼差しは問題なく向けたままの顔先の方へと。ディエゴが分かりやすく眼差しを向けたわけでもなければそもそも夫人は紅茶を飲んでいた最中なのだからその視線が一致することはなかった、カップに口を付けたままに目線を人と合わせるのは不作法であるのだから。
「それで、きみはスティール・ボール・ランに参加表明をしたわけじゃないか、その間トラックでのきみの勇姿を見られないし大陸横断レースともなればそっちでも四六時中というか殆どが見られないわけじゃないか。かつてないレースでの姿が楽しみな反面残念なところもあるよ」
「イギリス競馬の表彰台の一等の位置を束の間譲ってやろうと思ってね。まあ大陸横断レースでのオレの走りばかりになるだろうがね、記者がこぞって書くものは」
違いない、そう言った亭主から漂ってくるアールグレイの香りが鼻に付いた。この男と老婆ばかりがそれを飲む、夫人は独特な香りのそれが苦手であるから飲まない。ディエゴは場合によりけりだが、この席で飲むつもりはなかった。
空になった亭主のカップへともう一杯を注いでやったディエゴの耳にこほこほという老婆の咳き込む声が聞こえた。大きく咳き込んだというわけではないが彼だけではなくその場にいた者全てに聞こえるほどではある咳だ。
「大丈夫かい」
「大丈夫よ、ディエゴ」
「そうは言っても、その咳は先日レース観戦していた時もしていたんじゃあないか」
「マダム……、お体に障っているならどうかお休みに」
「そうさマダム、もし風邪のひき始めだとしたら侮っちゃあいけない」
ディエゴは咳き込んだ妻の背中を心配気にさすり甲斐甲斐しい夫の姿を装う。不安げな表情を作りながらその実そういった感情は微塵も持ち合わせていない。マダムと唇を開けた夫妻へと表情を見せながら、ちらちらと横目で何度も妻の体調を確認するのを忘れず。
「君達もよく言ってやってくれ。応援の眼差しを感じるというものは良いものだが、彼女が心配で仕方ない。シルバー・バレッドにいつ観客席への柵を跳び越えさせるか分かったものじゃあないんだ」
彼自身、愛馬より老婆が心配だなんてあるわけがない。なんとも白々しいものだと思ったがまるで息子夫妻のように老婆に可愛がられる二人にはこれでいい。これぐらいが丁度良い。茶会の続行を望む妻を事あるごとに心配しながら、時間を経たせればいい。さてこの老婆が冷たい体で全財産をオレにまるっと渡すことになるのはどれほど時間を経たせた後だと考えていたとしても、今現在の場面は遺産云々ではなくこてこてのアフタヌーンティーなのだから。
ディエゴの結婚生活は約半年で終わりを迎えた、それはつまりそういうことであった。最期の息を吐き出し終えた妻の体に縋りついて流して見せた涙や葬式での悲痛なさまなど、彼の演じたそれらをここで全て綴りきることはできない。何故ならそれらは未だ続いていることなのだから。
老婆の、いいや今やディエゴ・ブランドーの屋敷となったそこでの茶会に招かれたのは他でも無い夫妻であった。老婆にまるで息子夫妻のように可愛がられていた、あの。彼らの前でディエゴは今も老婆の夫であった装いを脱ぎ払ってはおらず、葬式から一ヶ月経った今も何に一つも悲しみは薄れないといった心労を携えた姿を見せていた。
「なあ知っているかい、世間ではオレが殺したなんていう噂もあるんだ……」
片手の平で覆った顔を伏せながら言うディエゴのその肩を抱きはしないがそうしてもおかしくはないといった面持ちの亭主は未だ彼の一番のファンのつもりだ。
「まさかそんな! 皆本来のあなたを知らないだけだ、ディエゴくん……!」
内心、この男は社会の悪意のひとっつも知らない世間知らずでべたべたに甘やかされ育てられてきたんだろうと舌のひとつでも打ちたくなる。或いは打っている。この一時、とある農場の田舎者ども全ての罪を被せたような心持ちにもなった。勿論そうした感情はおくびにも出さず、ディエゴの唇が零したのは震えるような吐息と弱音ばかりの言葉だ。
「この屋敷はここまでただ広くて寒々しいものだったかと……、つまり、ぁあ、寂しいんだ。君達さえよければ今までのように、……もう彼女はいないが……、今までのように茶に招かれてくれ、いや、今まで以上に……」
「勿論だ! それによければ此方へも来てくれて構わない、あなたの助けになるのであれば」
「すまない、夫婦の時間を邪魔しちゃあいけないと思うんだが……」
怖ず怖ずと言った様子で顔を上げ、視線を向ける。互いの装いが触れ合うほどの距離の夫妻へと。勿論その距離感はなんらおかしいことはないだろう、何と言っても夫と妻であるのだから。じぃっと向けた眼差しを遠慮を滲ませたものだなんて思っているその亭主は妻の手を取って構うことはないと首を軽く振りながら言うではないか。
「いいや、仕事で留守にすることも多く妻を一人にしてしまうことも多いんだ。話し相手になってくれると助かる」
