ドルチの賜物
良く晴れた日だ。青く澄んだ空は輝く太陽を遮る雲一つ無く、存分に日光を降り注がれた地表はそれに比例して暖まり、気温も上昇させていた。少し動けばじんわりと汗が滲み、不愉快に肌に衣服を張り付かせる。今日という日はそれほどに快晴であった。
ネアポリスの市街を咥えた煙草と共にぶらぶらと歩む男、ソルベは髪間から汗を一線流しながら眉根を寄せていた。不機嫌そうな視線を通りに流しても気温が一度でも変わることはない。そうと分かっていても、眉間に深く出来た溝を彼は消すことが出来なかった。
銜えた煙草からゆらゆらと紫煙を燻らす彼、ソルベはフリーの暗殺者だ。その彼がこの暑いのに上下共に黒の衣服で揃えているのには、それという理由がある。例えば、事を俊敏に済ませるのに奇抜な色合いは人目を引くという観点から向いていない。それに引き換え黒という色は闇に紛れることで標的に近付き易く、事の終わりもそれの痕跡が目立ち難い。そこから――と、それらしいことを述べてみたが本当の所はなんでもない。ただ、彼が服装に無頓着でいてなんとなく黒を選んだだけに他ならないのだ。返り血が目立たないから、などは後付でしかない。皮肉にも、なんとなく選んだその衣服がその黒色が熱を吸収しやすい性質をもっているわけだが。
灰がチリリとソルベの足元に落ちた。彼は短くなってしまった煙草を地面へと落とし、靴の爪先ですり潰す。僅かに燻っていた煙が途切れ、彼が靴底を上げた其処には拉げた煙草が身を煉瓦畳へと押し付けているだけだ。
銜えていた煙草が無くなったことで口寂しく、彼は尻ポケットへと押し込んでいた煙草の箱を取り出す。そうして眉間の皺をさらに深くした。箱の中には一本とて望んだその姿が無かったからだ。彼の記憶では一本は残っていたのだが、その一本はつい先程吸い終えて踏み潰されたところだったというわけだ。
「……クソッ」
誰にでもなく小さく悪態を吐いたソルベは、空っぽの箱を握り潰し屑籠へと向けて放った。先住民の空き缶に当たり鳴った音というのは小さく、彼の鼓膜を震えさせるものでもない。ソルベの指先は蠢くようにし、彼はその手を己の後頭部へと回し、その場所をガリガリと掻き上げる。苛々とした様子で煙草の残り香を含んだ溜息を細く吐き出す。嗚呼どうにも調子が悪い。ソルベはいつもの成分を求める脳味噌を沈める為に目に付いたバールへと入ろうと足を進めた。
店内に客は殆どいない、店先のテーブル席に着いたソルベは室内に流れるジャズの旋律に耳を傾けながらそれとなく確認した。店の奥の壁際なんかの方が自身には似合っている。そう思いつつも、突いた頬杖のままに薫り高いカッフェへと口を付け、外の景観へと視線を流していた。
覗く景色はその店のテラス席だ。太陽からの熱線を受けながらも、大量の氷と良く冷えているであろう飲料で満たされたグラスを傾けている客が数人確認出来る。
(……ご苦労なこった)
ギラリと光るグラスの眩さに目を細めながら、ソルベは心中で呟く。遠目で見るグラスの中の氷が溶けて、カチンッと硝子のそれにに打つかる音まで聞こえてきそうだ。
口を付けていたカップを置いた指で、ソルベはテーブルへとリズムを打った。一定で、それでいてせっかちなそれが求めているものは分かりきっていたが此処には無い。それでも打つ音を止めることはできなかった。
「…………は」
止めることはできない――と思っていたが、彼の指はカツンッと打ちつけた音の後、テーブル面と一定の距離を保ったままに宙へと固定された。また、ソルベの口は発した音のままに間抜けにぽかりとした隙間をそこへと作っている。
彼は視線をとある方向へと向けたまま数秒、後に細めた目と緩むことない眉根で独りごちた。