お喋りが寝室を用いないものだとばかり思っていやがる、この男は。勿論ディエゴはそのようなセリフを亭主へと吐き出してやるつもりはない。忍ばせる必要の無い眼差しを夫人へ向け、彼女も軽く顎を引くようにして頷くものだから演技でもない嬉々とした感情を露わにした。控えめにはしておいたが。夫人の貞淑な唇の笑みに、それを奪える期待も今はまだそれほどするべきではないだろうと、手放しに事を進めるには未だ時期が早いと、そう考えている。そうだ、未だ早い。
「紅茶が冷めてしまったな、新しいものを淹れてこよう」
その言葉と共に席を立ったディエゴに僅かに上唇と下唇の間に隙間を空ける亭主。
「慈悲深い友人らの為に手ずから用意したいのさ。……渋くなったら、すまないが」
さも照れ隠しだと思わせるように、ディエゴはティーポットを持ち仄かに傾けてみせる。
「君はアールグレイだろう。夫人は、ダージリン?」
決まり切っているのは亭主だけである、決まり切っているのは。
それで、次にディエゴが夫妻と顔を見合わせたのは前回から二週間しか経っていないなんともいえないイギリスらしい天気の日だ。「ああは言ってもあなたは遠慮するだろうから早めにしておいたよ」と言ったのは亭主で、若者らしい表情で「お見通しか」と言ったのはディエゴ。手土産の小箱、アールグレイの茶葉が収められた缶が入っているそれを亭主の手の平へと押しつける。
「嬉しいよディエゴくん!」
「そう喜んでもらえて此方としても嬉しいよ、君には一回の席分にもならないだろうがね。……夫人はどうしたんだい?」
片や夫人への手土産である花を手渡すその相手が見えないなとディエゴは問いかける。
「妻の話し相手になってほしいと言っておきながらなんだが、用事が出来て少し前から留守にしているんだ申し訳無い」
それでは目的の半分が駄目になったようなものだ、悪態を吐くも顔色に出すこともしなかったがもしかしたらメイドへと土産の花を渡す際手荒に押しつけたかもしれない。もしかしたら少し。
レースに馬に若手の騎手、亭主と茶を飲みながら話したのはそんなものだ。亭主は騎手ディエゴのファンではあるが騎手でもなければ馬の調教師でもない。つまりはディエゴにとって足しになるような話ができたとは言い難い。だから彼が茶を飲みながら思っていたのはアールグレイの香りが鼻に付く、帰る前にちらりとでも夫人と顔を合わせることができればな、ということだ。結局、それについてを述べれば胸中でくそったれと呟いたのが答えであるが。
今回の訪問の全てが全てくそったれであったかと言えば、そうでもない。
「ん? 何だい君、風邪でもひいたのかい」
「どうもそうみたいなんだ、少し喉がね……まあこれぐらい直ぐに治るさ。蜂蜜でも加えようかな」
軽い咳をしたそれに問い、返ってきた言葉だ。
時間は都合良く進んでいるようだ、或いは亭主の余命という名の懐中時計は。屋敷に招いた夫妻とのアフタヌーンティーの合間に不粋に響く咳の音、ディエゴはカップで遮られたその口元の向こうで笑んでいる。堪えようとしているがハンカチーフで抑え込むこともできずにただただ喉を臓器を震わせるような咳を繰り返す、その様子に愉快な心持ちを紅茶と共に流し込み表沙汰にせぬように。咳があまりに治まるところを知らないので暫し席を外すと言うそれをさも心配だと眉を寄せて見送った。
「なあ彼、ずいぶんと体調が悪そうだ。医者にはかかったのかい?」
「ええ。少し風邪を拗らせたのだろうとお医者様から言われたと言っていて……本当に風邪であればいいのですけれど……、それにただの風邪だとしても安静にしていて欲しいのに一日中ベッドに横になっているのはどうにも駄目みたいで」
役に立たない医者のようだ、風邪だって? そんなわけがないじゃあないか! おかしくて堪らない心中とは裏腹に眉根を寄せて重々しい吐息をディエゴは唇から零す。
「嫌がってもベッドに縛り付けておくべきじゃあないか。……ああいう咳は、どうにも思い出す」
夫人はディエゴのその言葉と伏せた眼差しに彼が思い出したものを察し、彼女もまたその睫毛で目元に影を作るように眼差しを伏せた。勿論、言葉も態度も感情もディエゴのそれらは演じただけのもの。ディエゴは夫人の姿を窺って胸中では下唇を舌先でちろりと舐めているようなものだ。自身の言葉で伏せられたその眼差しを別の言葉ひとつでただ此方へと一心に向けるものにしてしまいたい、その他例えば手首を掴みその体を引き寄せ腰を抱いてみたら。想像するだけでその愉快さに心臓が高鳴るようだ。ただ互いの合間にあるテーブルが邪魔者ではあるが。そればかりが今、彼女の視線を受けているのも或いは気に入らない。
「……いや、呼びつけたこっちも悪いんだ。君に当たってすまない」
仄かに震える睫毛、その瞼に口付けたいなどとは言うまい。弱々しい唇の笑みなどを見ると、まるで獲物を前にした肉食動物の心持ちだ。噛みつくのも喰らうのも、この先の予定では有る意味はその通りだが。
「そういえば、彼は大陸横断レースをできうる限りに端から端まで見ているつもりらしいじゃないか。彼ならやりかねないところだ」
「ええ、四六時中観戦していたいらしくて。もういっそ、貴方もレースに参加したらいいんじゃないかしらと言ったぐらい。知っての通り、あの人は乗馬がてんで駄目だけれど。きっと私の方が速く走らせることができるわ」
「へえ、君が馬に乗っているところを見たことがないな思えば。我が愛馬に乗せてやりたいな、君を遠乗りに誘うには十年ほど早く生まれてくるべきだったと思うが」
軽口にふふっと笑み声を零す彼女に、まあ手遅れだという意味ではないがなと彼は言葉は伏せて眼を僅かに細めるようにして笑い返した。
「――」
ふと、それは思えば唇の油断ではあったが、今の今まで紡ぐことのなかった彼女の名をディエゴは徐に呟いていた。彼自身、そうするつもりなどなかった。意図的ではなかった、それこそが不味かった。友人の妻の名を呼んだだけ、にしては音に感情を孕み過ぎていた。自身が発したそれを客観的に思えば、ゴシップ記者どもが好むそれになりそうなものだ。まるで弱々しく縋りつくような響きでありその反面恋情に浮かれた若者の荒々しさもあったような。ディエゴは我が事ながらしくじりに苛ついた、そういった感情を乗せて彼女の名を紡ぐには未だ時期が早いのだ。未だ彼女は他人の妻だ。
「なぁに、ディエゴさん」
例えば夫人の声音が何に一つも抱いていなければ、それは彼が紡いだ音、それに孕ませた感情に気付いていない或いは気付いていて意図してそのようにしたものだ。侮蔑じみた。例えば夫人の声音が抱いたものが縋った手を払い除けるような響きであったら。夫人の声を耳にそうして表情を目にしたディエゴは暫し呆然としたようだった。彼女がディエゴへと差し出した声音は先のどれでもないものであったのだから。らしくないと自身でも思ったがそれでも、彼女の発したその響きに聖母マリアなんてものを思い浮かべたくらいだ。
唇以上に脳が油断しては堪らない、大きなしくじりがあればそれまでになってしまう。もし勘違いであれば、事を進めてからいや間違えたんだ! と言ってもどうしようもない。
「……いいや、特に何もないんだ」
この時ばかりは夫人の笑みは反ってディエゴを臆病にした、彼は後にも先にもそれを認めないだろうが。
互いの合間にほんの何もなかったかのように他愛ない会話は続いていく、亭主は戻ってこない。
「大陸横断レースはシルバー・バレッドさんと?」
「ああそうだが、君は馬に敬称を付けるんだな」
「あの人が敬愛するように話すものだから、影響を受けてしまったんだわ」
「何と言うか、彼のそれは筋金入りだ」
「嫌がってやらないでくださいね」
まるで息子とその友人に言うようだなとディエゴは思った。或いは悪戯にも思える笑み、それを口辺に漂わせた夫人はディエゴから視線を外しカップを唇へと運ぼうとする。が、空であったようだ。それで、自然な流れで彼女はティーポットへと手を伸ばす。それを眼差しにしていたディエゴにはその数秒、時間の流れが極めて遅くなったように思えた。徐々に見開かれる自身の目と、彼女の指先が辿り着くそれ。
がちゃんっ、と鳴った。上半身をテーブル上へと乗り出したディエゴが伸ばした手、その咄嗟の手が僅かにティーポットへと当たってから夫人の手を押さえたからだ。白く細い夫人の指先を纏めて自身の手の中に収めた彼は、瞬間の緊張の為に触れたそれらへの感情は数秒をおいてからやって来させたようなものだった。
「こっちは、君のじゃあないぜ」
アールグレイは苦手だろう。平然と言えていただろうか、とディエゴは思った。そうして今日はしくじりばかりだ! とも。
ただ、此方が心配になるほどにか細く柔く指の腹に心地好い彼女の手に、男であり騎手でもある自身の手との差に、ほぅと息吐くような淡い感動を覚えたことはしくじりであるとも思えなかった。
この直ぐ後に亭主が戻ってきた(勿論ディエゴと夫人の手が離れてからの話だ)のでその日はそればかりで終えた、戻ってきた亭主と有意義な話をした覚えがディエゴにはない事もあって。
ディエゴが亭主の訃報を受け取ったのは最後に顔を合わせてからひと月も経っていない時であった。そうして結論以外の部分の予想外なものに関し彼は暫し呆然としたものだ、人目には突然友人が不慮の事故により亡くなったことに衝撃を受けているものに見えただろう。そうだ、亭主は不慮の事故で亡くなったらしい。
自室に一人、誰の目を気にする必要も無くなってからディエゴは改めて思い返した。なんでも、亭主を乗せた馬車は悪天候或いは悪路の為に谷へと転落したらしい。そういえば、雨も風も強いそんな天候の日があったなと漠然と思い出す。何故そのような日に馬車を出していたか知らないが、そのような理由はディエゴにとってどうでも良かった。彼にとって大事なことは亭主が死んだという事実であり、それよりも大事なことは恋い焦がれる相手が人の妻から未亡人になったことであった。あの亭主の死因など些細な違いでしかないのだ。さて、葬式の最中愉快さに笑みを浮かべずにいられるだろうか。気がかりはこのような事。