「……男がパフェかよ」
ソルベの視線の先、通りに面したテーブル席に男が一人。そうして彼の前にはパフェが一つ。対面する席に女はいないし、スプーンを持っているのはその男なので、パフェを頼み尚且つ食べるのは間違い無くその男なのだろう。男が、一人で、パフェを突っついている。勿論そんなの人の勝手だといえばそれまでだが、通常サイズではなく特大サイズのそれを前にスプーンを構えている男を見れば、少しばかり怪訝に思わずにはいられない。
ソルベは小さく鼻で笑った。勿論、テラス席の男にそれが聞こえるはずもない。当たり前だが、ソルベの姿を少しばかり映した窓硝子が遮断しているからだ。
生クリームをたっぷり掬ったスプーンが男の口内へと運び込まれるのを見た後、ソルベは思わずカップを指に引っ掛けてその中身を啜っていた。まるで、自身の口内へとパフェを放り込んだ様な胸焼けを感じたからだ。そうして食べてもいないというのに、苦味の有るカッフェが舌に纏わり付いた甘味を綺麗さっぱり流し去った様な気分だ。
ソルベは空になったカップをテーブルへと戻し、再度テラス席へと視線を流していた。
(いや食うの速ぇな)
少し目を離していた隙にパフェの容量は半分ほどに減っていた。特大サイズをよくもまあ、早食いもいいところだ。ソルベの視線の先の男は行儀悪くがっついているわけではない。それでも、掬って口に運び食べる。また掬って食べる。その動作がやたらと速かった。その男は頬杖を突いて視線を送るソルベなどお構い無しに(当たり前だ、男はソルベの視線など気付いていない)ドルチェを食べることだけに没頭していた。
そうしないうちに、スプーンがグラスの底へと打つかるのをソルベは視線で確認した。それからソルベは頬杖を突くのを止め、腕時計で時刻を確認して溜息を吐く。なんとも無駄な時間の使い方をしたものだ、そう胸中で独り言ちた。
カフェの扉を引いて出た外はやはり暑い。カフェに入る前よりも強くなっていた日差しに空調の整っていた店内へと踵を返したくもなるが、冷房の元に無駄な時間を消費するわけにもいかず、ソルベは一度視線で太陽を仰いでから諦めたように歩き出した。
特に気になったわけでもない。確かに、食事風景をなんとなく見ていたが、本当に気になったわけではないのだ。パフェを食べていた男――店内から確認することができたその男の後ろを通る時、男が呟いた言葉が偶々自身の鼓膜に飛び込んできただけだ。
「早摘み檸檬を使ったレモンタルトねぇ。林檎のソルベも一緒に頼もうかな」
まだ食うのかよ。態々足を止めることはしなかったが、一つ僅かに大きくなった靴音がソルベの心境を表していた。が、それまでだ。
靴音は止む事無く彼の借家まで続き、そうしてソルベの一日は終わった。
一仕事終えた後の、人の手によって淹れられたカッフェは良いものだ。己の口にするものを見知らぬ誰かの手から受け取ることは、危機感を持つべき立場にいる自身からいうと見倣えたことではないのだろう。それでも、ふらりと寄ったバールで赴くままに飲食するのは止められない――と、ソルベはカップを片手に誰に語るでもなく胸中で独りごちた。
ソルベは特別に外食を好んでいるわけでもなかったが、割合はそちらに大きく傾いている。それというのも、彼は自身に料理という行為が全く持って向いていないということを心底理解していたからだ。誰でも、食べるなら美味しいものを食べたい。炭化した――最早、塵と言い表した方が正しい物体など好き好んで食べたくは無いだろう。
置いたカップの隣の皿に無造作に載せられたブリオッシュを摘まんで一口齧ったソルベは、数回の咀嚼の後に傾けたカプチーノでそれを食道へと流し込んだ。徹夜明けの朝食は僅かに喉を圧迫するが、胃に何も放り込まないままにカフェインを摂取することは内臓によろしくない。健康であるということは大事だ。暗殺者である彼は、それこそ身体が資本なのだから。
店内に流れるセンスの良いピアノの旋律は鼓膜を擽るようでソルベの瞼を重くさせた。カウンターに突いた頬杖のままに丸めた背で眠くなる。途切れ途切れに聞こえる人の会話やカップが立てる陶器の涼やかな音。そうして、鼻先を撫でるように掠めて香る――これは、チョコラートの匂いだろうか。ソルベは細めた目のままにスン、と一回鼻を鳴らしてその匂いを嗅いだ。やはり、その甘い香りはチョコラートのものだと彼は思った。
彼は何気なくその香りの出所へと視線を向けたのだが、それは一人の客の手の内にあるマグカップから漂っているらしい。多分、チョコラータ・カルダ(ホット・チョコレート)だろう。カップ内の液体の詳細は分からないが、そんな些細な事に興味は無い。甘い物をそこまで好むわけではない彼は、そのマグカップを暫し見つめ、ふーんと言わないにしても鼻から息を押し出して自身のカップへと口を付けた。
「ねぇ、これもう一杯ちょうだい」
その言葉に、何となくだがソルベはマグカップではなく、注文を口にしたその人物へと視線を向けた。するとどうだろう――いや、どうということでもないのだろうが、チョコラートを唇の端に付けたその男は、先日ソルベが見かけた男だった。通称、パフェの男。と、通称を付けるほどに覚えていたわけではないが、ソルベはその男が先日のパフェの男だということを数分の後に思い出しまた、視線の先の彼の口がつらつらと続けて流した注文内容にぎょっとして目を見開いた。
「それとパンナ・コッタのマチェドニア添え。あと、ガトーショコラに無花果のタルト。林檎のシブーストは外せないし、アッフォガート・アル・カッフェも。ん、それと――オススメはある? それもちょうだい」
長々と注文を言い終えた男はぺろりと己の下唇を舌で拭った。
ソルベは思わず自身の耳を疑いまた、男の姿を上から下へと流し見た。ドルチェとはいえ明らかに量が多い。頼んだもの全てを一人で食べるつもりなのか。あの身体のどこにそれらが入るというのだ。彼は自身の頬が引き攣るのを感じた。
ピリリリリ。ソルベの鼓膜を僅かに振動させたその音は携帯電話の着信音だ。無機質な黒のそれを尻ポケットから抜き出したソルベは、愛想の欠片一つも無い声色でそれに出た。通話先の相手から一度名前を尋ね確認され、その後に簡潔に用件が述べられる。詳しい内容、取り決めは後日だ。近い内に仕事を頼むと告げた相手は、ソルベの空気を吐き出しただけのような相槌に、数秒の間を置いて通話を切っていた。役目を終えた携帯電話はまた元の場所へと押し込まれる。
一口齧っただけで放置していたブリオッシュを口内へと押し込んだソルベは、それを咀嚼しながら脳裏の片隅で前日の仕事内容をぼんやりと思い浮かべ、そして掻き消した。彼は本来の姿を失くしたブリオッシュを喉奥へと押しやって、ちらりと視線を自身の手元のカップへと流した。陶器の底を見せ付けるカップでは、奪われた口内の水分を補えない。もう一杯頼むのも億劫だ。
踵を返しながらバーテンダーに小さく声を掛けて、ソルベは店を出た。彼は歩きながら煙草を一本取り出し口に銜える。火を点けたそこからは今日の雲にも似た紫煙がゆらゆらと立ち昇る。少し曇った空は過ごしやすい一日にしてくれそうだ。雨が降らなければ、の話だが。
今日という日もネアポリスの市街は疎らに人が行き交っていた。薄暗い空に見える分厚い雲は雨雲であろう。足早に帰路を急ぐ者もいれば、雨に降られることになろうと歩みを変えぬ者もいた。ソルベは後者であった。