ディエゴの手の中にはあの日の彼女の手のやわさが思い出されていた。
ひとつの結論として述べるなら、ディエゴは彼女を手に入れたという事実が出来上がった。夫を亡くし弱っているところに付け込んだというわけだが、彼女へと向ける甲斐甲斐しさは偏に偽りだとも言えない。一心に口説き落としたそれはディエゴ・ブランドーという男その儘にといったところだ。葬式から一ヶ月ほどしか経たないうちに、君を好きだったんだとそうしてオレと結婚してくれないかと告げたその辛抱の無さは演じる余裕がない若い男のそれであった。ディエゴの好んだ唇の笑みの応じは何度思い返しても彼の心を喜ばせる。
「初夜には幾日足りないが……なあ、いいだろう?」
それで、互いに再婚となる式を数日後に控えた夜だ。寧ろ今夜まで口付ける以外に手を出していないのが何かの間違いかのようだ。やわいそれに己のものを触れさせ、吐息を奪い、舌先を追い立てたそれらがその先を望む気持ちの昂ぶりを引き連れてこなかったわけでは勿論ないが、それでも事実としてディエゴが彼女に手を出したことはなかった。
昨夜までは健全な意味合いで共に寝ていただけのベッドに彼女の背中を僅かに押しつけながら言った言葉と、その後に喰らうかのように口付けたそれらを思い出しながら、視線は意味も無く自身の髪先から滴り落ちる水滴をディエゴは見ていた。言葉の直ぐ後に事を始めなかったのは肉食動物が獲物をいたぶり遊ぶそれに似ている。或いは根元にある余裕の無さを年上の恋人に知らせたくない為に気休めにシャワーなどで本能を落ち着かせている。それもそうしないうちに意味などなくなることだろうが。
事は順調に進んでいるとディエゴは思った、いいや思っていた。戻った寝室で一人舌打ちを響かせて。拭ったが未だ乾ききっているわけではない前髪を苛立ちと共に掻き上げ、何をしくじったかと思考する。しかし考えても答えが出てはこない、寧ろ答えを探すより彼女の姿を探す方が先かと、彼の足音苛立ちの音は廊下に響き始めるのであった。
ディエゴが彼女を探し出すのにそう時間は要しなかった、その点は彼にとって好いことであった。覗き込んだキッチンで紅茶を淹れて飲んでいた彼女に不可解な表情を向けずにはいられなかったが。
「御婦人、何か無礼を働いてしまったかな」
本来なら別の場所で失礼を働き始めていることではあったが。紅茶の水面へと向けられている眼差しもいじらしさであると、何にひとつも予定外のことなど無いといった具合にディエゴは余裕めいた。しかしそれも先の言葉と共に彼女へと少しばかり歩み寄った短い間の余裕だ、彼の鼻先をあの香りが擽るように撫ぜるまでの。香るアールグレイ。故に、ディエゴはまるで飛びかかるように残りの距離を詰めそれだけでなくティーカップは彼女の手を離れ床と暴力的な口付けをしたことだ。破壊の音は響いた、けれどディエゴの意識はそのようなものに向かずまた眼差しも偏に彼女ばかりに向いている。
「飲んだのか?」
「……痛いわ、ディエゴ」
確かに、彼女の手は乱暴に掴んだ自身の手の中で痛みに身じろいでいるだろう。
「ああそれは悪いな、しかしオレは君のこの唇はカップに口付けて紅茶を飲み下したのかって聞いてるんだ」
「もし……このまま裏口から出て行って何にひとつも痕跡を残さなければ、見つかるのは被害者だけかしら。アールグレイは、私には苦いわ」
彼女の前での舌打ちは今夜が初めてであった。ディエゴは彼女が確かにその紅茶を飲んだことを知ったし、そもそも彼女がアールグレイに纏わる幾つかを知ってしまったことを悟った。動揺しなければ良かったのか、彼女の仕掛けたそれに何食わぬ顔をしていれば。不毛な思考だ、現にその瞬間余裕なんてひとっつも無くなっていたのだから。
「花嫁は消えると言いたいのか。婚約者に逃げられたオレが被害者かそれとも事に気付いた君が被害者か。どちらにせよ誰も知らないさ。つまりは君は見つからない。互いに被害者でも逃亡者でもないって意味だぜ。君の喉は解毒剤を飲んでくれるのか」
「必要ないわ、だってこれは貴方があの人に淹れていた茶葉ではないもの」
「何だと?」
「違うのよ、ディエゴ」
それはつまり僅か前に陥った不毛な思考は真実、不毛であったということだ。彼女はディエゴの今夜の動揺でアールグレイに纏わる幾つかを知ったわけではないということ。途端、ディエゴは目と鼻の先の彼女が分からなくなる。微かに震える睫毛はどのような感情によってそうとするのか。
「なぁ、君は明日の朝何処で目覚めるつもりなんだ?」
いつから知っていたんだ、亭主を毒殺しようとしていたのを。結果として不慮の事故で死んだが、夫を殺そうとしていた男をいつから欺いていたのか。
「オレは君を愛してるっていうのに、君は裏口から出て行くって言うのか? 君は案外タチが悪いのか? 意地が悪いのか、オレにとって」