傍目手ぶらで歩く彼がたった今し方一人の人間の人生の幕引きに関与してきたなど、行き交う人の何人が気付けるだろうか。いや、気付けないだろう。そうでなければ、彼も悠々と街中を歩いて帰路になど着かない。彼がその刀身を人の肉の内へと滑り込ませたナイフを帯びている事など、知らされなければ誰一人気付かぬままなのだ。
煙草の紫煙を湿気た空気に混じらせながら、ソルベは思案を巡らせていた。最近ここいらで勢力を拡大しつつある一つのギャングについてだ。その内部には専ら暗殺を引き受けるチームがあるそうで、それとあってか客がそちらへ流れている。商売あがったりだ。そしてそれだけではない。そのギャングの縄張りとなった場所或いは近場で元よりフリーの暗殺者として生きている輩が、どうやら引き抜かれたり、はたまた消息を絶っているらしい。後者は明らかに誘いを断った為に始末されたのだろう。もはや、誘いでもなんでもない。
ちらほらと視界に片身を滑り込ませるそれが、ソルベは面倒でいて鬱陶しくて堪らなかった。
(確か、……あいつも何かぶつくさ漏らしていた)
ちょっとした同業者の男を思い浮かべ、そうして煙を細く吹き出した。些細な疑問はそれ以上深みへと向かうことはなく、煙草の煙同様に確かに存在している空気へと掻き消える。
ふと、ソルベは自身の視界の端で宙に舞う何かを捉えた。丸く透き通った赤色の――何か。身構えなかったといえば嘘になるが、力を掛けぬままの肩でそちらへと向き、視線を固定したそれは重力に逆らわぬままに真っ直ぐに下に落ち、やがてぽっかりと開けて構えられていたらしい口内へと飲み込まれ――いや、その前に迎えるように差し出されていた舌の上、抱き止められるかのようにその身を落としていた。そうしてから閉じられた口、の中をころころと右へ左へと往復しているらしい。束の間の思案の後、ソルベは自分に呆れるままに胸中で呟く。飴玉かよ……。そんなところだ。
そうして何事もなく、飴玉を放り投げて舌でキャッチしていた人物と擦れ違う。
短くなった煙草を歩きながら少し手前へ放り落とし、辿り着いた先で僅かな燻りも踏み消す。数歩進んだソルベが不意に立ち止まったのは、些細でいてどうでもいい事柄の為だったが、それでも彼は思わず振り返って数秒前に擦れ違った人物の後姿を確認してしまった。後姿で確定できるほど親しくもなければ見慣れてもないつもりだったが、自分の記憶が確かなら二度見かけたことがある男だ。呼び名はなんとしようか。パフェの男か、はたまたドルチェの男、痩せの大食い――兎に角、ここ最近見かける男だ。偶然だろうか。細めた目でソルベは僅かに警戒色を強めたが、それも直ぐに掻き消した。考えすぎだ。いくら最近物騒だといっても、行動の拠点を同様に此処へと置いている人物など腐るほどいるだろうし、堅気として生活している人間だったら尚のこと。
――勢力を拡大しているギャングに精神を削られている。
ソルベは新たに咥えた煙草のフィルターを噛み潰して自嘲気味に笑った。そうして彼の鼻頭をぽつんと水滴が打って、続けざまに衣服にも丸い染みを作った。雨が降り出したらしい。火を灯す前の煙草を咥えるだけに踏み留まったソルベは、振り返っていた身体の向きを正し帰路へと向いた。また雨粒がぽつんと彼の頬を打つ。借家に着くまでに濡れ鼠になるであろう自身を想像し彼は舌を打ったが、それでも歩みは速まることのないままだ。空も嘲笑うかのように雨脚を強めた。なんて事の無い午後の始まりだ。
待ち合わせ場所に指定されたバールのカッフェは少々お粗末な味であった。ソルベは自身を呼び出したにも関わらず一時間も予定を遅れてきた男に眉根を寄せたまま視線を流し、早くから干上がって珈琲の染みを縁へと刻んだままのカップをテーブルの端へと寄せた。待ち人来るも、二杯目を頼む気には一寸もならない。
「ソルベの眉間の溝はどんなクレバスよりも深いな」
「お前の吊り上がった口角は首が取り外しのできる猫だ」
「あー、……チェシャーキャット?」
「童話の」
互いに鼻で相手を笑い飛ばした。
ソルベの対面の席へと着いた男は空のカップへとちらりと視線をやってから、薄く開いた唇で自身の分とそれから遅れを詫びるかのように彼に同じものを追加で奢ろうとした。が、不味いそれを態々もう一杯飲もうとは思わないソルベは、視線でそれを制した。それを確認したらしく、竦めた肩で男は自身の分だけを店員に告げた。カプチーノだ。
「商売あがったりだ。そうは思わないか?」
男はポケットに収めていた小さな文庫をソルベの前へと滑らせた。巷で話題になっていて、それでいてソルベや彼の目の前の男の趣味とはまかり間違っても掠めない恋愛小説の題名が、ソルベの見下げた先で横並びしている。
ソルベの指先がそれのページを捲くることはない。もし捲くっていたとしても、彼の目に飛び込んでくるのは反吐が出そうな非現実的でいてとんだお笑い種の恋愛物語ではない。その中身はブラックジョークも軽く飛び越した、暗殺という仕事の事細かな情報でしかないのだ。模した装丁は偽装とは名ばかりのちょっとしたお遊びらしい。
「……情熱がどうたらこうたら青臭いのは結構だが、些か面白くねぇ」
「同感だ。ガットは覚えてるか? あれはどうやら、尾眼鏡に適ったらしい」
「つまりあれか」
「そう、引き抜きさ。ただし断ったらしいね。あいつは自由奔放な、名前の通りの野良猫野郎だったからな。そうしたらこうだ――通りに内臓をぶちまけながらお天道さまに焼かれてた。……最後まで野良猫さ」
「あっちにしてもこっちが目障り」
「そーいうこと」
テーブルへと運ばれてきたカプチーノに店員にチラリとも視線をやらぬままカップを上から掴んで口付けた男は、今の今までにんまりと笑んだままだった口角を漸く崩した。その原因が分かっているソルベは、忠告はしなかったことなどお構いなしだと瞬いた。
「うっわ……不ッ味ぃ……」
それから世間話――堅気同士とはいかぬ間柄の世間話。隠語と茶化した比喩を用いた物騒なそれ――を半刻ほど交わした二人はどちらとも無く席を立ち、会合を終えるらしかった。
「じゃー健闘を祈って、そうだなあ……これやるよ」
「あ?」
無造作に放られたそれを手の内に納めたソルベは視線でそれが何か問うた。相手は「キャラメル」と一言簡潔にそれの名称を答え、付け足すように、自身の眉根を人差し指で擦り上げながら口角を吊り上げて言った。
「甘い物は疲れに良いんだ。まー、ソルベの皺がキャラメル一個で無くなるとは思わないがね」
言い終わるや否や取り出した携帯電話でお決まりの番号を押し始めるその背を見送るでもなく、ソルベは片方のポケットに文庫を押し込み、もう片方に一個のキャラメル詰め込んだ。洗濯機でガラゴロと回さなければいいが。
場面と時刻は変わるが、時は件の仕事の詳しい情報を頂いて数時間後。それとは別件の仕事を終えたばかりの夜の帳に片足を突っ込んだ頃、ソルベは自身の身体を引き摺るようにして路地裏を急いでいた。
彼の通った道には道順を示すかのように血痕がまあるい辿りを残し、黒の衣服には破れた箇所とその周りをさらに深く濃い色に染め上げた血の出所が顔を覗かせている。
「……くそッ」
ソルベは顔を顰めて悪態を吐く。状況は欠片も面白くない。標的は漏れることなく始末し終えたが、彼自身の横っ腹には些か無視するにはでか過ぎる穴が開いている。尚且つ、まさかの追っ手付きだ。