それでも正直、ディエゴの唇は今までと変わらない恋情を以て彼女のそれに触れたがった。或いは今まで以上に。その強かさもまた此方を誘惑して堪らないといった感じだ。
お互いの一致した視線が同じ向きにちらりと逸れたのは、廊下から聞こえてくる足音の為だ。カップが割れた音は思っていた以上に響いていたらしい。恐る恐るといった様子でキッチンを覗いてくるメイドをディエゴも彼女も見ていた、距離は近いままだが拘束するように彼女の手を掴んでいた彼の手はスマートさを以て彼女の腰辺りにその時はあった。
「あっ、奥様に旦那様……」
「カップを割ってしまったの、驚かせてしまったかしら」
「いいえ奥様、それならよいのです。コソ泥か何かだと思って……ああ、奥様、勿論わたくしが片付けておきますのでどうか割れたカップに触れないでくださいませっ……!」
「ごめんなさいね、夜も更けているのに仕事をさせてしまって」
ディエゴの手からするりと抜けて床のカップを片付けようとした仕草が、彼にとっては手から逃れようと或いはそれ以上に彼自身から逃れようとしたものに思えて仕方ない。
「では戻りましょうか……ディエゴ、エスコートしてくださる?」
だから、彼女が控えめに差し出した手の平やそうして重ね合わせた温度というのが酷く不可解で。
「あぁ、……喜んで――」
ミセスなのかミスなのか。亡夫と離婚しているのか、彼女の心は。ディエゴには判断が付かなかった。
互いの間に横たわった沈黙の所為で部屋までの距離はとても果てしないものに感じたがそれでも当たり前に二人は部屋へと辿り着く。より詳しく言えば寝室へ。ベッドに座り込んだディエゴは、まさかこのような心持ちで今夜ベッドに腰を下ろすことになるとは昨夜のオレは思ってもいなかったことだろうと顔を伏せた。
「……それで、」
「それで今夜は眠るのかしら、それとも?」
「それとも、だと……?」
同じようにベッドに腰掛けた彼女へと怪訝な表情を向けずにはいられない。
「…………淫らな女なのか?」
「ディエゴったら失礼な人」
「オレに君を抱ける権利は残っているっていうのか。あいつを愛してなかったか愛していた、か」
「特別な存在よ、今も。嫌そうな顔ね、ディエゴ。あの人はずっと私の良き友よ。家族のような友人、秘密の共有者」
結婚していたから、ようなではなく家族で友人だったわね。くすくすとした笑みを付けたそれは彼女の軽口であった。
「ディエゴ、貴方のことも友人だと思ってるわ。とても大切な」
「愛してはなかったのか」
「分からないわ」
「つまり君は友人と寝るような女なのか、それで淫らじゃあないだって? オレはそんな君だって好んでしまうんだろうがな、勿論オレ以外に縋るのを良しとした話じゃあないぜ」
「恋だ愛だなんて分からないけれど、特別な友人なのよ。それっていけないことかしら。一番の友人にキスしてはいけないの? 友愛と恋愛の線引きは何処から? ねぇ、ディエゴ」
「ずいぶんと無邪気だな、知らなかった。ああ、今夜は知らなかったことばかりだ。オレが知らなく、君は知っていた。つまり君はあいつを殺そうとしていたオレをどう思っているか聞こうというわけだ」
「正直に言うと、それもまた分からないわ。友人を奪ったのは結局、毒じゃあなかったわけだから。……ただ、彼には悪いことをしたと思っているの」
「オレ以上の悪者に君は成れないがな」
「いいえだって、私が悪いことをしたわ。だってあの人、貴方のことが好きだったんだもの」
「何だって」
「同性愛者だったのよ彼、貴方のことがとても好きだった。一番の友人は私だけれどね」
「つまりは、ああ、いや、多くを聞くつもりはない。寧ろお断りだ。ただ聞くなら、政略結婚ってやつか? 世の中の半数がそれだろうけどな」
「いいえ、お互いの意思よ。都合が好かったもの、互いが理解者で。私としても行き遅れで煙たがれていたもの、ずいぶん。……何か質問はあるかしら」
「君はこのディエゴ・ブランドー騎手のファンではない?」
「そんなまさか。レース場を駆けるシルバー・バレッドさんの流れる姿も、先を見据えるディエゴ・ブランドー騎手の眼差しもとても素敵だわ」
「そうかい、それは良かったよ」
「貴方は、貴方の知らなかったについて思うことはないの?」
「オレも、正直に言うと分からないな。今やオレの口に残るのは君の甘酸っぱさだけだ。今夜口付けた、な。これまでの君がこっそりと姿を消したようなもんだ、もしかしたら。それでも君が好きだ、君がもし淫らな女だとしてもな」
「財産目当てじゃなかったのね」
「君が持っているものは少な過ぎるだろう。勿論、君自身を除いたらな」
「歳も離れてるわ」
「亡くなった妻の年齢を知っているか、八十三だ」
「ええそうね、亡くなった」
含み。成る程、秘密の共有も悪い気はしない。暫し互いの間に言葉を無くしたが今度ばかりはその沈黙は肩に背中に重苦しいものではなかった。