煙草を取り出して一服する猶予も無い。寄せた眉根の間に出来た皺の深さが物語る状況の悪さも、路地裏に無造作に転がった空き缶には知ったことではない。ソルベが蹴飛ばした空き缶が薄汚い壁に打つかって、輝く星も無い空がその音を飲み込んだ。
「ッ……!」
「わっ!?」
ドンッ! カチャッ! 出来事を表す文字だ。
滑り込むように角を曲がったソルベは予期せぬ衝撃に息を詰めることとなった。自身と同じように角を曲がろうとしていた人物と衝突したのだ。普段であれば、全く持ってありえないことである。そうして、傷へと響く衝撃に彼は自身の下唇を僅かに噛む。身を刺すような痛みを流そうとするソルベの顔は相手の顔を確認するよりも地面の方へと向けられ、そうして視線は其処で横たわり黒い光を放つ見慣れたものを捉えたのである。
一丁の銃が落ちている。勿論、ソルベの物ではない。
「いッたいなァ……」
ソルベの視界の上方端からにゅっと伸びてきた腕が、地面へと横たわるそれのトリガーに指を引っ掛けて掬い上げた。銃はトリガーに指を引っ掛けられたままにくるくると回されて、拾い上げるために折っていた腰が正されてからもその人物の胸の前でくるくると回される。その扱いではまるで銃が何の変哲も無い唯の玩具であるかのように思える。
カチャカチャとなるそれからもう少しばかり視線を上げたソルベが胸中で呟いたのは以下の通りだ。……またお前かよ。無理も無い。二度あることは三度あるとはいうが、僅か数日の間に三度目がやってくるとは。――そこにはパフェの男がいた。
「うわっ、堅気じゃァないっぽい」
ソルベの目の前の男が暢気に開いた口からはそんな言葉が飛び出した。――それは此方の台詞だ。ソルベは男の胸元でくるくると回り続ける銃にちらりと視線を向ける。それに『堅気』だなんて単語を態々使うのは、専ら同業者である。
「あァ、ヘマしたんだ?」
男は視線でソルベの横っ腹と彼が作ってきた血の道標をちらりと確認し、少々目を細めて口角を吊り上げた。ぼやけ始めた視界でも確認出来る、厭味な笑みであった。鉄の味の広がる口内で苦虫までも噛み潰す思いのソルベは、舌を打ってからさてどうしたものかと考える。とはいっても思案を巡らすには制限時間が短すぎる。
ソルベは、藁にも縋る思いだったのかもしれない。自身のポケットに徐に手を突っ込んだ彼は、そこにあるものを掴み、抜き出したままの拳を相手の目の前へと突き出していた。
「ナニコレ」
キョトンと目を丸くする男はソルベの顰めた顔と突き出された拳を交互に見て、パシンッと回していた銃を手の平の内に収めた。返答によっては――と言わんばかりのそれにソルベが返したのは簡潔でいて、尚且つそれを彼自身へと渡してきた人物がソルベに寄越した答えと一字一句違わぬものであった。
「キャラメル」
薄く開いたソルベの唇の隙間から音が漏れる。
「……あァ、うん。キャラメルね」
それは分かったが、だからどうした。男の顔にはそう書かれているようであった。ソルベは単語を発した唇から細く息を吐き出してから、目の前の相手は薬の中毒者だといわんばかりのその視線と己の視線を打つけた。プライドを一つ捨てることで長らえる命がある。別段、無様でも何でもないのだと己に言い聞かせるように胸中で呟いたソルベは、これまた簡潔に言った。
「助けてくれ」
相手が目を丸くした。
文章の切れ端の、単語でしかない状況説明をその後にぽつりぽつりとは言えぬ速度と流れで呟いたソルベは、男の頬がニタァと持ち上がるのを何処か視界の端で捉えていた。そうして汚い路地裏には似合わない笑い声。それも、腹を抱えるような笑い声だ。宵の空には吸い込み切れないばかりのそれを、抑え込むこともしないで響かせた。
路地裏に笑い声が響いていたのはどれ程の間なのかソルベには分からなかった。ただ、自身が突き出していた拳の下に差し出された手の平を彼は見た。つまり、交渉成立ということらしい。開いたソルベの拳からポトンと相手の手の平の上にキャラメルが落ちた、のを見たか見なかったかくらいだ。吸い消されたかのように、引っ張られるかのように、ソルベはそこで意識を失った。血を流し過ぎた、それだけの話だ。
揺らいだソルベの身体は路地裏の地面へと沈んだ。男が支えようともなんともしなかったのは、薄情でもなんでもない。受け留めるだなんて、交渉内容に入っていなかったのだから。
次にソルベが目を開けた時、視界いっぱいに広がったのは死を思わせるような暗闇でもなんでもない、染み塗れの天井であった。心許無く照らす電灯は薄暗く、一つか二つ既に事切れているものも確認できる。自身の鼻腔を掠める消毒液やらのアルコール臭を肺に取り込みながら上体を起こした彼は、直後に待ち構えていたように開いた部屋の扉に身を硬くした。それでも、その扉を潜って白衣を翻した人物を確認すれば、警戒心も解くわけだが。ソルベが偶に利用する闇医者であった。
カルテらしい一枚の紙っ切れをぺらぺらと翳しながら傷口がどうの処方がどうの話す医者に目線をやらず、それでいてその口が閉じた時にさも聞いていましたよと頷いてみせたソルベに、医者はうんうんと頷いてから満足そうに入ってきたばかりの扉を潜り直して出て行った。大きく翻る白衣の真後ろはパッチワークのように継ぎ接ぎだ。それを態々確認することもなく、ソルベは枕へと後頭部を預け直した。横っ腹はじんわりと痺れる。話はひとっつも聞いていなかったが、どうせ何かの薬を打たれているのだろうと考えたソルベは煙草を恋しく思うばかりだ。勿論、そんなものは此処には無かったが。
不意に視界の端に在る何かに気付いたソルベはもう一度上体を起こし直し、自身の視界にちらっと移り込んでいたそれを親指と人差し指で摘まんで目前へと翳してみた。枕の側、捨てるように――いや、確かにそれは無造作に捨てられたものだろうが――落ちていたのは小さな正方形の紙で、僅かに甘い匂いを漂わせるそれにソルベは覚えがあった。なんてことはない、キャラメルの包み紙である。
報酬は無事男の胃の中に収まったらしい。
そう解釈したソルベは手の内にくしゃりと容易く握り潰したそれを傍らの屑籠へと放り、今度こそシーツに身を預けた。彼は瞼を閉じて視界を閉ざし、ふぅと溜息を一つ押し出した。
少し危うげでもあったソルベの一日が今日も終わろうとしていた。甘い匂いが気になるような気もしたが、気に病むこともなく、彼の意識は睡魔によって深淵へと沈み込んでいった。
そうして彼是数ヵ月後の話だ。ソルベは安っぽいロングソファへと腰を沈めて煙草の紫煙を燻らせていた。ゆらゆらと揺れる煙の向こうの、黒を纏いその双眸まで黒に染めた男を彼は見据える。男の名はリゾット・ネエロ。ソルベが身を置いているパッショーネ、暗殺チームのリーダを務めるその人だ。――そうだ、鬱陶しいとばかりに思っていた其処に今、ソルベは所属している。
人生とは予測不可能な代物である。
リゾットが、一度瞬いた後に動かした眼球でちらりとリビング入り口の扉へと視線をやった。それに倣うでもなく同じ様にそちらを見たソルベは、吹き出した煙の後に小指ほどに短くなった煙草を灰皿へと押し付けて、吸殻の山をまた少し高くした。
コンコンッ――というノック音は鳴らず、その代わりに押し開けられた扉からは酷い金属の不協和音が響いた。古くなった扉は立て付けが悪いらしい。油の一つを注すべきかも知れない。
「どうもォ」