そうした沈黙の後、次にディエゴが唇を用いたのは言葉を交わす為ではなく貞淑そうな笑みを浮かべる彼女の唇を奪う為であり、互いの鼓膜を震わせたものは性急さに軋んだベッドの音だ。或いは相手の口内へ零した吐息、それも当初の予定を改めて思い起こすような。どちらとも判別の付かない微かな水音、追い立てた舌先を翻弄するその合間の音も忙しくやってくる。絡めては解き、解いては絡める舌同士に暫し離れては直ぐに覆い被さり直るような唇は確か、喰らいあっている。彼女が自身の舌先を甘噛んだのには些か面喰らったものだが、恋人のその悪戯はディエゴにとって満更でもない悩ましさであった。また色のある表情での囁きは、紡いだものがものだけにより彼の心を高揚させる。
「ああそういえばディエゴ、淫らかどうかは分からないわ。作法を知らないわ。処女は嫌かって意味だけれど」
「いいや思わぬ幸いだ、リングにキスしてお辞儀までしてやりたくなる」
例えば新郎が新婦をそうするように彼女を勢いに抱き上げ、支えたままに彼女のその手を絡め取り薬指に唇を触れさせた。そうしてその優しさなどもう忘れたとばかりに彼女を手荒くベッドへと半ば放り投げる、小さな悲鳴は寧ろ幼い娘が喜ぶような。
「君が明日の朝オレの知らぬところで目覚めるなんて杞憂もなくなったんだ、次の幸福なひと時を見つけることにしよう」
まったくの杞憂で心底、良かった。或いは都合が好かった。多少なりとも裏口から出て行く素振りでもあろうものなら、ベッドに横たわるその身形は外出に好ましいものになっていたことだろうともあって。つまりは一度の腕の中に閉じ込めるように距離を詰めての口付けでは、ディエゴの昂ぶる心臓の辺り胸板は薄い装い越しに彼女のやわらかさを堪能できていたというわけで。辿り着くまでにずいぶんと時間がかかってしまったのだ、これ以上先延ばしにされるのは御免であった。
若さ故に余裕がないとは思われるのは癪であったが、結果としてディエゴと彼女との合間に響いたのは絹の裂ける音だ。比喩でもなく、ディエゴの手は彼女の上半身の装いを力任せに裂いたものでそうすれば当たり前に彼の眼差しの先に彼女の白肌が晒された。首の筋からほの甘い誘惑をしてくる鎖骨のくぼみ、豊かな膨らみの悩ましげな曲線を眼差しに追いながらちらりと彼女の表情を窺う。まるで子供の些細な悪戯を微笑ましげに見るような眼差しに、それはオレの望むものではないなとディエゴは彼女の首の筋を手の平に支えるようにしてその反対側へと顔先を寄せた。熱を燻らせた舌で彼女の青白くも見える肌をねっとりと舐り、そうして甘噛む。ほんの少し先で漏らされるか細い声が決して悪いものでないと知っていた。シーツの上に無造作たゆたっていた彼女の手はどうも自身の後ろ髪の辺りを泳いでいるらしい、その指先が流れ梳く感覚を噛みつく力を徐々に強めながら感じている。
「っ、……ディエゴ」
別に食い破る気があったわけではないが、少しばかり名残惜しい。顔先を離し確認してもディエゴの眼差しの先に血の一滴も見留められなかった。僅かばかりのへこみは数日先の式に憂いをもたらさないだろう。また貞淑なドレスはどれほどを許容するかと思考し、随分と具合がいいなとその場鼻で笑った。
首を支えていたディエゴの両の手は彼女の乳房を下方から掬い上げ、その心地好いやわらかさを知ることをしている。寄せた乳房のその合間に鼻先を埋め香りを吸い込めば、どこかほの甘い花のような香りがディエゴの肺を満たした。
「っ、ぁ……」
この先より色付くだろう彼女の小さな声は、ディエゴが鼻先を埋めたままに舌先さえ乳房の合間に埋めようとしたからだ。ちゅくりとした音を伴ってぬるりと潜り込んだそれは、刺激というには微か過ぎるがそれでもディエゴの熱い舌をそのような場所から感じさせて彼女の体の火照りをまたひとつと重ねさせた。ぬるぬるとその場を舐め上げ下ろす度にぴくぴくと痙攣じみた彼女の反応を自身の肌で感じ、酷く愉しい心持ちになる。狭間から顔先を上げ窺えば、彼女は瞼を閉じ首を背けるような感じで翳した自身の手の甲に震える吐息を零しているようであった。そんな風にしていたら余計に敏感になるだろうに、と思いつつディエゴにとってそれは気遣いでもなんでもなく相手の意表を突く愉快さだ。
「っあ!」
僅かに手に遮られていようとも、彼女の嬌声は大きく弾けるようなものだった。顔先を寄せた乳首を前歯で甘噛み、片方は爪先でぴんっと弾く。舌先で指先でぐりぐりと転がせば言葉には成っていない濡れた喘ぎの音が微かに彼女の唇から漏らされ、憚らず噎び泣くように仕向けたくなる。
心地好く都合の好いやわらかさだ、何処までもやわいものでなく程好く此方に跳ね返ってくるような。肌の下で打つ心臓の音を唇に感じながら思う。吸い上げ、噛みつき、ディエゴは彼女の身体に幾つもの所有痕を刻んでいく。今や彼女は紛れもなく自身のものであると。
裂いた衣服を少しばかり指先で引き下げながら下腹部にディエゴは口付けた。自身へと晒している彼女の肌はここまでだ。手の平を差し込み、背中側へと回す。がっしりと臀部を掴んだのは愛撫の為ではなく彼女の腰を浮かせる為で、するりと抜き去ったのは彼女の下着であった。
スカート状のそれは託し上がり、彼女の脚をディエゴに見せているし彼の手は腿の裏側を支えている。
「なあ、キスが好きだろう?」
含まれた意味合いが腿へと口付けたそれではないことがはっきりと彼女には分かった、ディエゴの眼は獣じみたぎらつきで炎を燻らせているかのようだ。
何か言葉を発しようとした彼女の唇はそれをできずにまずは短い驚きの音を発し、そうして後に発したのは嬌声であった。事を為すに都合が良いように抱え直したディエゴが彼女の驚きの声も知らん振りに口付けたのは唇などではなく、女性器だ。
「ディエゴっ」
そのような場所に唇を寄せるなどと驚いた彼女のやめさせようとする手の平は、ただ触れるような口付けではなく相手の唇に吸いつくような口付けを以て妨害される。つまりは彼女のそれは彼を押し退けるなどできずにただディエゴを布地に僅かに隠したようなものであった。隠したことが行為をやめさせることになるわけもなくまた、与えられる刺激を隠しきれることもなく。
「ずいぶん淫らじゃあないか、こんなにも濡れて」
愛撫はむしろこれからだというのに、必要も無いと感じるほどに蜜を滴らせひくつく様子にディエゴは言った。感じたからといって上体を起こして今すぐに自身を突き挿れることはしないが。
「だめっ、ディエゴっ、あっ! んっ……!」
鼻先を陰核へと押しつけるようにしながらディエゴの舌はべろりぃとそこを舐め上げた。二度三度、溢れてくる蜜を舌に絡めるようにして。そうして自身の唾液と混じったそれを膨れた芽に執拗なほど舌で擦りつける。濡れた吐息を零す彼女がもどかしくも思えるように腰を身動ぎさせるのが好ましくまた、尖らせた舌先で数度小突いてから勢いに吸い上げれば辛抱ならないように四肢を掻き寄せ堪えようとするさまが此方としても堪え難かった。
「あっ! なにっ、ん、んんっ……!」
それが何であるか教えてやりたかったが出来そうもないとディエゴは思った、何せ舌を彼女の中に埋めたのだ。上手く答えてやることはできないがこれで勘弁してくれとばかりにざらつく舌で内側を舐り、此方も忘れてはいないと指の腹でちゅくちゅくと陰核を撫で上げる。幾度も零される嬌声と舌先をきゅぅと引き絞る肉の壁に擬似のそれが本来の姿に立ち代わるのを今か今かと待っている。装いこそ乱れていないが、愛しい人の淫らさの前に疾うにディエゴは雄を勃ち上がらせていた。
舌を抜き出し、手の甲で口辺を拭う。随分と感度の良いことだと、溢れてくる蜜に視線をくれてやる。指の先で入り口を何度か撫ぜ回し、儘に差し込んだ。咥え込むものが戻ってきた悦びにディエゴの指はきゅぅきゅぅと締めつけられ、それを押し返すように中で円を描けば切なげな甘い声が彼女の唇から零された。
「ぅ、ぁあ……! やっ……!」
駄目だという途切れた嬌声と逃げるような身動ぎ。僅か目を細めてディエゴは名残惜しくはないといった様子で一息に指を抜き出した。ちゅぽんっと鳴った水音。ディエゴの唇に浮かぶ笑みはいじらしさをいたぶるものでしかない、ひとつも彼の機嫌を損ねてはいないのだから。
ぎしりとベッドが軋んだ、上体を起こしたディエゴを彼女がじぃと見る。その眼は情欲にとろけ、そうしてこのままに放り出されることへの微かな怯えを孕んでいた。昂奮を幾分逃がすに吐いた深い息に、びくりとしたそれもまた。ディエゴの機嫌を損ねてしまったと思い違いをしている。
「なんだ、君が駄目だと言ったんじゃあないか」
「っ……、ディエゴ」
「もうキスも駄目か? その物欲しげにオレを呼んだ唇へのことだぜ」
覆い被さり唇を寄せた、そこは目元であったが。唇で輪郭を辿り、彼女の口の端に触れてそれで終えた。ディエゴはそれで一度離れてみせるつもりであったが、彼女の両手が彼が退くのを押さえそうして唇をあわせてきたのでそうとはならなかった。どこか拙い口付け、舌を絡めようとする動きはより拙い。明らか、恋人の気を引き戻そうとしている。いじらしいもんだ、ディエゴは胸中で愉快さに笑む。
それでは続きをしてやろうじゃあないかと、元より止めるつもりもなかったその続きを行う。彼女に喰らわれながらもう一度と指先を秘所に忍び込ませ、先程より荒々しさを以て中を掻き乱す。恋人の気を引き戻すことができたと舌を引っ込めようとする彼女の素振りを知れば、ディエゴもまた中を愛撫するそれを止めるぞとあからさまに教えてやった。そうして悦に震える恋人からの口付けは続いている。
恋人の嬌声を自身の口内へと響かせながらディエゴは指の関節を曲げてはくにくにと中をほぐし、その指の腹で膣壁を執拗に擦り撫でる。より溢れてきた蜜を先にあったものと混ぜあわせるかのようにぐちゅぐちゅと音を立てながら掻き混ぜ、外へと滴る蜜をぷくりと膨れた陰核へと擦りつけるようにしながら時折そこを強く押し潰した。
「ふっ、ぁっ……! ぁっ! ひっ、あっ!」