変に間延びさせた声と共にひょっこりと隙間から身体を滑り込ませてリビングへと足を踏み入れた人物は、今日から暗殺チームに身を置くこととなった所謂新人で、それでいて俯かせていた眼差しがばっちりとあった彼はソルベにとって初対面とは言い難い人物であった。
人生とは――。
「あ」
半開いた口から言葉を漏らしたのは、視線を打つけ合わせた二人して。
「……何だ、知り合いか?」
驚きを顕にしていたソルベを横目で見たリゾットが、彼へと問い掛ける。呆けた様に開け放っていた口を閉じて唇で横一線を描いたソルベは、寄せた眉根と僅かに空気の波間を泳いだ目で考えて、やがて酷く曖昧な答えをリゾットへと投げ返してみせた。
「あぁ。……いや、多分。知り合い……か?」
「ちょっとした顔見知りってぇやつだよね」
明確な答えを出せないソルベに、曰くちょっとした顔見知りの男は片方の頬を吊り上げながら言った。そしてその視線はソルベからリゾットへと流れる。
「あァ、あんたがリゾットだ? 凄腕だって噂の絶えない」
「噂云々は知らないが、そうだな。リゾット・ネエロだ」
「まァ、情報は来てるかと思うけど、オレはジェラート」
「そっちの男はソルベ。他のメンバーは今は出払っている」
「ヨロシク」
片手を軽く上げながら男、ジェラートはソルベへと向き直った。
一見人当たりの良さそうな笑みを浮かべるその頬に、腹にナニを抱え込んでいるか分からない知人のそれが重なった。それだからソルベは、数秒の間を空けた後に「あぁ」と小さく呟くように返すに留めた。ジェラートの、笑ってはいない目が面白いものを見つけたとばかりに細まる。
斯くしてソルベとジェラート、二人の暗殺チーム内にての出会いである。勿論、物語は此処で終わりを迎えたわけでもないし、彼等の人生はこの後も続いている。
「何考えてんの?」
「……お前との出会いについて」
両端に隙間を空けた三人掛けソファの真ん中、上の空に意識を飛ばしていたソルベに隣のジェラートが尋ねた。ソファテーブルの上、十箱分のキャラメルを用いて築き上げた城。ジェラートはそれを満足そうに見つめた後、一番上、塔の一部分となっていたキャラメルを一つだけ摘み上げて包み紙を解き、中身を己の口内へと放り込んで頷いた。
「キャラメルで思い出したんだ?」
「あぁ。……いや、違う」
一度頷きかけ否定したソルベにちらりと視線を向けてから二個目を摘まみ上げたジェラートが、質問を言葉では投げ掛けずにキャラメルをその頬に押し付けながら、その仕草で問い掛けた。どういうことだと。それに答えるかどうか僅かな迷いを見せたソルベだったが、結局は答えることにしたようだ。彼が口を開く。
「キャラメルのもっと前、最初はパフェだ」
己の頬に押し付けられるキャラメルをその手から受け取りながら、ソルベはもう一度その日のことをぼんやりと思い返し、見る者によっては珍しくも感じる笑みを浮かべた。ほんの、ほんの少しだけ。ちょっぴり。
「パフェ? 何それオレに覚えは無いんだけど」
「まぁ、そうだろうな。……レモンタルトに林檎のソルベ」
「何が何やら――ドルチェ食べに行こうぜ」
ソルベの呟きに甘い物が欲しくなったらしいジェラートがソファから腰を上げる。そんな彼に呆れたような表情を見せながらも続いて立ち上がったソルベは、片手のキャラメルをポケットへと突っ込んだ。
特大パフェやレモンタルトに林檎のソルベ。チョコラータ・カルダを二杯飲んだらパンナ・コッタのマチェドニア添え。ガトーショコラに無花果のタルト。林檎のシブーストとアッフォガート・アル・カッフェ。それに店のオススメを一つ。飴玉を一つ口内で転がして、最後はキャラメル。
切っても切り離すことの出来ないのは彼等とドルチェなのか、はたま彼等自身なのか。ちょっぴり甘い香りの彼等の一日はまだ始まったばかりだ。