「限界か、オレもそろそろ得たいと思っていたところだ」
互いの吐息を唇に触れさせながらそう言って、上体を起こしたディエゴは心許ない彼女の装い全てを脱がし自身もまた手早く脱ぎ払ってしまった
改めて恋人の一糸纏わぬ裸体をまじまじと眺める。彼女の情事に染まった姿はまるでひとつの絵画を思わせた、神秘性処女性貞淑さを持ち合わせた。それにしては彼女を取り巻くものは騒がしい気もしたが。今や行為に火照りしっとりと濡れている彼女の肌が有る意味ナイトガウンのようだとも思った。そうしてそれをまるで天国を見つけたような顔で見下ろしている。
少しばかりシーツにずりずりと滑らせ、腿を抱え、痛いほどに勃ち上がった雄をひくつくそこにぴたりと触れさせる。
「はっ、あぁ……」
悩ましい溜息はディエゴのものだ。一息に最奥まで穿ってしまうかという誘惑とじわりじわりと躙り寄ってやろうかという思考をあちらこちらさせながら、ぴったりと密着させたままで腰を仄かに揺する。蜜を陰茎に塗りたくっているようでまた、陰核への愛撫にもなりディエゴの悩ましい溜息を追うように彼女の唇からも吐息が零された。
「いいか、君を抱くのはオレだ。後にも先にもオレ以外に有り得ない」
先端へも蜜を絡みつけ、その言葉の後にぬぷりと徐々に肉で肉を掻き分けた。陰茎の半分も埋めていない、寧ろカリ首と少しといった感じだ。執拗に苛んでやろうと浅い位置でゆるく揺すった。勿論、ディエゴとてしゃぶりついてくるような肉襞が堪らない。それでもくぷくぷと互いを焦らすように腰を揺らした。
「ひっ、ぅ、っ……!」
「っ……! イッたのか? イッたんだな」
問いかけたが、雄を酷く締めつけるそれは分かり易すぎる。じりじりといたぶってやろうと思っていたディエゴは舌を打つ、それは自身の辛抱の無さに。
「あっ! やっ、ぁあっ!」
絶頂の後の僅かに力無い手の平と嬌声が、達して間もないというのに構うことなく奥へ奥へと埋められる雄を留めようとしている。その制止にディエゴが応じるわけもなく、全てを収めきってぐぐっと押しつけた後に引いてみせては勢いに打ちつけた腰が返事のようなものだ。音と、ディエゴの眉間の辺りから跳ねた汗の粒が彼女の身体に弾けた。
「まって……! ディエゴっ、まだっ! あっ! んっ、っ! おぼれて、しまうわっ……!」
「溺れたくないならっ、水に近寄るべきではないな」
今夜の情事がこれで終いなわけがないだろう、そう言うかのようにディエゴの熱い手の平は彼女の肌を強く掴んだ。
膣壁を抉るように突きだし、最奥を打ちつけ、胎が震えているなと捕食者の眼差しを向ける。歪な彼女の呼吸音や互いの合間に弾ける水音を聞きながら大きく抜いては直ぐに勢い突いて奥へと押しやる、彼女の四肢は絶えず震えその爪先もまた跳ねた。反射逃げようとする彼女の腰も無駄な抵抗であった。
「ぁあっ! いやっ! そこっ……!」
「此所が好いんだな?」
「ちがっ! やっ! あっ!」
「遠慮するなよ」
嫌々と首を振る訴えに、そんなにも善がる箇所を攻め立てずにはいられないと執拗にそこを突き上げ悲鳴にも似た嬌声を上げさせた。今や彼女はディエゴから与えられる快楽に噎び泣いている。そうして思うままに彼女を攻め立てるそれでディエゴと彼女の結合部からはあらぬ体液が追いやられ弾け飛んでは互いの肌とシーツを汚す。
「っは、ぁ……、っ!」
零した悦の声音を隠すように、ディエゴは彼女の最奥を穿つ激しい揺さぶりでぐちゅぐちゅと水音を掻き鳴らした。熱く張り詰めた彼のそれがどうとあっても好い箇所を突き撫ぜる、声にならない嬌声を不規則的な荒い呼吸と共に吐き出しながら彼女の胎はただうねる。彼女にとっての二度目の限界は直ぐそこであった。ディエゴもまた、彼女の中でそれを目前に脈打たせびくびくと筋を震えさせている。
「っ孕んでしまえ」
蹂躙に寄り添った言葉と打ちつけられる熱の滾りが、もう駄目であった。彼女にとって。
「ぁっ、ぁああっっっ!」
「っぅ、っ……!」
達する彼女のその酷い収縮締めつけに、小さく低く彼女の名を紡ぎながらディエゴもまた吐精の覚えの儘にびゅくびゅくと精液を彼女の中へと吐き出した。残滓一滴余すことなく注ぎきるものであった。
雄を抜き出し、肩で息をする彼女へと眼差しをディエゴはくれてやる。未だ肉慾の気配を彼は感じていた。互いの渇望が消えるまで続けてやろう、燻りは今なお臓腑の中で蠢く痛みのようにじくじくと在る。何れ、恋だの愛だのが分からないという彼女の不理解が消えるのを見届けよう。そう彼女の伏せる睫毛の影をじぃと見ている、彼女の美しくも悲劇的なところがどうにもディエゴの情欲を焦がしてやまない。
「なあ、もう一度いいだろ?」
彼女の手がディエゴの頬をすべりと撫でた、彼の劣情を煽り立てる。
やはり彼女は淫らな女であったかもしれないそれでも、彼は彼女を兎に角愛していた。そうして愛した。つまりは再び、ベッドはこの夜に軋み始めるというわけだ。